△昭和44年か45年に送られてきたシーラの水着写真(イギリスへ
折角行ってシーラの写真は一枚しか撮れなかった、と言ったら)
・昭和43年11月6日(水)曇り(シーラ、ジャネットとの永遠の別れ)その2
私はハイドパークを散策後、シーラの所へ行った。ジャネットも来ていて、3人で最後の食事となった。最後の食事の他、今日もう1つ悲しい事は、シーラが勤めている会社(マックスファクター化粧品の子会社)が倒産し、明日を持って最後の出社になり、今後の仕事はまだ見付かってない、との事であった。
勤勉な彼女は、ここ1ヶ月間、落ち着いて仕事が出来ないようであった。そして今日の彼女は、いつもより悲しい様子であった。彼女が苦労しているのに、私はロンドンに長居をして彼女に迷惑や気苦労を掛けてしまって、大変申し訳ないと思った。しかし最後の最後まで彼女は私を歓迎してくれた。
あれ程に会いたかった彼女とも、今夜限りで別れなければならなかった。私がロンドンを去る時も、彼女に駅まで見送って貰いたかった。でも、これはあくまでも私の希望であり、彼女も忙しく色々な事情があって出来ないのを私は理解していた。
お互いに寂しさ、不安が重複されたのか、いつもは女性特有のお喋りで話が盛りあがるのであったが、今夜は今一つ盛りあがらない食事になってしまった。
しかし、我々はこれで永遠の別れではないのだ。彼女は、「Yoshi、これからも文通を続けよう。10年、20年先に成るかも知れないが、今度は私が日本へ行きます」と言ってくれた。私はこれからも文通を続けるつもりであるし又、いつか日本で彼女に会える、と思うと嬉しかった。
それでも瞬く間に、お暇しなければならない10時になってしまった。3人で腕を組んでブレント駅までいつもの様に歩いて行った。私が真ん中で、左右に彼女とジャネットの両手に花を最後に咲かせ、静まり返った街に3人の足音だけが、何故か悲しそうに響き渡った。
駅に着いてジャネットは、「ヨシ、それではこれでお別れね」と言って、私の頬に突然キッスをした。彼女の持て成しやその心配り(こころくばり)は、大変嬉しかった。そして彼女のお別れキッスは、最高のイギリスのお土産であった。「ジャネット、色々有り難う。君と友達になれて本当に良かった」と彼女に別れの挨拶をした。
「Yoshi、体に注意して元気で旅を続けてね。それから旅の途中で時々、絵葉書や出来たら手紙も書いて下さい。Yoshiが元気で旅をしている様子が何よりも嬉しいのだから」と彼女は言って、私の頬にキッスをしてくれた。彼女の甘い香りのキッスは、私の旅の『心に残る最高の贈り物』になった。
「時々手紙を書きますから、シーラも元気で過ごして下さい。それから先程の話だが、今度はシーラが日本に来て下さい。いつか、きっと来て下さい。私はその日を楽しみにしています」と私は言った。
「きっと行きます。東京の飛行場で会いましょう。今度は私が、『Yoshi ○○○○』と書いたプラカードを持ってネ」と彼女。〝ヴィクトリア駅の事〟(シーラから2人の駅での出会いについてジャネットに話が伝わっていた)を思い出したのか、「アハハハハ」と3人が初めて笑った。
「そうだよ、シーラ。会える日を楽しみに待っている、約束だよ。シーラ、私は君が好きだ」と言って彼女の肩を軽く抱き、頬にお返しのキッスをした。
それは、余りにも切ないキッスであった。そして不覚にも自然に涙が溢れ出てしまった。居た堪れず、「それではこれでお別れしましょう。さようなら、シーラ。さようなら、ジャネット」と言って握手をし、私はその場を離れ、改札口へ入った。
胸が押し付けられる感じがして、涙が幾重も頬に伝わった。振り返ると彼女も悲しそうな顔をして手を振っていた。そして、ジャネットも。私は彼女の所へ戻りたい気持を振り切って、手を振りながら「さようなら、シーラ、ジャネット」と叫び、階段を一気に駆け上った。
電車に乗ってからも、悲しさ、切なさが抑えきれず、他の乗客が見ているのも拘わらず、私は咽び泣いた。
私は、如何してこうも別れに弱いのであろうか。本当に私は、センチメンタリストなのだ。又、この様な雰囲気が好きなのだ。だから、私は旅が好きなのかも・・・。そしてこれが本当にシーラとの永遠の別れになってしまった。
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△自宅の居間にて~昭和36年12月頃の15歳のシーラと弟7歳のケネス(文通を 始めた頃の写真。)