YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

私が選んだインドの10大名物の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-07 08:37:19 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・私が選んだインドの10大名物の話
 インドは西ヨーロッパ諸国、社会主義諸国、或いはイスラム諸国と比べて色んな風習や文化の相違があり、そう言う違った面で色々な凄さと面白さがあった。その結果、カルチャーショックを受けたり、感動したり、悲しくなったり、色んな事を感じたり、体験したりした。とにかくインドは、今まで旅した国の中で、一番印象に残った。
インド滞在も後1日、『やっとインドから逃れられる』と言う思いと同時に、『何か名残惜しい感じ』がした。如何してなのであろうか。インドの都市のあの異常な雑踏、街の不潔や路上生活者、乞食の群れ、リキシャに乗ればトラブルがあったし、列車を乗ろうとすれば駅員の盥回しの洗礼を受けた。まるで良い所が無い様なインドであったが、帰国してから誰かに尋ねられれば、「私は、又インドへ行きたい」そう答えるに違いない。
インドは人を引き寄せる、眞に不思議な国であった。そして何か懐かしさも感じさせてくれる、そんな国でもあった。それでは私が見た、体験した中から、特に印象に残った事をランキング形式で発表します。

NO1、足に錘付きの鎖で繋がれ、鞭を持った監督者から強制的に頭に笊を載せ砂利や泥運びをさせられていた、デリーの女性奴隷達の労働光景。
NO2、大都会の物凄い数の乞食と路上生活者達。
NO3、カルカッタの人が溢れんばかりの超過密・超雑踏のストリート。
NO4、盗難と病気。インドはこの2つが凄いので注意する様に何度も旅人からアドバイスを受けたし、私自身も注意した。盗難について、夜間3等客車の列車の旅は特に気を使っていたので睡眠不足の旅であった。病気について、便秘、痔、微熱や腹痛で悩んだ。しかし大きい病気もなかったし、盗難にも合わず、まずは良かった)。
№5、カルカッタの街の巨大なゴミの山々。
NO6、カースト制度による人種差別。
NO7、インド国有鉄道の3等列車の旅と駅員の盥回し(たらいまわし)。
№8、リキシャのおじさん達。
NO9、インド名物のカレー、サリー、そしてお牛様。
NO10、あらゆる面でインド人との1ルピーの攻防=たかが1ルピー、されど1ルピー。
まだまだたくさんランクインさせたい事があったが、この辺で。

インド人との取引の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-06 09:12:56 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・インド人との取引の話
 2万円で買ったカメラは、6年過ぎると幾らで売れるのであろうか。良く分らないが、日本の質屋では3千円から4千円程で売れるのか。 それがインドでは170ルピー(8,330円)で売れた。『儲かった』と思うべきなのに後から考えたら、それがその様に思えなかった。如何してなのか・・・。
インドの映画会社は儲かっている様で、(助)監督はポケットから無造作に厚い札束を取り出し、その中からポンと惜しげもなく170ルピーの大金を払った。後で考えたら『もう少し高値で売れば良かった』と後悔した。私は何だか、最初から交渉に負けた気がしてならなかった。
 カルカッタを去る日が近づいた3月5日、テント張りの屋台のお土産屋で、買う目的で眺めていた。15㎝から20㎝程の大きさの象の木彫り物、珍しい石の指輪、その他たくさんインドのお土産になる物を売っていた。店主が「タイガーアイストーン(トラ目の石)は、ここだけにしか売っていない珍しい石だ。」と言うので、私は象の彫り物2個と、トラ目の石の指輪1個を買おうと、英語が話せるその店主と交渉を始めた。
「象の木彫りが1個100ルピーを2個、ストーンは50ルピー、合計すると250ルピーだけどジャパニー(日本人)、値引きするよ。200ルピーで買いなよ。」と店主。
「高いね。」と私。
「それでは180ルピー。」
「まだ高い。」
「150ルピーではどうだ。」と店主。私は値引き交渉を頑張った。
そんな調子で100、90、80、とドンドン値が落ちて来た。こちらも色気が出て来た。「50ルピーなら買うよ。」
「ノー、ジャパニー、ツーチープ、商売やって行けない。70ルピー。This is the last price。」
「それなら60ルピー」。「ノーノー、70ルピー」と店主。
「70ルピー?それなら買わない。」と言って帰る振りをした。
店主は私の進路を妨害し、「待った、ジャパニー。60ルピーでOKだ。」
ついに交渉は成立した。250ルピーの物が60ルピーで買物が出来た。如何してこんなにも割引してくれたのか不思議であった。安い買物をして凄く得した感じがした。
しかし後で気付いた事であるが、珍しい石が偽物で、細工費入れて5ルピー程度であろう。『象の木彫りも下層階級の人が作った物』と考えれば、長くて3日で出来あがるであろう。手間賃1日2~3ルピーとして9ルピー、儲けを入れたとしても15ルピーとして、全部で35ルピーが手頃の値段であった。『あのジャパニー、こんな偽石と象の木彫りに60ルピー出した。バカみたい』とあのインド商人は喜んだ事であろう。
 カメラを「200ルピーなら売る」、そしてお土産を「60ルピーで買う」と言った時点で、私はインド人に負けたのだ。我々日本人は、定価通りに買おうとする習慣が身に付いていた。商品に定価が張ってあれば、疑わずその通り買う。日常の買い物に於いて、我々は『物の価値』、『物を見る目』が完全に欠落していたのだ。インドでは、商品に値段が付いていないので、必然的に物を見る目、物の価値について習得されているのだ。習得されたらそれらを判断基準として、売り手と買い手がお互いに自己主張(値段を張り合う)し合う。インド人は自己主張が強いし、日本人は物の価値・見方を知らないから、必然的に交渉で根負けや、直ぐ妥協してしまう習性がある。そんな訳で、日本人はインド人に負ける宿命になっていたのだ。
こんな事だから外国人ツーリスト特別料金、或は日本人特別料金なる値段が出来、二重三重価格になってしまっている。物の価値、物を見る目が欠落した私(日本人)は、インド人にバカにされても仕方がなかった。インド人にとって1ルピー、2ルピーが如何に重い価値があるのか、分っているつもりで本当は、最後までそれが分らなかった私。私がインドで真っ当な滞在、旅行や買物が出来なかったのも頷けた。

カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-06 08:33:11 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話
 1971年(私が訪れた2年後)、〝バングラデシュ独立戦争に伴うインド・パキスタン戦争〟(第3次印パ戦争)が勃発し、再び800万人の難民が東パキスタンからカルカッタへ流れ込んだ。大カルカッタ圏の人口の内、その4割が難民であると言う。
 2001年の年次調査によると、カルカッタの市域人口は460万人、郊外を含む人口は1330万人である。そしてインドの人口は10臆6600万人であると言う(「国際地学協会」参考)。そして2006年9月のNHKニュースによると、『インドの人口は12億人』と発表された。
 因みに私が訪れた1968年は、『インドの人口は6億人』と言われていた。あれ程に〝産児制限運動〟(街の至る所に看板があった)を展開していたにも拘らず、この爆発的な人口増加はどうなっているのだろうか。
 インドの人口は何億人、或はカルカッタの人口が何百万人とか何千万人と言われるが、私は不思議に思った。その理由は、あの延々と続くバラックに住んでいる人々は住民登録もろくにしていないと思われるし、それに物凄いの乞食の数や路上生活者達の数を人口調査にあたり、どの様にしてインド全体でカウントして行くのであろうか、と不思議でたまらない。
 カルカッタは、外国からの観光ツアーのコースからも敬遠されていると聞いている。インド人からも海外旅行者からもそっぽを向かれたカルカッタ・・・。『宮殿の都』と過って呼ばれていたカルカッタは、何処へ行こうとしているのであろう・・・。 

カルカッタの人口過剰の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-05 14:26:17 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・カルカッタの人口過剰の話
 今日(1969.3.1)、YMCAから歩いて街へ行って帰って来たが、それにしても人の数が凄かった。デリーやボンベイの大都市でその凄さに慣れていたが、カルカッタの凄さは、正に一級品であった。それはインド独特の臭いがする中、人人人又人、男男男又男が途切れる事なく街の全ての通り(裏通りも含む)を溢れんばかり(物凄い雑踏、超過密状態)に歩いていた。更に通りにはそんな人々と共にこれ又、大勢の物乞いをする乞食や浮浪者、家を持たない路上生活者達がそれに輪を加えていた。
通りに女性が見掛けられないと言う事は、その男性の数だけ女性は家に閉じこもっている、と言う事なのだ。街の中で数少ない女性、特に綺麗なサリーを纏った女性を見かけると、その部分だけパット花が咲いた様な華やかさを感じた。
 街へチョッと出掛けただけで、色々なアンバランスが目に付いた。農村と都市の人口構成のアンバランス、男と女の社会的活動のアンバランス、貧富のアンバランス、不潔で粗末なスラム街の家々と中心部の立派な建物のアンバランス、不潔なゴミの山々が幾つもある通りと高級店が並ぶ通りのアンバランス等、超際立った対照を示しているのも『インド的カルカッタ』(この表現がズバリだと思う)なのであろう。
 超雑踏した街角に立ち、ぼんやりとそんな光景を見ていたら、私は深い溜息と共に息苦しく、気が遠くなりそうな感じがした。これがカルカッタの正直な実感であった。



シーク教徒の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-05 14:11:58 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・シーク教徒の話
 インド旅行中に於いてトラブルがあった時、よく助けて貰ったのが英語を話せるシーク教徒の人達であった。シーク教とはヒンドゥ教とイスラム教の融合をめざした宗教で、インドの中では2%の少数派、禁酒禁煙、不殺生を規則に持つ宗教であると言う。彼等はカースト制度の古い仕来りに縛られた伝統的なヒンドゥ教徒に比べて進取(職業の積極的な姿勢、取組)の気性が強く、近代化に対する適応も早かった。従って彼等は海外への商業活動も盛んに行なっていた。その影響か海外で見掛けたインド人は、大抵シーク教徒であった。特にロンドンで多くお見受した。  
 カーストの職業よる身分差別を受けないから、色んな職業に進出しているのだが、彼等の中にはバスやタクシーの運転手、闇両替屋、或はストリートボーイの元締めのオッサン達もいた。シーク教徒のシンボルは、ターバンと髭であった。彼等は皆、立派な髭を生やしていた。
 所で、ターバンは布で頭にいちいち巻くのかと思っていたら、帽子の様に簡単に、被ったり脱いだり出来る。

リキシャマン(リキシャのおじさん)の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-04 08:35:29 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・リキシャマン(リキシャのおじさん)の話
(注)1ルピーは49円(公定)、39円(闇取引)
 リキシャとは、リヤカーに似た2人用の座席がある二輪車を自転車で牽引する乗り物で、人力車の自転車番である。リキシャ・マン(以下「おじさん」と呼ぶ)は、そのリキシャの運転手の事です。リキシャはインド中、至る所で走っていた。都会の駅前はリキシャでいっぱいであった。大通りをリキシャが車の合間を縫って走っていた。便利で安く、大衆向けの乗り物であった。しかし、私はタクシーより必ずしも安いと思わなかった。

 リキシャの料金はキロ制で、1キロまで60パイサ、以後1キロ毎に50パイサであった(たぶん)。しかし別に料金メーターが取り付けてある訳でないので、交渉次第で値段はいくらでも変わった。黙っていれば何倍もの料金を請求(通常4~5倍吹っ掛けられる)されるので、交渉が大事であった。されど大体に於いて言葉が通じないのだから、交渉は難航であった。「1ルピーで行け」と決めておいても、後から「2ルピーだ」と請求して来た。そこで又、言葉が通じ合わないが、交渉のやり取りが始まり、実際大変であった。   

 私が初めてリキシャに乗ったのは、パキスタンからインドへ入国し、国境からアムリッツァルのバス発着所へロンと一緒に乗った時であった。ほっそりと痩せこけたそのおじさんのスタイルは、上半身は裸(人のよって汚れた白シャツ)、下半身は腰巻一枚(人によってロングスカートの様な物、又は薄汚れただぶだぶズボンを履いていた)、そして素足(全てのおじさんは素足)で、全てのリキシャのおじさん達はこれに似た様な格好であった。そのおじさんにとって上り坂の時、大変であった。汗を掻きながら「フゥ、フゥ」言って、一生懸命にペダルを踏んだ。そしてとうとう踏めなくなったおじさんは、降りてリキシャを引っ張った。痩せこけ、腹を空かしたおじさんにとっては、大の男2人(時には3人4人も乗る事もあるが、定員は2人まで)が座席にドカーンと乗っているので大変だった。私としてもそんなおじさんを見て、乗っていると何となく悪い様な、罪悪を感じてしまった(この時、私はインドに慣れていなかった)。リキシャ代は1ルピーであったが、そのおじさんは最初、5ルピーの値を吹っ掛けて来た。しかしインドの事情を知っていた旅仲間の関さんがいて、1ルピーまで値引きさせたのだ。はっきりしないが、乗った距離は2キロ前後の様な気がした。
おじさん達は腰巻だけのスタイルであったから、前から来るおじさん達が自転車のペダルを踏んでいる姿を見ると、チッラチッラとおじさんの何(オチンチン)が見える事もあった。
 
 今日(S44,2,27 パトナーにて)、我々は前もって、「○○まで1ルピーで行ってくれ。」と言って、おじさんも承知したので乗ったのだ。着いたら、「2ルピーだ。」と言い出した。おじさんの吹っ掛けが、又始まったなと思った。我々も負けてたまるか、闘志が湧いて来た。そして1ルピーの攻防が始まった。
私と渡辺は、約束通りの1ルピーの主張を貫いた。相手も生活が掛かっているのか、『前の約束なんて糞食らえ、取れるものなら取るのだ』と言う感じで、2ルピーを請求した。言葉なんてお互いに通じないのだ。唾を飛ばし、大きい声で我々は英語で、彼はヒンディー語かベンガル語か、何か分らない言葉でお互いに主張し合った。
その内に何処からともなく人が集まり、その数70~100人が輪になって、我々とおじさんを取り囲んだ。そしてその1ルピーの攻防の成り行きを楽しそうに見物していた。見物人が見ていては、我々だって余計に負ける訳には行かなかった。大声で我々は主張し、言い分を断固として固持するのみであった。相手も負けていなかった。たかが1ルピー、見物人が現れる程までやらなくとも、1ルピー出せば解決したのだ。でも相手の理不尽な要求に、私はここで負けたくなかった。「2ルピー渡せ。」「否、1ルピーと言ったので1ルピーだ。」と言い放つ、主張の攻防は続いた。
そうすると間もなく、輪の中からターバンに髭を生やしたシーク教徒の方が現れ、「如何したの。」と英語で我々に尋ねて来た。「1ルピーの約束でここまで来て、降りたら2ルピーだと言われ、言い合いになり困っています。」と事情を説明した。彼は頷いて今度、おじさんの耳元で何かを言っていた。おじさんは納得したのか、私から1ルピー受け取り、シゲシゲと去って行った。見物人達も、何もなかった様に立ち去った。私はシーク教徒の紳士に深くお礼を言った。攻防に勝った(?)のであるが、どっと疲れを感じた。トラブルになってシーク教徒の方が現れて本当に良かった。インド滞在中、彼等に何度も助けて貰ったが、彼等のその存在は大きいと感じた。

 所で、働いてもまだ貧しい代表的なのが、リキシャのおじさん達であった。50パイサ、1ルピーを必死になって稼いでいた。大勢いるから競争率は、非常に激しかった。そんな彼等だから、金を持っていそうな(?)外国人旅行者が乗ると、1ルピーでも余計に取ろうと必死になった。当然、1ルピーの攻防になるのも仕方なかった。
おじさん達は仕事が終ると家に帰る、と言う事は無いみたいであった。夜、おじさん達は自分のリキシャの中で寝ていた。深夜や早朝、そんなおじさん達のリキシャが駅前や街のあちこちにたくさん見掛けた。彼等はカーストの最下層が殆どで、リキシャを買えるお金がなく、『1日いくら』と言う様に元締めから借りているようで、いっぱい稼がないと借り賃も出ない。彼等の1日の手取りは2~3ルピー、悲しいかな1日働いてタバコも買えない、ビールも飲めないのだ。安いタリーを2回食べて、チャイ一杯を飲んだらなくなってしまう額。だからおじさん達は、食堂へ食べに行けない。食べても1日1食程度(そうではないと打算が取れない)だと思うのだ。
今日の事だって、あんなに張り合う必要はなかったのだ。1ルピーやれば彼は喜ぶし、我々も功徳が積めたのにと思った。しかし、『筋を通す事に容赦(情け・同情)は、無用』と割り切る事がインドでは大事な事であった。それにしてもインドは、リキシャに乗るのも疲れるし、大変であった。


多民族・多言語と子供達の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-04 08:26:21 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・多民族・多言語と子供達の話
 インドは、一つの国に色々な人種の人々が住み、色々な言語を話す人々が住んでいた。そして、州や地域が異なれば人種や言語も違って来て、インド人にとっても他の州・地域は、まるで他国の様になるのだ。従ってインドの紙幣には、15の言語で『10ルピー』とその紙幣の額面を表示してあり、又公共的な鉄道の案内板には5~7の言語で書かれた案内表示があった。
 ヒンディー語は小学校の高学年から、英語は中学校から教えられている、と言われる。しかし、カーストの下層階級(シュードラや不可触民)、そしてバイシャでも身分が低い層の子供達はどうも学校へ行っていない様であった。この様な小・中学校へ行ってない多くの子供達は、昼間から商店、食堂等で大人よりキリキリとして働いていた。そして働く職場が見付けられない子供達は、自分達自身で列車の座席取り、観光ガイド、牛のフンでの燃料作りと販売、バタヤ、新聞売り、或は乞食等々の仕事をして稼いでいた。良く言えば、本当にインドの子供達は良く働いているので感心させられた。子供を使っているオジサンは、子供をアゴで使って、自分はグッデとしていた。大人達の方が何となくだらしなく見えた。
 子供達は家庭の事情で、或いは生きて行く為に、哀しいかな現実は働かせられていた。このように学校へ行けない子供達は、大人になっても公用語を知らないのだ。実際に多くの一般の大人達は、公用語である英語を殆んど話せなかった。英語を知っているのは、商売上英語が必要な人、ある程度ゆとりある教育を受けた人々と上流階級の人達であった。従って現実的に公用語のヒンディー語は、人々の間で50%も普及していないし、もう一つの公用語である英語が話せるのは、インド全体でほんの一握りの人達であった。

人や牛のウンコ、トイレ及びゴミの臭い話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-03 15:11:06 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
                        △2015年○月○日の読売新聞記事

・人や牛のウンコ、トイレ及びゴミの臭い話
 列車がニューデリーを出発後、私は暫らくの間、車窓から密集したバラックの家々、人々の様子等を見ていた。そうすると又、線路端のあちこちで人々が尻を出し、こちらを向いてしゃがんでいる姿が見えた。ニューデリーに到着する時もそうであったので、「ハハン、ウンコをしているな」と直ぐに分った。バラックの家にはトイレが無いのか、彼等は線路端で、或は空き地で構わずウンコをしていた。これもインドらしい光景の一つであった。

 私はアムリッツァルの国境でインドの入国手続きを済ませた後、ウンコがしたくなったので、そこの係官に「トイレは何処ですか。」と尋ねた。そうすると係官は「あちらです。」と言って、指でその方向を示した。そこは出入国管理事務所(実際は掘立小屋の建物)の裏手で、草がボウボウと生えている空き地であった。私はトイレが無いので、この空き地でするのだな、と理解した。裏手に回ると、直ぐにウンコの臭いがしてきた。その草むらの空き地に入ると、あちこちに野糞がしてあった。日本ではウンコの上、又はその附近に尻を拭いた紙が見うけられるのに、ここの空き地のウンコは用が足した後の紙が何処にも無かった。多分、インド人はウンコをした後、草で尻を拭いたのであろう。さもなければ手で拭いて、手に付いたウンコを草で拭ったのであろう。いくらインド人でも、『手で拭いて、勿体ないから食べちゃった。』と言う事はない。私はウンコを踏まない様に野原へ分け入り、ズボンを下ろし、しゃがみこんだ。原っぱの向こうは道路になっていて、歩行者やリキシャが行き交っていた。私が見えるという事は、向こうからも私がウンコをしているのが見えると言う事だが、構わずに最後まで成し遂げ、私の場合は紙で尻を拭いた。

 所で、インドのトイレに入ると、中に水が入った水瓶(みずがめ)と柄杓(ひしゃく)が置いてあった。『インド人は左手で尻を洗う。』と言う事なので、文章にすると次ぎの様な動作で洗うのであろう。『インド人はウンコをした後、水瓶から柄杓で水を汲み、右手で柄杓から尻へ水を流しながら左手で尻を洗う。』と。いずれにしても、私は1度も尻を水で洗った事が無かった。如何してかと言うと、手で尻を洗うなんて不潔な感じがして、出来なかった。尻を拭く時は、キブツから持って来たトイレット・ペーパーを使用していた。実際はインド式に水で洗った方が清潔なのかも・・・。

 インドでは宗教的な意味で左手は、『不浄』、右手は『浄』と言われている。衛生面と言うか現実面で、臭い・汚いウンコは不浄であり、その不浄を手で洗うのでその手は不浄になり、『左手は不浄の手』となる。従ってその言葉は、生活面から先に出たかも知れません。生活面に於いても宗教上からも、左手は不浄である。故に食事を食べる時は、左手を使ってはいけないし、配膳、コップやカップを出す時も左手を使用してはいけないのだ。全ての面で右手を使うのである。そう言う不浄(ウンコ)を処理する人、トイレを清掃する人まで不浄な人(不可触民)と見なされ、蔑まれ差別される『カースト』と言う制度が、インドには存在していた。

 話は変わり、地方では勿論、大都市に於いても人、リキシャや車等でごったがえしている通りを、悠然と群れをなして牛がノソノソと歩いていたり、道の真ん中で屯(たむろ)したりしていた。インドでは、牛は宗教上『神聖な動物』として扱われていた。ある意味で、5代将軍・徳川綱吉の『お犬様』に似ているかも知れません。だから牛が交通の邪魔をしている時、人々は避けて通り、店先の食べ物を失敬されれば諦めるしかないのだ。なんて言ってもインドでは『お牛様』なのである。そんな訳で、何処へ行っても牛がデカイ顔をして、自由に住んでいた。だから街を歩いていると、人のウンコや牛のウンコも落ちていた。しかし牛のウンコが長い間、落ちている事はまずないのであった。と言うのは、牛の後を子供達が付いて歩き、牛がウンコをするのを待っていて、ウンコをしたら子供達が競って拾って籠の中に入れていた。 最初、この光景は不思議であったが、直ぐに納得した。ボンベイやカルカッタの大通りから隔てた裏通りの軒先に又、アグラやアウランガーバード(ボンベイの近くの中都市。アジャンタ、エローラの大遺跡の中継地)の小都市の家の前に、牛のウンコを並べて干してあったり、家の壁にベタベタと貼ってあったり、私はそう言う光景をよく見掛けた。要するに、ウンコを乾燥させて燃料にしたり、燃料として子供達が売ったりしていた。又、ウンコと泥をよく水で混ぜ合わせ、ペタペタ張って家の壁にしていた。牛のウンコは、インドの家庭にとって貴重な燃料であり、収入源であった。
 
 困るのは、人のウンコであった。通りには一般市民と『下層階級』と思われる大勢の路上生活者や乞食で溢れていた。彼等だって生きているから、オシッコもすればウンコもする。しかし、路上生活者や乞食には大小便のする所が無いので、車道と歩行者専用道路の間の溝附近、或は時に歩道にもするのだ。大雨が降って排水溝(下水溝)に流れれば良いのだが、今はモンスーンの季節(雨期)ではないのでいつまでもあるし、それどころかウンコが道路に溜まってくるのだ。街を歩いていると彼等の汚物で汚く、そして臭くて堪らなかった。下をよく見て歩かないと、ウンコを踏んでしまうのであった。私は3・4回踏んでしまった事があるが、人のウンコほど嫌なものはなかった。

 カルカッタでは、この他にゴミの山で大変だった。街のあちこちにゴミの山がたくさんあり、ゴミとウンコの匂いで臭くって、立ち止まっていられないほどであった。ゴミの山も半端でなかった。高いのは、2階の天井に届く位のゴミの山もたくさんあった。そんなゴミの山を大人や子供達が、何かを漁っていた。インド人が捨てたゴミにまだ使える、まだ食べられるゴミがあるのであろうか。ゴミの山に鼠が、そしてその表面には蝿が無数に飛び交っていた。ライ病、コレラ、天然痘、黄熱病、赤痢等を始め、あらゆる法定伝染病が流行ってもおかしくない現状であり、それがインドであり、カルカッタであった。
書いているだけで(読んでいるだけで)臭くなって来たので、この辺で臭い話は終りにします。
             

貧しさの話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-03 13:59:57 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・貧しさの話
 バラックの家々に住んで居る多くのインド人、数多くの路上生活者や乞食で溢れている街。そんなインドがいかに貧しいか、いかに厳しいか。FAO(国連食料農業機構)の統計(1973年現在)で次の様に報告されていた。
 1日1人の最低必要カロリーの1,900カロリーに達しない栄養不足を調査した所、86カ国の開発途上国で5億1,000万人が栄養不足状態。この内インドが何と2億5,000万人以上を占めていたと言う。インドの人口7億だから10人中4人近くは栄養失調なのだ。
 世界銀行によると、インド人の年収は平均226ドル。全体としては「絶対的貧困」を免れているが、全人口に於ける5分の1弱の都市人口が総所得の半分を占めているので、残りの5分の4強の人達は極端に貧しいのだ。要するにインドでは、極端に金持ちの一部の人間と極端に貧しい多くの人間が存在している訳だ。
  従って、貧しい労働者の平均1日の稼ぎは、2ルピー(約100円)から良くて3ルピーなのだ。1ルピーの有り難さ、その価値、故に1ルピーの攻防があちこちで起きるのも当然であった。そんな訳で、『1ルピーとその価値の話』で述べた様に、『たかが1ルピー、されど1ルピー』なのであった。

カースト制度の話~インドで見た・感じた・経験した話

2022-03-02 08:21:57 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・カースト制度の話
 日記の中で、『上流階級』、或は『下層階級』の言い回しを書いて来たが、インドでは身分制度、所謂カースト制度が実際に存在していた。*以下、いくつかの参考文献を参考に纏めました。

 カーストには基本的に4つの身分がある。1番偉いのがブラーマン(司祭)、2番目がクシャトリア(武士)、3番目がバイシャ(平民)、1番下がシュードラ(奴隷)である。更にその下にハリア、又はアチュータ(英語でUntouchable、日本語で不可触民)が大勢いる。
 しかし実際には職業そのものがカーストになっていて、職業の数だけ身分があると言う。現代風的職業を大まかに分ければ、1番偉いのはブラーマン(僧侶)、2番目はクシャトリア(軍人、実業家)、3番目はバイシャ(一般庶民)、1番下はシュードラ(洗濯人、掃除人等)である。身分制度に入らないハリア(屍体処理人、動物の解体作業人、排泄物やゴミ処理人等)である。日本の士農工商の身分制度に似ているが、現実的にはインドのカーストの方が厳しい。そしてその制度にも入らなかった不可触民が部落民と言えそうだ。いずれにしてもその職業が、その人間の身分をズバリと表しているのだ。そして現実に恐ろしい事かも知れないが、このカースト制度はしっかりとインド社会に生きていているのだ。我々旅行者も、カースト制度を意識せずに、インドで滞在する事が出来なかった。この様に“細分化された職業”(カースト)間においても上下貴賤(きせん)があり、異なるカースト間において結婚や共に食事等してはならないそうだ。
 4つの身分制度にあるものが、『カーストヒンズウ』と呼ばれ、カースト制度の正式構成員で、その下の不可触民は存在そのものが『不浄』と見なされているのである。それこそ人間扱いされていないその数は、8千万人~1億人と推定されている。実にインドの人口(1969年当時の人口は6億人)の7分の1が不可触民なのである。その最も気の毒な不可触民は、住む所も一般の人達と区別され又、一般の人達が行く寺院に入ったり、その井戸を使ったりする事も禁じられているそうだ。
 所で、カースト制度の最も重要な概念や中心的存在は、その人間の魂の『浄・不浄』観なのである。殆どの肉体労働者、動物の屍体処理、排泄物の処理、ゴミ処理、これらは『不浄』としてタブー視され、すべて不可触民達にのみ行われて来た。何百何千年に渡る『インド社会の掟』なのである。逆に言うと『不浄』な事をやってくれる不可触民がいるからこそ、カースト・ヒンドゥは、『不浄』な事から免れて来たのである。『賤しい、汚れた生まれ』として常に差別され虐げられてきた彼等を、ガンジーは彼等を『ハリジャン』(神の子)と名付けた。しかしいくらガンジーが彼等を『神の子』と名付けても、実際には「ハリジャン」「ハリジャン」と言ってバカにして、彼等の人間としての扱われ方は、一向に改善されていない。
 インド人と一口に言っても、肌の色が大分異なる。白い人もいれば、黄色の人もいる。又、少し黒い人もいれば、黒い人や真っ黒い人もいる。肌の白い人や黄の人に高貴な方・上流階級が多く、黒い人や真っ黒な人はシュードラやハリア(不可触民)の人達に多い。カースト制度は、肌の色でも分けられているようだ。
 インド社会に於いて、人々は相手が自分より上なのか下なのか、常にカーストを意識して生活している。だからインドへ行った時、「自分は豚・牛の解体作業者」、「斎場の死体を焼く係」とか「ゴミ収集人、トイレ清掃人」と言っては駄目だ。言ったら『不浄』とみなされ、ホテルやレストランから追い出されてしまうかもしれません。