YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

白夜を楽しむ~レニングラードの旅

2022-07-26 15:19:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
    △レニングラードのネヴァ川の畔にて~案内してくれたガイドと

・昭和43年7月19日(金)曇り(白夜を楽しむ)
 目を覚ますと、広大な草原の中を列車はひた走っていた。その景色は変わらない緑一色の世界、改めてソ連の国土の広さを感じた。車中の居心地はまぁまぁで、良く寝られた。7時30分、レニングラードのモスクワ駅に到着した。レニングラードは、ソ連第2位の都市(帝政ロシア時代の首都・ペトログラード)であった。
 ホテルに到着し、荷物を置いて直ぐにバスで市内観光になった。ガイドさんは、美人のロシア人で数々の名所・旧跡を案内してくれて、忘れる事が出来ない旅の1ページになった。彼女はいつも説明の最後に「This is one of the most famous and beautiful buildings 」と言って終るのが口癖と言うか、案内の一つの形式であった。モスクワのガイドさんは日本語で案内してくれたが、こちらでは英語であった。


△レニングラードのネヴァ川の畔にて~巡洋艦オーロラ号(十月革命はこの艦の号砲から始まった。その記念する巡洋艦)
                         
 夕食後、私、照井、鈴木の3人は街へ散歩に出掛けた。このレニングラードはネヴァ川と切っても切れない縁のようであった。そして市内縦横に走る運河があり、まるで『水の都』の感じであった。ネヴァ川は綺麗で、ポンポン船がのんびり往来していた。建物や街の雰囲気は、モスクワより明るい感じがして、少しヨーロッパ的な雰囲気が漂っていた。
 夜の9時、10時になっても暗くならなかった。市民、恋人達(モスクワでは若い男女のカップルを見掛けなかった)は公園、河畔に集い、一時の夏の夜(白夜)を楽しんでいた。『白夜、運河、革命と石造りの街』、それが私のレニングラードの印象であった。

△エルミタージュ博物館出入口にて~ヤポンスキー(日本人)を珍しがるウクライナから来たオバチャン達と記念写真

レニングラードの旅~白夜を楽しむ

2021-07-19 08:20:58 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月19日(金)曇り(白夜を楽しむ)
 目を覚ますと、広大な草原の中を列車はひた走っていた。その景色は変わらない緑一色の世界、改めてソ連の国土の広さを感じた。車中の居心地はまぁまぁで、良く寝られた。7時30分、レニングラードのモスクワ駅に到着した。レニングラード(現在は『サンクトペテルブルグ』と改称)は、ソ連第2位の都市、帝政ロシア時代の首都(ペトログラード)でもあった。
  ホテルに到着し、荷物を置いて直ぐにバスで市内観光になった。ガイドさんは、美人のロシア人で数々の名所・旧跡を案内してくれて、忘れる事が出来ない旅の1ページになった。彼女はいつも説明の最後に「This is one of the most famous and beautiful buildings 」と言って終るのが口癖と言うか、案内の一つの形式であった。モスクワのガイドさんは日本語で案内してくれたが、こちらでは英語であった。
                         
△レニングラードのネヴァ川の畔にて~ガイドと記念写真
 
 夕食後、私、照井、鈴木の3人は街へ散歩に出掛けた。このレニングラードはネヴァ川と切っても切れない縁のようであった。そして市内縦横に走る運河があり、まるで『水の都』の感じであった。ネヴァ川は綺麗で、ポンポン船がのんびり往来していた。建物や街の雰囲気は、モスクワより明るい感じがして、少しヨーロッパ的な雰囲気が漂っていた。
 夜の9時、10時になっても暗くならなかった。市民、恋人達(モスクワでは若い男女のカップルを見掛けなかった)は公園、河畔に集い、一時の夏の夜(白夜)を楽しんでいた。『白夜、運河、革命と石造りの街』、それが私のレニングラードの印象であった。
 
                       
△レニングラードのネヴァ川の畔にて~巡洋艦オーロラ号(十月革命はこの艦の号砲から始まった。その記念する巡洋艦)

                        
△エルミタージュ博物館出入口にて~ヤポンスキー(日本人)を珍しがるウクライナから来たオバチャン達と記念写真


モスクワで見た事・感じた事~モスクワの乗合いバスの話

2021-07-18 13:01:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
*モスクワの乗合いバスの話                                      
バスの運転手は、これ又例外ではなく、太った中年女性が殆ど占めていた。しかも運転手一人で車掌が居ないバス、それが珍しかった。
東京含む関東ではまだ、運転手一人(ワンマン運転)による運行はなく、必ずバスガール(車掌)が乗車して、切符の発売・回収や停留場の案内をしていた。
 乗客は車中の所定位置にある発券機にコインを入れて小さい切符(国鉄の乗車券位の大きさ)を買って自ら改札(入鋏)していた。前もって買ってある大き目の切符は乗車してから自ら鋏を入れていた。不正乗車する人は、モスクワにはいないのだ、と私はそう見た。皆、乗車マナーが良く、混んで切符を買えない時など、発券機の傍に居る人に頼んで切符を買って貰ったりしていた。私は、社会主義社会の一つの縮図を見た様な思いがした。
 地下鉄もそんな感じであった。乗る人は、乗客ではなく、利用者である、と判断すべきなのだ。利用者であるので客面をしたり、横柄な態度をしたりはしないのだ。公共物は皆の物なのだ。従って、それらは自分達で、しかも出来る範囲内で協力し合い、権利と義務を行使しているのであった。だから、不正乗車、無賃乗車をする人は『非国民』と見なされるのではないか。従ってバス運転手は一切、乗車券・営業に関わる業務はしない、安全運転に集中していればそれで良い、と私はその様に見た。
  置き去りにされたおかげで、20数分間のバス乗車であったが、資本主義国である日本とでは全く正反対な一面を垣間見た思いであった。

モスクワで見た事・感じた事~モスクワの女性達の話

2021-07-18 12:32:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
*モスクワの女性達の話
 モスクワ性は、均整の取れた美しい子が多かった。その反面、中年になったおばさんは、殆ど恰幅がよかった。多分、脂っこい物を多く食するからであろう。それとも民族性なのであろうか。                             
 ソ連の女性は、結婚しても共稼ぎが原則になっているのか、あらゆる方面に進出していた。タクシー、大型バス、トロリーバスの運転手は勿論の事、地下鉄の電車運転士も彼女達が占めているのに驚いた。貫禄ある女性の運転士を見ると頼もしさを感じた。しかし、その反面よく観察すると、男性は兵役に回されているのか、その労働力不足を女性達が補っていると思われる程、街に軍服を着た軍人達を多く見掛けた。
  気付いた点ですが、何処へ行っても婦人達(若い女性やおばさん)は、皆スカート(欧米で流行っているミニスカートは見受けなかった)を履いていて、ズボン(スラックス)を履いている姿がまったく見受けられなかった。『如何して』と、私は疑問に思った。それともスラックスを履いてはいけないのだろうか。そして若い女性は若さがない、と言うか覇気が無いし、ファッション(おしゃれ)に対する感性が欠けている様に見受けられた。
何はともあれ彼女達に幸あれ、と願うだけであった。

モスクワで見た事・感じた事~モスクワの地下鉄の話

2021-07-18 12:15:12 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
*モスクワの地下鉄の話
 モスクワの地下鉄(Metroメトロ)は、全線均一の5コペイカ(20円)でした。利用者(社会主義国だから「乗客」とは言わない~私の私見))は改札を入る時に5コペイカの硬貨を投入口に入れるだけで入場が出来た。入れないでそのまま改札口を通ろうとすると、鉄の棒が横から出て来て、改札通路を遮断する仕組みになっていた。大きな駅の何通路もある改札口でも改札係員は一人で、ただ利用者が通過するその状況を見ているだけでよかった。改札の合理化はモスクワが最初であろう。叉、全線均一であるからこそ出来るこのシステムに、私は率直に感銘した。*日本の大きい駅・ターミナル駅では鋏(改鋏=かいきょう)を持った何十人もの改札係員や集札係員が配置されている。
 改札を入ってホームへ行くのに地下深く(100メートルから200メートル位)エスカレーターで降りて行った。こんなに深くホームがあるは戦争の時、市民を守るシェルターの役目をしているとか。ホームは大理石で出来ていて、約50メートル間隔で大きな大理石の彫刻像があった。又、ホーム照明は天井から豪華なシャンデリアが幾つも下っていた。それはまさしく宮殿の中に居る感じであった。ホームに塵一つ、吸殻一つ落ちてないのには、本当に感心した。私は滞在中、5・6回ほど利用したが、何処の駅でも綺麗であった。駅の綺麗さとゴーリキ通りにあるレストランのトイレの汚さは反比例していたが、同じ国営なのに如何してなのであろうか、私は不思議でならなかった。
 又、何処の駅でも案内用電光表示路線図があり、目的地のボタンを押せば利用路線と乗換駅が一目で分るようになっていた。電車内の感じは日本と変わらず、スピードは早く、走行音はうるさくなかった。最前部の運転席には皆、恰幅の良い中年女性が2人乗務していた。その代わり、最後部の乗務員室には車掌が乗務していなかった。
  モスクワの地下鉄は、本当に素晴らしく想像以上であった。私は言いたい、『モスクワの地下鉄を乗らずして、地下鉄を語る事なかれ』と。

モスクワの旅~置いてけぼりになる

2021-07-18 07:57:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月18日(木)晴れ(置いてけぼりになる)
  
           △赤の広場にて

 今日も観光バス(愛称カモメ号)で市内観光をした。案内役は昨日の女性であった。市内観光が終り、午後0時30分頃に赤の広場の指定集合場所に戻ると私と橋本さんを残し、バスは既に行ってしまった。2人で如何しようか話をしていたら、暫らくしてJTB現地付添人の清水さんが戻って来た。そして3人は市内循環バスでホテルに戻った。お陰様で私はモスクワのバスに乗車する事が出来て、良い体験をした。ホテルに戻った後、私と橋本さんは遅い昼食を取った。グループの仲間は、日本とソ連の社会の仕組みについて話し合っていた。
  「ソ連は車に優先権があるので、車に轢かれないように十分注意して下さい」と出発前の説明会で注意を受けていた。従ってこの国では、歩行者が車に注意を払うので返って事故率が低いらしい。車優先とは、如何にも社会主義国ソ連らしいが、歩行者優先とどちらが良いのであろうか。それにしてもモスクワの道路の整備状況は、日本と段違いであった。歩行者専用路(歩道)は自動車専用道路とはっきり分けられ、しかも広すぎるほど十分取ってあった。広い国の社会主義国だからこそ出来る事なのだ。そして自動車台数も東京と比べてモスクワは少ないので、日本と逆な制度も可能なのであろう。


 △アルハンゲリスキー大聖堂にて~日本人が珍しいのか「ヤポンスキー、ヤポンスキー」と言って私に群がるウクライナから来たピオネール(ソ連共産主義同盟少年少女の組織)の子供達。
 
 今夜、モスクワからレニングラードへ行くので、午後は日記を書いたり、友達、家族、そしてシーラに手紙を書いたりして過した。その後、ウクライナホテルで最後のデナーを楽しんだ。食事はいつもフルコースであった。スープ(ボルシチ)で始まり、果物、ティーで終った。船上で初めてロシア料理を口にした時、口に合わなかったが、今では美味しくいつも楽しみであった。同行仲間の話しによると、街のレストランは注文してから料理が出るまで2時間近くかかったそうだ。そしてウェイトレスの接客も悪かった、と悪評であった。それに反してここのホテルのレストランは、料理を始め、ウェイトレスの態度、機敏な仕草等には感心するほどで、全く不満は無かった。多分、『外国のお客様に不快な思いをさせないように、ソ連の良い印象を持って貰おう』と言う政府、或いはインツーリストの計らいなのであろう。お陰で私は楽しいモスクワ観光やホテル滞在が出来てインツーリストに有難う、と言いたかった。                                                           
 午後10時55分、モスクワのレニングラード駅からレニングラードのモスクワ駅に向けて列車は出発した。楽しいモスクワの思い出を乗せて・・・。不思議な事に、ソ連では出発地の駅名が到着地の地名になっていて、到着地の駅名が出発地の地名になっていた。初めての旅行者はまごつくであろう、と思った。

モスクワの旅~社会主義に思う事

2021-07-17 14:22:20 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月17日(水)小雨後曇り(社会主義に思う事)
   ―観光の話は省略。―
 午後は自由時間となり、自分の好きな所へグループを作って出掛けた。私は橋本さんと大学准教授の森本敏さん(野田政権当時の防衛大臣)の3人で、有名なゴーリキ通り(モスクワの銀座)へ出掛けた。外国での散策と言うか、ブラブラと街を歩くだけでも物珍しい物を発見したり出逢ったり、とにかく色々な物に対して新鮮さを感じ、とても楽しかった。
 その足で我々は革命博物館へ行った。ロシアの第1、第2革命、及び10月革命等に於けるレーニンの革命の記述、それから彼が使った椅子、机、ノート等日用品が展示され、革命が起こるべきして起こった印象を得、偉大なレーニンの再発見でもあった。なお、この館の中での写真撮影は禁止であった。
 帰り際に道に迷った我々は、博物館の中で出会った高校生らしき若者に助けられた。彼は我々の為に自分のお金で地下鉄の改札口を開扉してくれて、ウクライナホテルがある最寄り駅まで連れて来てくれた。何と親切な学生であろうか。特に異国の地では、人の親切が身に沁みた。彼の行為に対し、感謝の印として森本さんがボールペンを渡した。彼は喜んで胸に付けてあったレーニンのバッジを取り外し、彼の胸に付けた。我々はそのタイミングの良さに感心し、彼と握手して別れた。
 彼を含めてソ連人の喜ばれる物を我々は既に知っていた。ナホトカやハバロスクで、子供達が「チュウイングガム、チュウイングガム」と言って寄って来た。与えてやると彼等は、小さなレーニンバッジを引き換えにくれた。学生達は我々が公園や街のベンチに座っているとボールペンを求めて来たり、闇関係の男達はセイコーの時計やドルを、又女性達はナイロンの靴下を求めて声を掛けて来た。ソ連はこれらの品物が大量に出回っていないので、貴重品の部類に入るのであろう。彼等は物乞いや乞食の様な感じはしなかったが、消費生活に於いて満たされないソ連の現状のワンシーンを見た。
 ホテルで夕食を取った後、鈴木さん(仮称、以後敬称省略)、照井さん(仮称、以後敬称省略)、そして私の三人はゴーリキ通り周辺へ散歩に出掛けた。我々はビールで一杯やろうと言う事で、裏通りやあちらこちら探したが、東京の様な飲み屋は全く見当たらなかった。
  『仕方がないのでレストランでも入って飲もう』と思っていたら、何処の店も待っている人の行列で、混んでいた。この時、私は用を足したくなったので、あるレストランのトイレを借りた。しかし、モスクワ一番の繁華街で表向きは綺麗なレストランであったが、トイレは余りにも汚く臭いのでビックリした。ウンコをする所は、日本式(ぽっとん便所)でも西洋式(水洗)でもない、私の未体験のトイレであった。仲間達の情報によると、何もここのレストランだけが汚く、臭いのではないらしかった。概してソ連のトイレは、似たり寄ったりと、の事であった。日本の一般的家庭のぽっとん便所の方がよっぽどましで、彼らの衛生概念の低さはどうなっているのであろうか、と思った。その様なトイレで用が足せるソ連人の我慢強さには、〝インド人もビックリ〟(どの様な訳か、日本でこの言葉が流行っていた)したであろう。
いずれにしても飲み屋、或いはバーの様な酒場を探すことは出来なかった。要するに、『ソ連には飲み屋が無い』と我々は判断した。
 我々が公園のベンチに座っていると、ドル買いやセイコーの時計を買い求めるおじさん達が五月蝿かった。崇高な社会主義の理想に邁進しているソ連で、こんな人々が存在していると思うと、あの革命はいったい何であったのであろうか。私は疑問を感じた。
 我々は飲むのを諦めきれず、先程見掛けた『メトロホテル』と言うホテルへ入る事にした。所が入ったのは良いが、私は一瞬、躊躇を感じてしまった。鈴木と照井も入った瞬間、その雰囲気に躊躇したようだ。と言うのは、ホールは豪華で立派過ぎたのであった。ホールも然る事ながら、辺りを見ると皆、貴族の様に着飾った人々で各テーブルは賑わっていた。舞台には多くの演奏家が配置されてオーケストラで、ゲスト用のテーブルと舞台の間には広くスペースが取られ、シャンデリアの下で紳士淑女がダンスをしていて、豪華絢爛まるで宮廷の雰囲気が漂っていた。私はこの国が労働者階級と言うか、プロレタリア階級の国であることを一瞬疑った。誰からともなく、「ここで飲もうぜ」と言って席を探していたら、ボーイが近寄って来て、一番後ろの空いているテーブルを案内してくれた。我々3人とも背広を着ていて、恥をかかずに済んだ。他のボーイが注文を取りに来たので、「ピーボ」(ビールの意味)と言って指3本立てた。1本50コペイカ(200円)で、格式ある雰囲気の割に安くて助かった。私は、「これから多くの国、そして出来るだけ長く旅を続けよう」と思っていたので、本当はビールなんか飲んで贅沢していられなかった。回りのテーブルを見ると我々の注文は余りにも貧しく、場違いであったが、構わず11時までここで話しを積もらせた。
私はこの2人と今日初めて話をした。そして彼等も私と同じように、「会社を辞めて出て来た」との事であった。話をしている内、お互い気持が打ち解け、「以後、共に旅をしよう」と言う事になった。帰りは地下鉄に乗って帰って来た。


△モスクワのある果物売店(キヨスク)にて~今日、飲み屋を探していると果物を売っている小さな売店を見掛けた。品数、種類も少ない、それなのに長い行列を作ってまで買い求めていた。そんな光景が珍しく、私は写真を撮ったらおばさん達に睨まれ、そして捲し立てられる様に怒鳴られた。凄く怖かった。どうも市民生活を撮ってはいけない感じであった。

鉄道と空の旅~広大な原野を列車と空の旅

2021-07-16 08:30:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月16日(火)晴れ(広大な原野を列車と空の旅)
 朝起きると、列車はシベリアの原野を走っていた。私にとって生まれて初めて見るソ連の雄大な景色と大地。行けども行けども家は見当たらなかった。延々と続く白樺の森、それを過ぎると草原が広がる地平線であった。果てしなく続く大地、その光景は尽きる事がなかった。
 食堂車で朝食を取った後、乗船仲間達と通路に出て、又この景色を眺めていた。すると昨夜の女性乗客係2人がやって来た。誰かが彼女達にロシア民謡を歌ってくれるようお願いしたら、彼女達は嫌がる素振りもせず、カチューシャ、トロイカ、トモシビ等を歌ってくれた。大変上手で、しかもその歌と景色がマッチして、皆の心の奥深くジーンと来るものがあった。我々も彼女達と一緒に日本語でそれらのロシア民謡を歌って列車の旅を楽しんだ。この時、私を含めて皆も彼女達が好きになり、いつまでも共に居たい気分になってしまった。しかし、ナホトカ生まれのシベリアの大地が良く似合う、愛くるしい彼女達とも別れなければならなかった。
 10時50分、列車はハバロフスク駅に到着した。ヤードも長く大きい停車場で、鉄道の主要駅である事は直ぐ分った。着いたホームにて、飛行機でモスクワへ行く我々一行と、他の列車に乗り継いで行く4人か5人の小グループとに別れた。
 モスクワまでの運賃は、飛行機と列車は同じぐらいと聞いているが、一長一短があった。列車ではハバロフスクからモスクワまで一週間、或いはそれ以上かかるが、広大なシベリアの景色が楽しめる。しかし、船ならともかく列車に一週間以上乗っていられるか。人間が時を過ごすには、余りにも空間が狭すぎるから精神的、肉体的に不健康、そして雄大な景色も毎日だと単調過ぎて飽きる、と思った。飛行機は9時間でモスクワへ行けるが、シベリアの景色は楽しめない。どちらにするか、それはその人の旅の仕方だ。私を含めて多くの旅行者は、飛行機で行く『セット』となっていた。考えてみると、『一度で良いからあの雄大なシベリアの原生林や平原を縫って行く列車の旅も良いなぁ』、とも思った。でも既にナホトカ~ハバロフスク間でその様な体験をしたので、それで我慢しなければ・・・
 我々は昼食を取る為、バスでレストランへ行った。「行った」と言うより全てソ連のインツーリストによって、「連れて行かれた」と言うべきで、受動的なのであった。
ソ連のセット旅行について忘れない為、もう少し詳しく書いておく事にした。
セット旅行の行程は、横浜~(船二泊)~ナホトカ~(列車)~ハバロフスク~(飛行機)~モスクワ(二泊滞在)~(列車)~レニングラード(一泊滞在)~(列車)~ヘルシンキ(グループ解散)。この様な旅程でフィンランドの首都ヘルシンキまでインツーリスト(ソ連公営旅行社)によって仕切られ、セット代金は前に書いた通り、既に海外ドル持ち出し分500ドルの内から70ドルを払い込み済みであった。
 ソ連は、ついこの前まで〝鉄のカーテン〟(ソ連を含む東欧の社会主義諸国が欧米の自由主義国に対して取った閉鎖的な政策。従って、旅行も受け入れていなかった。)で閉ざされていた。いずれにしてもどの様な旅行形態であれ、旅行が出来るようになったのは、良い時代になったと思った。しかし、これから何時発の飛行機に乗って、モスクワではどんなホテルに泊まるのか、モスクワ見物はどんな所へ案内してくれるのか、我々には一切前もって知らされていなかった。常に直前になってから知らされるのであった。ただ出発前に知らされたのは、『モスクワ市内見物には、現地JTBの職員が同行してくれる』と言う事だけであった。普通の団体旅行であったなら、パンフレットや事前に必要な時間や行程を知らしてくれるのが当たり前であるのだが、共産主義国家・ソ連と言う事で、何か納得している面があった。その様な事で、全てインツーリスト任せにしてしまうのも、自分であれこれ思い巡らす、又は気を使う必要もないから、ある意味で随分と楽であった。ヨーロッパへ安く行ける手段だけでなく、旅に慣れるまで最初、この様にセットされている方が皆にとってもベターであった。
  そうだ、ソ連で一番注意しなければならない点、それはカメラの扱いであった。出発前日の丸の内ホテルでのミーテングで申し合せとして、JTBの方が「飛行場、軍事的建物、飛行機からの上空写真は、決して撮ってはいけません。又、観光地や表通り以外の不信と思われる場所での写真撮影は遠慮すべきであって、万が一スパイ行為、或いは、トラブルになっても当公社は一切責任を持てません」と何度も言われていた。これは、『ソ連と言うお国柄』であると十分理解すべき重要な事項であった。
話を戻すが、バスの中から垣間見たハバロフスクの印象は、建物(公共・住宅問わず)や広い道路はよく整備されて、道路脇のポプラ並木と本当に良く調和されていて、落ち着いた感じがした。又、日本では何処でも見掛ける商業的看板類がなく、街の規模の割に大通りも閑散としていた。我々の感覚としてシベリア第一の都市にしては、余りにも殺風景な感じであった。
我々はレストランで昼食を取った後に飛行場へ行った。3時間近くたってやっと〝プロペラ機TU114型機〟(私がどうして飛行機の型を知ったか分らない)に搭乗する事が出来た。

        
    △ソ連製プロペラ機TU114型機(ネット写真=PFN)

 生まれて初めて搭乗することになった飛行機。楽しさ、そしてちょっぴり恐怖感もあった。飛行機事故は、離陸する時と着陸する時に事故率が一番高いと聞いていたので、私はその時が一番不安を感じた。又、怖かったのは飛行機がエアーポケットに入った時、墜落しているかの様に200メートルから500メートルぐらい降下した。その状態は、飛行機が水平飛行をしていたのに突然、機体がガックとなって足元がスーゥとなって、後は無重力の状態で降下して行く感じであった。最初、墜落しているのだと思い、背筋が寒くなる感じがした。グループの女性達は、「キャー、キャー」騒がしかった。何回も降下回数を重ねると、又時間が経つにつれてエアーポケットの状態に慣れて来たのか、我々は平然となった。
 飛行機から眼下の眺めは最高で、まさしく天国から眺めているかの様であった。遥か下の方に広がるシベリアの原生林、尽きる事のない平原。そしてエニセイ川やオビ川は、大河なので機上からでも直ぐ分った。これがソ連なのか、ただ感嘆するばかりであった。私は窓際だったので、眼下の景色ばかり眺めていた。
 飛行機は太陽に向かって西へ西へと飛んでいるので、時間が過ぎても一向に暗くならなかった。モスクワ上空に着いた時、私の時計は午後の10時頃であった。着陸前、「時計を午後の3時に合わせて下さい」とアナウンスがあった。飛行時間9時間30分、時差が7時間あるので時計の上では、2時間半でモスクワに着いた事になった。
 今日、私は食事を6回も取った。1回目は列車乗車中に朝食を、2回目はハバロスクのレストランにて昼食を、3回目は飛行場が飛び立って間もなく機中にて昼食(3時間前に食べたのに、如何して又食事なのか、不思議に思った)を、4回目は機中にて夕食を、5回目は機中にて又夕食を、6回目はモスクワ市内のレストランにて又又夕食を取った。私の人生に於いて、食事を1日6回取った事は過ってなかったので、お腹の方もビックリしたであろう。
 何はともあれ、飛行機は下降上昇を繰り返しながら、モスクワのドモジェードボ空港に無事、着陸した。空港は、市の中心から50キロ程離れているとの事で、空港から専用バスで市内へ。車窓からの景色はいかにもソ連らしく白樺の林が続き、そして間もなく労働者の団地群を眺めながら40分で市内へ入った。  
 広々とした道路を行き交う車や人の群れ、そしてトロリーバスや市電の運転手は皆、恰幅の良い中年のロシア女性であった。「やっと、そして終にモスクワに来たのかぁ」と言う感じと、「3泊4日でもう着いてしまったのか。随分モスクワは近いのだなぁ」と言う、2つの感じが入り混じって複雑な心境であった。
 着いたホテルは、ウクライナホテルと言って、25階建ての高層ビルデングで立派であった。私の部屋は8階、阿部さんという人と同室であった。室内は豪華であり、調度品も年代物と思われる代物であった。こんなに素晴らしい部屋は初めてであり、今後の旅行中でも2度と泊まれないであろうと思った(実際、ソ連以外は帰国までこの様なホテルに泊まれなかった)。ともあれ浴室で旅の垢を落とした。
  夜(実際は昼間の様に明るかった)、ホテルの周辺を散策した。床に着いて寝ようと思ったが、直ぐに寝られなかった。午後11時になっても暗くならず、翌朝1時頃、カーテンの隙間から日が差し込み、明るくなってしまった。モスクワの夏の1日は本当に長かった。寝不足気味になるのも当然であった。

鉄道と空の旅~初めて見る外国と鉄道技師との出逢い

2021-07-15 14:31:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月15日(月)晴れ(初めて見る外国と鉄道技師との出逢い)
*参考=ソ連の1ルーブルは、約400円(1コペイカは約4円)
 早朝から晴れていた。旅にとって天気が良いのは一番、身も心も晴れ晴れであった。海も穏やかで、ハバロスク号は一路ナホトカ港へ向かっていた。船旅は3日目になり、航海も終りに近づきつつあった。船酔いも治り、体調は良かった。午前中、デッキで大海原を眺めていたり、日光浴をしたり、写真を撮ったりして過した。
 午後1時30分頃、遥かかなたに陸地が見えて来た。段々近づくにつれて山脈が連なり、山々が真っ白な雪で覆っているのが確認できた。何と言う山脈であろうか、知る由もなかった。空は青々と何処までも続き、山脈とのコントラストが美しかった。『ようこそソ連へ』と言ってくれている様で、ソ連の旅が楽しみであった。
 午後4時30分頃、船は静かにナホトカ港に入った。『あぁ、やっと、そして、とうとう外国に到着したのだ』と感激も一塩であった。しかし、港湾労働者達はする事がないのか、ボケーと座っていて、デッキから見たソ連のナホトカの第一印象は、何か活気がなく、寂しい感じがした。
 やがて税関士が船室に入って来て、トランクに何が入っているか、所持金は幾ら持っているか等々の検査があり、関税申告書にその金額を記入した。これは通貨交換の時に必要な物であった。橋本さんは私と小田より、大分時間を掛けて役人に厳しく調べられていた。
 フィニシュカード(入国手続き完了証明書)を貰って、我々一行は下船した。それは私にとって勿論、他の人達にとっても初めての異国の地、その第一歩であった。ガランとした静まり返る港に革命50周年を祝うレーニンの赤旗や横断幕だけが我々を迎えてくれた。ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、ロシアと言うイメージが強いので、私はヨーロッパの感覚を持っていた。しかしウラル山脈を境にして東はアジア、西はヨーロッパだとすれば、私の旅の第一歩を踏み入れたナホトカは、同じアジアであった。
  我々は港から駅へバスで移動した。バスの中から垣間見たナホトカの町は、道路や街並みが良く整備され、落ち着いた何かヨーロッパの雰囲気があった。車は日本と逆で右側を走っていた。駅に着いた時、既に電気機関車が牽引するハバロスク行きの列車が停車していた。翌朝見たらジーゼル機関車に変わっていたので、途中までしか電化されていなかった。いずれにしろ列車は午後7時15分、ほのかに薄暗くなったナホトカの駅を後にした。
   
    △ナホトカ駅構内の光景-この列車でハバロフスクへ

私が乗った車両に女性の車掌(乗客係と言うべきか)2人が乗務して、我々を接待してくれた。彼女達は初々しく、感じが良かった。そして英語が話せるので、コミニュケイションが計られた。話をして分った事は、2人とも大学生で夏休み期間中、(日本人観光客の為)車中で働いていて、9月になったら又、学校へ戻る、との事でした。他国でどんな言葉でも良いから、少しでも理解し合える事は、楽しい事であった。
 夕食後、通路に出て仲間達と話をしていたら、「コンバンワ」と日本語が耳に入って来た。振り向くと鉄道係員が話し掛けて来た。私はこの列車の車掌だと思い、同業意識を出して「私も鉄道員で、運転士をしていました」と英語言った。
「そうですか、運転士ですか。私は英語より日本語の方が良く分ります。こちらへ来て話をしませんか」と日本語の返事が帰って来た。この車両の後部にある乗務員室に案内された。そこは国鉄の乗務員室と同じ、室内は薄暗かった。でも、日本語の分るソ連の鉄道員と出会うとは、驚きと同時に大変嬉しかった。
「大変日本語が上手ですね。何処で習ったのですか」と私。
「私は独学で2年間勉強しました。2ヶ月前に日本へ行った事もあります。1週間位の新幹線の視察が目的でした。日本の新幹線は素晴らしいですね」と彼。
「そうですか。日本は如何でしたか」と私。
「素晴らしい国ですね。私は日本が好きになりました」と彼。
「視察と言いますと、この列車の車掌さんではないのですね」と私。
「私は鉄道技師です。国から派遣されて行きました」と彼。
私達は鉄道の話題で意気投合してしまった。第二シベリア鉄道建設計画の為、日本へ視察派遣された技師であったのだ。私はこの様な人に出会えた事が、本当に嬉しかった。
「日本では鉄道事故、例えば列車衝突とか自動車と衝突した時の踏切事故等、新聞やテレビ等でニュースになりますがソ連も同じですか」と私。
「ソ連も同じ様な事故が起っていますが、新聞には載りません。テレビや新聞で報道されたら、返って乗客の人が恐怖を感じるでしょう」と彼。
成る程、と思った。いちいちその様な記事やニュースをマスコミに報道しないソ連の官僚的・独裁的・報道の自由がない一面でもあろう。ニュースとして出すと国家としてのマイナス面があるのかも、思った。しかもソ連は広い国、一共和国、一地方の交通事故で一々載せる紙面を持ち合わせていないし、ニュース源としても乏しいのも事実であろう、と思った。
「ソ連の運転士さん、例えばこの列車の運転士さんは、月どの位給料を貰っているのですか」と私。
「月に120ルーブルから150ルーブルは貰っています。私も150ルーブル以上は貰っています。私の妻も仕事をしていて、100ルーブル貰っています」と彼。
待てよ、1ルーブルは400円(1コペイカは4円)であるから48,000円から60,000円か。私が辞める直前の平均給料は諸手当込みで32,000円位であったから、80ルーブルか。物価はこちらの方が安いし、私より高い給料を取っているので生活は、ソ連の方が日本より住み良い、と思った。
「テレビとか車等、自由に買えるのですか」と私。
「その様な物は買う気なら買えます。しかし、現状は〝計画生産〟の為に順番制になって、いつでも買えると言う訳には行きません。しかも、それらは割高です」と彼。
「そうですか。日本は家を購入するのは高く、大変です。ソ連はどうですか」と私。
「私は政府から与えられたアパートに住んでいます。多くの人はそうですね。私の住まいはハバロスクですから、着いたら是非、遊びに来て下さい」と彼。
「有難うございます。是非とも貴方の家へ行って見たいのですが、ハバロスクに着いたら直ぐに飛行場へ行き、モスクワへ飛び立たなければならないのです。時間的余裕がなく、本当に残念です」と、私は彼の親切な誘いを断らざるを得なかった。
相手の家に招かれるのは、最高の『もてなし』と欧米では言われている。私の1年間の旅でその様な事は2・3回程度で、その様な機会は滅多に無かった。この世界は、米ソの2大国家があらゆる面で凌ぎを削っているのが現状で、その一方の家庭を垣間見たかったのは事実であった。
「それは残念ですね。もう遅くなりましたから、そろそろ休みましょうか」と彼。
「そうですね。今夜は本当に楽しく、大変有意義でした。お休みなさい」と私。
「お休みなさい。良いご旅行でありますように」と彼。
「有難うございます」と私。
彼との会話は為になったし、本当に楽しかった
 私は翌日も会えるとばかり思っていたが、彼は既に見当たらなかった。彼の名前も住所も分らず、本当に残念であった。今回の旅で日本人以外の出逢いは、彼が最初であり、そして最初の別れになった。余談であるが、私の1年間の旅行中、日本人以外の人と日本語でこれほど多くの事を語り合ったのは初めてで、これが最後であった。
  私が寝てからも列車は、一路ハバロフスクへ闇夜をひた走っていた。機関士さん、車掌さん、ご苦労様です。お休みなさい。

船旅~船旅を楽しむ

2021-07-14 08:05:22 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月14日(日)曇り(船旅を楽しむ) 
 船旅2日目だ。船酔いも和らぎ、船内の生活も慣れつつあった。船の仲間達も落ち着きが出て来たように感じられた。私はデッキで海原を眺めていたり、娯楽室で過したり、読書をしたり、又船の仲間達と話をしたりして、のんびりした時間を過した。
 船旅の楽しみは、なんと言っても食事でした。我々のテーブル係りの20歳ぐらいの女性とロシア語で「ドーブラェウートラ」で始まり、食事が出されると「スパシーバー」、そして、食事の終りは「ダスビダ‐ニャ」で終わった。それはたわいもない言葉であるが、彼女も愛くるしく言ってくれるので、同席の仲間も大喜び、そして和やかな雰囲気でいつも食事が終わった。不安を抱いた初めての海外旅行であり、初めて接するソ連人とこの様に楽しく過せる事が出来て、皆の心も本当に和んだ。
 ロシア料理は最初、口に合わなかったが、2度3度と食べているうちに美味しく感じるようになって来たから不思議であった。今日の昼食のメニューは、赤い野菜スープ(ボルシチ)から始まり、肉料理、パン、赤い飲み物(スープとは違う)、そして最後は果物とティーであった。
 夜、ダンスパーティーが催しされた。私はクラシックダンスが踊れないので、じっと見ているだけでしたが、モンキーダンスの時、私も仲間入りして船旅の一時を楽しんだ。『ダンスを習っておけば良かった』とつくづく思った。老若男女、日本人であろうとロシア人、或いはアメリカ人であろうと区別なく踊っているその姿を見ると、『世界は一つなのだなぁ』と感じた。しかし実際、米ソは核競争、軍事競争に一層しのぎを削っているのでした。
  我々の船(ハバロスク号)は、日本沿岸に沿って北上し、津軽海峡を抜け、そして夜になって日本海に入った。同船は再びローリングして来た。私は再度、船酔いになった。
    
     △右は私と左は同室の橋本さん(ソ連船ハバロスク号にて)