YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

第4次中東戦争(10月戦争)の話し、及び平成18年(2006年)現在の状況の話~エルサレムの旅

2022-01-10 09:05:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
△古都・エルサレムの全容で中央の黄金のドームがオマールイスラム寺院(CFN)

・第4次中東戦争(10月戦争)の話し
 テルアビブ空港乱射事件の翌年の昭和48年(1973年)10月、第4次中東戦争が勃発した。ナセルの死後、エジプト大統領になったサダトによって企てられ、第3次中東戦争の敗北で失ったシナイ半島の奪還を目指したものだった。戦闘は当初、アラブ側が有利であったがイスラエル軍が反撃し、膠着状態になった。
 ここでサウジアラビアを始めとするアラブ産油国は石油戦略を用いた。彼等はOAPEC(アラブ石油輸出機構)を結成し、原油価格を一気に70%も引き上げた。さらにイスラエルを支援するアメリカへの石油輸出を禁止し、又アラブ諸国に協力的でないとみなした国家にも同様の処置を取ると宣言した。これが『石油危機』(第1次オイルショック)の原因であり、日本を含む世界経済に大きな衝撃を与えた。
 日本政府はアメリカ追随外交で、アラブ諸国に無関心であったが、手のひらを変える様に〝アラブ詣で〟(風見鶏外交と言って非難された)をして、石油確保に躍起になった。
  この戦略の発動によってエジプトのサダトは政治的な勝利を得た。戦闘は膠着状態のままアメリカのカーター大統領の仲介によって、エジプトはイスラエルと和解し、第3次中東戦争で奪われたシナイ半島を奪還したのであった。

・平成18年(2006年)現在の状況の話
 「人間(人類)は、勇気と知恵を持っている」と言われておりますが、私がイスラエルのキブツに滞在していた時から40年近く経っても、パレスチナ問題は一考に解決されておりません。
  私がイスラエルに滞在していた頃、ユダヤ人もパレスチナ人もある地域では共に暮らしていた。しかし、現在は高い障壁を築き、一定の地域(ガザ地区及びヨルダン川西岸地区)にパレスチナ人を集めた隔離政策を取る様になり、双方が暴力の応酬を繰り返されていると言うのが現実である。そして暴力行為は寧ろ悪化の一途を辿っているのが現状であり、私は憂慮している。
 
*(注)この見出しから14年後の2020年になってもパレスチナの状況は余り変わっていない様です。むしろイスラエルはヨルダン川西岸地区を自国領に編入しようと企て、又トランプ大統領と組んで首都をエルサレムにしています。日本を含む多くの国はこれについて認めていません。イスラエルの首都はテルアビブです。しかし2020東京オリンピック・パラリンピックのウェブサイトでイスラエルの首都を主催者はエルサレムと表記して問題になった。主催者側の無知を世界に曝け出してしまった、情けない話でした。

テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話 ~エルサレムの旅

2022-01-09 09:17:37 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話              
 私がイスラエルを去ってから3年後、昭和47年(1972年)5月31日(水)発行の夕刊の一面に次の様なセンセイショナルな記事が載った。
[5月30日(火)夜、日本人ゲリラ3人(岡本公三、奥平剛士そして安田安之)がテルアビブ国際空港で軽機関銃を乱射、手投げ弾を数発投げ、乗降客に100人近い死傷者(実際は死者28名、重軽傷者78名)が出た。
  3人はローマから到着したエールフランス航空機に乗客として紛れ込んでいたもので、1人は流れ弾で死亡、1人は自殺、残る1人は逮捕された。逮捕された男は『赤軍派』と名乗っているが、日本赤軍派のメンバーなのか不明。しかし、アラブゲリラ組織の1つPFLP(パレスチナ人民解放戦線)はイスラエルに対する報復行為と発表しており、アラブゲリラに同調した日本人急進派による国際ゲリラ事件と見られる。日本人による海外の事件では最大で、国際的にも直ちに大きな反響を呼んでいるが、特にユダヤ系人達の対日感情の悪化が憂慮されている]と、報道された。   
注~岡本公三は生存し終身刑になったが、後に獄中自殺した。岡本公三の兄・岡本武は昭和45年の日航機『よど号』乗っ取り犯の1人で北朝鮮へ亡命。奥平剛士はこの時に射殺、彼は赤軍派最高幹部の重信房子の夫。安田安之はこの時に手榴弾で自爆)                                                                             
 この事件が発生して、日本人の1人としてイスラエル国民にお詫びしたいと言う気持で、イスラエルに知っているミセズ・シーラ・クランケル(シーラおばさん)とキブツ代表者へ私の気持を書き送りました。
 2週間後、シーラおばさんとキブツから折り返し手紙が届きました。イスラエルの一国民がこの事件及び日本に対して如何に思っているのか、日本・イスラエル両国の小さな橋渡しとして、是非皆様にも読んで頂きたく、私が訳したシーラおばさん、そしてキブツ代表者からの手紙をここに紹介致します。

○シーラおばさんからの手紙 
拝啓
 貴方の友好的な心温まるお手紙を受け取り、大変嬉しく思います。日本人は立派な国民であると言われておりますが、テルアビブ空港で如何してこんな恐ろしい事を起こしてしまったのか、とても信じられません。彼等(岡本公三とその一派)の行為は愚かで、きちがいじみていると誰もが思っています。しかし、日本政府及び日本人がこの事件に対し取った態度は、尊敬されるものがあった、と信じております。私はイスラエルに対しこんなに面目を重んじ、又振舞ったくれた国が他に無いと思います。
 今日(こんにち)、世界的に自尊心と道義心が欠けて来ている傾向になりましたが、日本政府及び日本人が振舞ったその行為は、人間性を見るものがありました。私は紳士的に振舞ってくれた日本政府及び日本国民の皆様に、日本の新聞紙上(実際は職場新聞)を使って、私の感謝の気持を伝えたいと思っています。
 この恐ろしい事件に対し、紳士・淑女は如何に名誉ある振る舞いをすべきか、日本は一つの教訓を世界に示しました。イスラエル国民はこの愚かな挑発に対して、毅然とした態度で臨むべきだと思っております。アラブ諸国は他国の人達を使ってこれらの暴力行為をやらせている、なんと臆病者なのか、と我々は嫌悪感を抱いている次第です。
 私が最も恐れている事は、この事件によって大変悩んでいるのは日本人ではないかと・・。現にイスラエル警察当局に嫌疑を掛けられている日本人旅行者を見掛けたからです。
  最後に日本・イスラエル両国家の友好関係が益々発展される事を希望いたします。貴方のご多幸をお祈り致します。                                                 
                             敬具

○キブツ代表者からの手紙                                                                                                                                                                                                                                                                                 拝啓
  今回の事件は我々に取っても、そして日本政府、国民に取っても衝撃的なものでした。我々はイスラエル・日本両国の友好関係がこの事件で悪化する事なく、我が政府が冷静に対処される事を切に望んでおります。我々ユダヤ人もパレスチナ人も昔(パレスチナ戦争以前、所謂第一次中東戦争以前)は仲良く、又助け合ってこの地で長い間、暮らしておりました。悲しい戦争が何度か繰り返されましたが、この地に再び平和が訪れ、以前の様にユダヤ人もパレスチナ人も共存共栄して行ける、そんな時代が早く来る事を我々強く望んでおります。
 貴方はハッゼリムキブツで我々と共に仕事と生活をされて来ましたので、我々ユダヤ人の事、イスラエル国家の事を良く理解されていると思います。日本からは遥かかなたの地でありますが、どうか私達、及びイスラエルを温かい、そして理解ある気持で見守って下さい。---省略--ー                                                                                       
                             敬具

デモ騒動と夕日の美しさ~エルサレムの旅

2022-01-08 13:40:15 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和44年1月16日(木)晴れ(デモ騒動と夕日の美しさ)
 昨夜知り合ったイギリス人から靴を貰った。その靴は歩き易い感じがしたし、私も丁度欲しかったので戴いた。その彼が今朝になって「ベツレヘムへ行くから靴を返してくれ」と言うので返したが、私は考え直し「今日、私はテルアビブへ行くから駄目だ」と言って、彼に返した靴を取り返した。貰った物は既に私の物なのだ。可笑しな話であるが、人に物を与えてから今度返してと言うのである。又、貰った方の私も相手が必要なら返せば良いのであったが、これまた返さなかった。私は気まずい思いがした。
 エルサレムのユースを去り、テルアビブへヒッチで行った。ヒッチは容易であった。クリスマス・イヴの夜中のベツレヘムからハッゼリムキブツのヒッチは大変であったし、ベエルシェバから死海へのヒッチは、問題外であった。しかしそれ以外、イスラエルのヒッチはとても簡単であった。如何してなのか。私が思うに、ユダヤ人の心の中に、相互扶助の精神が生きているのであろう。   
 4時間位でテルアビブに着いた。ダン・ホテルがあるユーコン通りのKibbutz Friend Hostel(ユースではない)に泊まる事にした。このホステルにくる途中、フランスに抗議するデモに出くわした。ある情報によると、イスラエルはフランスから戦闘機を購入する為、既にお金を支払済みであったが、フランスは戦闘機をイスラエルに引き渡さないの為、フランスに対する抗議のデモであった。政治・軍事関係でイスラエルには欧米が応援して、アラブ諸国に於いてはソ連が後ろ盾になっていると言う、中東戦争の構図が顕著であった。そのフランスは今後、ソ連とも友好を保ちたいと言う意図があった為、そのソ連の後ろ盾になっている諸国と敵対関係にあるイスラエルへ、戦闘機をおいそれと簡単に引き渡せない事情があったのでした。抗議対象のフランス大使館は海岸通りにあり、学生中心のデモ隊と地中海に沈む夕日の美しさが、何とも対照的であった。 
  ホステルに着いて暫らくしたら、ベツレヘムで会った事のある日本人に再び出会った。彼とキブツ仲間のバート(Bart)の話をしていたら、そのバートが目の前に突然現れたのでビックリした。我々はここで待ち合わせをした訳でもないし、他のユースもある訳で偶然であった。夜、その日本人、バート、そして私の3人で近くのレストランへ出掛けた。ビールを飲みながら彼等と語り合い、そして色々な思い出が残ったイスラエルの最後の夜を過した。

ユダヤ教の祈り(その2)~エルサレムの旅

2022-01-07 07:47:32 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
      △正統派の女性の祈りー嘆きの壁にて

(NO1からの続き)城壁内の旧市街、オマールイスラム寺院やユダヤ教の聖地である宮の山(モリア山)を見学して嘆きの壁へ・・・

 この後、私はWailing Wall(嘆きの壁)を見に行った。嘆きの壁は、ユダヤ教神殿の唯一の遺物であり、それは中庭西側の壁だった。そして神殿唯一のこの壁は、ユダヤ人の苦難な放浪が始まってから2,000年間と言う長い間、彼等にとって最も神聖な霊場であった。嘆きの壁の前は、黒の長服・黒のズボン・黒の山高帽子を被り、揉み上げの髭をした何人ものユダヤ教信徒(正統派)が、壁に向かって泣く様な声で、しかも懸命に何かを訴えている様に祈っていた。彼等は一心不乱にユダヤ人同胞の祖国復帰と〝メシア来臨〟(救世主が現れる事)を祈り続けているのであろうか。
[イスラエルの民は苦難の歴史とその流れの中で、常にダビデ王の時代を理想と仰ぎ、懐旧の情を抱いて来た。ダビデ王への敬愛はやがてダビデの血を引く者がメシアとして現れ、民を救うとの信仰と確信に至ったのである。そしてそのメシアは、ダビデの生まれた町ベツレヘムにこそ生まれる、とイスラエルの民は期待していた]([ ]内は河谷龍彦書の「イエス・キリスト」より)。
 そう言えばイスラエルの国旗は、三角を上下二重にした星印の表示である。これは「ダビデの星」と言って、イスラエル国民はダビデ時代の再来を願い、その救世主の出現を切望している。長い放浪、迫害、そして戦いから得た彼等の望みは、ヘブライ語のシャローム(平和)であり、彼等の挨拶である「おはよう」「こんにちは」は、「シャローム」と言って、お互いに「平和であります様に」と言って挨拶に使っていた。 
  異国人、無神論者である私の様な心の不純・不潔な者は、一心不乱に祈り続けている彼等を物珍しいと言って、近づいてジロジロ見たり、写真を撮ったりするのは失礼になるかもしれないので、私は離れて彼等の様子を眺めていた。キリスト教、イスラム教、或いはユダヤ教にしろ、一心不乱にお祈りしているその姿、或いは自分の身を神に捧げているその姿は、どの宗教でも同じに見えた。彼等は真に純粋な、そして平和を愛する人々に思えるのであるが、中東を含むその周辺や世界で、如何して侵略戦争、民族紛争、或は宗教戦争が起こっているのであろうか。この中東戦争も、ユダヤ人対アラブ人(パレスチナ人)の領土絡みの戦争であり、またユダヤ教対イスラム教の宗教戦争に思えた。




  △ユダヤ教徒の巡礼者の一団の写真2枚―嘆きの壁前にて
 
 嘆きの壁を見た後、その周辺とあのオマール・イスラム寺院の間をウロウロしていたら、私が不審者に見えたのか警備兵に呼び止められ、職務質問と旅券の提示を求められてしまった。彼からすれば、私の行動が挙動不審に思ったので、任務として対応したのであろうが、私としては余り良い気分でなかった。
 旧市街のエルサレム観光を終えて、新市街へ歩いて戻って来た。ユースへ帰る途中、疲れたので歩道脇のベンチに腰掛け休んだ。そして思う事がたくさんあった。旧市街で多くの乞食や無気力者を見掛けたが、やはり格好良いものだと私には見えなかった。ベンチに暫く休んでいたら、私の目の前で一人の道路作業員が、ツルハシやスコップを使って一生懸命に作業をしていた。その男は、額に汗して働いていた。その姿を見て、『仕事は大変であるが、どんな職業でも良いから働いてお金を得るべきである』と思った。パリ滞在中、私の考え方に強い影響を与えたマサオは、「働くなんてバカらしい。金のある人が無い人に分け与えるべきなのだ。」と当然の様に言っていた。しかし与えて貰う人よりも、与える事が出来る人の方が、より人間らしいではないか。お金や物を乞うのはやはり惨めである。私はそんな事を考えていたら、一生懸命に道路工事をしている薄汚れた服を着たその作業員が、後光を照らしている神様の様に見えた。 
 ユースへ帰る途中、ある墓地の墓標の前で7人の兵士が整列していた。亡くなった兵士(戦死したのかも)の墓標の前で、兵士達がその墓標に『捧げつつ』の儀式を行っていた。最後に7人の兵士が1人ずつ鉄砲を空に向けて撃ち、そして儀式は終った。彼等が去った後、私はその墓地へ入って見た。そこはやはり戦没墓地であった。多くの墓標を見たら、皆18歳から25歳までの間に亡くなっていた。彼等は何の為に生きてきたのであろうか。いくら祖国の独立、建設、防衛の為とは言え、私と同じ歳か私より若い兵士の青春が散って行ったのである。可哀想であるし又、人生の虚しさを感じ、涙が出そうであった。又アラブ側も多くの兵士や市民がイスラエルの攻撃で亡くなっているのだ。
 私は心が重苦しくなってユースに帰って来た。早くこの中東戦争が根本から解決出来ないものか、切に願うだけであった。シャローム!

ムスリムの祈り(その1)~エルサレムの旅

2022-01-06 15:17:59 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
        △壮麗、荘厳のオマール・イスラム寺院(CFN)

・昭和44年1月15日(水)晴れ(エルサレム観光と異様なイスラムの祈り)
 今日、私は1人でJerusalem(エルサレム)観光に出掛けた。エルサレムはユダヤ教、キリスト教の聖地であると共に又、「マホメットが昇天した地」と言われ、イスラム教にとっても聖地である。 三つの宗教が共に「エルサレムは、我々の聖地である」と言っているので、必然的に宗教争いが起こるのも頷けた。中世おいてはイスラム教からキリスト教を守るための十字軍の遠征、第二次世界大戦後はイスラエルの独立に伴う第一次から第三次中東戦争、又その裏にはユダヤ教対イスラム教と言う宗教戦争でもあった。そんな事を思いながらエルサレムの観光が始まった。
  エルサレムは、新市街(New city)と昔から存在する都市・旧市街(Old city)に分かれていて、ニューシティはここ20年の間に出来上がった都市で、そこにはイスラエル人が住んでいて、街も明るく活気があった。そしてオールドシティは、城壁に囲まれていた。                     そのオールドシティに入るのには幾つかの門があり、一般観光者が入るのは『ダマスカスの門』が一番便利で、私も橋を渡りその門を潜ってオールドシティへ入った。入った途端、20世紀後半の西洋的近代文明の世界から、中世のアラブ世界に迷い込んだ様な錯覚に陥り、私は強いカルチャーショックを受けた。偏見な言い方かもしれないが、住民は彫りの深い、何を考えているのか分らない、そして取っ付きの悪いアラブ人がそこに住んでいた。勿論、街の中に車は走っておらず(車道が無い)、車以外でも近代的文明はここに無かった。道幅は狭く、迷路の様に曲がりくねっていて、所によっては地下になっていて、昼間でも薄暗かった。
 城壁内通路では羊の皮を剥ぎ取ってそのままぶら下げている肉屋、いつ採って来たか分らないような魚や野菜類が並べてある魚屋や八百屋等があった。又、オリエントらしい装身具屋や陶磁器屋、ペルシャ絨毯などの織物屋、金や銀の細い針金を使った細工物屋があり、狭い道路や通路階段まで商品を並べられていた。しかも通路は長い歴史の中から醸し出す変な臭いと商品の生臭い匂いが混ざり合って、異臭が発ち込めていた。商売人は薄汚れた汚い手で食べ物を扱っていて、全ての点で非衛生であった。ここはアラブ人だけで、私以外に他の旅行者は全く見当たらなかった。私は怖い感じがして、その様な所に長居は出来なかった。

     
      △エルサレムの城壁内のオールドシティ

 この後、ユダヤ教の聖地の中でも真の聖地、過ってユダヤ教の神殿(第一神殿)があったとされる宮の山(モリア山)の台地へ行って見た。そこからのエルサレム旧市の眺めは、正に何千年と言う長い時を経ての古都であり、そしてイスラムの影響を受けた中近東である事を強く感た。  ローマ帝国の徹底したエルサレムの破壊と2,000年以上の風雪の為か、宮の山の台地に神殿らしき形跡は、数本の柱(?)を残すのみで、全く無かった。それどころかそこには立派な、そして目にも眩しい巨大な黄金のMosque of Omar(オマール・イスラム寺院) が建っていた。詳しく言えば、黄金のドームと青と白を基調として、良くコントラストされた大理石造りの荘厳壮麗なイスラム寺院であった。この場所はイスラムの預言者・モハンマド(モハメットAC570~632)が昇天された所と言われ、イスラム教にとっても聖地でした。彼が生まれた場所は、サウジアラビアのMecca(メッカ)である。従ってイスラム教の3大聖地は、メッカ、Medina(メディナ)、そしてエルサレムなのです。
 しかしこの寺院及び周辺の観光客は、私だけであった。その寺院からコーラン(イスラムの聖典)が流れるその寺院に少し立ち入って、顔を覗かせて見た。ドーム天井は何とも言え難い極め細やかな模様で出来て、美しさが溢れていた。そして寺院の中には1,000人、或はそれ以上か、何しろ大勢の男だけの〝イスラム信徒〟(ムスリム)が前後左右接触するぐらいの間隔で、整然と並んでコーランのリズムで、一斉に立ったり座ったり、尻を持ち上げたり、頭を垂れたり、身体を前屈みに臥せたりして、一心不乱にお祈りをしてた。                                                     
 私にとって不思議な事に、彼等が懸命にお祈りしているその正面には、何も無かった。仏教であったら仏像、釈迦如来像、聖観世音菩薩等の偶像があり、キリスト教では十字架に張り付けられたイエス・キリストやマリア様の偶像があって、拝む対象物があるのだが、イスラム教には何も無かった。寺院の外観と内側のドーム天井の美は凄かったが、寺院内はガランとして、何の飾り気も無かった。これは私にとって一つの発見であった。ムスリムは偶像崇拝をしないで、ただメッカに向かってお祈りをする慣わしになっていた。いずれにしても彼等の一糸乱れずその祈るその姿、そして一心に祈る人々が放つ迫力は、初めてイスラムの本格的な礼拝を見た私にとって、神聖さを通り越して、何だか恐ろしさすら感じた。                            
私に気が付いたのか、後ろの方の数人のムスリムが、私を刺す様な目で睨んでいた。『寺院内は、外国人の私が立ち入る場所ではない。トラブルになってはまずい。』と察し、寺院から早々退散した。それにしてもイスラム教の祈りは、正に圧倒、圧巻な儀式であった。そしてイスラム寺院は観光者が気軽に入る場所でない雰囲気があった。以後、外国で宗教上のトラブルになってはまずいので、私は2度と礼拝中のイスラム寺院の中へ入らなかった。しかし寺院の見物は何度かあった。

*その2に続く(明日掲載予定)

キブツを去り、エルサレムへ~聖地・エルサレムの旅

2021-12-31 06:57:17 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
△しばしば出会って来たアーロンだがエルサレムが最後になったー写真はヴェネチアにて。

・昭和44年1月14日(火)曇り時々雨(キブツを去り、エルサレムへ)                 
 晴れていたら、死海へ再挑戦で行くつもりであったが、やはり天候が怪しく、断念した。イスラエルは雨季に入ったのか、ここ3日間、悪天候が続いた。
 色々な思い出や体験が出来、そして多くの友達にも知り会えた。又私に対するキブツの持て成しは、同国人や色々な国の一時滞在者と変わりなく扱ってくれた。食事内容も良く、労働していると三度の食事がとても楽しみであった。そんな仲間達やキブツを去る事は本当に辛く、そして寂しい感じがした。しかし私は旅人であり、17日にイスラエルからイランへの航空予約をしてあるので、いつまでもここに居られなかった。
  昼時、農作業から帰って来た仲間達に別れの挨拶をした。この時に仲間と住所交換した。又オランダ人のバートからは、「中近東、南西アジアは危険な地域だから護身用に」と言って、刃渡り20cmの登山用ナイフを貰った。彼等と共にキブツでの最後の昼食を取り、その後別れた。彼等は本当に良い人達であった。2・3日後に、バートやジョアン達もキブツを去ると言っていた。
『残ったキブツの仲間達も寂しくなるなぁ。でも又新しい仲間が来るから、そうでもないのかな』とも思った。
  キブツ管理事務所に寄って、予定通り本日でキブツを退去する旨、そしてハッゼリム・キブツの心ある持て成しに対し感謝し、キブツを去った。
「イスラエルに来た時、又ここのキブツに立ち寄って下さい」と管理人は言ってくれたが、再び来られる機会があるか、疑問であった。
  キブツ前からヒッチして、エルサレムへ。ヒッチはとてもイージーで、難なくエルサレムに到着した。
 ユースに宿泊したらその夜、あのアーロンが談話室に居た。
「ハィ、アーロン。又会いましたね」と言って彼の所へ。
「ハロー、Yoshi。元気で旅をしていますか。それにしても私達はよく巡り逢いますね」と彼も言って、我々は握手をして再会を喜び合った。
「一寸ビールを飲みに行こう」とアーロンが言うので、近くのレストランへ行った。レストランで2人の再会を祝し乾杯した。それから今までの旅の事、キブツの事等を話した。
「これからイランへ行く」と私。
「私は再びギリシャへ行きます」と彼は言った。
今まで4回も再会出来たのは、同じルートを我々は旅をしていたからであった。しかし、これでルートは完全に左右に分かれるので、再びアーロンと出会う事はあるまいと思った。
 そもそも彼と最初に会ったのが、ヴェネチアのユースであった。翌日、我々は鈴木と共に市内観光をした。2度目はアテネのユースで、3度目はクリスマス・イヴのベツレヘムの混雑したテント小屋の酒場兼食堂で、そして今回で4度目の再会となった。彼は明日、早めにテルアビブへ行くと言う事であった。我々は旅の無事を祈って再び乾杯した。私はこちら(外国)に来てから、多くの旅人と出会い、そして別れて来た。『旅とは、つくづく出会いであり、そして、別れである』と実感した。エルサレムの夜は、静かに過ぎて行った。
           

最後の農作業~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-29 08:47:46 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和44年1月12日(日)曇り(最後の農作業と小田君からの手紙)
 7時にボンに起こされ、彼と食堂へ行った。朝食はいつもと変わらなかったが、朝から卵、野菜サラダ、ヨーグルトや果物が食べられ、私にとって贅沢であった。
 私のジャガイモ収穫農作業は、今日で最後となった。風があったので、顔中が泥埃だらけになってしまった。ここ何日間は晴れていても以前より暖かくなく、裸になれなかった。段々と寒くなって来たようだ。4時に一日の作業、そして私のキブツの仕事も終り、ホッとした。いつもの様に食堂からオレンジを貰って部屋で食べた。そして昨年の12月23日にキブツから支給された残りのブランディーを全部飲んでから、シャワーを浴びた。
 それにしても、今日は落ち着かない日であった。『去る』と言う事は、いつもながら寂しさと、今後の旅の不安を感じた。
  今日、妹の手紙と共に船で横浜からナホトカへ行った時の同部屋の1人、小田君の手紙が同封されて来た。元気でいるとの事で、人事(ひとごと)ながら安心した。彼は200ドル持っただけで、ヨーロッパへ行くと言っていた。詳しくは、『第2章ソ連の旅の船旅』で書きました。その時、彼の勇気、行動力に私は羨ましさを感じた。

死海へヒッチで行こうとしたら・・・~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-28 14:11:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
   △ラクダ、ロバ、そして羊の群れが行き交う~ベエルシェバの郊外にて。

・昭和44年1月11日(土)晴れ(死海へヒッチで行こうとしたら・・・)
 昨日、仕事が終ってからエンディとDead Sea(死海)へ行く予定であったが、取り止めたので今日、私1人で行く事にした。
  6時半に起き、朝食を軽く取ってキブツ前からヒッチをした。キブツ前の道は、日中でもポツンポツンと車が走っている程度であった。この道の左方面はネゲヴ砂漠へ、そしてアカバ湾に面するイスラエルでも南の重要な港Eilat(エイラト)へ通じる道であった。20分位待って右方面の車をゲットし、ベエルシェバに着いたのは8時であった。                                                                           
 歩いて町の郊外へ出た。死海への道は未舗装(土漠の道)であった。イスラエルは人々、建物、社会生活、そして雰囲気も西洋的な感じがするが、ここは確かにアジア地域であり、アラブ、若しくは中東的な雰囲気が漂っていた。泥で出来ている家々、通りはラクダ、ロバ、羊の群れが行き交い、その糞の臭いが漂っていた。人々はイスラエル人の他に、パレスチナ人やアラブ系の人も多く見られた。
ヨーロッパ的環境(西欧社会)から急にアラブ的環境(アラブ社会)に変わると、私の感覚は付いて行けなくなり、チョッピリ不安な気持がした。おまけにヒッチを開始してから1時間過ぎても、2時間過ぎても、私を乗せてくれる様な車は、1台も通らなかった。
 私が街道に立っていると、イスラエルの軍人が近寄って来た。彼と2言3言、言葉を交わしたら、「シェルート(乗合タクシー)で行け」と2ポンド渡され、断る暇もないくらい素早く去って行った。私がお金を乞う仕草をしたり、言葉を発したり、或いはお金に困っている顔をしたりした訳でもないのに、如何して彼はお金をくれたのか、私は分らなかった。日本でも『困っている人を見掛けたら手を差し延べる』と言う道徳的観念がある。確かになかなか車が停まってくれないので、困っている様な顔をしていたかもしれなかったが、お金に困っていた訳ではなかった。ユダヤ教の宗教心やその教えからなのか、或はユダヤ人の道徳心からこの様な行為となったのであろうか。それともここから先は軍の監視が行き届かない危険な地域なので、「シェルートで行きなさい」と言う警告の意味であったのか。いずれにせよ死海へのヒッチの旅は、時間が経つにつれて『楽しみからチョッと不安、不安から心配へ、そして危ないかも』と私の心は移り変わっていた。
  街道に立ってから2時間半過ぎた頃か、乗用車が向こうから遣って来た。私は例の如く、ヒッチ合図をその車に送った。車が停まり、中に3~4人の男達(私はヨルダン人と見た)が乗っていた。彼等は、頭を布(クゥトラ)で覆って、体全体を純白な布を被ったアラビア風の格好(カンドゥーラ)をしていた。そんな恰好をしていたドライバーが車内から出て来た。
私は英語で、「死海へ行きたいので、乗せて下さい」と彼にお願いした。
「死海まで連れて行ってやるから、金を出せ」と言った。ヨルダン人にしては上等な車に乗り、英語が話せ、しかも身なりも立派そうであるが、「金を払えば乗せる」と言うのであった。
「私は貴方の車に乗りません」と言って、彼に行く様に促した。
「私の車を逃したら、この道は車が走っていないから行けないぞ。それでもいいか」と彼は言い残し、土煙を巻き上げて走り去って行った。
 あのヨルダン人の雰囲気は、イスラエル人やヨーロッパ人とは一寸違うのであった。アラビアン ナイトの強盗団ではないが、もし乗ったら有り金を全部巻き上げられ、砂漠の中に放り投げられる様な、そんな感じがした。そして私の心は、終に『危ないかも』から『危険』に変わった。時刻は既に11時を過ぎた。3時間経っても一向に前に進めなかった。こんな状態で、もし行けたとしても、今日中にキブツへ戻れるのか分らなかった。しかも、明日は私の最後の農作業日なので、100%戻りたかった。この様な状況や条件が、私の死海行きを断念させ、キブツに戻らしてくれた。
  午後、ナンシー、ジョアン、そしてエンディと写真を撮ったりして過ごした。


    △左から私、ナンシーそしてエンディ~私の部屋の前にて


同部屋のフランクと喧嘩~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-27 09:24:28 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
   △同部屋のフランコと喧嘩~キブツにて Painted by M.Yoshida

・昭和43年12月29日(日)晴れ(同部屋のフランクと喧嘩)
 今日、同部屋で北アイルランド人24歳のフランクと喧嘩をした。何日か前に、「そうですか」(Is that so?)と言う日本語をフランクに教えました。そうしたらここ2・3日、フランクは朝から晩まで私と話をする度に、そして私の顔を見る度に、「そうですか」とそればっかり言っていた。多分、彼からすれば初めて覚えた日本語が珍しいのか、或いはふざけて言っているのであろうと、最初は私もその様に受け取っていた。でも今日は度重なるので『もうバカにされている』、と感じて来て少し腹が立っていた。
  キブツでは、オレンジをいつでも食べられる様にと、食堂入口付近に山盛りで置いてあった。ジャガイモ畑の農作業が終り、食堂に立ち寄り『部屋でオレンジを食べよう』と2個ばかり貰い、フランクと歩いていた。そしたらそのオレンジ1つを落としてしまい、コロコロと彼の前に転がった。そのオレンジを彼は蹴って、逃げてしまった。人が食べようとした物を蹴っ飛ばすとは何事か、もう完全に頭に来た。砕けたオレンジを片付けてから部屋に戻った。
「フランク、如何して私が食べようとしたオレンジを蹴ったのだ」と強い口調で詰った。
「ソリー、Yoshi。ボールと間違えてしまった」と彼はふざけた態度、口調であった。
「覚えておけ、フランク。2度と私を怒らす様な事はするな。もし私を怒らす様な事をしたら、君をぶん殴るからな」ときっぱり言い放った。
 その後、ロンドンで買ったリーダースダイジェストの本を読んでいたら、ウンコがしたくなったので、外にあるトイレへ行った。大便用のトイレは2つあり、左側をノックしてからトイレに入った。しかし木製のラッチが壊れていて、中からドアが閉まらなかった。一旦出て、もう一つの方をノックしたら、フランクが入っていた。私は仕方なくラッチが掛からない方のトイレを使用した。
 ラッチが故障していたので当然、トイレのドアは完全に閉まらず、少し開いている状態であった。私がトイレ使用中、フランクはトイレから出て来て、私が使用中のそのドアを足で蹴った。その調子にドアが〝私のおでこ〟に当たった。痛くはなかったが、彼はその行為を3回も繰り返した。おでこに当たったのは1回だけで、後は手で避けていた。私は完全に頭に来た。日本に居た時でも、こちらに来てからも、こんな屈辱、侮辱を受けた事は無かった。トイレ後、喧嘩・決闘になるかもしれない、その覚悟で彼をぶん殴ってやろうとしたら、何処へ行ったのか、彼は部屋にも居なかった。
 その後、シャワーを浴びにシャワールームへ行ったら、フランクが隣でシャワーを浴びていた。
「おいフランク、如何してあんな事をしたのだ。ドアが私のおでこに当ったぞ。しかも3~4回もだ。君は最低な男だ!」
「君は私が今まで会ったイギリス人の内で一番バカな男だ!」
「大学を卒業したって、ふざけるな!やっている事は最低だよ!」
「夕食後、君をぶん殴る。私は本気だ、覚悟しろ!」
「You are a bloody bugger. Son of a bitch」(相手を罵声する時に使う最も汚い言葉)と、立て続け彼に罵声を浴びせてやった。彼は何も言い返せず、そそくさとシャワールームから出て行った。
 シャワーを浴びて部屋に戻ったら、彼は既に居なかった。私は食堂へエンディ等と共に行った。彼はポツンと1人で食べていた。我々は同じテーブルで食事を取った。私の隣にエンディが座った。
「エンディ、このキブツにディスガスティングな(胸糞悪い)奴が居るのだ」と私。
「フー?誰が」と彼。
「フランクだよ。実は・・・」と言って私は事の一部始終をエンディに話した。私の余り上手くない英語の話を、彼は黙って聞いてくれた。それだけで彼が私を理解してくれたと思い、嬉しかった。
 食後、部屋に戻ると、又もフランクの姿は見当たらなかった。彼は私から逃げ回っている感じがした。実際、喧嘩になれば大怪我をするかもしれないし、負けるかもしれない。私も怖いのであった。出来れば喧嘩はしたくなかった。しかしあそこまで侮辱されて、何もしなければ男の恥じだ。ここは外国、色んな国の人がキブツに居るし、ある意味(国際的観念からすれば)で日本人、又は日本がフランクにバカにされた、と言う感じがした。私は彼と喧嘩せざるを得なかった。フランクは私より背が高く、体格も一回り以上あり、髭を生やし、それはバイキングの風貌で、見た目は強い感じがした。しかし喧嘩と言うものは、『ポジィテブとアクテブな言葉と行動、所謂ハッタリが大事』である事を私は承知していた。従ってこれは日本であろうが、外国であろうが関係ない、ハッタリと捨て身の覚悟が勝利をもたらすと思った。 
  暫らく部屋に居たが、今夜もジョンの所でパーティがあると言うので、私も行って見る事にした。多分、フランクもそこへ行っているであろうと思った。私は農作業靴に履き替えた。この靴は登山靴と同じで底が厚く、皮製で重かった。喧嘩は動き易く軽い靴が要求されるが、彼を蹴っ飛ばすには好都合の靴であると思った。
ジョンの部屋に行くと、12名程(女性は4名)が集まっていた。案の定、フランクもドア近くのベッドに座っていた。私は彼の前に立ち、そしていきなり大声で、「ヘイ、フランク。私は君に何か悪い事をしたか。それなのに君は如何してあんな事をしたのだ。いいか、君は4回トイレのドアを蹴り、私のオデコを打ち付けたのだぞ。これは私を侮辱した事であり、私を侮辱したと言う事は、日本人を侮辱した事と同じだ!」と捲くし立てた。
「日本人として我慢できない。表へ出ろ!この靴で君を蹴っ飛ばしてやるから!」と右手で彼の胸倉を掴(つか)んで、外へ出るよう促した。
「如何したのだ、Yoshi。何かあったのか」集まった仲間達は私の剣幕に騒ぎ始めた。私はエンディに皆に説明する様に促した。エンディは私が怒っている事の顛末を皆へ説明した。皆は分ったらしく、黙って頷いていた。
私は再びフランクの胸倉を掴んで、「オイ、フランク、表へ出ろ!日本人が強い事を、見せてやる!(Hey Frank, get out of the room!  I show you as we Japanese are strong)。」と雄叫びを上げた。フランクは何も言わなかった。ただ彼は、「Fuck off」(「クソッタレ、あっちへ行け」と言う汚い言葉)と言っているだけであった。
 その瞬間、皆のリーダー的存在のジョンが近寄って来て、
「Yoshi、一寸待て。」
「フランク、君が悪い、Yoshiに謝れ。」 
「Yoshi、フランクが謝れば許してやるか。」と言って仲裁に入った。他の何人かも「フランク、Yoshiに謝れ」と言う声が上った。
  実際に2人だけになって本当に喧嘩して、そして怪我をして旅が出来なくなったら何にもならないのだ。私としては人前でフランクが恥を斯き、私の面子が立てば一番良いので、この仲裁に異論はなかった。                                                   それで私は、「フランクが謝ってくれれば私としては、それでOKだ」と言った。               
そうしたら、「アイム ソリー」(ご免なさい)とフランクはベッドに座ったまま口先だけで2度言った。
「それなら日本式で謝れ。私が教えてやる」と言って土下座で謝るよう、フランクに教えようとした。
「チョット待て、Yoshi。日本とヨーロッパでは謝り方が違うから良いではないか。それに、ここは日本ではなくイスラエル。そして集まっている仲間はアメリカ人、カナダ人そしてヨーロッパ人、だからヨーロッパ式で良いではないか」とジョンが言った。
「それなら、如何してフランクはベッドに座ったまま謝っているのだ。あの口先だけの謝り方がヨーロッパ式なのか。私はそうは思わない」と私言った。ジョンは黙った。
「おい、フランク。君が喧嘩したいならいつでも相手になってやる」と私はキッパリ言い放った。
すると今度、フランクはちゃんと立って、「アイム ソリー」と言って、私に握手を求めて来た。私も手を差し伸べ、そして握手をした。                                         これ以上私が怒っては楽しいパーティが台無しになってしまうし、皆に悪いと感じ取った。私はとにかく言いたい事は言ったし、フランクは皆の前で恥をかき、謝った。そして私の面子は立ち、彼との喧嘩に勝ち、私は大いに満足した。
 暫らくして、フランクはパーティから抜け出し、何処かへ行ってしまった。
「フランクはいやらしい奴だ。それにケチで、この間のパーティ代も払っていないのだ。Yoshiは記念コインをプレゼントしてくれた。有り難う」とジョンは言った。
「ジョン、仲裁してくれて有り難う」と私は彼に心からお礼を言った。
「Yoshiは正しい。勇気ある男だ」とエンディも言ってくれた。
「エンディ、私の言いたい事を皆に説明してくれて有難う」と彼にも感謝した。
 フランクの評判は、仲間内でも良くなかった。それ以後、同じ部屋でもフランクと余り口を聞かなくなった。勿論、彼の口癖であった日本語の「あ、そうですか」も発しなくなった。そして一週間後の1月5日、彼は黙ってキブツから去って行った。

ジョンの誕生日パーティ~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-26 07:14:12 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
△左からナンシー、私そしてジョアン~私の部屋の前にて(建物の後ろ側は土漠の小高い山が連なっている。)

・昭和43年12月27日(金)晴れ(ジョンの誕生日パーティ)                        
 穏やかな日、今日もジャガイモの収穫作業であった。                                                                  
夜、ジョンの所でパーティがあると言うので、行って見たら皆が集まっていた。聞けば、ジョンの誕生日だとの事。それではと思い、オリンピックの100円記念硬貨を持っているので、部屋に取りに行って彼にプレゼントした。彼は大変喜んで受け取った。
  このパーティでの飲み物は瓶ビールであった。これは仲間がベエルシェバまで買いに行ったのである。同じ部屋のフランクも参加していた。一時滞在者の我々だけのグループで、何度かこの様なパーティ(集まり)があった。ビールだけで、いつもツマミは無かった。パーティは飲むのが目的ではなく、お喋りをしたり、歌を歌ったりして楽しんだ。私の片思いのナンシーは、片時も離れずジョンに寄り添っていて、口惜しかった。