YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

黄金のバルト海~ヘルシンキの旅

2022-07-26 16:11:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
       △ヘルシンキ港にて出港前の私(右)と鈴木

・昭和43年(1968年)7月21日(日)晴れ(黄金のバルト海)
 パン、ミルク、キュウリ、そして、トマトで朝食を取った。ソ連の旅行は、ホテルでナイフとフォークを使ってのコンチネンタル・ブレックファーストであったが、個人の旅になると食事内容も貧しくなった。
 船でストックホルムへ行く為、タクシーで港の船会社へ行った。私と鈴木は既に日本でヘルシンキ~ストックホルム間の船切符を買ってあったが、照井と鶴島さんは、まだ買ってなかったので買う事になった。その鶴島さんは、四国の松山で個人商店を営んでいる人で今回、ストックホルムのホテルでボーイをしている弟さんに8年振りに会いに来たと言う事であった。鶴島さんは英語が分らないので私に、「明日、船で行くから弟に迎えに来て貰いたいので、電報文を書いてもらいたい」とお願いされてしまった。そこで、私が英文を書いて船会社の人にこれを電報にしてくれるよう、頼んだのであった。それにしても、彼は自分の事を人に頼まなければ何も出来ないで、よくこちらに来たものだ、と思った。
 午後2時の出航なので、まだ4時間程あった。我々は荷物を船会社の事務所に置かせてもらい、市内へ散歩に出掛けた。
 その後、我々4人は港に戻り乗船した。出航の際、先程知り会った自称学生で写真家の『青木さん』が大きな日の丸を振って我々を見送ってくれた。異国の最果ての港で日の丸の旗を振って見送ってくれた青木さんを、私はいつまでもデッキで見ていた。

 鈴木の部屋で我々3人は、これからの旅行について話し合った。例えばドイツで100ドルずつ出し合って中古車を買って旅行しようとか。しかし人それぞれ旅の仕方がある。私のユーレイル・パスは1ヶ月間有効の物でその後、イギリスへ行ってシェイラに会う計画がある。鈴木は2ヶ月間有効のパス、そして照井はパスを持ってないとの事であった。そう言う事で我々はいつまでも一緒に旅が出来る訳がないから、『出来る範囲で、そして、外国が慣れるまで共に行動しよう』と言う結論になった。
 船の中は、国際色豊かであった。日本人は同じソ連ツアーの仲間が9人居た。夕食は食堂で2日振りにナイフとフォーク付きの食事で、ポークソーテ、ポテトチップス、ミルク、そして、パンが出た。これは、船賃の中に含まれていた。夕食後、1人デッキに出た。静かな海であった。暫らくしたら、太陽が水平線に沈みかけ、辺り一面黄金色に染まったバルト海がそこにあった。それは何とも言い表す事が出来ない光景で、ただ感嘆するだけであった。
黄金に染まったバルト海を眺めていると、日本でセコセコとやって来た思いが吹き飛んで行くようで、何か心の奥底までがスッキリして来た。『私は今、最果てのバルト海の真只中に居るのだ。あれ程までに行って見たいと想っていた外国・ヨーロッパの地に』と想うと、私は胸が熱くなり、涙が出そうになった。

バルト海船上で17歳の若者と口論

2022-07-25 09:52:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
△ストックホルム入港前で生粋な彼と仲直り記念写真

・昭和43年7月22日(月)晴れ(・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海船上で17歳の若者と口論)     
*参考=スウェーデンの1クローネ(Krona)は、約70円(1オーレは、70銭)。
 昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝た。非常に寒く、そして長い夜であった。こんなに寒い中を一晩過ごした経験は過ってなかった。勿論、船員に毛布を貸してくれるよう尋ねたのですが、2等用には備えがないとの事で、ブルブルと震えながら一晩過したのでした。
 やっと朝の5時頃になったので、私は体を温めようとシャワー浴びた。しかし、その時は温まったので良かったが、後になって反って寒くなってしった。体が丈夫の方ではないので風邪を引くのでは、と心配してしまった。日本の夏は夜でも非常に蒸し暑いので、『いくら北欧でもカーデガンがあれば大丈夫であろう』と思い込んでいた。外国へ行って見たいと強い想いがあった割に、諸外国事情を全く知らなかった私の認識不足は甚だしかった。私が持って来た衣類と言えばカーデガン1着、靴下数組、パンツ数枚、半袖下着数枚、半袖シャツ2枚、ワイシャツ2枚、背広1着、ズボン1着であった。どちらかと言えば、夏向きの支度であった。緯度的に考えればそれなりの支度が必要であったが、それが私の欠点であった。以後、何度も夜間や朝方の寒さに悩まされた。「セーターや冬用の上着、シャツも持参すべきであった」と何遍も後悔した。いずれにしてもこれは、これから多くの失敗を重ねるほんの1例であったのだ。
 ストックホルムに近付くにつれて、小さな島が幾つも散在するようになって来た。船は入り江の奥深く進んでいた。海ではなく、あたかも湖の中を小さな島が多くあり、それらを縫って行く様な感じで、素晴らしい眺めであった。デッキでその光景を眺めていると、やくざ風のサングラスを掛け、一見して20歳以下と分る若者が一丁前にタバコを吸っているのを見掛け、「あなたは何人ですか」と私は尋ねた。
「スウェーデン人です」と彼。
「そして幾つですか」と私。
「17歳だが」と彼。
「スウェーデンは17歳がタバコを吸って良いのか。日本では20歳にならないと吸ってはいけない事になっているのだが」と私。
「スウェーデンも同じだが、貴方に関係ないだろう」と彼は怒り出した。
「若造の癖に生意気な事を言うな」とこちらも言い返した。
しかし、余り怒らせてトラブルになるのも詰らないので今度、宥めに入った。
「大きなお世話かもしれないが、吸いすぎると体に悪いから注意したたけだよ。友達になろう」と私は言って彼に握手を求めると、彼も握手して来た。
「記念に写真を撮ろう」と言って私は彼と肩を組んで写真を撮った。
 私は如何してこんな事を言い出したのか、後になって不思議であった。彼は色眼鏡を掛け、ジャケットを着て、余りにも一丁前にタバコを吹かしていたのでからかいたくなったのは事実であった。しかし後で分った事であるが、17歳はまだ良い方であった。ヨーロッパでは、小学校低学年齢の子供達も吸っているのが実際であった。
 船はほぼ予定通りの8時30分、ストックホルム港に着岸した。鶴村さんの弟さんは迎えに来ていた。その彼はあるホテルでボーイの仕事をしていて今回、8年振りの再会であった。私は鶴村さんがヘルシンキ・ストックホルム間の乗船券を所持してないのでその乗船券の手配や又、何日の何時、何処の会社の何の言う船がストックホルムに着くから、迎えに来るよう電報文を打って上げたのだ。照井、鈴木と共に鶴村さんを連れて来た様なものであった。
そんな鶴村さんが、弟(30~33歳位)を我々に紹介し、「ここまで3人にお世話になった」旨を話した。しかし、彼は何の挨拶も一言の言葉もなかった。普通「兄がお世話になり、有難う御座いました」、と言うのが常識であろう。私は彼が何か同邦人ではない感じを受けた。と言うより彼の態度は、『私は貴方達と関わりを持ちたくありません』と言う感じであった。しかし、私は彼がここでホテルのボーイをしているし、8年も住んでいるので宿泊施設の情報を良く知っていると思って、「何処か安く泊まれる所があれば教えて貰いたい」と彼に尋ねてみた。すると、「ユース・ホステルか、観光案内所へ行って聞いてみれば」と彼の素っ気ない言葉が返って来た。彼に言われなくても、私はそうするつもりであったが、何らかの期待を持ったのがいけなかった。日本から遥々、兄と共に遣って来た我々に対し余りにもつれない言葉に、全く好かない奴であった。彼は兄を車に乗せ、さっさと走り去って行った。我々3人は、呆気に取られてしまって言葉もなかった。
その後の私がロンドン滞在中、妹の手紙と共に彼の手紙が同封されて来て、鶴村さんは「弟と車で1ヶ月間ヨーロッパを旅行して、一人で中近東経由インドのデリーから飛行機で帰国した」との事であった
所で、異国の地において邦人同士が会っても互いに背を向けると言うか、話したがらない人達にも会ったが、嫌な感じであった。

―――ストックホルム観光巡りの話は省略―――

 泊まる所が決まっていない観光は、何となく落ち着かない感じがした。しかも昨夜、寒さの為に一睡も出来なかった私にとって、市内観光巡りで歩き回るのは、非常に疲れを感じた。 
午後4時になったので再度、ユース・ホステルやYMCAに電話をしてみたが、又も満員で断られてしまった。仕方なく再度、駅観光案内所へ行って、安いホテルかペンションをお願いしたが、やはり満員で断られてしまった。野宿する訳にいかないので、強い口調で三度、私は女性スタッフに頼み込んだ。「我々は、何処で泊まれば良いのですか。公園のベンチに寝ろと言うのですか。夜の屋外は寒いので耐えられません。それに、我々は疲れているのでゆっくり休みたいのです。どうかお願いですから安いペンションを探して下さい」と訴えた。
「それでは、暫らく待って下さい」と言った彼女は、何処かあちこち電話をしてくれた。
3人の内、いつも交渉役は私でした。そして満員と言っても強く交渉すれば何とかなるもので、彼女は安い〝ペンション〟(日本の民宿の様な感じの宿泊所で、同じ部屋にベッドが複数ある)を探してくれた。
ペンションと言っても、相部屋で泊まるだけで1人30クローネ(約2,100円)であった。北欧、特にスウェーデンは非常に物価が高かった。日本で70円のハイライトの様なタバコが、ここは700円ぐらいした。酒場の小瓶のビール100円がこちらは600円した。平均日本の7倍から10倍高かった。私みたいなケチケチ旅行者にとって、スウェーデンは長く滞在する様な国ではなかった。
 大野から夜、「私達(大野と山下)は、明日、オスロまでヒッチするので貴方達もやらない。どちらが先に着くか競争しようよ」との電話があった。明日、私と鈴木は、ストックホルムからオスロまでヒッチ・ハイクの旅をすることにした。
 今日は疲れたので早く寝ることにした。それでも午後10時であった。

オスロの旅~トイレの話

2021-07-25 10:58:21 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
*トイレの話
 オスロのフログナー公園散策中、私はトイレに行きたくなったので有料でも仕方ないと思い、園内のトイレに入った。先に入った人がドアを閉めなかったので、無料で使用が出来てラッキーであった。使った後、ドアを閉めると鍵がかかり、お金を入れないとドアは開かないのだ。ヨーロッパでは公衆トイレが少なく、あっても有料が多かった。

 市内観光巡りは、トイレ探し(有料・無料問わず)で苦労するので、出掛ける前に必ず、出なくてもトイレへ行っておく事が懸命であった。
トイレ探しの秘訣は、大きい公園、観光名所、博物館、美術館、駅(パリ、ロンドンの地下鉄駅にはない)、公共建物等に普通ある。観光中や散策中、トイレへ行きたくなくても、気が付いたらそれらの場所を頭に入れておく事が大切であった。

 パリやロンドンに居た時、トイレへ行きたくなったが、近くにあるトイレが分らず、ワザワザ電車に乗って、知っているトイレへ行った事があった。
所で、無料トイレは洋の東西を問わず、それはむしろ汚いのが常であった。そして所によってはトイレ内に落書きがあった。その中には芸術的な、楽しくなる様な、或は物凄いそのものズバリのイラスト(絵)やコメント付きの作品もあった。

 トイレ内の落書きは、その国の国民性が現れて面白かった。有料トイレであったが、特に過激だったのはオーストラリアのウィーン駅の落書きであった。

オスロの旅~オスロ観光

2021-07-25 09:27:02 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
△オスロの街角にて~民族衣装着た女性と私Yoshi

・昭和43年7月25日(木)晴れ(オスロ観光)
 
 私のノルウェーの知識・イメージは、海賊バイキング、フィヨルド、漁業・捕鯨の国、それに、船舶製造で、これ位しかこの国に対する知識はなかった。そんな私であるが、地図を頼りに市内観光に出掛けた。
―――観光巡りは省略―――

夜、ユースでアメリカ人、フランス人、白人の南アフリカ人とトランプをして過ごした。国際色で楽しい時間であった。旅をしていると色々な人々に出逢えるから楽しみのひとつであった。
 ユースの娯楽室でちょび髭を生やし、旅慣れたある日本人を見掛けた。この時、私は彼が荻正弘さん(大阪府出身。以後、敬称省略)であるとは、知らなかった。勿論この時、私達は互いに話もしなかった。 
 今夜は部屋のベッドで寝られて良かった。

△バイキングの船(PFN=ネットからの写真)

オスロの旅~女は強い

2021-07-25 08:43:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
・昭和43年7月24日(水)晴れ(女は強い)*全記事からの続き
*参考=ノルウェーの1クローネは、約50円(1オーレは、約50銭)。

 オスロ駅前にて、この国のお金が全くないので両替した。その後4人で相談し、ユースに宿泊出来るか電話で問い合わせを私がする事になった。所で私は欧州ユース・ホステルの所在地・電話番号一覧表の本を持参していた。私が電話をしたら、空いているベッドがなく、断られた。駅前で待っている彼女達に「宿泊出来ない」旨を話したら、「ダメですネ。無理してもお願いするものよ。1つや2つ空いているものなのよ」とアイ子に言われてしまった。 
今度は、私と鈴木が荷物番をして、女性2人が電話を掛けに行った。それは、『全く日本の男性はだらしないのだから』と言う感じであった。それに、『女と言うものは、いざと言う時は強いものだ。特に外国を1人旅しようと言う女は気が強いのだ』と感じた。相棒の鈴木はどの様に感じたであろうか。
彼女達を待っている間、ヘルメットを被り、紺の戦闘服を着て、そしてブーツを履いた警察官らしき人が、スクーターに乗って近寄って来た。一瞬、何者かと思ったが、かわいい感じの女の子であった。彼女は、ツーリスト・ビューローのガイドさんであった。
「何か困っている事がありますか」と彼女に尋ねられた。
「大丈夫です。今、ユース宿泊の為に問合せに行っています」と私。       
「何処から来たのですか」と彼女。
「日本からです。それにしても貴方はかわいいですね。ヘルメットと制服がとても似合うよ。私と一緒に写真1枚撮らせて下さい」と言って彼女の了解を得て、彼女の後ろのシートに乗り、1枚パチリと撮った。それから2語と3言話して、「グッド・ラック」と言って、彼女は走り去って行った。

      
      オスロ駅前にて~ツーリスト・ビューローのガイドさんと

『それにしても愛くるしい女の子だったなぁ。女性はあぁでなくてはダメなのだ』と私の独り言。その内に彼女達が戻って来た。しかし満員で駄目であった。『満員で駄目なものは、誰が電話を掛けても駄目なのだ』と思ったが、彼女達の成果は、「5時にもう一度掛け直して下さい」と言われた事であった。「掛け直してみろ」と言う事は、宿泊出来る可能性が女性の場合はあるが、男性にはないのだ。
大体、ユース宿泊の状態が分って来た。宿泊部屋のベッドが一杯の時、電話での問合せ、或いは夜間以外の直接交渉は、宿泊を断る事が多かった。ただ女性には若干余裕を持って対応していた。しかし夜、直接行った場合、断らないで大広間、通路、時には昨日の様に台所に簡易ベッドを置き、食事なしで対応していた。夏休暇期間中は、ユースの宿泊も大変であった。
 オスロの駅前でそうこうしていると、髭を長く生やした青年が、「如何かしましたか」と聞いて来た。
「ユースに電話したら一杯で断られて、困っているのです」と我々。
「私がユースまで案内し、交渉してあげるから、付いて来て下さい」と彼は言った。我々4人は彼に付いて行き、駅前からバスに乗った。
と、ある停留場で我々はバスを降りた。髭の彼は彼女達のトランク2つをヒョイと担ぎ、スタコラと先頭を切って歩き、我々4人はシゲシゲその後に続いた。
もしかして彼女達はバイキングの子孫の髭モジャ青年にたくましさを感じたであろう。それにひきかえ我々男性2人はやっとの思いでトランクを運び、重そうにシゲシゲと後に付いて歩くその姿を、彼女達はどの様に感じたか。日本男子の自尊心を傷つけられたようだが、シゲシゲと彼の後に付いて行くしか、今は能がなかった。私はこの時、ひがみっぽく感じてしまった。
 ユースに着いて、彼は受付係りの女性に何か話をした後、去って行った。わざわざバスに乗って案内してくれた。なかなか出来ない好意だ。有難う御座いました。
お陰様で彼女達は寝室部屋のベッドを確保出来たが、男性の方は一杯で、「夜9時まで待ってくれ」と言われてしまった。しかし、屋根の下で寝られるのは、確かだ。まさか9時まで待って、『出目だから』と言って、夜の町へ戻される事はないであろう、と思った。
我々は時間潰しと夕食を取る為、外へ出た。街は静かすぎるほどであった。結局、寝る場所は大広間であった。そこに折り畳み式簡易ベッド並べ、おまけに汚い毛布が配られた。その汚さと、寝心地の悪さ、ベッドの軋む音でグッスリ、と言う訳にいかなかった。倹約旅行も大変だ。それにしても昨日と今日は、鈴木との思い出に残るヒッチの旅であった。
大野さんは、「バーで働きながらこちらに来る旅費を貯めたが、帰りの旅費代(航空券、又は乗船券)は持ってない」と言っていた。もう1人の山下さんは、銀行に勤めていたそうだが、休暇を取って来たのか、退職して来たのか、敢えて聞かなかったので分らなかった。でも、これで彼女達との旅も終りだ。明後日、彼女達は「フィヨルドを見に北上する」と言っていた。我々は南下する予定であった。
振り返ればハバロスク号の船上で出逢い、それ以来、共に11日間ここまで遣って来た。『2・3日前まで、アイ子はかわいい子だなぁ』と思っていたが、今日の様なキツイ言い方をする女性は嫌いだ。又、私の周りから2人去って行く。
彼女達に、「グッド・ラッグ」。疲れた。お休みなさい。

ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~「腹が空いたなぁ」と日本語で言ったら・・

2021-07-24 14:06:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
・昭和43年7月24日(水)晴れ(「腹が空いたなぁ」と日本語で言ったら・・)
 7時に起き、ユースの外にあるフードスタンドでソーセイジ入りパンとコーヒーで軽い朝食を取った。それからオスロ方面の街道に出て、9時30分からヒッチを始めた。130~150台程の車が通り過ぎて行き、乗せてくれそうなドライヴァはいなかった。
暫くたって1台目が停まってくれた。しかし乗った距離は4~5km、ストア前で降ろされてしまった。降りた場所に例の黒人学生がいた。一緒にユースを出たのであるが、彼はまだこんな所にいたのだ。 2台目の車に乗せてもらったが、20km程で降ろされた。そこに距離表があった。ここは、カールスタードから30km、ストックホルムから346km、オスロまで後198kmの地点であった。この辺りは田園風景が広がり、何の変哲もない場所であった。黒人は今来た道を引き返して、何処かへ行ってしまった。我々は、車の余り通らない国境近くまで来た。


     △スウェーデン国境付近オスロまで198キロの地点にて

 30分、1時間と時が経つが、時たま車が我々の前を通り過ぎて行くだけであった。昼近くになるが、誰も乗せてくれず時間だけが過ぎて行った。そんな時、車の中から手を振っている大野と山下が乗った車が通過していった。カールスタードまで我々の方が早かったのだ。後から聞いた話だが、彼女達は昨夜ある民家に泊めて貰った、との事であった。
 それから更に1時間近く過ぎた。再び向こうから来る車に願いを込めてヒッチ合図を送った。しかし、その車は通り過ぎて行ってしまった。『又駄目か』と残念がった。とするとその車は50m程行過ぎてから停まり、バックして戻って来た。『やった』と思うと同時に、ホッとした安堵感があった。
車には中年夫婦が乗っていた。「オスロまで行くのですが、お願いします」とこれを逃したら今度いつ停まってくれるか分らず、懇願するように頼んだ。
「どうぞ」の声と共に後部トランクが開き、我々の荷物をそこに置いた。
 3台目の車に乗った途端、安心したのか、急に喉の渇きを覚えた。「喉が渇いたなぁ」と鈴木と話していると、奥さんがジュースをさっと差し出してくれた。暫らくして、「腹が減ったなぁ」と話したら、又、さっとサイダーとサンドイッチを差し出してくれた。まるで日本語が通じているようで、気味が悪い程であった。我々が余程、飢えて見えたのだ。そのタイミングの良さに感謝と驚きで、おかしな気分であった。  
腹が減っているのも、無理なかった。今朝の食事は、ソーセイジ入りパン1個とコーヒーのみであったのだ。我々は、2時過ぎてもそれから何も食べていなかったのだ。
 国境に着いた。出入国管理事務所があるな、と言う感じ程度で建物の中に係官は居らず、特に出国・入国の手続きをしていなかった。今までだと入国・出国の際、旅券にスタンプをペタンと押していた。ここは、『どうぞご自由にお通り下さい』と言う感じであった。ドライヴァは速度を落とし、通過した。私も、『気を使う必要はない』と思い、何の躊躇もせず、車に同乗して通り過ぎた。
我々は、バイキングの国・ノルウェーに入ったのだ。暫らくして休憩の為、車はある店の前に止まった。ここで又、ご夫婦からアイス・クリーム等をご馳走になってしまった。ご夫婦と共に写真を撮って、再び出発した。
それから間もなくして今度は、我々が大野と山下を乗せている車を追い越して行った。彼女達と、『追いつ、追われつ』のヒッチの旅になった。
 我々の車がオスロ駅前に到着したのは、午後の4時15分頃であった。彼女達の車は、遅れる事2~3秒後、ほぼ同時であった。それにしてもストックホルム~オスロ間544kmのヒッチの旅が、2組同時に到着とは、不思議と言えば全く不思議でそれは、まさに奇跡であった。 
この2日間、色々な人達と出逢い、好意を受け又、色んな体験をした。もし特急列車利用なら544kmを7時間30分から8時間程で来られたが、色々な思い出に残る様な事はなかったであろう。
最後に乗った車に一番長く乗せて貰った。しかもジュース、サンドイッチ、アイス・クリーム等をご馳走になり、このヒッチ・ハイクは良い思い出となる旅でした。


ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~ヒッチハイクの話

2021-07-23 16:31:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
*ヒッチ・ハイクの話
ヒッチとは、「ヒッチハイキング、又はヒッチハイク」とも言う。車を停めて無料で乗せてもらう、誠に図々しい旅行の方法あり、相手の親切心だけが頼りなのだ。最近、ヨーロッパでは若者旅行者の間で流行っていた。
ヒッチの仕方として、ドライヴァから見て遠く前方に、『ヒッチをしているな』と言う認識と、『乗せて上げよう』と決断するまでの時間的、距離的な空間が大事であった。そして、ヒッチをしている場所が車を停められる余地があるのか、停まった時に後方車に追突されず、且つ安全であるのか、その場所選びが非常に重要であった。  
ヒッチ合図は、親指を延ばし(残り4本の指は折り曲げた状態)、親指の先を行き先方向に指し、左側通行の国は右から左へ、右側通行の国は左から右へ車が来たら腕を数回移動させる。スウェーデン、ノルウェー、イギリス、ユーゴスラビア、ギリシャ、オーストラリアなどは左側通行、フランス、イタリアなどは右側通行であった。
ドライヴァ達は、1人運転がつまらなかったり、寂しかったり、親切心であったり、ヒッチ者が哀れに感じた時等々、その時の精神状態、運転状況でピックアップして貰える(乗せて貰える)可能性が充分あるのだ。
 ヒッチは「100%安全である」、と言う保証がない。交通事故は勿論、金品強奪、女性では強姦等、危険は付き物と推測される。フランスで出逢ったカナダ人から、「ホモにやられた」と聞かされたり、又私もイスラエルやユーゴスラビアで危険を感じたりした事もあった。反対にドライヴァ達も、その危険性を感じているでしょう。その様な訳で、男性と女性を比較して、男性のヒッチ率は低いし、男性が複数の場合、その人数増加に比例してヒッチ率はもっと低くなる。
 ヒッチは天候が良ければ楽しいが、降雨、降雪、或いは寒風等の時、辛い旅になった。勿論そんな日のヒッチ率は、極端に落ちる。1時間、2時間、3時間、道路端で立ちっぱなしは当たり前、時に半日過ぎても乗せて貰えない場合、本当に悲しくなり、自分自身が哀れに感じる事もあった。 


ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~ヒッチでストックホルムからオスロまで大野・山下と競争

2021-07-23 08:46:29 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
・昭和43年7月23日(火)晴れ後時々雨後曇り(ヒッチでオスロまで競争)
 8時30分頃、大野さんから電話で、「今からオスロに向けてヒッチハイクで旅発つ」と連絡があった。私と鈴木もヒッチでオスロへ行く事にした。照井は列車でスウェーデンを北上するとの事で、我々(私と鈴木)は照井と別れなければならなかった。
振り返れば照井とは、ソ連経由の一団でモスクワ滞在中に知り合い、メトロホテルへ飲みに行き、鈴木と共に意気投合した間柄であった。それ以来6日間、共に旅をして来た仲間であった。旅とは、人との出逢いであり、又、別れる運命であった。寂しいが、それが旅であった。彼の今後の旅の幸運を祈った。
ヒッチするのには、郊外に出ての方がやり易いと判断、地下鉄に乗った。地下鉄の駅のホーム側壁は、カラフルで色々な絵が描かれ、各駅によってそれが異なり、その駅の特色を表していた。したがって、駅名表示板を見なくても何処の駅か直ぐ分るようになっていた。東京の地下鉄は、構内が同じ様なので下車の際、必ず駅名表示板か案内放送で確かめ、降りなければならない。ここの地下鉄は、ホームに到着する度に絵を楽しめるし、駅構内も車内も綺麗で感心した。
 我々は、終点駅の1つ手前の駅で下車し、オスロに通じる街道に出てヒッチする事にした。
夏と言っても北欧の夏は暑くはなく、ヒッチには最高の天気であった。重いトランクを持って街道を歩き、車が停まり易い場所を選んだ。道路は4車線、街道沿いにガソリンスタンドや自動車販売店があり、回りの景色は何の変哲もない、ありふれた日本の何処にでも見られる、そんな光景であった。しかし、時にはタイヤがたくさん付いている、15トンから20トンもありそうな、超大型のトレーラーが目の前を走っているのに驚いた。乗用車は、ホルクスワーゲンが多く走っていた。
 乗せてくれそうな乗用車が向こうから走って来たので、勇気を出して〝ヒッチ合図〟(手を結び親指だけを立てて、自分が行く方向に数回振る)をした。だがその車はスーッと通り過ぎて行ってしまった。ヒッチ合図をするのに戸惑いがあったので、最初は本当に勇気が必要であった。 
 2台目が来たので合図をした。その車は、速度を落とし我々の前を過ぎて道路左隅に停まった。その瞬間、大きな魚を釣り上げた様な、そんな手応えを感じた。これが外国で最初のヒッチであった。
 日本での最初のヒッチは、私が高校1年の時であった。埼玉県の熊谷球場に於いて高校野球の応援の為、深谷から熊谷まで17号国道で学友とヒッチをして、トラックに乗せてもらった事が1度あった。因に地元民は、中仙道と並行して新しく出来たので「新国道」と言っていた。
今日は、それ以来のヒッチであった。私は旅行の交通手段の1つである思っていたし、ヨーロッパでも是非、ヒッチで旅をしたいと思っていた。
初めて停まってくれた車中には、感じのよい親子4人が乗っていた。言葉が上手くお互い通じない為、2言3言で後は、無言状態であった。ヒッチハイクを楽しむ間もなく、15~20km走った距離ぐらいでご主人が、「ここで降りて下さい。私達の家はここを曲がって、真っ直ぐ行った所ですから」と下車催促。「そうですか。有難う御座いました。これは私の気持です」と言って、私は日本の絵葉書数枚を感謝の気持を込めて渡した。車は角を曲がり、子供が見えなくなるまで我々に手を振っていた。
少ない距離であったが、我々の為に乗せてくれたその行為は、大変嬉しく感じた。私は今回の旅行で親切にしてもらった時、日本を知って貰う意味を込めて、日光や箱根の絵葉書を持って来ていた。しかし以後、短い距離の場合は数も限りがあるので渡さない事にした。
 ちょうど降ろされた場所に、リックを背負った外国人ヒッチハイカー(我々もそうであるが)が居た。同じ旅人同士なので、私は気楽に話し掛けた。
「私達は日本から来たのですが、失礼ですがどちらの国から来られたのですか」と私。
「日本ですか。私はオーストラリアからです」と彼。そう言えば、彼のリックに小さな国旗が縫い合わせてあった。外国の若い旅人は、自分達の小さな国旗をリックに縫い合わせていた。以後、ちょくちょくそんな各国の国旗を見掛けた。一種のナショナリズムなのであろうか。  
私も日本を脱出して凄く日本、或は日本人であると言う事に自然と意識するようになあった。ナショナリズムを意識していなくても、外に出れば必然的に感じる、それは至極当然であると思った。他の国民は、日本よりもっと国歌や国旗と言うものに対し、身近の生活面に取り入れているのが現状であった。 
私は、オーストラリア人の彼に「グッド・ラッグ」と言って先に進んだ。と言うのは、彼のヒッチポイントから後方に立つ事は、マナー違反になるからであった。
 時間を見ると正午であった。空模様もおかしくなり、とうとう雨が降り出して来た。まだ、20キロ位しか進んでいないのであった。道路脇にある木の下で雨宿りをしながら、交互でヒッチ合図をしながらパンと牛乳の食事を取った。  
多くの車が我々の前を通り過ぎて行った。なかなか停まってくれず、ヒッチ率は非常に悪かった。2台目は、1時間以上経ってやっと停まってくれた。ヒッチするのにこんなに時間が掛かり、非能率的だとは思わなかった。そしてやっと乗せて貰った車は、5キロ程で降ろされた。余りにも短い距離なのでガッカリ。幸いに、雨は止んでいた。
3台目は10キロ程、4台目は50キロ程、乗せて貰った。ヒッチ中、タイヤが20も30もある超大型トラックや多くのキャンピングカーが通り過ぎて行った。5台目の車は、中年のおじさんでかなりの距離を乗せて貰った。降ろされた場所が町とオスロへ行く道の交差点であった。向こうから青年が2人やって来たので話し掛けた。「スウェーデンではどの様にしたら上手く車に乗せて貰えるのでしょうか」と尋ねたら、彼等はヒッチ合図の真似をして、「グッド・ラック」と言って通り過ぎて行った。当たり前の事であった。
 ここで暫らくの間、ヒッチ出来なかった。4時が過ぎた頃、大野と山下が乗っている車に拾われた。ここで彼女達に会うとは驚きであった。我々の方がノンビリと言うのか、ヒッチに苦労していると思ったのに、彼女達も苦労しているようであった。この6台目の車は高速道路ではないのに、80km位飛ばした。でも1時間で降ろされてしまった。
 4人一緒に居るとヒッチ率が落ちるので、別れてヒッチする事にした。彼女達が先に車をゲットし、行ってしまった。7台目、8台目の車もほんのわずかな距離だけであった。
この辺りは人家も見当たらない山の中、しかも薄暗くなる時間帯に成りつつあったので、1人で居ると寂しい場所であった。街道を歩いていたら、有り難い事に合図もしないのに、向こうから9台目の車が停まってくれた。ドライバーはドイツ人、彼は車で旅行しているとの事でした。そして車中にもう1人、真っ黒なモロッコ人が乗っていた。彼は学校が夏休みで、ヒッチ旅行中であった。「車は小さいが車中はインターナショナルだ」とドイツ人のドライバーの言葉であった。 
我々の車の前を何回も鹿が横切った。『鹿に注意』の道路標識が所々あった。途中、ドライヴ休憩所でコーヒーをおごって貰った。そして又、我々4人はドライヴを続けた。暫らくして、急に車が止まった。ドイツ人とモロッコ人は、山の中へ入って行った。「どうしたの」と尋ねると、「イチゴ摘みをするから、あなた方も如何ですか」と言うので私と鈴木も、彼等の後に付いて行った。山の中に小さな黒い野イチゴがあちこちあった。
又、ドライヴを続けた。そしてある所で我々3人は降ろされた。モロッコ人は何処かへ消えて行った。時刻は午後8時過ぎ、既に真っ暗であった。ヒッチを続ける時間ではないので我々は何処か泊まる所を探さねばならなかった。我々は本道から分かれた夜道をトボトボ歩き、苦労してユースホステルに9時30分頃に到着した。
寝る前、談話室で皆が熱心にテレビを見ていたので覗き見をしたら何と、仲代達也主演の『人間の条件』をやっていた。感想を聞いたら、スウェーデンでは大変人気がある番組で、評判は良かった。
寝室部屋のベッドが空いてないので、台所に折り畳み式簡易ベッドで寝る事に決まった。それにしても後にも先にも台所に寝かされたのは、この1回だけであった。とにかく屋根の下で毛布に包まって寝られるのだから我慢のしどころで、毛布なしのバルト海の船中より益しであった。実際、ユースは通路の方まで寝ているホステラー(ユース・ホステルの宿泊者)で一杯であった。
 ここは、Lake-Vanern(ヴェーネル湖)の北側に位置し、観光地で有名なKarlstad(カールスタード)の郊外のユースであった。今日、9台乗り継ぎここまで来た。ストックホルムから315km位進んだ事になり、1台平均35km弱であった。
台所で、しかも簡易ベッド、寝心地は悪かった。午前3時頃、明るくなってから眠りに入った。


ストックホルムの旅~ヒッピーの話

2021-07-22 15:20:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
△上の写真はストックホルム市庁舎前でヒッピーまがいの人達と日光浴

*ヒッピーの話
西ヨーロッパの大都会では、至る所ヒッピーの姿が目に付いた。このストックホルムも例外ではなく、街を歩いていると、あちこちと屯(たむろ)しているヒッピー達を見掛けた。しかしここのヒッピーは、他の国のヒッピーと比べて上から下までファッション的でセンスが良かった。女性は特に美人ぞろいで、さすが〝スウェーデン〟(日本では当時この国を『フリー・セックスの国』と言うイメージを抱いていた)だと思った。
 私は最初、ヒッピーに対し少し違和感があった。しかしその内に何も感じなくなり、ヨーロッパに来て1ヶ月後には親しみを感じて来た程であった。そして最後は、私もヒッピー気取をするようになってしまった。そんな事で、私の感じたヒッピーについて話をしてみようと思う。
 彼等は人に金品をたかったり、暴力行為をしり、悪意を持って迷惑を掛けたりしていないのだ。『ヒッピーは、労働しない、無気力であり、何処でもたむろし、ハシシ等を吸って一時的な逃避、或いは、悦楽を楽しんでいる反社会的な存在である』と一般的に思われていた。 
しかし彼等から言わせれば、今の体制的腐敗構造、貧富の差、戦争等々の非人間的社会現象の全てに対しディスガスティング(胸糞悪い)であり、ナンセンスであると感じているのであった。
〝ヒッピー・スピリット〟(精神)の第1は、『今の体制に背を向ける』事であり、第2は、『平等の精神』であり、第3は、『愛』であり、第4は、『無』(欲を出さない)であるらしい。
『平等の精神』とは、富める者が貧者に分け与える、イスラムやヒンドゥ教的な考えである。そして、金銭・物質的のみならず精神的なものも含まれる。
『愛』とは、一夫一婦制的なものではなく、全て全体的にとらえる考え方、即ち男性であればセックス面のみならず、全ての女性を愛する、愛を求める事が出来ると言う考え方。又、女性の立場からも同じである。
『無』とは、金銭・物質面に於いて、欲を出さない、持たない、とする考え方。
事実、地中海のスペイン領のある島にヒッピーだけの社会があるらしいし、アメリカの砂漠に彼等だけの社会(ヒッピーのユートピア)を造ろう、と言う動きもあるらしい。
 彼等の聖域として、冬はインドへ、夏はネパールやモロッコへ流れている。これらの国はハシシが簡単に手に入る国であり、毛布1枚で安く何処でも過ごせる、と言う利点を持った国ある。秋の終り頃からヨーロッパ各地のヒッピー達は、中近東経由で薬を求めてインドへ移動するらしい。
私はインドに滞在中、ヒッピー・スタイルの様な格好をしていたから、時にはインド人からハシシを持っているから買わないか、と何度か薦められた事があった。安く手に入り、ヨーロッパでは50倍近くで売れるらしい。途中の国境での出入国管理事務所に於いて、手荷物検査は殆どないし、持ち帰る事は充分可能である。
 ヒッピーの一般的なスタイルは、髪を長くし、首飾りを幾つもしていた。女性はその他に、腕に腕輪をして飾っていた。男女ともワイシャツの様な長い服をダラット着て、ジーパンと皮製のサンダルを履き、布製のバッグを肩から掛けているのが一般的であった。
 ヒッピーと言っても前に述べた様な①その精神を持った哲学的要素を身に付けた者、②ファッション的な格好だけをしている者、③そして、その中間に位置する者等に分けられる。ストックホルムのヒッピーは②に属する人達であった。イギリス滞在後、私のヒッピー精神、気持として③に属していた。
 ともあれヒッピーは、現在社会からの逃避者、敗北者であると思われていた。公共建物前階段、公園、街角、繁華街の目抜き通り等、辺り構わず“屯”(たむろ)して一般市民の顰蹙をかっているのが現状であった。
彼等は、社会のアウトローであるかもしれないが、私は彼らに一種の親しみを感じられた。私自身も、『この社会、世の中は矛盾だらけと感じているし、その体制をぶち壊してやりたい心境を感じるし、背を向けたい要素もあった』。実際、ヒッピー達は他の人に直接に危害や迷惑を加えていないし、彼等の目線で接して行けば仲間に加えてくれるし、運が良ければ〝回し飲み〟(輪になって座り、マドロス・パイプにきざみタバコと共にハシシを削って入れて、それを回しながら皆で吸う事)に加わることも出来た。こちら側から彼等を軽蔑な目で見るのも良いが、逆に彼等に加わってあちら側からこちら側の人々や社会を見ると、不思議な事に又異なった物の見方・考え方が見えて来るものだ。
いずれにしてもヒッピーは、60年代から70年代の資本主義社会の経済成長(衰退)のプロセスにおける『落とし子』と言えるであろう。


ストックホルムの旅~バルト海船上で17歳の若者と口論

2021-07-22 15:06:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海船上で17歳の若者と口論)     
*参考=スウェーデンの1クローネ(Krona)は、約70円(1オーレは、70銭)。

 昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝た。非常に寒く、そして長い夜であった。こんなに寒い中を一晩過ごした経験は過ってなかった。勿論、船員に毛布を貸してくれるよう尋ねたのですが、2等用には備えがないとの事で、ブルブルと震えながら一晩過したのでした。
やっと朝の5時頃になったので、私は体を温めようとシャワー浴びた。しかし、その時は温まったので良かったが、後になって反って寒くなってしった。体が丈夫の方ではないので風邪を引くのでは、と心配してしまった。日本の夏は夜でも非常に蒸し暑いので、『いくら北欧でもカーデガンがあれば大丈夫であろう』と思い込んでいた。外国へ行って見たいと強い想いがあった割に、諸外国事情を全く知らなかった私の認識不足は甚だしかった。私が持って来た衣類と言えばカーデガン1着、靴下数組、パンツ数枚、半袖下着数枚、半袖シャツ2枚、ワイシャツ2枚、背広1着、ズボン1着であった。どちらかと言えば、夏向きの支度であった。緯度的に考えればそれなりの支度が必要であったが、それが私の欠点であった。以後、何度も夜間や朝方の寒さに悩まされた。「セーターや冬用の上着、シャツも持参すべきであった」と何遍も後悔した。いずれにしてもこれは、これから多くの失敗を重ねるほんの1例であったのだ。
ストックホルムに近付くにつれて、小さな島が幾つも散在するようになって来た。船は入り江の奥深く進んでいた。海ではなく、あたかも湖の中を小さな島が多くあり、それらを縫って行く様な感じで、素晴らしい眺めであった。デッキでその光景を眺めていると、やくざ風のサングラスを掛け、一見して20歳以下と分る若者が一丁前にタバコを吸っているのを見掛け、「あなたは何人ですか」と私は尋ねた。
「スウェーデン人です」と彼。
「そして幾つですか」と私。
「17歳だが」と彼。
「スウェーデンは17歳がタバコを吸って良いのか。日本では20歳にならないと吸ってはいけない事になっているのだが」と私。
「スウェーデンも同じだが、貴方に関係ないだろう」と彼は怒り出した。
「若造の癖に生意気な事を言うな」とこちらも言い返した。
しかし、余り怒らせてトラブルになるのも詰らないので今度、宥めに入った。
「大きなお世話かもしれないが、吸いすぎると体に悪いから注意したたけだよ。友達になろう」と私は言って彼に握手を求めると、彼も握手して来た。
「記念に写真を撮ろう」と言って私は彼と肩を組んで写真を撮った。

                         
   △ストックホルム入港前で生粋な彼と仲直り記念写真

 私は如何してこんな事を言い出したのか、後になって不思議であった。彼は色眼鏡を掛け、ジャケットを着て、余りにも一丁前にタバコを吹かしていたのでからかいたくなったのは事実であった。しかし後で分った事であるが、17歳はまだ良い方であった。ヨーロッパでは、小学校低学年齢の子供達も吸っているのが実際であった。
 船はほぼ予定通りの8時30分、ストックホルム港に着岸した。鶴村さんの弟さんは迎えに来ていた。その彼はあるホテルでボーイの仕事をしていて今回、8年振りの再会であった。私は鶴村さんがヘルシンキ・ストックホルム間の乗船券を所持してないのでその乗船券の手配や又、何日の何時、何処の会社の何の言う船がストックホルムに着くから、迎えに来るよう電報文を打って上げたのだ。照井、鈴木と共に鶴村さんを連れて来た様なものであった。
そんな鶴村さんが、弟(30~33歳位)を我々に紹介し、「ここまで3人にお世話になった」旨を話した。しかし、彼は何の挨拶も一言の言葉もなかった。普通「兄がお世話になり、有難う御座いました」、と言うのが常識であろう。私は彼が何か同邦人ではない感じを受けた。と言うより彼の態度は、『私は貴方達と関わりを持ちたくありません』と言う感じであった。しかし、私は彼がここでホテルのボーイをしているし、8年も住んでいるので宿泊施設の情報を良く知っていると思って、「何処か安く泊まれる所があれば教えて貰いたい」と彼に尋ねてみた。すると、「ユース・ホステルか、観光案内所へ行って聞いてみれば」と彼の素っ気ない言葉が返って来た。彼に言われなくても、私はそうするつもりであったが、何らかの期待を持ったのがいけなかった。日本から遥々、兄と共に遣って来た我々に対し余りにもつれない言葉に、全く好かない奴であった。彼は兄を車に乗せ、さっさと走り去って行った。我々3人は、呆気に取られてしまって言葉もなかった。
その後、私がロンドン滞在中、妹の手紙と共に彼の手紙が同封されて来て、 鶴村さんは「弟と車で1ヶ月間ヨーロッパを旅行して、一人で中近東経由インドのデリーから飛行機で帰国した」との事であった
所で、異国の地において邦人同士が会っても互いに背を向けると言うか、話したがらない人達にも会ったが、嫌な感じであった。

―――ストックホルム観光巡りの話は省略―――

泊まる所が決まっていない観光は、何となく落ち着かない感じがした。しかも昨夜、寒さの為に一睡も出来なかった私にとって、市内観光巡りで歩き回るのは、非常に疲れを感じた。 
午後4時になったので再度、ユース・ホステルやYMCAに電話をしてみたが、又も満員で断られてしまった。仕方なく再度、駅観光案内所へ行って、安いホテルかペンションをお願いしたが、やはり満員で断られてしまった。野宿する訳にいかないので、強い口調で三度、私は女性スタッフに頼み込んだ。「我々は、何処で泊まれば良いのですか。公園のベンチに寝ろと言うのですか。夜の屋外は寒いので耐えられません。それに、我々は疲れているのでゆっくり休みたいのです。どうかお願いですから安いペンションを探して下さい」と訴えた。
「それでは、暫らく待って下さい」と言った彼女は、何処かあちこち電話をしてくれた。
3人の内、いつも交渉役は私でした。そして満員と言っても強く交渉すれば何とかなるもので、彼女は安い〝ペンション〟(日本の民宿の様な感じの宿泊所で、同じ部屋にベッドが複数ある)を探してくれた。
ペンションと言っても、相部屋で泊まるだけで1人30クローネ(約2,100円)であった。北欧、特にスウェーデンは非常に物価が高かった。日本で70円のハイライトの様なタバコが、ここは700円ぐらいした。酒場の小瓶のビール100円がこちらは600円した。平均日本の7倍から10倍高かった。私みたいなケチケチ旅行者にとって、スウェーデンは長く滞在する様な国ではなかった。
大野から夜、「私達(大野と山下)は、明日、オスロまでヒッチするので貴方達もやらない。どちらが先に着くか競争しようよ」との電話があった。明日、私と鈴木は、ストックホルムからオスロまでヒッチ・ハイクの旅をすることにした。
 今日は疲れたので早く寝ることにした。それでも午後10時であった。