YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ロンドンを間もなくして去るその日々~人生(旅)の話

2021-11-09 14:42:07 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・人生(旅)の話(昭和43年10月25日付けの友達へ送った手紙の一部)
 前文・・・は省略します。
旅に出て、『人生とは』と考えるのも大事であると思うのです。旅の仕方も十人十色あるように、人生も人それぞれ違ったその人の人生がある、と思う。従って、『人生とは、こうあるべきだ』と定義する事は出来ないと思う。又、定義出来ない所に人生の面白さがある、と思う。よく人は人生を旅に例えますが、私も旅をして実感し、本当にその通りであると思った。何故なら、『旅は、プロセス(過程)であり、人生もプロセスである』と思うからだ。
 しかし、今までの私の人生は、意義ある又は楽しんでいる人生であったのか。それはむしろ、プロセスでなく、毎日が決まりきった、若しくは繰り返しの生活であった。これは何も私だけでなく、多くの人達もその傾向があるように思われた。それは昨日無事に過したように、今日も無事に過し又、明日も同じように過す。そこには、人生の意義や楽しみ、と言う概念が存在していなかった。それはただ、穏便に過す様な、或いは砂を噛む様なあじけない繰り返しの生活、これも人生と言うのでしょうか。
私はこの様な味気ない生活、人生に飽きし、いつも旅に出たい、外の世界を見てみたい、と思っていた。それは取り敢えず、何処でも良かった。日本を脱出して、1人で静かに人生について、自分の人生について考え、又その様な情緒に自分の身を置いてみたかった。そして若い時には、この様な時期があっても良いではないか、と思っていた。幸いにも私は文通しているシーラがロンドンに居たので、ここまで来る事が出来た。そしてその出会いは私の人生で2度と無い、ドラマチックなものであった。ここ(外国)から日本を、そして自分を見つめ直した時、色々な事を思い、そして感じた。そして何はともあれ、この旅を実現させた事は、自分自身の勝利である、と思ってる。
私はまだ旅の途中で、『今後の自分の人生について、かくあるべきだ』と言う、答えを見出してないのです。否、見出してないと言うより、今何も考えられない、と言った方が正しいかもしれません。『今後の自分の人生、生き方』を考えると、如何しても就職、仕事の事へ行ってしまうのです。男の人生は、仕事を抜きにして考えられないのであろうか。経済的確立を抜きにして、人生について論じても所詮、それは絵に描いた餅に過ぎないのであろうか。とすれば、旅の途中に於いてこの事について考えても結局、ナンセンスなのであろうか・・・。 
否、そうではない。長い人生に於いて旅をする事は、必要であると私は思いたい。その人の経済的や仕事の状況によって、長期間の旅から1泊2日程度の短期間の旅、或はブラットした日帰りの旅も旅なのだ。その旅先で1人じっくり、人生の事を含めて色々な事を考えて見る、それが大事である、と思う。
そこで改めて言いますが、ここで言っている『旅』は、旅行ではありません。旅行と旅は、本質が違うと思うのです。旅とは、心にゆとりを持ち、日程、時間やルートに拘束されず、自分の行きたい所を気ままに移動する事である。そして旅行とは、日程、時間、ルート、行き場所、交通手段、宿泊施設等が前もって決められ、それらに拘束されて移動する事である、と思うのです。    
我々は時に友達や職場の仲間達と短い旅行をする事がある。その旅先で色々な事を考え、仲間と話し合ったりする事もある。時には人生について論議する事もある。それは大切な事であると思う。そしてその根底にあるものは皆、仕事や生活基盤を持っていると言う事である。しかし、今私は旅の途中、職も生活基盤も持たない自由人、ここに大きな相違があります。この相違こそが曲者なのか。今、私がそれは考えると堂々巡りになってしまうから、結論を見出せないのか・・・。
 今まで旅を通して色々な物を見て、体験して、或いは色々な事を感じて、大いに人生勉強になった、と思う。そしてこれからの旅もその様にありたい、と自身願っているのです。その様な事であるとすれば、『今の時点で、人生とはかくあるべきだ、と結論すべきでないのかも・・・』と思うのです。
私は間もなくロンドンを去り、再び旅に出ます。そしてその旅を通して色々な事を体験、経験する事が当面の課題である、と私はそう思っています。 
 末文・・・は省略します。 

ロンドンを間もなくして去るその日々~旅に想いを巡らす

2021-11-08 09:05:20 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
            △市長就任披露行列(PFN)

・昭和43年11月9日(土)晴れ(旅に想いを巡らす)
 今日はロンドン市長行列の日。今日は晴れ、晴れの日が5日振りに再び来たのは珍しかった。しかし大分寒くなった。ガス ストーブを使うのには、器具の投入口にお金を入れなければならなかった。今までお金を無駄にしたくなかったので我慢していたが最近、我慢出来ず使うようになった。
 今日は既に何もする事が無かったので、部屋の中に閉じこもっている状態であった。火事騒動があった日から毎日、大家のおばさんは火事を起こしたおばさんに罵声を浴びせ「出て行け」と怒鳴り散らしていた。私は大家のおばさんの方が行き過ぎではないかと感じていた。
 今日も午前中、4階の方で又、怒鳴りあっているのが聞こえた。いつもとどうも様子がおかしいので行って見たら、4階の階段近くで2人がお互いに髪の毛を引っ張り、取っ組みあって喧嘩をしていた。お互いにその形相は凄かった。この時、両方とも主人は居らず、私が中に入って喧嘩を止めた。大家のおばさんは彼女に対して、「マッド(きちがい)」と言ってわめいていたが、どちらもマッドになった。夕方、警察官が来て警察沙汰まで発展していた。私は状況を聞かれ、その警官に「10時頃、2人が4階で頭髪を引っ張り、取っ組み合いの喧嘩をしていたので、私が仲裁に入った」とその事実を述べた。おばさん達も凄い者だと感心すると同時に、こう毎日おばさんが4階のおばさんに非難、屈辱的な暴言を浴びせているのを聞きたくないし、見たくもなかった。
契約がハッキリしていないので、火事やトラブルが起きたら大変だ。私はロンドンを去る日まで、火事を起こさないように改めて注意する事にした。
 私は昼食に肉を買って料理して食べた。昨晩は魚を買った。魚、肉と奢ってしまったが、これらを買う事自体、初めてであった。気分転換と栄養を付けて元気でロンドンを去り、旅をしなければ、と思うからであった。
 午後もする事が無く、寂しい日であった。こんな時によく、人生について自問自答した。私は旅に出てそれらの事を考えるのも大事である、と思っていた。又、旅をしていると必然的にそれらを考えざるを得なかった。そんな訳で今日現在、自分は何を考え、何に悩んでいるのか。忘れない為に記して置く事にした。

ロンドンを間もなくして去るその日々~初めての魚料理

2021-11-08 06:42:00 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・昭和43年11月8日(金)曇り(初めての魚料理)
 今日、再びマービル アーチの病院へ行き、コレラの予防接種をして貰った。これをもってロンドンでしなければならない用事は、全て済ませた。後はシンガポールに向けてロンドンを去るのみであった。
途中各国の査証は、必要になった時点で取れば良いと思った。途中ルート変更もあるし、例え取っていても、いつその国へ入国出来るのか分からなかった。したがって今、慌てて取る必要が無かった。そう思うと、『如何してイラクやイランの査証を取ったのか』と思った。
マービル・アーチから通い慣れたボンド ストリート駅まで歩いて戻って見た。レストランの皆はどうしているのか、気になった。しかし既に辞めた身なので、店の中へ気楽に入れなかった。外から中の様子を眺めたが、相変わらず忙しそうであった。 
 午後、ロンドンを去る準備をして過ごした。こうしていてもシ-ラの事が気掛かりであった。彼女は、今どうしているであろうか。お互いにロンドンに居ながら、会える機会は既に無かった。彼女は、「週末、ロンドンを去る」とも言っていた。その準備で忙しいのであろうか。共にロンドンを去ろうとしていると思うと、悲しくなって来た。ロンドンに来た時、こんな事になろうとは夢にも思わなかった。
 夕方、Highbury Street(ハイバリー通り)の商店街にある魚屋で、初めて魚を買って来た。夕食に食べた久し振りの魚料理は美味しかった。

ロンドンを間もなくして去るその日々~2階のマリアンと知り合う

2021-11-07 07:20:47 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                       △2階に住んでいたマリアン ワッツ

・昭和43年11月7日(木)雨後曇り(2階のマリアンと知り合う)
 昨夜、私はシーラ、そしてシーラの友達のジャネットと別れて来た。真っ直ぐにアパートへ帰れない状況であったので、いつものパブに立ち寄り、それから帰った。  
 あれ程に会いたかったシーラと昨夜別れ、今日は寂しさが余計に感じていた。私は既にロンドンに滞在している意義を無くしていた。そして今、雨が降っているので1人部屋に居ると余計に憂鬱であった。部屋の電気を点けないと、まるで夜の様に暗かった。その様な状況で今日、私は朝から居たたまれない感じに襲われていた。
 ロンドンでしなければならない大事な用事も無ければ、観光も殆んど終ったし、行って見たい所も特に無かった。2・3の用事を済ませば、後はロンドンを去るのみであった。楽しかった事、面白くなかった事が頭の中を駆け巡っては消えた。孤独、寂しさ、そして今後のシンガポールまでの旅の事を思うと、胸が押し付けられる思いであった。と言うのは、そこまでどの様なルートで行けばよいのか。いくらお金があれば足りるのか。中近東は日本やヨーロッパと違って価値観、習慣や風習も異なり、全く私にとって未知の世界であった。そして国によって情勢が不安定な所もあるのだ。それらの事を思うと私の精神状態は、パンク状態でここ何日か、ぐっすり寝られない夜もあった。
 部屋の中でじっとしていられない状態なので、早々2・3の用事を済ませる事にした。先輩のOさんから借りたトランクを、「必要になったので送り返してくれ」と先日手紙が来た。トランクは重く、持ち運びが大変でヒッチの旅に不向きであった。その様な事で代わりに、リックを既に買ってあった。用事の1つとして、まず手始めにトランクを荷造りして、船便で送る為に郵便局へ行った。
 私は日本で6月にコレラの予防接種をしたが、免疫力期間は6ヵ月間であるので、後1ヶ月で切れる。これからコレラが発生し易い地域、衛生観念が低い国へ行くので是非、予防接種しておく必要があった。そんな理由で郵便局へ行った後、近所の病院へ行ったら、「ここではコレラの予防接種はやっていない」と言われ、キングス クロスの方の病院を教えて貰った。そこへ行ったら先生は不在で、しかも今度コレラ予防接種をする日は、11月28日であると言うのであった。私は、「その日まで待てない」と言ったら受付の女性は、マービル アーチの方の病院を教えてくれた。その足で直ぐにその病院へ行ったら、「午前中で終った」と聞かされ、ガッカリして部屋に戻って来た。
 自分で作った貧しい昼食(ジャガイモ、パン、コーヒー)を、今日も1人で食べた。いつものように変わらない食事であったが、今日は一段と味気ない、そして侘しい食事であった。
 2・3日前、ウェールズのダディから、「ロンドンを去る前に、良かったらもう1度来なさい」と再招待の手紙が届いた。私自身本当はもう一度行って見たかったが、色々な事を考えると難しいのであった。それにウェールズを充分楽しんだので、これ以上の望みは無かった。午後、ダディの再招待の返事と共に、ウェールズ滞在中お世話になったお礼の手紙を書いて過ごした。ダディへ手紙を書いていたら、自然と涙が出て来てしまった。
 夜の8時頃になったら、もうどうする事も出来ない状態になってしまった。誰かと話がしたかった。話をしないと気が狂いそうな感じがした。昨日の火事騒動で2階に女性が住んでいる事を、私がここに9月22日に住んで以来、初めて気が付いた。そして今夜はその部屋から明かりが漏れて、彼女は部屋に居るようであった。私は彼女と話がしたい、友達になりたい、とそんな衝動に駆られてしまった。『迷惑がられたら、或は、断られたら如何しよう』と思いつつも、彼女に縋る想いでドアをノックした。彼女はドアを開けてくれた。
「Now I ‘m very lonely as I haven’t friends in London . If you don’t mind , please talk to me about something (私はロンドンに友達がいないので、今とても寂しいのです。宜しければ、話し相手になって頂きたいのですが)」と救いを求めるように彼女に言った。彼女は快く私を部屋に招き入れてくれた。10畳程度の細長い部屋で、私の部屋の方が広い感じがした。色々な写真や小物類で部屋は飾られ、まさしく女の子の部屋の感じであった。何も無い殺風景な私の部屋と違って、人が住んでいる、女の子が生活している感じがする部屋で、ここに居るだけで癒される感じがした。
彼女は私の為にコーヒーを煎れてくれた。彼女の暖かい心が伝わってくるようで、私の寂しさが和らぐ思いであった。彼女の名前はMarian Watts(マリアン ワッツ)、美人だし素敵な女性で私より2つ若かった。彼女の仕事は馬の獣医で、話から仕事に対する熱意が感じられた。マリアンはダンディーな中年紳士と撮った写真を私に見せて、昨年行ったアムステルダム旅行の話をしてくれた。私も今回の旅行で撮った写真を部屋から持って来て、それらの写真や旅の事について話をした。
 私が、「11月11日(月)に、ヒッチでドーバーに向けてロンドンを去る」と言ったら、マリアンは、「仕事を休んでドーバーまで送りますよ」と言ってくれた。マリアンの気持が嬉しかった。本当は送って貰いたかったが、断った。だって今日初めて話をした間柄なのに、わざわざ仕事を休んで私の為に送ってくれるのは、余りにも申し訳ないからであった。でもマリアンがその様に言ってくれただけで私は本当に嬉しく、満足であった。
 如何してもっと早い時期にマリアンと知り合えなかったのであろうか。もっと早く知り合っていれば、私のロンドンの生活はもっと楽しい日々であったかも、と思うと、残念でならなかった。私達はお互いの写真と住所を交換し、そして文通の約束をした。私は彼女の部屋を出た。気持はもうスッキリ晴れていた。

   
   △アムステルダムにてのマリアンと素敵な中年男性とのワンショット


ロンドンを間もなくして去るその日々~火事騒動とシーラとの別れ

2021-11-05 16:26:47 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
        △私の部屋の上、4階部屋の火事騒動(Painted by M.Yoshida)

・昭和43年11月6日(水)曇り(火事騒動とシーラとの別れ)
 朝の5時頃か、はっきりは分らないが、「ファイアー、ファイアー(火事だー、火事だー)」と家主のおばさんの悲鳴に近い声と同時にドアを激しく叩く音がして、眠りから覚めた。窓の外を見ると火の塊が、1つ又1つと、上から落ちてくるのを確認した。私の部屋の上、4階が火事現場と推測した。私はズボンを前と後を逆に履いてしまうほど慌ててしまい、そして一瞬何をしたら良いか分らなかった。直ぐ気を取り戻し、現金、トラベラーズチェック、旅券、乗船券類を腹巻に押し込め階段を駆け下りた。階下でおばさんは、「ファイアー、ファイアー」と言いながら、半狂乱の状態であった。
 火事現場がどんな状態であるか分らないが、私はおばさんに、「Call the fire station!(消防署へ電話しろ!)」と指示した。それから3階へ駆け上がり、消火用に自分の部屋にあるポリバケツを持って、4階へ駆け上った。アメリカ人夫婦が住んでいる部屋から出火していた。その部屋へ入ると、家主のおじさんとこの部屋のおじさんが、果敢に燃えている家具類等を外へ投げ下ろしていたのだ。
私は持って来たバケツが空なので消火の為、水を汲もうと再び階下へ。3階の私の部屋を通り越して(私はまだ相当動転していたのだ)、2階に住んでいる部屋(1ヵ月半住んでいてこの時、初めて女性が住んでいる事に気付いた)のドアを開けさせ、水道水を汲んで、再び4階へ駆け上って行った。 
水を掛けようとしたら大家に、「水を掛けるな」と怒鳴られてしまった。私は何して良いか分らず、呆然と立っていた。2人は燃えている物を放り投げ、或いはカーテンやじゅうたん等を洋服で叩き消して消火していた。そして火事はそれらを燃やしただけで延焼は免れた。私は動転して、消防車の手配を奥さんに言っただけで、何ら消火活動に役立たなかった。
私は、『火事と言えば水を掛ける、或は消火器で消火する』と言う発想しかなかった。動転していたとは言え、燃えている物を手で抱え放り投げる、或いは叩き消して消火する方法は、考えられなかった。
そうこうしている内に、消防車2台が到着した。幸いにもこの時は既に鎮火していた。このアパートは、日本の家屋の様な木造作りでなく、又、部屋の中に燃え易い物(障子、襖、畳等)がなかった為、延焼は免れた。叉、石油製品類や新建材等の燃え易く猛毒な煙が発生しない古いレンガ造りが幸いした。
 火事の原因は、住民が昨夜から古いタイプのラジオを点けっ放しにして寝てしまい、真空管が過熱して回りの物に燃え移り火事になったとの事。家具類等は燃え、或いは投げ落され、室内は消火の為、かなりメチャメチャになってしまった。
それにしても早朝から本当にビックリした。階下の私の部屋まで延焼せず、そして私の持ち物に何の影響も無く、本当に良かった。
 ここの大屋はとても火の元を心配性なほど注意していた。ある時、私が少し酔って帰って来て、料理(ジャガイモを煮ていた)していたのだが、煮えるまでベッドに横になっていたら、家主のおじさんがノックもしないで入って来て、ガスを止めてしまったのだ。
「ノックをしないで部屋に入るな」と私。
「酔ってガスを使うな。しかも寝込んでしまっては危険だ」とおじさん。
「大丈夫だ。ただ横になっていただけだ。それより無断で私の部屋に入るな」と私はキッパリ言った。
ガスや火の元を心配してくれるのは有り難いが、黙って部屋に入られるのは、良い気持はしなかった。私が居ない時、おばさんが部屋に入って掃除してくれるのは有り難いが、掃除の為に最低限、私の物を触り、又それを移動したりするのはまだ許されるが、荷物を開けたりしている様な感じがした。
ある日、万年筆がなくなっているのに気付き、部屋中捜したが見付からなかった。おばさんに話したら、おばさんの娘(小学2・3年生の感じ)が持ち出していた。返して貰ったが、不愉快極まりなかった。
大屋夫婦は、人に部屋を貸していても、自分の部屋と思っているのだ。部屋(家)は、その人の『城』と言う概念があり、『誰からも侵されるべきではない』と言うのがイギリスの考え方なのだ。大屋がイタリア人だから、その辺が理解していないのか。それとも私が何処の者とも分らない、東洋人だからであろうか。賃貸人とは言え、イギリス人にこんな不法侵入をしたら、黙っていないであろう。
 干渉はこればかりで無かった。電気を点けたまま一寸トイレへ行ったら、「部屋の電気を消して行け」と言うし、又ある日、2階のマリアンの部屋に遊びに行った時、直ぐに戻って来る予定であったので、電気を消さなかったら、大家は黙って部屋に入って消したのだ。如何もここの大家は、少し常軌を逸脱した管理方をしていた。いくら「経済的な使用方をしてくれ」と言っても、管理方が行き過ぎではないかと思われるが、如何であろうか。
「トイレへ行くにも、電気をこまめに消し、少しでも消費電力を減らす」と言う心掛け(習慣)は、普段の生活の中で、私には無かった。しかし無理もない点もあった。週3ポンドで掃除はしてくれるし、生活必需品は全て整っていた。おまけに部屋を借りる際の契約書の取り交わしはなかったし、保証金、権利金、敷金等も無かったので、大屋さんも何かあったら大変だと思っていたのでしょう。
 午前中、火事を起こしたおばさんは、髪を乱して放心状態で汚れた階段の掃除をしているのを見掛けたが、哀れさを感じた。その彼女に向かって大家のおばさんが怒鳴っていた。そしてこの日以来、大家のおばさんは火事を起こしたおばさんに見ると寄ると罵声を浴びせ、「出て行け」と怒鳴り散らしていた。私は大家のおばさんの方が行き過ぎではないかと感じた。
 早朝から火事騒動があって落ち着かなかったが、午前中イラン大使館へ査証申請に出掛けた。「17時に出来るので、その頃に再度来て下さい」と言われた。
その足でレイセスタ スクウェアの本屋へ外国の道路地図を買いに行った。ヒッチの旅になるので地図が如何しても必要であった。何軒か行ったが、ヨーロッパ諸国の地図はギリシャまでならあったが、中近東、インドや東南アジア諸国の地図は無かった。仕方がないのでそれらの諸国の道路地図は、現地で買い求める事にした。  
 私は一旦アパートへ帰り、そして16時頃、査証が出来るので再び出掛けた。お陰で出来ていた。
 今夜は、シーラとの最後の会う日になってしまった。いつもの様にいつもの時間、ブレント駅19時に会う約束になっていた。以下、『シーラ、ジャネットとの永遠の別れ』を参照。

ロンドンを間もなくして去るその日々~査証を取るのも国際情勢が大いに関係

2021-11-05 07:20:26 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・昭和43年11月5日(火)曇り(査証を取るのも国際情勢が大いに関係)
 今日はガイ・フォークスの日(Guy Fawkes Day)であった。イラク大使館へ行って、査証を取得した。イラクまで行くなら、『イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の聖地・イスラエルへ行かない手はない』と自分の手持金、行先の国の情報や自分の知識、能力、体力を省みないで、『旅への想い』だけが飛躍して行った。 
 イスラエルへ行くなら、レバノンから国境を越えて行ける。レバノンとイスラエルは、紛争(戦争)状態である事は承知していた。しかし、両国の国境付近の状況を見たいので、行けるものなら陸続きで行って見ようと思った。そんな理由でレバノンの査証を取りに大使館へ行った。
大使館員から、「レバノンから何処へ行くのですか」と笑顔で聞かれた。
「陸続きで国境を越えて、イスラエルへ行きたいのです」と私は答えた。
その途端、大使館員の眉間は険しくなり、睨み付けるように、「両国は交戦状態にあって、貴方はイスラエルへ行く事が出来ません。イスラエルへ行く人には、査証の発給を認めません」ときっぱり断られた。
結局、中東戦争の影響でレバノンからイスラエルへ行けず、レバノンの査証の取得を諦めた。それに第一の目的は、シンガポールを目指して行く事であり、レバノン及びイスラエルはそのルートから外れているので、影響は全く無かった。
 それにしても、イスラエルとレバノンを含むアラブ諸国とは、戦争状態である事は知っていたが、『陸続きで行ける可能性があるかも』と思った事は、第三次中東戦争(1967年のイスラエル対アラブ諸国戦争)後の中東情勢についての私の知識、認識が甘い証拠であった。 
レバノン大使館から今度、イラン大使館へ査証申請手続に行った。その大使館員の方が、「旅券の渡航先にイラン国名が未記入なので日本大使館へ行って、渡航先を記入して貰うように」と言われた。私は渡航先を確認しないで来てしまったのだ。しかしそれならイラクも渡航先未記入であったのに、如何してイラク大使館は、査証を発給してくれたのであろうか。分らないが多分、イラク館員は見落としたのであろう。
その様な訳で、直ぐに日本大使館へ行った。館員にトルコからイラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インド、ビルマ、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、マレーシア及びシンガポールまでの各国を旅券の渡航先に記入してくれる様お願いした。しかし館員は、「インドまで加えましょう。必要であったらその先の国は、インドの大使館・領事館でして貰って下さい」と案内された。結局、渡航先を追加して貰った国名はトルコ、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタンそしてインドであった。
この時、その大使館員からビルマ情勢の事で、「現在、ビルマは軍が政権を掌握し、内政不安定の為、渡航禁止の処置が取られ、ビルマへは行けない」との情報を得た。
又その館員から、「最近、若者が中東諸国やインドの渡航先記入が多いが、イギリスからどの様にそれらの国々を回るのか」と質問されてしまった。私の知っている情報を彼に教えて上げた。前に来た時の大使館員の態度は、慇懃無礼であったが、今日の館員はそんな感じでなかった。
所で、インドへ行くルートは、欧米の若者や日本人倹約旅行者、そしてハシシ(大麻の一種)を求めてヨーロッパのヒッピー達で最近多くなったようであった。
私は日本大使館を出た後、先週分の賃金を受け取る為、そして私の仕事の最終日にマネージャーのミセズ レーミンと相棒のホーさんが休んでしまい、挨拶が出来なかったのでボンド ストリートのウィンピー ハウス レストランに立ち寄った。レーミンさんにはお世話になり帰国後、手紙を書きたいと思ったので彼女に住所を聞いたら教えてくれた。そして彼女から最後のウィンピー料理をご馳走になった。

ロンドンを間もなくして去るその日々~査証の取得等、旅への準備

2021-11-03 11:01:43 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
      ロンドンを間もなくして去るその日々

・昭和43年11月4日(月)晴れ(査証の取得等、旅への準備)
 今日は珍しく晴れた。その前はいつ晴れたのか、分らない程だ。多分、私がウェールズから帰って来て以来ではないか。念の為、日記を調べたら9月20日以来、45日振りの晴れであった。毎日毎日どんよりとした曇りか小雨では、気分も滅入っていた。しかし久し振りに晴れたので、今日は何となく気分が良かった。
 昨日、家族や友達へロンドンから最後の手紙を書いて過ごした。私は字も文も下手なので、手紙を書くだけで1日掛りであった。
 手紙と言えば、私の友達の1人N君へ、「ロンドンを去る」と手紙を書いたら、10月15日付けで彼から返事が届いた。彼からの手紙はいつも楽しく、心がこもっていた。そんな理由もあり、彼は私の良き理解者である、と勝手に私は思っていた。そんな彼からの手紙の一部が、私の心に強烈な印象を与えた。
彼は自分に代わって、私にイギリスで何かを掴んで貰いたいと期待し、或は何か望んでいたようであった。そんな彼は私がイギリスを去り、その足で帰国する、と思っていた。
私は憂鬱なロンドン生活の中で、先輩や友達からの手紙に随分助けられ、癒されたのは事実でした。
 話は変わるが、8月の下旬から寒かったが、今まで気温の方はあまり変化なく、平均を保って来た。しかし秋が深まり、近頃とても寒くなって来た。冬が間もなくやって来る、そんな気温・季節の変化を感じるようになって来た。日中、街を歩いていたら、店の前に温度計があったので見たら6度であった。ロンドンは、北海道の札幌と同じ緯度であるが、北に位置する割には、寒くないのだ。
所で、私は陸続きでシンガポールへ行く予定であるので、査証用の写真、行先の査証申請、、旅券欄に行き先国名の追加記入(これは、後になって教えられた事)、予防接種、道路地図購入等、これからの旅の準備でやらなければならない事がたくさんあった。
 今日、トルコの査証を取りに大使館へ行ったら、「ここではなく、領事館の方でやっている」と言われ領事館へ行った。そこへ行ったら館員に、「観光目的で3か月以内の滞在なら査証は、必要ありません」と案内された。
 次にシリア大使館へ行ったが、閉鎖されていた。シリアは脇道の国、それほど重要視していないので取れなくとも構わないと思った。ただ、心変わりして行く可能性を案じての事だけであった。
 お昼時になって腹も空いていたが食べずに、イラク大使館へ行った。イラクもシリアと同様、トルコ、イランからインドへ向かってのルート上にある国ではないが、チグリス・ユーフラテス文明の地を訪れたくなるかも知れないので、一応取っておく事にした。そんな理由で、イラク大使館へ行って手続きをしたら、「明日出来る」と案内された。

シーラとの日々、そして、別れ~シーラ、ジャネットとの永遠の別れ(その2)

2021-10-22 08:58:57 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
    △昭和44年か45年に送られてきたシーラの水着写真(イギリスへ        
     折角行ってシーラの写真は一枚しか撮れなかった、と言ったら)

・昭和43年11月6日(水)曇り(シーラ、ジャネットとの永遠の別れ)その2
 私はハイドパークを散策後、シーラの所へ行った。ジャネットも来ていて、3人で最後の食事となった。最後の食事の他、今日もう1つ悲しい事は、シーラが勤めている会社(マックスファクター化粧品の子会社)が倒産し、明日を持って最後の出社になり、今後の仕事はまだ見付かってない、との事であった。 
 勤勉な彼女は、ここ1ヶ月間、落ち着いて仕事が出来ないようであった。そして今日の彼女は、いつもより悲しい様子であった。彼女が苦労しているのに、私はロンドンに長居をして彼女に迷惑や気苦労を掛けてしまって、大変申し訳ないと思った。しかし最後の最後まで彼女は私を歓迎してくれた。
 あれ程に会いたかった彼女とも、今夜限りで別れなければならなかった。私がロンドンを去る時も、彼女に駅まで見送って貰いたかった。でも、これはあくまでも私の希望であり、彼女も忙しく色々な事情があって出来ないのを私は理解していた。
お互いに寂しさ、不安が重複されたのか、いつもは女性特有のお喋りで話が盛りあがるのであったが、今夜は今一つ盛りあがらない食事になってしまった。
しかし、我々はこれで永遠の別れではないのだ。彼女は、「Yoshi、これからも文通を続けよう。10年、20年先に成るかも知れないが、今度は私が日本へ行きます」と言ってくれた。私はこれからも文通を続けるつもりであるし又、いつか日本で彼女に会える、と思うと嬉しかった。
 それでも瞬く間に、お暇しなければならない10時になってしまった。3人で腕を組んでブレント駅までいつもの様に歩いて行った。私が真ん中で、左右に彼女とジャネットの両手に花を最後に咲かせ、静まり返った街に3人の足音だけが、何故か悲しそうに響き渡った。
 駅に着いてジャネットは、「ヨシ、それではこれでお別れね」と言って、私の頬に突然キッスをした。彼女の持て成しやその心配り(こころくばり)は、大変嬉しかった。そして彼女のお別れキッスは、最高のイギリスのお土産であった。「ジャネット、色々有り難う。君と友達になれて本当に良かった」と彼女に別れの挨拶をした。
「Yoshi、体に注意して元気で旅を続けてね。それから旅の途中で時々、絵葉書や出来たら手紙も書いて下さい。Yoshiが元気で旅をしている様子が何よりも嬉しいのだから」と彼女は言って、私の頬にキッスをしてくれた。彼女の甘い香りのキッスは、私の旅の『心に残る最高の贈り物』になった。
「時々手紙を書きますから、シーラも元気で過ごして下さい。それから先程の話だが、今度はシーラが日本に来て下さい。いつか、きっと来て下さい。私はその日を楽しみにしています」と私は言った。
「きっと行きます。東京の飛行場で会いましょう。今度は私が、『Yoshi ○○○○』と書いたプラカードを持ってネ」と彼女。〝ヴィクトリア駅の事〟(シーラから2人の駅での出会いについてジャネットに話が伝わっていた)を思い出したのか、「アハハハハ」と3人が初めて笑った。
「そうだよ、シーラ。会える日を楽しみに待っている、約束だよ。シーラ、私は君が好きだ」と言って彼女の肩を軽く抱き、頬にお返しのキッスをした。
それは、余りにも切ないキッスであった。そして不覚にも自然に涙が溢れ出てしまった。居た堪れず、「それではこれでお別れしましょう。さようなら、シーラ。さようなら、ジャネット」と言って握手をし、私はその場を離れ、改札口へ入った。
 胸が押し付けられる感じがして、涙が幾重も頬に伝わった。振り返ると彼女も悲しそうな顔をして手を振っていた。そして、ジャネットも。私は彼女の所へ戻りたい気持を振り切って、手を振りながら「さようなら、シーラ、ジャネット」と叫び、階段を一気に駆け上った。
 電車に乗ってからも、悲しさ、切なさが抑えきれず、他の乗客が見ているのも拘わらず、私は咽び泣いた。
私は、如何してこうも別れに弱いのであろうか。本当に私は、センチメンタリストなのだ。又、この様な雰囲気が好きなのだ。だから、私は旅が好きなのかも・・・。そしてこれが本当にシーラとの永遠の別れになってしまった。

△自宅の居間にて~昭和36年12月頃の15歳のシーラと弟7歳のケネス(文通を 始めた頃の写真。)

シーラとの日々、そして、別れ~詩 題名「旅」

2021-10-20 21:16:29 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                    △挿絵 Painted by M.Yoshida

詩 題名「旅」

旅は、人生に生き甲斐を与える。
旅は、楽しい。それは、春の訪れのように。
旅は、寂しい。それは、晩秋の落葉のように。
旅は、出逢いであり、又、別れである。
旅は、人生であり、人生は、又、旅である。
人生は、旅で始まり、そして、旅で終る。

作者 YOSHI (昭和43年11月6日、ロンドンのハイド・パークを散策中に突然、この詩が閃いた)


シーラとの日々、そして、別れ~シーラ、ジャネットとの永遠の別れ

2021-10-20 08:44:52 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
     △トラファルガー広場にて(折角イギリスへ行ってシーラの写真は         
     これ一枚だけ、しかもピンボケ、非常に残念であった

・昭和43年11月6日(水)曇り(シーラ、ジャネットとの永遠の別れ)その1
 イランの査証が出来ているので、大使館へ取りに行った。その帰りに、誰もいないHyde Park(ハイド パーク)を散策した。
もうすっかり晩秋になっていた。公園内の落ち葉は深く、ザックザックと歩くと音がした。公園脇の道路は車が忙しそうに往来しているが、ここは別世界、まるで山奥に居るように静寂であった。
 ロンドンは毎日重苦しい厚い雲に覆われ、時には咽び泣く様な小雨が続いた。太陽は昨日か一昨日拝んだ以外、何ヶ月も拝んでいなかった。そんな天候が影響してか、孤独な生活と相乗して、寂しさが一層込み上げて来る今日この頃であった。
 思えば、旅を通して色々な国を訪問し、多くの経験・体験をして来た。あと数日でロンドンを去り、遠いシンガポールまで陸路伝いに旅をしようとしている私。それは途方もない苦労・困難が待っているであろう。私はそれを思うと、心が押し潰されそうな、気が遠くなりそうな感じがするのであった。
 イギリスまでの旅は、どちらかと言えば旅行に近かった。これからの旅は、強いて言えば「放浪の旅に近い旅」になるであろう。そんな事を考え、悶々としながら公園を散策していたら、一つの詩が頭に浮かんで来た。と言いますのは、ここ毎日夜になると、『旅とは何なのか』と言った事を考えていたので、この公園の状況と最近の私の心境から突然、詩が頭に閃いたのだ。その詩を書き留めて置く事にした(P○○参照)。
晩秋の誰も居ないハイド パークを散策し、これから最後のシーラに会う為に駅へ向かおうとした際、フット湧き出た『旅とは』に、何か自分に哲学的なものを感じた。
 所で、今の私の服装はジーパンにカーキ色の暖かい大き目のジャンパー、そして茶色いズックであった。頭髪は、アムステルダム(8月17日)で床屋に行って以来、床屋へ行っていなかった。したがって、髪の毛は伸び放題、髭も伸ばしっぱなしであった。それでも髭は余り伸びていなかったが、その格好はまるでヒッピー スタイルの様であった。貧乏生活、そして貧乏旅行をするのに格好なんて気にしていられない。しかも、自然に生えて来るものを、敢えて切る必要もなかった。私は、自由人であり、全くその方も自由であった。
          その2に続く