YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

私の旅はここに終る~日本の旅

2022-04-27 08:52:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
                     △私と左は同室の橋本さん~ソ連船ハバロスク号にて

・昭和44年(1969年)7月6日(日)晴れ(私の旅はここに終る)
 朝食を済ませ、出立準備を整えてから女将に勘定をお願いした。彼等に「ここの旅館代は私も払う」と言ったが、彼等は「Yoshiにはお世話になったから。」と言って私の分を払わしてくれず、6人で割って各自出し合って払ってしまった。一昨日も昨夜も、「Yoshiにはお世話になっているから。」と言って飲み代は彼等が払っていた。
今日、彼等はこれから日光見物へ出掛けるのでした。「私も付き合う、行かせてくれ。」と言ったのに、彼等は「Yoshiは1年振りの故国、家族が待っているので早く帰って上げなさい。」と言って、私の同行を許してくれなかった。私の気持としては、彼等といつまでも旅をしたかったが、実を言うと私にはもう日光へ行く金が無い状態であった。もし旅館代を払っていたら、埼玉県の深谷駅まで帰る汽車賃が手元に残ったか、分らなかった。
 東武浅草駅はこの旅館から近いので、彼等の列車が出発するのを見送る事にした。実は昨晩、私から女将に東武日光までの乗車券と特急券をお願いしてあったのだ。そんな訳で彼等の乗車には、何ら心配がなかった。我々は浅草駅へ歩いて行った。彼等は日本語や地理が全く分らないので大丈夫なのか、私は心配であった。しかし私だって言葉が分らなくても旅をして来たのだ。彼等だって充分に日本の旅を楽しめる。寧ろ私が居ない方が色んな体験が出来て、本当の日本の旅が楽しめるのかも知れない、とそう思った。
 暫らくして、東武日光行き特急列車がホームへ入って来た。そして終に、船上の友とも別れの時が来た。
「私も皆さんと一緒に日光へ行きたいのですが、これでお別れします。どうぞ日本の旅を楽しんで下さい。グッドラック(さようなら)」と私。
「Yoshi、手紙を書きますから返事を下さい」とタン。
「Yoshi、お世話になりました。グッドラック」とメアリー。
「Yoshi、又何処かで会いましょう。さようなら」とフレッド。
「色々な所を案内してくれて有り難う、Yoshi。さようなら」とフィリップ。
エバンス夫人やベンドレィさんとも別れの握手を交わした。そして彼等は手を振りながら車内へ入って行った。私はホームに残った。窓ガラス越しに彼等は何か言っている様であったが、分らなかった。多分、『見送りはもういいから、行ってくれ。』と言っている様であった。私も窓越しに、『最後まで見送るから。』とジェスチャ交えて言った。
 発車のベルが鳴り終り、列車は静かに滑り出した。「皆、さようなら。元気で旅を続けて下さい。」と手を振りながら心で叫んだ。彼等も手を振って応えたが、直ぐに見えなくなってしまった。彼等を乗せた日光行き特急列車は、私の目の前から走り去って行った。私は列車が見えなくなるまで見送った。『私の旅』はこの瞬間で終り、そして私は『旅人』ではなくなったのであった。その寂しさ、哀しさが湧いて来て、私は胸を絞め付ける想いと、込み上げる涙を堪えた。
 私は上野駅から高崎線新前橋行きの列車に乗り込んだ。車内は混んでいなかった。私はぼんやりと車窓の懐かしい景色を眺めていた。あれ程に想い詰めていた旅は、これで終ったのだ。日本出発前までは考えられない大旅行になってしまった。
振り返れば色んな旅があったなぁー。旅の想いを膨らませてのナホトカへの船旅、シベリア鉄道乗車中にソ連の若い女性が歌ってくれたロシア民謡、鈴木とのストックホルム~オスロ間ヒッチの旅、1人ヨーロッパ列車の旅、シーラとの出会い、ウェールズの旅、ロンドンでのシーラとの日々、ロンドン~アテネ間ヒッチの旅、イスラエルの旅、ロンとのシルク・ロードとインドの旅、荻とのアジャンタ、エローラ遺跡巡りの旅、オーストラリア大陸横断ヒッチの旅、そして帰りの船旅。嬉しい事、楽しい事、辛かった事、寂しかった事、悔しかった事等、色んな旅に色々な事があった。それがみんな終わったのだと思うと、間もなく家族や友達に会える嬉しさよりも、何とも形容し難いものが又、胸にジーンと来てしまった。
 私は、車窓の移り変わる景色をぼんやりと眺めながら、過ぎ去った幾山河の光景を郷愁に近い感じで思い浮かべる様になった世界の旅路をしきりに回想していた。

【詩 題名「旅」】
旅は、人生に生き甲斐を与える。
旅は、楽しい、それは春の訪れのように。
旅は、寂しい、それは晩秋の落葉のように。
旅は、出逢いであり、又、別れである。
旅は、人生であり、人生は又、旅である。
人生は、旅で始まり、そして、旅で終る。
*1968年11月6日、ロンドンのハイド・パークを散策して浮かんだ詩です。

◎これをもって「私の果てしない旅』」を終わらせて頂きます。長い間、私の拙い「旅日記」をご愛読下さりました読者さんに感謝申し上げます。本当に有難うございました。


名古屋、東京見物~日本の旅

2022-04-26 13:38:44 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
△熱田神社前にて~左からエバンス、私、タン、メアリー、ベンドレィそしてフレッド

・昭和44年7月5日(土)小雨後曇り(名古屋、東京見物)
 16日間航海したチルワ号ともこれで永遠の別れとなり、私は昨日、鳥羽へ行った〝乗船仲間6人〟(オーストラリア人のMrs. Elaine Evansエバンス夫人、Mr. Done Bendleyベンドレィ氏、アメリカ人のメアリー、中国系香港人のフレッド、中国系マレーシア人のタンとフィリップ)と共に名古屋へ行った。
私の案内で名古屋城や熱田神社を見物後、新幹線ひかりで東京に来た。日本の新幹線は彼等にとってその速さ、鉄道技術の高さ、施設にビックリするやら、感心するやらの新幹線の旅であった。曇りの為、富士山を見る事が出来ず、彼等は本当に残念がっていた。
 東京駅観光案内所で今夜のホテルを予約しようと思ったら今日、明日と世界ライオンズ・クラブ東京大会が行なわれる為、何処のホテル・旅館もいっぱいであった。それを彼等に説明したら困り果てた様子であった。私は所員にこちらの事情を説明し、もう一度何処か宿泊出来るホテル等がないか、探してくれる様に頼んだ。暫らく待ってその所員は、「良い旅館ではないが、それで宜しければ。」と言う条件を提示され、仲間の了解を得て予約した。
 宿泊場所は、浅草の隅田川沿いの3流旅館であった。部屋の障子を開けたら直下が隅田川、そのヘドロの臭い(「春のうららの隅田川」の歌い出しでお馴染みの歌『花』の川ではなく、ドブ川、ヘドロの川で悪臭が満ちていた)が強烈に鼻に衝いてきた。蒸し暑いからと言っても2度と障子を開ける事が出来なかった。日本の首都・東京の川がこんなにも悪臭を漂わせている現状に、私は恥ずかしさを感じた。しかし、他に何処も空いていなかったし、彼等にとっても安い方が良いので、文句は無かった。旅館なので部屋スタイルは和式、男同士の5人、女同士の2人で2部屋に別れての宿泊となった。
女将は日本語の分る私が居て、助かった顔をしていた。彼女は愛想よく我々を迎え、接待してくれた。
 夕方、浅草寺(せんそうじ)や浅草(あさくさ)界隈を散策した後、旅館に戻り和食スタイルの夕食(刺身、天ぷら、豚カツ等)が出された。彼等は箸を使って、「美味しい、美味しい。」と言って食事を楽しんでくれた。勿論、私も久し振りの日本食で、大変美味しかった。  
 夕食後、彼等を銀座へ案内した。私は1年振りの日本であり東京である所為か、その全ての面で日本が外国の様に珍しく、彼等と共に異国情緒を楽しんでいた。私はまるで日本人によく似た外国人感覚であった。従って私の日本の印象は、多分彼等の印象と同じ感じであったかもしれません。
 最後に、銀座のあるパブリック・ラウンジ(洋酒等がキャバレーやバーより安く飲める所)へ寄ったら、他の乗船仲間達が居た。まだ1日か2日経ったばかりなのに、皆は再会を喜び合っていた。
若いバーテンダーが日本人である私を認めてか、「お客さん、外国帰りですか。」と話し掛けて来た。  
「そうですよ。昨日、オーストラリアから着いたばかりです。」
「何処を回って来られたのですか。」と彼は聞くので、ざっと回った所を言った。
「凄いー!お客さん。僕も行って見たいなぁ。実は、外国へ行く事を僕も考えていたのです。」
「行って下さいよ。考えた時が、そのチャンスの時だから。」
「ありがとう、お客さん。その意見を聞いて僕は決めました。」
「成功を祈るよ。」とそのバーテンダーに言った。
 我々は暫らくそこで飲んでから旅館へ戻った。彼等は東京の夜を心から楽しんだ様なので、私も満足であった。昨日から今日に掛けて、私はずっと彼等と一緒だった。彼等と日本人の接点は私であって、その通訳の役目は100%ではなかったが、彼等も納得して私に大変感謝していた。彼等の為の案内や通訳は、私も面白かったし又、彼等と共に居ると、まだ旅が続いている様で楽しかった。

四日市入港と鳥羽見物~日本の旅

2022-04-25 09:07:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年(1969年)7月4日(金)小雨(四日市入港と鳥羽見物)
 朝起きて、日本本土が見えるか、甲板に出てみた。小雨が降っていて視界が悪く、まだ何も見えなかった。南太平洋の海は紺碧の色をしていたのに、日本近海の海は、余りにも濁っていた。日本経済の発展の裏で環境や自然が破壊され、海や河川が汚染されていたのだ。
 何も見えなかったが、暫くの間甲板に佇んでいると、何処かの島か本土が遠くぼんやりと見える様になって来た。何日も何日も見えるのは大海原だけであったのに、行き交う船も見られる様になって来た。『日本だ!日本に近づきつつあるのだ!嬉しい!やっと帰れるのだ!』という気持と、『私はもう旅人ではなくなるのだ。』と言う一抹の寂しさが入り混じった、おかしな気分になって来た。
 朝食が済み、間もなくしてから日本船が横付けされ、税関・入国審査の役人や銀行員が乗り込んで来た。入国手続きをした後、僅かばかりのオーストラリア・ドルを日本円に交換した。
 私は甲板に出て、船が四日市港に入港するのを眺めていた。小雨の中、ロイヤル・インターオーシャン・ラインズ・チルワ149号は、12時前に四日市港の岸壁に接岸した。まず私が気付いた事、それは港湾がヘドロでとても臭く汚かった事であった。シドニー港の海のきれいさ、港の光景の美しさを比べたら、四日市港は嘆かわしく、こんな汚い港を外国人に見せたくないという感じがした。外国へ行か前から『四日市ぜんそく』の公害が発生し問題になっていたが、この状況を見ると何ら不思議でないと感じた。
 甲板にいたフレッドおじさんは、岸壁に迎えに来ていた知り合いの日本の若者を発見し、その名前を叫んでいた。岸壁の彼もフレッドに気が付いたのか、何か叫んでいた。彼らはお互いに再会の喜びを、手を振り合って確かめていた。フレッドの横顔は、嬉しそうであった。
 船内で昼食を取った後、私の乗船仲間が、「鳥羽のオパール・アイランドへ行って、真珠の作っている所を見たい」と言うので、案内がてら私も彼等と共に行く事にした。本来なら私はここから真っ直ぐ埼玉へ帰る予定であったが、彼等に誘われ又、私自身もう少しの間、旅の気分が味わいたいので彼等と共に行動した。勿論、彼等は日本語も地理も分らないので、必然的に私が案内役兼通訳をする事になった。我々は近鉄特急電車で鳥羽へ、乗客は我々の国際的組み合わせが珍しいのか、(美人の?)メアリーに興味あるのか、ジロジロと視線が我々に注がれていたのを感じた。
 しかし折角鳥羽に着いたにも拘らず、見物時間が既に過ぎていて、彼等の期待に応える事が出来なかった。勿論わざわざここまで来たのだから是非見せてくれるよう、私は特別にお願いしたのであったが、融通が効かなく駄目であった。日本人としての私は、彼等に申し訳ない気がした。我々は仕方なく鳥羽の街を散策したり、パチンコをしたりした後、土砂降りの中、鳥羽駅に戻った。
 夜、青い灯赤い灯の灯(とも)る四日市の飲み屋街のバー(彼等にとって若い女性が薄暗い部屋でもてなす酒場が珍しかった)を覗き込んで楽しんだり、大衆的酒場に案内してお酒を飲んだりして、彼等と共に日本の夜を楽しんだ。そして私は、今夜が最後の船内宿泊となった。
 今日、私は日本に到着して日本人に日本語で話そうと思ったが、2週間以上日本語を話していなかった為か、無意識の内に何度か英語で話し掛けてしまい、私の頭の中は、英語と日本語の切り替えが少し変であった。

船旅を楽しむ~船内の様子

2022-04-24 10:42:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
△船内の食事風景(一番右が私)~私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリー

・昭和44年6月24日(火)~7月3日(木)(船旅を楽しむ)
 最初の頃、救命袋の着用方、及びBoat Station(救命ボートが格納されている所)へ集まり、ボートへの人員、並びに割り当等を確認し、異常時に於ける脱出訓練が3回あった。
船旅で一番の楽しみ、それは食事であった。朝は8時30分から、昼食は午後1時から、そして夕食は午後7時からであった。昼食と夕食の基本的な料理を紹介すると、スープに始まり魚料理、肉料理、パン、アイス・クリーム、果物、そしてティー若しくはコーヒーであった。日によって料理の種類は変わり、料理については満足であった。 しかし、食事の時のテーブル・メンバー8人が余り良くなく、16日間3度3度食事を共にして来たにも拘らず、アメリカ人のメアリー以外、誰も名前を覚えなかったし、親しく話をした事も無かった。そのテーブルメンバーは、私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリーであった。メアリーはいつもガツガツと食べていた印象であった。彼女のスタイルは良いが、顔付きはきついし、態度・口調も私好みの女性でなかった。私の正面で隣同士の船員と娘さんは、いつも親しげに話をしていたが、後の皆はしらけていた。そんなしらけたテーブル・メンバーでは楽しみな食事も今一であった。
 一度だけであるが、デッキ上で船長主催の豪華なディナーパーティがあった。いつもサンダル履きでシャツに半ズボンの普段着で食事をしていたが、この時の私は白のワイシャツにネクタイ、ズボンを履いて参加した。乗船客の皆もドレス・アップして参加した。普段、出ない海老や豪華な肉料理等が出され、そして飲み物でシャンパンも出て、私はパーティを楽しんだ。我々は船長をパーサーから紹介され、船長は我々を接待してくれた。
 船旅は退屈するのでダンス、映画、ビンゴーゲーム、デッキ(甲板)でのホース・レーシング・ゲーム(競馬遊び)、卓球大会等、色々な催しがあった。私はダンスが踊れないので、見ているだけでした。船で横浜からソ連のナホトカへ行った時も、ダンスパーティーがあったが、つくづく習っておけば良かったと思った。
 デッキに卓球台が置かれていて、華僑のタンと時々ピンポン(卓球)をしていて、大概私が負けていた。そんなある日、卓球大会が催され、決勝に勝ち進んだのが私とタンであった。3セット21本勝負で21対13,21対18の2連勝して私が勝ち、優勝した。その日の夜、ホース・レーシング・ゲームと合わせて表彰式があり、船長から優勝の賞状と賞品としてクリスタルの灰皿を頂いた。
 この船のエコノミー・クラスの乗客は60人位、その中に日本人は私1人であった。年配の日本人に気を使うのが嫌で、私の場合は居ない方が良いので、お陰様で気を使わなくて済んだ。
乗客の幾人かを除いて、皆45歳以上の年配者であった。その幾人かの若い人とは、出航の日に初めて会ったタン、フィリップ(中国名Tung Shui Cheeマレーシア出身)、フレッド(中国名Yee Yun Sang香港出身)、そしてアメリカ人のメアリーであった。
横浜からナホトカまでのソ連船・ハバロスク号は日本人の若い人が殆どであったが、この船はオーストラリア人の紳士淑女の年配の方が殆どであった。歳をとってからでもこの様に気軽に海外に出掛け、優雅で豊かに一時の人生を過していた。やはりオーストラリアは豊かな国であった。 しかし折角寛げる時間を持ったのだから、ノンビリ過ごせば良いと思うのに、編物をしている多くのご婦人方を見掛けた。豊かに生きる一方、堅実的なオーストラリア人気質を垣間見た感じであった。
 私は何もする事が無い時(いつもそうであるが)、ピンポンをしたり、小さなプールで泳いだり、デッキに出て大海原、或は紺碧色の海に浮かぶ南洋諸島の過行く小さな島々をぼんやり眺めていたりしていた。私はノンビリと過ごせる船旅の方が空の旅より好きだった。将来、ノンビリした気分で再び船旅が出来るその時が、又来るであろうか。漠然と思うに、2度と無いであろうと。それでは若い時に、この様な経験をしても良いではないか、と私自身を納得させて船旅をしているのであった。
 話は全く変わるが、この船会社はオランダ人が経営しているが、下級船員は全て中国人(華僑、台湾人)であった。彼等に聞いたところ、月A$50(2万円チョット)であると言っていた。


△船長主催のディナー・パーティにて-右から私(右手だけ見える)、フィリップ、タン、エバンス夫人、ベンドレィさん


   △船長主催のディナー・パーティにて-船長と握手する私


△ダンスパーティーにて~股にオレンジを挟み、マドロスパイプを吸っている私と同じ食事テーブルのおばさん


       △ホース・レーシング・ゲーム~後ろの一番左が私


 △Royal Interocean Lines Tjiluwah Voy. 149-A(チルワ149号、オランダ船籍)
  シドニーから四日市間を航海中


黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-24 10:37:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年6月23日(月)晴れ(黄金色に染まった港を出港)
 本日12時に出航予定であったが、午後の5時に変更された。そして太陽の沈む頃、ブリスベン港に黄金色の光景を残し、船は静かに出港した。これでオーストラリア連邦国、そしてオーストラリア大陸の本当の見納めになるので、その想いは一塩の物があった。私はデッキに佇み、黄金色に染まったブリスベン港、そして日が沈んでからもモートン湾の光景を虚ろに見ながら、いつまでオーストラリアの日々に思いを馳せた。
 シドニーと同じくブリスベンも内陸まで湾が入りこみ(河口まで20km程)、外洋に出るまで1時間余り要した。







ブリスベンの日曜日の様子~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-23 14:24:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
                 △ブリスベンの絵葉書 (寄港した時に買ったもの)

・昭和44年6月22日(日)晴れ(ブリスベンの日曜日の様子)
 船はブリスベン港に1日中、停泊していた。退屈で仕方ないので午後、映画でも見に行こうと街へ出掛けたが、3軒ある映画館全てが日曜の為、閉まっていた。1軒ぐらい営業しているであろうと思ったが、オーストラリアの徹底した日曜日のあり方を再確認した思いであった。無人となった街をぶらついて、船に戻りボンヤリと過した。
 ブリスベンの街は、閉まっているのは何も映画館だけではなく、シドニーより徹底して全ての店が閉まっていた。街から人々が居なくなり、まるでゴーストタウンの様に静かであった。市民は郊外のゴールドコーストヘ行って過しているのであろうか。出掛けない人は何もする事がないので奥さんの手伝い、或いは庭や家の手入れをするぐらいしか術がないのがこの国なのだ。『オーストラリアン・ハズバンド』という言葉が生まれても仕方ない、そんな習慣、風習が存在している様であった。
                                           

スケベなフレッド~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-22 16:09:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年6月21日(土)晴れ(スケベなフレッド)
 一昨日夜から昨日、船はかなりローリングしたので気持が悪かった。お陰で昨日の昼食は、喉を通らなかった。
 チルワ149号は、今日の朝方の早い時間にブリスベンに入港した。昨日知り合ったFread Kelly(私は「フレッド」と呼んでいた)と共に朝食後、バスでブリスベンの街へ出掛けた。
 ブリスベンは、クィーンズランド州の州都。ここはシドニーよりとても温かく(少し暑いぐらい)、通りに椰子の木の繁るのが見られ、南国の風情を感じた。今日は土曜日で、街は静かであった。特に何処かへ行った、或は見学したと言う事ではなく、我々はブラット街を一回りして、再び船に戻って来だけであった。
 クィーンズランド州に足を踏み入れたのは、これで2度目であった。地図を見ると、このブリスベンから真っ直ぐ西へ約700km行った所にチャールヴィルと言う町がある。オーストラリア縦断ヒッチの途中、私を一宿一飯の持て成しをしてくれた、親切なスコットさん若夫婦が住んでいるのだ。私に羽があったら飛んで行って、もう一度会って見たい、お礼が言いたい、そんな気持で一杯であった。余談だが、それから1年後、否もっと早かったかな、スコットさんから「元気な赤ちゃんが生まれた」と写真を同封した手紙が届いた。スコット家に幸多かれと祈る。
 夜、フレッドの個室の部屋へ遊びに行った。彼は60歳位のタスマニアの酪農家、背が高く少し腰を曲げて歩いていた。彼は人を使って牧場を経営し、過去に日本へ3回も遊びに行き、家族なし、と言う事が分った。2人でベッドに座って話をしていると、どうも彼の様子がおかしかった。彼の手が私の腰や太股を撫でる様に触れてくるのだ。その触れ方、摩り方が、どうもホモのような感じがした。『やばい』と思い、私は早々部屋を出て、2度と彼の部屋へ行かなかった。
そして後日の事であるが、彼は助平で女の話もよくしていた。又、「以前(赤線があった)、日本は安く遊べて非常に良かった。」と言っていた。彼は女にも飢えている様で、二刀流使いであった。

仲間達との別れ、そして出航の様子~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-21 14:29:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年6月19日(木)曇り(仲間達との別れ、そして出航の様子)
 4月14日からルームメイトの栗田と共に住み始めたこのキングスクロスのレントルームを去る日が来た。9時頃起きて出発の準備をしていたら、岡本と杉本が見送りの為に来てくれた。10時半頃、大屋のミセズ・ジャクソンおばさんにお世話になったお礼と共に別れの挨拶をし、大通りのウィリアムズ通りから栗田と共に4人はバスに乗った。私はシドニーに来て以来、初めてバスに乗ったのが、シドニーの最後の日であった。
 バスは思い出のあるキングスクロス地区を後にし、博物館を左に見てハイド・パークを横切り、ダーリング港(Wharf of Ocean Terminal, Sydney Cove)まで行った。杉本はカメラを取りに途中下車し又、後から来てくれた。
 私の乗船するローヤル・インターオーシャン・ラインズのチルワ149号は、既に桟橋に接岸されていた。乗船時間は午後2時から3時の間、出航は4時だったので、出国、乗船手続きを済ませ、荷物を私の船室に置いて一旦下船して、我々四人は一杯ビールを飲みに近くのパブへ行った。我々は、他愛無い話やオーストラリアの話で束の間の時間を楽しんだ。そして2時になり、ついに日本人仲間とも別れ時が来た。
「栗田さん、乗船券の購入にあたって栗田さんの助けがあったからだと感謝しています。有り難うございました。」と率直に栗田に礼を述べた。
「同じ部屋に住んだ仲間同士、そんな事いいのだよ。それにしてもYoshiさんが居なくなると淋しくなるよ。それに部屋代16ドル払うのは高いので、誰か相棒を探すか、安い部屋へ引越しするか、考えないといけないよ。」と栗田。
「そうだね。」と私はそれだけしか言えなかった。
「岡本さん、貴方にもお世話になりました。特に滞在延長申請の際は見せ金や背広を貸してくれて、有り難うございました。」と岡本にも礼を言った
「Yoshiさんはアメリカやカナダへも行きたくてオーストラリアに来たけれど、実現出来なくて心残りがあるのでは。」と岡本。私が旅を続けるべきか、帰国すべきか悩んでいた時期に、彼にその件について話した事があった。そしたら、「一旦帰国して、新たな気持で又、日本脱出すれば良いのでは。」と彼のアドヴァイスを受けた事があった。
「全くその通りです。そして折角此処に来たので、ついでにグレート・バリア・リーフ、ゴールド・コースト、或はニュージーランドへも行きたかったですね。それからアメリカやび南アメリカへも。旅をしたい気持は切りがないが、気持と現実は違うからなぁ、難しいよ。」と私。  
「でも一度日本を脱出しているので、いつでも外国に来られますよ。」と岡本。
「そう出来れば、良いのですが。」と私は本当にそう願うのであった。しかし一旦日本へ戻れば決まりきった現実の生活があるのだ。それに24歳になってしまったのだ。いつまでも気ままな旅は出来ないであろう、私には分るのであった。そして今の私の心境は、『帰国出来る喜びより、これで旅が終りになる』と言う、そちらの方が悲しかった。
「杉本さん、ステーキハウスの方は如何ですか。」とまだ一日だけであるが、私の後を引き継いだ仕事を杉本に聞いた。
「コックが2人居て、若い方のコックが何かと五月蝿いですね。」と杉本。
「彼はドイツ人だ。五月蝿かったのでガツンと言ってやりましたよ。黙っていると付け上がるから。杉本さんも言った方が良いですよ。」と私。
「分りました。でも、アルバイト代は割りと良いので助かります。」と杉本。
「それはその筈です。前は9ドルであったが、ボスと交渉してもう3ドル割増させたのですよ。」と彼にその件を話した。
それから皆と握手して別れた。良い仲間と出逢えて本当によかった。私はそう思った。
 仲間と別れた後、私は乗船し、出航風景を見ようとデッキに出ていた。出航は午後4時、その15~20分前であろうか、岸壁に牛丸の姿が見えた。「おーい、牛丸。ここだー。」私は高いデッキから大声で叫んだ。
「Yoshiさんー、おにぎりを持って来ましたー。下船出来ますかー。」と彼は叫んでいた。タラップはまだ設置されていた。
「Can I go down to see my friend ? I will be back soon.」(直ぐ戻りますので、チョット友達に会いに降りたいのですが。)とタラップの傍に立っていた船員に聞いた。
「We will be leaving the port soon. So, hurry up.」(間もなく出航します。お急ぎください)。「Thanks.」と言って、急ぎタラップを降りた。
「これは私が作ったおにぎりです。食べて貰いたく急いで作って来たのです。」と牛丸。
「わざわざ、有り難う。」
「Yoshiさん、色々お世話になりました。無事に帰国できますよう。」と言って彼は手を差し伸べて来た。
「牛丸も元気で旅をして下さい。それではもう行かなければならないから。」と握手しながら私は言った。そしてタラップを駆け上った。
ドラが鳴り響いた。出航であった。再びデッキへ戻った。岸壁に約40~50人が見送りに来ていた。間もなく見送りの人達からテープが投込まれた。牛丸もテープを投げて来た。私はそれを受け取った。チルワ149号は少しずつ岸壁を離れた。
「Yoshiさんー、さようならー。」
「牛丸も元気でなー。おむすび、有り難うー。」私も大声で叫んだ。
船は次第に岸壁を離れ、他の人達のテープが一本、又一本と切れていった。私と牛丸のテープはまだ繋がっていた。しかし最後にとうとう切れてしまった。遠く離れると今度、牛丸は日の丸を振っていた。見えなくなるまで振ってくれた。彼は最後まで私を見送ってくれた。「牛丸ー、ありがとうー。」咽ぶ想いで叫んだ。そして終にダーリング・ハーバーは見えなくなった。
 彼は船内で食事が出る事を知らない、と言う事はないのだ。それなのに彼はおにぎりを持って来てくれた。私はその行為が嬉しかった。他の日本人仲間は早々と別れて行ったが、彼は最後まで岸壁に立ち、日の丸を振って私を見送ってくれたのだ。それは如何してかと言うと、私が思うに次の様な理由があった。牛丸は我々日本人仲間で一番若いのに、何となく我々と違っておかしかった。どう違うのかと言うと、彼は宗教学を勉強したのか、それを口に出すので岡本や栗田に叱責され、我々仲間でも異端児扱いにされていた。私だけが変わらずに話を聞き、見物や食事にも付き合って来た。又、彼はノルウェーに知り合いの女の子がいて、私が彼の為に英語で彼女宛ての手紙を書いてやった事もあった。彼は私のそんな行為に感謝して、最後の最後まで見送ってくれたのだ、と思った。
 所で、シドニーは外洋からかなり内陸部(80km程)にあり、船は静かにポート・ジャクソン湾を下って行った。私はデッキに佇み、離れ行くシドニーの光景を名残惜しそうにいつまでも眺めていた。暫らくして日本人らしき人が、まだデッキに佇んでいた。日本人かと思いその人に日本語で、「日本の方ですか。」と話しかけた。彼は、「・・・・」と返事が無く、今度は英語で話しかけた。彼の名は、Chung Joo Tan(チャング・ジョー・タンさん、漢字で書くと名字は『陳』)と言って、マレーシアに住む華僑人であった。タンさんはシドニー大学に留学し、無事に卒業して帰国の途にあるとの事であった。私がこの船に乗って最初に知り合った人、それがタンさんであった。
 私の船室は4人、皆おじさんであった。話が合いそうな人は居らず、退屈な船旅の始まりを予感した。

博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-20 08:45:35 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年6月18日(水)晴れ(博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ)
 昨日、家族や友達の為に何かちょっとした物でも良いからオーストラリアの記念となるお土産(カンガルーの毛皮、ブーメラン等)をジョージストリートのシドニー・ケイブ寄りに買いに行った。 
 そして今日、岡本と共にAustralian Museum(オーストライア博物館)へ行った。この博物館はハイド・パークの東側ウィリアムズ・ストリートに面して、いつも貨物駅とステーキハウスのレストランへの勤めの行き帰りに見ていたが、入ったのは今日が初めてであった。
 この博物館はオーストラリアの自然、古生物、動植物、鉱物、人種等に関する展示品があった。その中でポリネシア、メラネシア及びアボリジニの美術、彫刻、生活様式、道具、調度品等が印象深かった。特に、メラネシア諸島の酋長や祈祷師が被る仮面(中には人の頭蓋骨で出来た物もあった)は、美術的観点を通り越して、奇怪を感じた。彼等には銅や鉄器類の道具が無く、石や貝で作った物であった。彼等は歳月や時間的概念がないので、歴史がなかった。従って作った物の時代を特定で出来ないので年代は分らないが、かなり古い物と想像出来た。彼等の文化、美術には驚くべき物があり、そのバックボーンは、やはりセックスが対象になっていた。
 この後、我々はアートギャラリーへ行った。作品の絵画は300点程展示され、殆んどイギリス人の画家のものであった。ここを訪れて感じた事は、オーストラリアの美術・芸術と言う物がまだ、確立されていない感じであった。まだ歴史が浅いから仕方ないのでしょう。ヨーロッパの美術館、アートミュージアム(ギャラリー)の規模、作品等を比較して、このアートギャラリーは今一つ劣っていた。しかも今日は平日だからか、見学者は我々以外、誰も居なかった。 
 明日は、いよいよ出港の日だ。紳士淑女と食事をして、それなりに付き合わなければならないし、日本に帰国して頭がボサボサでは『だらしなく見られるに違いない』とそんな事を思い、カルカッタで床屋へ行って以来、久し振りに床屋へ行った。因みに外国にいるとそんな感じがしないのに、『日本を意識する』と頭の格好まで意識しなければならないのであるから、不思議であった。日本社会に生きている人達は、考え方、行動、髪型、服装等あらゆる面で一定化、又は画一化が重視されている様であった。それから外れた人は、異端者扱いされる傾向があるのも事実であった。
 床屋の後、最近スポーツ・ジムのオーナーのヴェラさんに会っていないので、別れの挨拶に行って見る事にした。しかし彼は事務所に居らず、会える事が出来なかった。仕方なく帰ろうと歩いていたら、途中の地下鉄のタンホー駅前で偶然彼とばったり出会った。
「ヴェラさん、明日私は船で帰国します。別れの挨拶の為、先程事務所の方へ行ったのですよ。」
「私は相変わらず忙しく、今日も用事で出掛け、今帰って来たのです。Yoshiに日本語を教えて貰おうと思っていましたが、仕事が忙しく習う事が出来ませんでした。どうも有り難う。」
「いつ日本に来るのですか。」
「9月の予定です。」
「私の住所を教えるから連絡して下さい。東京で会いましょう。」私はメモしておいた住所を彼に渡した。
「日本に着いたら連絡します。無事な帰国を願っています。さようなら。」
「東京で又、会いましょう。さようなら。」私は彼と握手して別れた。
 5月下旬、彼の家の新築パーティに呼ばれていたが、都合で行けなかった。オーストラリアのファミリーパーティに呼ばれた1度のチャンスを逃してしまい、本当に残念であった。
 シドニー最後の夜、私の部屋で日本人仲間4人と共にトランプをして過した。

タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-18 09:04:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
△1969年(S44年)当時のシドニーの全景(ほとんどの建物はイギリスの様にレンガ造りであった)~絵葉書より


       △今の(2015年)シドニーの全景~CFN

・昭和44年6月15日(日)曇り(タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛)
 午後3時頃、最近知り合った牛丸さん(仮称、以後敬称省略)の所へ行ったら、動物園へ行く事になった。我々2人はポート・ジャクソン湾(通称シドニー湾)のサーキュラー波止場NO5からフェリー(船賃往復30セント)に乗った。因みにサーキュラー波止場は、オーストラリアへ最初に移住者が上陸した地点であった。私は船上からオペラハウス、ハーバーブリッジ、そして対岸の街並み等の光景を眺めていたら、改めてシドニー湾の美しさを再認識した。  
 15分程で対岸のタロンガ動物園(入園料60セント)に着いた。動物園側から見るシドニーの光景も又、美しかった。この動物園オーストラリアにだけ生息するコアラ、カンガルー、カモノハシが見られ、有名なのだ。カンガルーは以前から東京の上野動物園で見る事が出来たが、コアラやカモノハシ(英語名Platypus)は知られていなし、日本で見る事が出来なかった。それにしても、タロンガ動物園は上野動物園より種類が少なく又、園内は汚かった。
 我々は動物園からの帰り際にベネロング岬にあるオペラハウスに立ち寄り、シドニーの夜景を楽しんだ。このオペラハウスはシドニー市民の自慢の建物の一つになっていて、純白のユニークなデザインは優雅で美しいが、なかなか完成しないのでも有名らしい。
牛丸はチキンを買って、オペラハウス近くの公園で食べたにもかかわらず、「中華料理が食べたい」と言うので、我々はキングス・クロスにある中華レストランへ行った。このレストランは高級と言う程でもなく、座席数もそんなに無かった。客は誰も居らず、我々は中程のテーブルに着いた。
 それから間もなく、中国人風の男2人と均整の取れたミニスカートのかわいい女性が入って来た。先頭の男がたれ目であったので、私は声を出して「先頭の男はひどくたれ目だったぞ。」と牛丸に言った。彼等は我々の直ぐ後のテーブル席に腰掛けた。私の位置から振り向かなければ彼等が見えないが、牛丸の席からは良く見えた。
すると耳元で牛丸が、「おい、あれは加山雄三と田中邦衛だぞ。」と言うのであった。振り返ってよく見ると確かにそうであった。すると「たれ目」と私が言った事が聞こえてしまったか、『うまくなかったかな』と案じてしまった。
料理が出て来て、我々は食事を楽しんだ。彼等の話し声は少し聞こえたが、話している内容までは分らなかった。私は時たま振り返って彼等の方を見た。加山は女性と英語で話をしていたが、田中は英語がまるっきり駄目な様で、二人の会話に入れない状態であった。その内に彼等の話し声も少し聞こえてきたが、その話題も我々と同じ様な内容であったが、加山の口調は少し粗い感じがした。
牛丸は席を立ち、彼等の方へ話しに行った。私は別に話をしたいとは思わなかった。過去何回か『若大将シリーズ』を見た事があったが、彼個人、又1人のスターとしてそんなに興味が無かった。私としては日本だろうが外国であろうが、たとえ有名な映画スターが隣の席に居ると言うだけで、わざわざ話をしに行く気に成れなかった。否、寧ろ外国だから返ってそっとしておいた方が彼等の為にも良いのではないかと思った。だから牛丸に「やめろ」と言ったが、彼は加山達の席へ行った。牛丸の聞いた話では今度、『南太平洋の若大将』のシリーズ撮影で当地に来ている、との事であった。
我々がレストランを出る時、牛丸は又、彼等の所へ行って、「良い映画を作って下さい。」と言った。私は彼等に黙ってレストランを出た。余談だが、それから2年後のある私鉄の車内で田中邦衛を見掛けた事があったが、加山雄三とはあれ以来、1度も見掛けてない。
 シドニーで知り合った日本人仲間の栗田、岡本、丹羽、牛丸と共に、明日飛行機で帰国する丹羽のオーストラリア最後の夜、キングス・クロスを散策して過した。我々日本人仲間がこの様に集まって、共に語らいながら散策するのは初めてであった。私の傍に仲が悪い岡本と栗田が共に居るのも珍しかった。仲直りしたのか、分からなかった。
 私が2ヵ月半シドニーに滞在して日本人に出逢ったのは、ビジネスマン、観光客を含めて彼等だけ(杉本を入れて、加山氏と田中氏は入れない)で、他の日本人とは1度も会わないし、見掛けなかった。日豪の貿易が盛んになったとは言え、狭いシドニーの街に日本人ビジネスマンや団体を含めて観光客を1度も見なかった。オーストラリアは白豪主義政策取っている昭和43年~44年当時の日本人は、まだ数える程であった。