YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ウェールズの旅~哀愁を帯びて汽車はロンドンへ(その1)

2021-09-15 09:22:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
        △ニース駅でダディ、ケネスとの別れ(Painted by M.Yoshida)

・昭和43年9月16日(月)曇り後小雨(哀愁を帯びて汽車はロンドンへ)(その1)
 長い様で短かったウェールズの滞在が終った。文通を通して夢にまで見たシーラの生まれ育ったサウス ウェールズ、その山河、故郷コロブレン、そしてシーラの家族達と別れの日が終に来てしまった。私を温かく迎い入れ親切にしてくれたシーラの家族達、楽しかったクラブやウェールズの旅、そして旅先で車に乗せてくれた親切なウェールズの人達。忘れ難い楽しい数々の思い出を残して今日、私は去ろうとしていた。ケネスは私の見送りの為に学校を休んでしまった。どうしようもない寂しさ悲しさが私の胸に、心に襲って来るのを堪えていた。
 モーガン家の最後の昼食をゆっくり済ませた。そして午後2時頃、ダディの運転する車に私とケネスが乗りモーガン家を後にした。途中マミが働いている近所のストアに最後の挨拶をする為、立ち寄った。
マミは、「車中で何か買え」と言ってお金1ポンドを私に渡そうとしたが、私は有り難く断った。マミは家事の他、昼間のみならず夜も働いていた。そんなマミの状況を思う時、気楽には受け取れなかった。マミのその行為、その気持だけで涙が出るほど嬉しかった。そしてマミには何かとお世話になり、別れの際にお礼の言葉を言わなければならなかったが、私は言葉が見付からず、ただ「Thank you very much」と繰り返し言うだけで、後は何も言えなかった。
 私はマミと別れの握手をしている内に、涙が出るのを堪えきれず、瞼から一筋、又一筋と頬に伝わった。私はそれを拭かず車に乗り込んだ。車が走り出し、マミは見えなくなるまで手を振ってくれた。私も車内から身を乗り出し、見えなくなるまで手を振り返した。涙が止め処もなく溢れ、終には嗚咽するのを堪える事が出来なかった。
 途中、ダディの兄弟の家に立ち寄った。ティーを飲んだ後、叔父さんも見送りの為、同行してくれました。 
ニース駅に着いてから間もなく、ロンドンのパディントン行の汽車が到着した。ダディ、ケネス、叔父さん1人1人に色々お世話になったお礼を述べ、別れの握手をしてからホーム窓際の座席に乗り込んだ。
乗り込んだ後も別れの握手をした。「Yoshi、イギリスを去る前、もう一度ウェールズに来なさい」とダディやケネスは言ってくれた。私は「色々お世話になりました。お陰様でウェールズの滞在を楽しく過ごす事が出来ました。本当に有り難うございました」と何度もお礼を述べた。
終(つい)に汽車は、ゴットンと動き出した。「さようなら、ダディ、ケネス、叔父さん。さようならー」と言って私は手を振った。「Yoshi, come back again!」とダディは言って手を振り返した。ケネフスも、そしておじさんも手を振り返した。
「ダディ、ケネス、おじさん、有り難う。さようならー」大声で叫んだ。手を振っていた彼等の姿は、段々と小さくなり、そして、見えなくなった。
「さようなら、モーガン家の家族。さようなら、コロブレン、そしてヒッチの時のお世話になった心温まるウェールズの人達。さようなら、美しいウェールズの山河」と心の中で叫び、彼等が見えなくなってもなお、手を振り続けた。
 別れの悲しさなのか、寂しさなのか、抑えていた感情が急に沸き、又も涙が止め処もなく溢れ出て、周囲に乗客が居るのも拘らず、私は、「シュクシュク」と嗚咽するのでした。私は哀愁的旅情に咽び、いつまでも車窓にかじり付いてウェールズの光景を眺めていた。
汽車は一路、ロンドンのパディントン駅へひた走っていた。


       △ウェールズ地方を走る列車(PFN)

*「その2」へ続く
        
                    


ウェールズの旅~クラブの舞台にもう一度立つ

2021-09-15 07:00:21 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
   △モーガン家から近いヘンドリッドの滝(PFN)

・昭和43年9月15日(日)曇り(クラブの舞台にもう一度立つ)   
 ウェールズ最後の日になってしまった。あれ程に来て見たかったウェールズ、8月30日に来て早2週間、矢の如く過ぎてしまった。
今後の私の旅について、ウェールズをヒッチしながら考え、迷った末にある方向性を見出した。それは「私の旅の原則を行動、実行に移す」と言う事であった。具体的に④⑤を実行する為、そしてM&M乗船券を航空券購入にも併用出来るようにするため、もう少しロンドンに滞在する事に決めた。
 午前、午後、私はモーガン家で静かに過し、そして夜はコロブレンの社交場のクラブで過した。
司会者の指名により再度、私は舞台に上がった。誰か大戦中に日本兵から聞いた事があるかもしれないと思い、「同期のサクラ」を歌った。反応はなかったが、過去の敵対関係から日英が、益々友好を深める事を希望したのでした。司会者の方から感謝の言葉とクラブから記念として立派なお財布を戴いた。
 この前、ビールの件でコロブレンの人達に傷つく様な事を言ってしまい、私の失敗であった。しかし、クラブに集まった人達から友好的に受け入れて貰い、お陰様で彼等と共に楽しく過ごす事が出来て、本当に来て良かったと思った。
 ウェールズの夜は静かに過ぎて行きました。そして寝てからもヘンドリッドの滝の音が今夜も子守唄の様に聞こえるのでした。

ウェールズの旅~旅の心構え

2021-09-14 13:46:08 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△1961年16歳のペンフレンドSheila Morgan、自宅にて

*シーラがロンドンに戻り不安になり、そして今後の私の旅はどうあるべきか大変迷いました。ウェールズをヒッチに出かけ考えようと思ったのです。
結論として、日本を出発前日の私の旅にあたっての原則に至りました。ここにその原則を再度掲載します。

・昭和43年(1968年)7月12日(金)

 愈々明日、外国への旅立ちだ。私は旅をするに当たって、『下記の原則』を心に秘めた。
①家族、友達、そして人様に決して迷惑を掛けないようにする事。
②『旅の苦労は買ってでも』と言う意気込みを持つ事。
③多くの人と接し、出来れば友達を作る事。
④出来れば長く滞在、或は、働いてその国の内側と生活を肌で感じる事。
 ⑤出来る限り多くの国を巡り、色々な経験や体験をする事。

*自己紹介
・名前~Yoshi
・国籍・住所~日本・明日から住所不定
・年齢~23歳
・身長 体重~167㎝ 64㎏
・学歴~高卒
・特技~なし
・渡航歴~初めての海外旅行
・英会話力~中学英語程度
・手持ち金~430米ドルと聖徳太子2枚
・旅が何か月又は何年になるのか~不明
・旅の旅程~不明(行き当たりばったり)

*明日からロンドン滞在編を掲載いたします。Yoshiを応援して頂ければ嬉しいです。

ウェールズの旅~ウェールズを旅して見た事、感じた事

2021-09-12 09:11:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
     △コロブレンのヘンドリッドの滝(Hendryd Falls)の裏側から

・ウェールズを旅して見た事、感じた事
 ウェールズの旅は今日で終った。ウェールズについて私が見た事、思った事等を纏めてみた。
 ウェールズは、四国と比べてやや広い面積で、13世紀まで独立国としてローカル色豊かな国作りをしていたらしく、風景や街並みもイングランド本国と異なった佇まいをしていた。交通や案内に関してはウェールズ語と英語で書かれ、商店の看板もウェールズ語で書いてある店があったし又、至る所にローカル的な存在が見られた。
 地域的、文化的に見ても南北に分かれているように感じられ、彼等の住む地方で「北の人」、「南の人」と区別して、地理的にも区別していた。
 ウェールズ語は、北の人に聞くと「南の方がよく使っている」と言うし、南の人に聞くと「北の方が使っているようだ」と言っていた。いずれにしても、日常語としてウェールズ語を話されている事は、事実であった。シーラの話で、ウェールズ人は「50%50%で話されている」と言っていた。
 対照的なのは風景であった。南は緩やかな丘陵地帯が続き、牧畜として恵まれ、羊が多く放牧されていた。北は峻険な山岳美と大小の湖沼に恵まれ、自然美を楽しませてくれた。そんな自然美に恵まれたウェールズをヒッチの旅が出来た事は、大いに社会勉強が出来たし、最高の気分であった。 
 ウェールズは、自然に恵まれているにもかかわらず観光地化されていないので、逆に不思議であった。しかし観光地化されていないその事が、私は凄く嬉しかった。美しい山や湖があると、直ぐにホテルやレジャー施設を建設する何処かの国と違って、「自然を残す、愛する、保護する」と言う気持が大事にされていると感じた。
 日本の道路は、地方へ行くと殆どが砂利道か泥濘の道であるが、ウェールズの道路は、どんな山の中に入って行ってもよく整備され、本当に感心した。
4~5年前に私がサイクリング自転車で沼田へ行った時、17号国道は本庄を過ぎると砂利道になり、高崎~前橋間は整備されていたが、前橋を過ぎてから泥道に変わり、渋川を過ぎてから凹凸が酷くなり、ぐしゃぐしゃな、或はひどい水溜りの悪路の道であった・・・(「小さな旅 その2」より)。
 南ウェールズの道路は、所によって急なアップ ダウンが多くあったり、所々に羊や牛が道路の真ん中に群がっていたり、道路を横断中であったり、私はそんな光景によく出会った。この様な時、ドライバーは慌てず、ホーンも鳴らさず、羊や牛が退くか、通り過ぎるまで待っていた。ウェールズは、そんな心のゆとりを感じさせる人々と牧歌的な景色が印象的であった。
 ウェールズを旅して最も良かった点は、「色々な人々に出逢えた」事であった。道中、色々な話をして情報を得たり、或いは親切にして貰ったりして、生涯忘れえぬ良き思い出となった。『この恩返しの気持として、日本で困っている外国からの旅人を見掛けたら、今度は彼等の手助けをしよう』と思った。
 ヒット率は、ストックホルム~オスロ間をした時よりも効率が良かった。ウェールズ人の純朴な心、心の大きさ、親切心があったからだと思う。ヒッチ率が悪いのは、女性1人の車、高級車、そして大型トラックであった。これらを分析すると、『成る程』と理解出来る面があった。
 1日、日本円で400円~500円程度の費用で旅をして来たが、それは確かに大変な所もあった。でも良い天気の日ばかりであったら一生涯、旅をしていたい心境にもなった、そんなウェールズの旅であった。



ウェールズの旅~ウェールズのビールは不味い?

2021-09-12 09:11:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
     △コロブレンの牧歌的な風景(Painted by M.Yoshida)

・昭和43年9月12日(木)晴れ(ウェールズのビールは不味い?)
 ユースを出て、コロブレン方面の山道(舗装道路)をとぼとぼ歩いていたら、ユースのペアレントが私をコロブレン近くまで乗せてくれた。
 今日は良く晴れた。モーガン家方面への田舎道を歩くのも気持が良かった。この辺りから歩いて行くには、家までまだ遠かった。車の通っていない田舎道をトボトボと歩いた。
 昼頃になって道路脇の芝生の上で1時間ばかり、昼寝をした。その後、再び「小樽の人よ」の歌など歌いながら、コロブレンへ向けて歩いた。そして今日最後の車の2台目で、コロブレンまで乗せて貰った。所で、私はウェールズの旅でよく鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽の人よ」を歌っていた。
歩いていたら、あのクラブが目に入った。ウェールズの旅が無事に終った事でもあるので、自分にビールで乾杯したくなり、入って行った。中ジョッキのビール(1s7d=約78円)を注文した。1口グィッと飲んだ。喉から胃に伝わり、旅の疲れも一度に吹っ飛んで行った。
既に数人の村民も一杯やっていた。彼等は私の傍に近寄って来た。
その内の1人が、「ウェールズのビールは旨いだろう」と自慢げに言った。
「ソ連を始めヨーロッパ中のビールを飲んで来たが、ここのビールは一番不味いです」と、つい自分の思っている事を正直に言ってしまった。彼は自分の所のビールにケチを付けられたと思ったのか、彼の顔色が変わったのを感じ取った。内心、『まずかったかな』と私は思った。
「そうであったら、どうして不味いビールを飲んでいるのだ」と彼に言い返された。
「でも、私はビールが好きだから飲んでいるのです」と言った。
「サウス ウェールズのビールは、イギリスでも最高に旨いビールなのだ」と彼は自分の国のビールを再度自慢して言うのであった。これ以上彼等の心情を害してはまずいので、私はその件について、もう何も言わなかった。
にほんじん誰でも、何処の国の人でも誇りに思っている物、お国自慢したい物があるものだ。旅人(よそ者)は、それに反論してはいけないのだ。反論しても良い結果が生まれない。寧ろ、「ここのビールは旨いですね」と言って、彼等と和やかな雰囲気の中で飲んだ方がビールも余計旨くなるのだ。
まして私はモーガン家にお世話になっているのだ。彼等の心情を考えると、『言うべきではなかった』と反省したのであったが、それは後の祭りであった。案の定この件について夜、ダディの耳に入っていて、「Yoshi、クラブで皆にウェールズのビールは不味い、と言ったのだって」と言われてしまいました。
 クラブでビールの話の後、彼等の一人が、「日本刀を持っている」と言った。私が「見せて」と言うと、彼は直ぐ家へ行って、刀を持って来た。私は刀を抜いて見た。半分、錆びかかっていた。剣鍔(けんつば)を外して見ると、作者の名前が判明したが、家に帰ったら忘れてしまった。
私が、「如何して日本刀を持っているの」と聞いたら、彼は、「先の大戦中、シンガポールで捕虜の日本人将校から分捕った」と誇らしげに言った。
戦争中の出来事としてダディからも、「日本人捕虜2人がこのコロブレンで働かせられていた。彼等は勤勉で紳士的であった。そしてその内の1人は『田中』と言う人だった」と聞かされた。戦後既に22年経っても、ウェールズの田舎で旧敵国の兵士に出会ったり、軍人の魂である日本刀を見たり、そしてコロブレンに日本兵の捕虜が居たと聞かされたりして、こちらに来て戦争を身近に聞かされるとは、思ってもいなかった。
 クラブから家に帰る途中、教会の裏手に図書館があり、そこで柔道場がある事を聞いていた。そこで、今日は練習をしているかチョット覗いて見たら、大柄の先生が子供達に教えていた。
 家に帰って間もなく、4~5人の子供達が、「是非見に来て下さい」と私を迎えに来たので又、その子供達と柔道場へ行った。しかし、私はクラブでビールを飲み、少し酔って顔を赤くしていた。私としては、『神聖な道場を乱してはいけない』と思い早々、失礼させて貰った。高校の時、多少柔道をやった事があるので、本来ならば先生と一つ『乱取り』でもしてみたかったのであるが、残念であった。
 家に帰って暫らくしてから、ダディ、ケネフと共にブラックベリー(黒い野イチゴ)を取りに、山へ行った。野イチゴは山の急斜面に実っていた。この場所は、「ダディだけしか知らない秘密の場所」と言っていた。これで作ったマミのケーキは最高であった。

ウェールズの旅~カーディフ城見物

2021-09-11 14:27:06 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
        △11世紀に造られた古城(PFN)

・昭和43年9月11日(水)晴れ(カーディフ城見物)   
 1台目は、ユースに泊まっていた大学生が、「スウォンジーまで行く」と言うので、その車に便乗させて貰った。そして彼はカーディフへ行く街道で私を降ろしてくれた。スウォンジーの街は勤め人が忙しそうに往来していた。
 2台目は、その場で20分位してお爺さんが運転する車をゲットし、この車でいっきにカーディフ郊外まで行った。
 カーディフはウェールズの首都であり、港湾都市(ひと昔までは石炭の積出港としても栄えた)、重工業として栄え、現在ウェールズの経済、工業の中心地である。カーディフは又、カーディフ城でも有名であるらしく、私は郊外から何回も尋ね、城へ行った。
その城は市の中央にあった。城内へ入るのに6ペンス(24円)払い、敷地内に入ると全く時代の違う2つの城に出迎えられた。私は古城に入るのに、又6ペンス支払った。古城の中庭には大砲が備え付けてあり、階段を昇り屋上に上がった。屋上からの街の眺めは最高であった。ここから眺めているとカーディフは、城の周りから都市が発達したように見えた。又、市内の道路は、碁盤の目になっていて、良く整備されていた。
この城の中庭で結婚式があり、新郎新婦の純白衣装が芝生の青々とした色と良くコントラクトされ印象的であった。古城で結婚式を挙げるなどとは、中々粋だなぁと思った。
 ゆっくり見学していたら3時になってしまった。泊まる場所を確保する為、行動開始。徒歩1時間以上かけて郊外へ出た。のんびり歩いていたら今日の3台目が向こうから停まり、私をピック アップ”(乗せて貰うこと)してくれた。
ユースの住所は、Aberdare(アバーデア)と書いてあったが、Ystradfelte(アストラドベステ)のユースはアバーデアの郊外にあるので、まだ7~8マイル先である事が分った。ユースに着くまで3度、乗継して行った。途中のこの辺りは炭鉱で栄えたのか、多くの炭鉱労働者の家々が見受けられたが今は、廃墟化しつつあった。時の流れか、石炭産業の衰退の一面をここでも見た。
 ユースは、山の中にあって山小屋風であった。ホステラーは男性4人であった。

          △11世紀に造られた古城(PFN)

                           △19世紀に造られた新カーディフ城(PFN)

ウェールズの旅~助平な若者とミニ スカート論議

2021-09-10 08:54:21 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
                        △南ウェールズのニースの海岸にてのシーラ

・昭和43年9月10日(火)雨後晴れ(助平な若者とミニ スカート論議)
 Swansea(スウォンジー)、Cardiff(カージフ)へ行こうと、7時30分に起きた。しかし雨が降っていて出鼻を挫かれてしまった。テレビの今日の天気予報は、雨時々曇りであった。
降雨時のヒッチ率は落ちるし、雨の中で道路端に立ちっぱなしは辛い。そんな訳で、雨の日のヒッチは、気分も冴えない。しかしダディもマミも親切にしてくれるが、する事がないのに食べてばかりでは、どうも居心地が悪かった。
 そんなこんなで、「出立しようか、今日は止めようか」迷っていると、雨は止んでしまった。ヒッチの旅に出掛ける気分は失せていた。「本当は1日中降ってくれれば良かったのに。そうすれば明日にしたのに」と思いつつ、雨が止んだので思い切って家を出た。既に時刻は11時頃であった。
 1台目はオースチンのミニバンを運転する若者に拾われた。彼から幾つかのウェールズ語を教えてもらった。旅から帰って、教えてもらった簡単なウェールズ語をダディとマミに話したら、「上手だね、誰に教えてもらったの」と褒められてしまった。
又この若者は私と同じく助平で、ミニ スカートの女性を見る度に奇声を上げて喜んでいた。「いいね、イイネ。ミニは男の目を楽しませてくれる。ゾクゾクするね」と彼の正直な表現であった。
そんな話をして赤信号で停車中、歩道を2人のミニ女性が歩いていた。「君は右と左の女の子でどちらが好きか、マイ ジャパニーズ フレンド」と彼。
「左の女性がグッドですネ」と私。
「君も中々やるね。あのスラットした足、そしてあのヒップ。もう少しスカートが短いと、もっとグッドね」と彼。
「所で、日本の女性とイギリスの女性とはどちらがグッドか」と彼。 
「勿論、イギリスの女の子の方がグッドですよ」と私。
「オー、そうか。私もそれを聞いて嬉しいね」と彼。
 ミニの女王ツイギーが日本にやって来て2年、ミニが日本でも流行って来た。しかし日本の女性には申し訳ないが、〝練馬の大根足〟(『短足』=太くて短い足の事で東京近辺の隠語)では、どう見てもヨーロッパの女性と比較するのは所詮、無理があった。
実際に体型、着こなし、立ち振る舞い等、何をとっても西欧の女性の方がミニ ルックは良く似合っていた。特にスウェーデンの女性は、ゾクゾクするのを感じた。余りにも美しいと近寄り難い、何か女性の尊さを感じさせる様な女性もいた。オスロから下がったホールデン城内の公園で逢ったスウェーデン女性もそんな1人であった。そしてえこひいきでなく、その次にミニ スカートが似合うのはイギリス女性で、シーラもミニ スカートが良く似合っていた。
そんなミニ スカート談議等しながら彼の車は仕事の為に途中、何箇所か止まり、或いは寄り道しながらスウォンジーに到着した。彼とのドライブは、ウェールズの旅で一番気楽な、そして楽しいヒッチの旅であった。
 スウォンジーは、カージフに次いで第二の都市と言われ又、工業地帯をなしていた。港には大型船やタンカー等が停泊、市内電車も走り、他のウールズの町と比較すると雲泥の差があった。
 私は街の中でトイレへ行きたくなった。それは何処でも同じだが,特に一番困るは大都会であった。イギリスは使用出来るトイレが少なく、出たくなったら大変であった。この様な場合、公園か大きな駅へ行くのが良いのだが、不案内な私には行きつくまでそれでも大変であった。トイレの場所を人に尋ねる場合、「トイレは何処ですか」ではなく、「ゆっくり散歩でもしたいのですが、この辺りに公園は何処にあるのでしょうか」と尋ねるのがスマートな方法であった。
 そんなこんなで公園を捜し、用を足してすっきりした。その公園で1時間近くボケーと過ごした。晴れて来たが、まだ厚い雨雲が残り、雨が又、降りそうな感じであった。
 高校2年の時にシーラは、綺麗なスウォンジーの公園の写真を送ってくれた事があった。しかし今の私の心情は、そこへ行って見たいとか、この街の観光スポットを見て廻りたいと言う、観光意欲が沸いて来なかった。
 公園に長く居たら冷えて来たので今度、公園の大通りに面した陽の当る所へ移動した。私は車や人々が往来するのをボケーと眺め、気持の不安定な状態で時の過ぎるのを待った。
 『どうしてこんな状態になってしまったのか』と言うのは、自分は複雑な心境に陥っていたからであった。前にも記述したが、私の今回の主たる旅の目的は、ヨーロッパ列車の旅、シーラに逢う事、そしてウェールズに滞在する事であったが、既に果たした。「私の海外旅行願い」を会社が許可していたならば、最初の計画通りの10月上~中旬頃、フランスのマルセイユからM&Mの船で帰国する予定であった。予定通りであるならばウェールズ滞在後ロンドンへ戻り、列車でパリへ、そしてパリでM&Mの乗船予約し、その後マルセイユ出航日の2~3前に着いて予約再確認・乗船手続き等をして、帰国と言う段取りになっていた。しかし会社の旅行許可が下りなかったので、このまま帰国する必要がなくなったのでした。
折角自由な身になったので、「これから異国での生活体験をしたい。イギリスまで来たのであるからロンドンで英語学校へ入学し勉強をしたい。色々な経験体験をしたい。或は色々な国を旅したい」等々の私の希望、或は想いが入り混じり、そこから起こりうる不安、悩み等で私の頭の中は、混乱状態になっていた。
はっきりとした今後の方向性が見付らず、シーラが去った後、余計に複雑な心境になってしまった。そんな訳で、今後如何したら良いのか、結論を見出す為、又ウェールズをもっと知る、と言う意味を含めてウェールズのヒッチの旅に出たのでした。
 昼抜きで、午後3時を過ぎた。そろそろ今日の泊まる所を確保しなければならなかった。約10マイル離れたスウォンジー半島南端の所にユースがあるので、今日の宿泊はそこに決めた。大都会ではヒッチするのが難しいので、郊外の適当なヒッチ ポイントまで1時間要してテクテク歩いて行った。
 ヒッチ ポイントに男女2人がヒッチしていたが、私が先にゲットした。2台目は今までの経験でも初めての大型トラックであった。それはまるで戦車のようで、乗っていても安心感があった。
3台目は30分位して農家のおじさんらしい格好をした人に装甲車みたいな車に乗せて貰った。それから短距離で4台目、5台目と乗り換えスウォンジー半島にあるReynoldston(レィノルドストン)のユースに到着した。
 到着してからユース前の芝生の上で、私は太陽が地平線に沈む頃まで寝転んでいた。ここは、ウェールズの最南端、スウォンジー半島の美しい夕日がそこにあった。
 ホステラーは男性3人、女性1人で今までで一番少なかった。ホステラー仲間と話す機会があったが、今後如何あるべきかを考えると、迷い悩む私は彼等と話をする心境ではなかった。


ウェールズの旅~如何してコロブレンへ行くの?

2021-09-09 14:52:46 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
                △ウェールズの街は谷間にあった

・昭和43年9月9日(月)晴れ(如何してコロブレンへ行くの?)
 昨夜泊まったユースは、山の中であった。昨日のおじさんが、捜し出すのに苦労したのも無理なかった。
 ユースを出て、ウェールズの美しい山々の景観を楽しみながら山道を1人、街道の方へトボトボと歩いた。ウェールズはどんな山の中の小道でも、アスハルトで整備されていた。今日は晴天となり、昨日とうって変わって気分も良かった。歩いていたらウンコをしたくなった。山道が幸いし道路端で、美しい山々を眺望しながら用を足すのは、最高に気持が良かった。
 山道と街道が交差する左箇所で、村民5~6人が焚き火をしていた。朝晩は、既に寒さを感じる時期になっていた。『毛色の変わった外人がこんな所を歩いている』と言った感じで私の方を皆が見ていた。私が無視して彼等の前を通り過ぎようとしたら、向こうから「グッド・モーニング」と挨拶されてしまった。私も挨拶を返したが、田舎の人は気軽に挨拶をしてくれるので気持が良かった。
 街道を出て左に曲がってトボトボと歩いていたら、おじさんが運転する車が停まってくれて、乗せてくれた。1~2km行った交差点手前で停車し、「私はこちらの道を行くので、降りてくれ」と言うので、降りた。
車が走って行くのを見ていたら、曲がらず真っ直ぐに行ってしまったのだ。おじさんは気が変わって、私をこれ以上乗せたくないので、嘘を言ったのだ。ヒッチをしていてこんな事は、後にも先にもこれ1度だけであった。 
 2台目は、若者が運転する車が10分位して停まってくれた。彼はスピードを出して運転したから、直ぐに最初に乗った車に近付いた。そして追い越す際におじさんに手を振ったら、向こうも気が付いたようであった。この車でBuilth Wells(ビルス ウェルス)まで遣って来た。
 ビルス ウェルスの街で昼食をして、郊外まで歩き3台目をゲット。そして4台目で私は、Brecon(ブレコン)まで来た。ここまで来るとコロブレンまでは、もう近いのであった。ブレコンの郊外まで歩き、そこでヒッチするが車が停まってくれないので、場所を変えた。すると、65前後のお爺さんがリックを背負ってヒッチをしていた。『あんな年齢になっても、ヒッチの旅が出来れば良いなぁ』と思った。
 5台目は、「20ポンド(約20,000円)でスイスまで行って、昨日帰って来た」と言う若い人に、Senny Bridge(セニー・ブリッジ)まで乗せてもらった。私はここで気楽に草の上に寝転んで昼寝をした。
 6台目は、今日最後の婦人の運転する車が停まってくれた。助手席には高等女学生と思われる、とても可愛らしい女の子が乗っていた。早速その彼女から、「何処まで行くのですか」と聞かれた。
「コロブレンまでお願いします」と私。
「如何してコロブレンに用事があるの」と彼女は不思議に思ったのか聞いて来た。
「私は日本人で、ミス シーラ モーガンと言う人と7年間文通しこちらに来る機会があって、彼女の家に滞在しているのです。今、スノードンから帰って来たばかりなのです」と私。
「貴方の様な素敵な日本人と私も文通をしてみたくなったわ」と本気か冗談か分らないが、そんな会話をしている内に直ぐ、コロブレンに着いてしまった。私の案内でモーガン家の真ん前で降ろして貰った。
 私はバスに入って、4日間の旅の垢を落とした。それから洗濯したり、友達から手紙が来ていたので返事を書いたり、妹へも手紙を書いたりして、午後を過ごした。
 明日、再び旅に出るので、早めに床に着いた。

ウェールズの旅~初めの頃の蒸気機関車と客車を見る

2021-09-08 08:40:07 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△スノードン山と湖(PFN)

・昭和43年9月8日(日)曇り時々雨(明治初め頃の蒸気機関車と客車を見る)
 『若しかしたら簡単に登れるかも』と思い、スノードン山に登ろうとしたが、諦めた。昨夜、雨が降ったのか登山道は濡れていたし、山に登る様な服装・履物ではなかった。しかも標高差が分らないし、空模様も心配であった。
 仕事が終ってからユースを出た。左手にスノードン、右手に湖を見ながら自然のど真ん中を歩いていると、自然と心も弾み、歌を口ずさんだ。今朝は最高に気分が良かった。ヒッチの旅は、天候しだいで良くもなるし悪くもなった。
 高級車には8:2の割りで乗せてくれないが、1台目はこの確率から外れ、夫婦連れの立派な車に便乗出来た。
 それから間もなくしてある町で降ろされると、やはり雨が降って来た。雨が降ると極端にヒッチ率は落ちた。家の軒下に一時避難したが、雨が止む保証はなかった。霧や小雨程度ならコートで充分大丈夫であるが、この時季の天候は気まぐれであった。途方にくれた末、雨の中を歩き出した。すると雨がしのげる大樹があり、その下でヒッチ合図を送りながら車が止まってくれるのを待った。
 雨降る大樹の下でがんばったお陰で、20分位して2台目の車に乗せて貰えた。2台目である町(「Penrhyndeudraeth」と言う長ったらしいウェールズ語的地名)にやって来たら、雨は止んでいた。


その町の駅で小さな蒸気機関車が小さめの客車4両を牽引して駅から出発して行った光景に出くわした。まるでアメリカ西部劇、或は、明治初期頃の列車が走っていた。観光地のおとぎ電車ではなかった。ウェールズにはまだこの様な100年前の蒸気機関車や客車が走っていたのであった。写真を撮れば良かったのだが、生憎モーガン家に置いて来てしまったのだ。
 3台目は老夫婦の車であった。ある町に着いたら奥さんを自分の家の前で降ろし、私を町外れの峠まで送ってくれた。
 4台目は牧師さんの車であった。彼は「グッドバイを日本語で何と言うのか。グッドモーニングは何と言うのか」等々色々聞いて来た。私はその度に教えましたが、別れる時に早速、「SAYONARA」とたどたどしい日本語で、彼は別れを告げたのでした。面白い牧師さんに出逢えた。
 5台目は中々止まってくれなかったが、若い2人連れのおんぼろ車が停まり、かなりの距離を乗せて貰った。
 6台目は青年。そして7台目は若い夫婦であった。私はMachynlleth(マッキンレー)のユースに泊まろうと思っていた。降車の際にその若夫婦にそのユースが何処にあるのか尋ねたら、7マイルも行過ぎてしまった。
時刻は、既に午後4時30分を過ぎていた。この時間になってまだその日の宿泊が決まってないと、何となく心細くなる時間帯であった。引き返すのもしゃくに障るし、なんて詰まらん事に自問自答をしていると、今度はいやに腹が空いて来た。当たり前で、昼食を食べていない為、腹の虫が騒ぎ出したのであった。
ここからまだ遠いが、Porterwyd(ポーターウィド)のユースに泊まる事にした。
 8台目、9台目と乗り継いで、Aberystwyth(アバリストウィス)に遣って来た。道路の両側に家並みが続く街の中心部にも拘らず、人影は全く無く、静かであるが活気がなかった。しかしこの町は古(いにしえ)の歴史を感じられた。道路は中世のレンガで敷き詰められ又、街の中央には歴史を重ねて来た塔があった。太陽が海に沈みつつある黄昏時に、その塔が海を背景に浮かび上がった。
 10台目は中年のドライバーであった。おじさんはヒッチ合図をしないのに車を停めて乗せてくれたが、「メガネを忘れたから取りに行って来る」と言って私を車に乗せたまま、歩いて家まで行き、メガネを手に戻って来た。アバリストウィスの街の中で、私がヒッチをしているのを近くに住むこのおじさんが見ていて、わざわざ車を出してくれたのだ。有り難う御座います。
ポーターウィドのユースは辺ぴな所にある為、見付けるのに難しく、おじさんは何回も地元の人に聞いて、私をユースまで連れて来てくれた。おじさんは洋服の仕立て直し屋さんで、とても親切な人でした。最後までお世話になりました。
 ユースに到着したのが7時過ぎになった。7人のホステラーが宿泊していた。


ウェールズの旅~ウェールズの美しい山河

2021-09-06 17:55:01 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△イギリスで一番高い山、標高1085mのスノードン山~当時の絵葉
*スコットランドのベンネビス山が一番高い山でした。

・昭和43年9月7日(土)曇り(ウェールズの美しい山河)
 コーウェンのユースを出て、3km程歩いて街道へ出た。
今日は車が多く走っている割に、ヒッチ率が非常に悪かった。20分、30分、50分とヒッチ合図を送り続けても、いっこうに停まってくれる車はなかった。どの車も定員状態であった。昨日は向こうから停まってくれる車があったのに、今日は如何してなのであろうか。いずれにしても気長に待つしかなかった。
 1台目にやっと1時間位過ぎてから乗せて貰う事が出来た。その若者の言う事には、「ホリデーはヒッチに適さない」と言うのだ。そう言えば今日は土曜日、道理で家族連れの車が多いと思った。家族でピクニックやドライヴに行くのであろう。その多くは私と同じ方向のスノードン方面のようであった。。
その1台目の車には、かなり長く乗せて貰った。昼食は周りの山々に囲まれた誰もいない静寂な湖畔で済ませた。素晴らしい景観がありながら観光地化されていないのが、自然保護に良いのであろう。
 2台目は、直ぐに降ろされた。
 3台目は夫婦が乗っている車であった。そのおじさんに、「学生ですか」と聞かれ、「はい、学生です」とつい私は言ってしまった。そうしたらいろいろな事を聞いて来た。例えば、「日本の学生は、アメリカに対し敵意を持っているようだが如何してか。何故学生は安保反対なのか」とか、「日本人はソ連のチェコ侵入を如何思っているのか」《ソ連軍侵攻当日の8月21日はパリに居たが、私はこの件に関して全く知らなかった》とか、「東京、パリ、ロンドン等で学生運動が活発化しているが、如何思うか」等を尋ねられてしまった。
答えるのに苦労した。しかし英語が上手でない私だから、議論にならなかった。全く冷や汗をかかせる様なお堅い話で、嘘を付かなければ良かったと思った程であった。おじさんは、中々の知日家であった。私のヒッチの旅で、難しい政治問題を幾つも話したのは初めてであり、そしてこれが最後であった。
 その夫婦連れの車から降りたこの辺りは、山岳地帯であった。それ程高い山でないが、サウスウェールズの牧歌的な山々と対照的であった。道は片道一車線で、家々の作りは南ウェールズと対照的で、石造りが目立った。
 4台目も夫婦連れの車であった。その車でスノードンの麓のユースまで乗せて貰った。
午後3時頃、まだ誰も宿泊する人は見当たらず、オープンは5時からであった。ユースの裏手にスノードンの山容が見え、あたかも武甲山(埼玉県秩父市。昔の破壊される前の武甲山)と同じであった。そして四方山に囲まれたユースの前は、鎌北湖程の湖(埼玉県毛呂山町)が静寂の中に広がっていた。
イギリスで一番高い山、そして美しい湖があって自然美に富んでいるにも関わらず、全く観光地化されていないのであった。日本の不動産業者や観光開発業者であったら、喉から手が出る様な所であるのに・・・。自然に対する考え方が、こちらと日本では違うように感じた。多分こちらは・・・自然は自然のままに残してその自然や景観を楽しむ。日本は・・・資本家が金儲けの為に自然を開発(破壊)し、人々は造られた(破壊された)自然を楽しむ傾向になって来ている。車、ケーブルカー、ロープウェーで、昨今高い山にハイヒールで簡単に行けるようになった。しかし人々はそれらの山や自然に対し、どれほどの感動を感じるであろうか。手付かずの自然と破壊された自然、どちらが人や環境に良いのであろうか、考えられずには要られなかった。
 ユースがオープンするまで時間があったので、小鳥のさえずり以外、何も聞こえない自然に抱かれた湖畔の草の上で横になっていたら、私はいつのまにか1時間程、寝込んでしまった。
 夕方からリックを背負った登山者らしき若者達で、山小屋風のユースは賑わって来た。
 夜、イギリス青年達に発音を含む英会話の教えを受けた。