YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

シーラとの日々、そして、別れ~シーラ、ジャネットとの永遠の別れ(その2)

2021-10-22 08:58:57 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
    △昭和44年か45年に送られてきたシーラの水着写真(イギリスへ        
     折角行ってシーラの写真は一枚しか撮れなかった、と言ったら)

・昭和43年11月6日(水)曇り(シーラ、ジャネットとの永遠の別れ)その2
 私はハイドパークを散策後、シーラの所へ行った。ジャネットも来ていて、3人で最後の食事となった。最後の食事の他、今日もう1つ悲しい事は、シーラが勤めている会社(マックスファクター化粧品の子会社)が倒産し、明日を持って最後の出社になり、今後の仕事はまだ見付かってない、との事であった。 
 勤勉な彼女は、ここ1ヶ月間、落ち着いて仕事が出来ないようであった。そして今日の彼女は、いつもより悲しい様子であった。彼女が苦労しているのに、私はロンドンに長居をして彼女に迷惑や気苦労を掛けてしまって、大変申し訳ないと思った。しかし最後の最後まで彼女は私を歓迎してくれた。
 あれ程に会いたかった彼女とも、今夜限りで別れなければならなかった。私がロンドンを去る時も、彼女に駅まで見送って貰いたかった。でも、これはあくまでも私の希望であり、彼女も忙しく色々な事情があって出来ないのを私は理解していた。
お互いに寂しさ、不安が重複されたのか、いつもは女性特有のお喋りで話が盛りあがるのであったが、今夜は今一つ盛りあがらない食事になってしまった。
しかし、我々はこれで永遠の別れではないのだ。彼女は、「Yoshi、これからも文通を続けよう。10年、20年先に成るかも知れないが、今度は私が日本へ行きます」と言ってくれた。私はこれからも文通を続けるつもりであるし又、いつか日本で彼女に会える、と思うと嬉しかった。
 それでも瞬く間に、お暇しなければならない10時になってしまった。3人で腕を組んでブレント駅までいつもの様に歩いて行った。私が真ん中で、左右に彼女とジャネットの両手に花を最後に咲かせ、静まり返った街に3人の足音だけが、何故か悲しそうに響き渡った。
 駅に着いてジャネットは、「ヨシ、それではこれでお別れね」と言って、私の頬に突然キッスをした。彼女の持て成しやその心配り(こころくばり)は、大変嬉しかった。そして彼女のお別れキッスは、最高のイギリスのお土産であった。「ジャネット、色々有り難う。君と友達になれて本当に良かった」と彼女に別れの挨拶をした。
「Yoshi、体に注意して元気で旅を続けてね。それから旅の途中で時々、絵葉書や出来たら手紙も書いて下さい。Yoshiが元気で旅をしている様子が何よりも嬉しいのだから」と彼女は言って、私の頬にキッスをしてくれた。彼女の甘い香りのキッスは、私の旅の『心に残る最高の贈り物』になった。
「時々手紙を書きますから、シーラも元気で過ごして下さい。それから先程の話だが、今度はシーラが日本に来て下さい。いつか、きっと来て下さい。私はその日を楽しみにしています」と私は言った。
「きっと行きます。東京の飛行場で会いましょう。今度は私が、『Yoshi ○○○○』と書いたプラカードを持ってネ」と彼女。〝ヴィクトリア駅の事〟(シーラから2人の駅での出会いについてジャネットに話が伝わっていた)を思い出したのか、「アハハハハ」と3人が初めて笑った。
「そうだよ、シーラ。会える日を楽しみに待っている、約束だよ。シーラ、私は君が好きだ」と言って彼女の肩を軽く抱き、頬にお返しのキッスをした。
それは、余りにも切ないキッスであった。そして不覚にも自然に涙が溢れ出てしまった。居た堪れず、「それではこれでお別れしましょう。さようなら、シーラ。さようなら、ジャネット」と言って握手をし、私はその場を離れ、改札口へ入った。
 胸が押し付けられる感じがして、涙が幾重も頬に伝わった。振り返ると彼女も悲しそうな顔をして手を振っていた。そして、ジャネットも。私は彼女の所へ戻りたい気持を振り切って、手を振りながら「さようなら、シーラ、ジャネット」と叫び、階段を一気に駆け上った。
 電車に乗ってからも、悲しさ、切なさが抑えきれず、他の乗客が見ているのも拘わらず、私は咽び泣いた。
私は、如何してこうも別れに弱いのであろうか。本当に私は、センチメンタリストなのだ。又、この様な雰囲気が好きなのだ。だから、私は旅が好きなのかも・・・。そしてこれが本当にシーラとの永遠の別れになってしまった。

△自宅の居間にて~昭和36年12月頃の15歳のシーラと弟7歳のケネス(文通を 始めた頃の写真。)

シーラとの日々、そして、別れ~詩 題名「旅」

2021-10-20 21:16:29 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                    △挿絵 Painted by M.Yoshida

詩 題名「旅」

旅は、人生に生き甲斐を与える。
旅は、楽しい。それは、春の訪れのように。
旅は、寂しい。それは、晩秋の落葉のように。
旅は、出逢いであり、又、別れである。
旅は、人生であり、人生は、又、旅である。
人生は、旅で始まり、そして、旅で終る。

作者 YOSHI (昭和43年11月6日、ロンドンのハイド・パークを散策中に突然、この詩が閃いた)


シーラとの日々、そして、別れ~シーラ、ジャネットとの永遠の別れ

2021-10-20 08:44:52 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
     △トラファルガー広場にて(折角イギリスへ行ってシーラの写真は         
     これ一枚だけ、しかもピンボケ、非常に残念であった

・昭和43年11月6日(水)曇り(シーラ、ジャネットとの永遠の別れ)その1
 イランの査証が出来ているので、大使館へ取りに行った。その帰りに、誰もいないHyde Park(ハイド パーク)を散策した。
もうすっかり晩秋になっていた。公園内の落ち葉は深く、ザックザックと歩くと音がした。公園脇の道路は車が忙しそうに往来しているが、ここは別世界、まるで山奥に居るように静寂であった。
 ロンドンは毎日重苦しい厚い雲に覆われ、時には咽び泣く様な小雨が続いた。太陽は昨日か一昨日拝んだ以外、何ヶ月も拝んでいなかった。そんな天候が影響してか、孤独な生活と相乗して、寂しさが一層込み上げて来る今日この頃であった。
 思えば、旅を通して色々な国を訪問し、多くの経験・体験をして来た。あと数日でロンドンを去り、遠いシンガポールまで陸路伝いに旅をしようとしている私。それは途方もない苦労・困難が待っているであろう。私はそれを思うと、心が押し潰されそうな、気が遠くなりそうな感じがするのであった。
 イギリスまでの旅は、どちらかと言えば旅行に近かった。これからの旅は、強いて言えば「放浪の旅に近い旅」になるであろう。そんな事を考え、悶々としながら公園を散策していたら、一つの詩が頭に浮かんで来た。と言いますのは、ここ毎日夜になると、『旅とは何なのか』と言った事を考えていたので、この公園の状況と最近の私の心境から突然、詩が頭に閃いたのだ。その詩を書き留めて置く事にした(P○○参照)。
晩秋の誰も居ないハイド パークを散策し、これから最後のシーラに会う為に駅へ向かおうとした際、フット湧き出た『旅とは』に、何か自分に哲学的なものを感じた。
 所で、今の私の服装はジーパンにカーキ色の暖かい大き目のジャンパー、そして茶色いズックであった。頭髪は、アムステルダム(8月17日)で床屋に行って以来、床屋へ行っていなかった。したがって、髪の毛は伸び放題、髭も伸ばしっぱなしであった。それでも髭は余り伸びていなかったが、その格好はまるでヒッピー スタイルの様であった。貧乏生活、そして貧乏旅行をするのに格好なんて気にしていられない。しかも、自然に生えて来るものを、敢えて切る必要もなかった。私は、自由人であり、全くその方も自由であった。
          その2に続く

シーラとの日々、そして、別れ~日本食レストランで食事を楽しむ

2021-10-18 20:27:45 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                     △昭和44年か45年に送られてきたシーラの写真(イギリスへ        
     折角行ってシーラの写真は一枚しか撮れなかった、と言ったら)

・昭和43年9月30日(月)曇り(日本食レストランで食事を楽しむ)
 今日、仕事は休みの日であった。午後7時、ボンド ストリート駅でシーラと待ち合わせをして、日本レストランへ行く事になっていた。『いつもご馳走になって申し訳ないし、日本食を是非、彼女に食べさせてあげたい』と言う想いもあったのでした。
 駅を出て、オクッスフォード ストリートの向こう側、狭い道を入った所に日本レストランHiroko(ひろこ)があるのを前もって調べておいた。我々が7時過ぎに行ったら、「只今満員で、8時過ぎに席が空く」と言うので、その時間帯に予約を取った。カフェ店でコーヒーを飲んだり、街を散策したりして、1時間程過してから8時過ぎに、『ひろこ』へ再び行った。
 このレストランは、日本人経営であるが、従業員はイギリス人と日本人の半々ぐらいであった。高級レストランなのか、綺麗な着物を着飾った女将が恭しく我々を席まで案内してくれた。我々の席の担当ウェイターは、美男子のイギリス人で黒のスーツに黒の蝶ネクタイ、身なりはきちんとしていた。もう1人の担当ウェイトレスは、若い日本人女性であった。
 若者や一般庶民は、値段の高い高級レストランに殆ど見当たらない様で、このレストランもそんな部類に入る高級感があった。この店は、1階にテーブルが15台程で、各テーブルとの空間を充分とってあった。客入りは、7割程であった店内をぐるりと見回して、我々の様な若い人や日本人は誰も居らず、殆ど紳士淑女のイギリス人であった。私の前の席も50歳代の紳士数人が、日本通で酒の良さが分るのか、日本酒を盃で飲んでいた。
 ウェイトレスからメニューを見せられた時、私は迷った。天ぷらコース、お刺身コース、すき焼きコース、鮨コース等に分かれていた。それらのコースで更にスペシャル コースと並コースに分かれていた。私は出来れば安く、豪華に見えて美味しく、且つシーラが喜んで食べられそうな料理、コースを選ばねばならなかった。
選択は難しかったが、これらの条件を満たすのに、『並のすき焼きコース』をオーダーした。お通し、魚料理、昆布巻き料理、すき焼き、ご飯、味噌汁、おしんこう、果物、アイス クリーム、そして日本茶が出された。腹を満たすには充分な内容であった。
レストランを出る時に支払った食事代は、二人分5ポンド5シリング(約5,200円。この金額は私の賃金の一週間分)であった。
私は久し振りに日本酒が飲みたかったし、又シーラにも飲ませて上げたかった。しかし後先の事を考えると、これが私の精一杯の『もてなし』であった。 
 シーラは、箸を使って食べるのが初めてで、使い方はぎこちなかった。しかし美男子のウェイターが彼女に付きっ切りで、箸の使い方から料理一品ごとに説明してくれた。私は彼女に上手く日本料理の説明が出来なかったのでこの点、非常に有り難かった。余裕があれば、彼にチップを出してあげたかったが、日本式に出さなかった。
彼女は美男子のウェイターが付きっ切りでの食事は初めてであるのか、恥ずかしいやら嬉しいやらで、その顔はご機嫌、ご満悦の様であった。そんな彼女の顔を見るのは彼女に会って以来、初めてであった。彼女はレストランの雰囲気や日本料理を充分に楽しんでくれたので、彼女を連れて来た甲斐があり、私も本当に嬉しかった。
食事が終り、彼女が「自分の使った箸を、記念として持ち帰りたい」と言うので、使ってない箸を加えて2膳、希望を叶えさせて上げた。後日、ジャネットに会った時に、彼女は日本レストランへ行った事を楽しそうに話していたのがとても印象的であった。
私がロンドンを去る前、ジャネットを入れて3人でもう一度、来たかったが、経済的理由と決断力がなく、その機会を失ったのは悔いが残り、本当に残念であった。
 所で、今日私は食事中トイレへ行きたくなったので、地下階段を降りて行ったのです。地下に20畳程の和室があり、大勢の日本人が酒を飲んでいる光景を見てしまった。その数40人程、彼等は皆、ネズミ色の背広を着て、酔っぱらって顔を真っ赤にして外国単身赴任の憂さを晴らしているのか、「ワィワィガャガャ」大声を出して飲んでいた。その光景は、日本の養老の滝等の大衆酒場以下で、上と下のアンバランスが何とも皮肉で一瞬、ここがロンドンなのか、信じられなかった。高級レストラン気取をしているなら、大衆酒場で飲んでいる醜態達と同じトイレ(非常に小便臭かった)にすべきではないし、こんな醜い飲み方をしている日本人をロンドンの紳士淑女達に見せたくない、と思った。

シーラとの日々、そして、別れ~シーラの悲しそうな顔

2021-10-17 10:27:08 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
       △1961年自宅にての16歳のSheila Morgan、

                         シーラとの日々、そして、別れ

・昭和43年9月23日(月)曇り(シーラの悲しそうな顔)
 今日は月曜日で私の休みの日、そして部屋も見付かり、久し振りに心身共にゆったりとした気分で過すことが出来た。
 昼間、家族や友達へ手紙を書いて過した。特に先輩のOさんへ、大事なM&M乗船券変更手続きのお願いの手紙を書いた。M&M乗船券は、別途書留で送る事にした。
 夜、シーラの所へ遊びに行った。彼女はマミと同じ働き者で、会社の休みの土曜と日曜に、ロンドン郊外へアルバイトとして、オナーの馬のお世話をしに出掛けていた。私と彼女の仕事の関係で、会える都合の良い日は月曜日だけであった。誰も友達や知人がいない約50日間のロンドン生活が出来たのも、彼女に毎週月曜日に会える楽しみがあったからこそと思う。
 彼女はいつも笑顔で私を迎えてくれた。2人で食事をし、そして紅茶を飲みながらの一時が私にとって安らぎであり、『次週月曜日まで、又がんばろう』と思える時間であった。そして時に、彼女の友達・ジャネットも来て、一緒に食事をした。
彼女は毎回、私と腕を組んで駅まで送ってくれた。レストランの仕事は非常に忙しく、面白くないし、ロンドンの生活は誰とも話す人がおらず、孤独で寂しかった。だから余計に彼女とのそんな一時が、私にとって唯一の楽しみであった。私がいつもシーラの所へ行っていたが、私が誘っても、彼女は1度も私の部屋へ遊びに来なかった。
 所が、そんな私とシーラの付き合いの中で、今夜の彼女は時たま悲しそうな顔をするのを感じたので、如何したのかと尋ねた。すると彼女は「近く勤めている会社が倒産するので、失業になる」と言うのでした。
 彼女は仕事や結婚の事で、色々悩んでいるようであった。彼女の元気なさそうな、悲しそうな顔を見ると、私までも悲しくなってしまうのでした。「シーラ、元気を出して」と言うだけで、私には何もしてあげる事が出来なかった。
それでも彼女は、腕を組んでブレント駅まで私を送ってくれたが、いつもと違って今夜は悲しい(寂しい)駅までのデートであった。彼女に新しい仕事が見付かり、そして元気になってくれればと願うだけであった。
いつもシーラに食事をご馳走になっているし、元気になってもらいたくて次週の月曜日、私の招待で日本レストランへ行く事にした。
今日は慣れた乗換駅のKing’s Cross(キングス クロス)で、乗る電車を間違えてしまった。




私のロンドン生活~暇な時の話

2021-10-16 06:33:25 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
       △ハイドパーク(PFN)

・暇な時の話

 毎週月曜日の休みの日は、近所やロンドン中央の公園へ、よく散策に出掛けた。陰うつな天候で暗い部屋に居ると、余計に寂しさを感じたので、外出したのもその為であった。
 外へ出掛けると、必ず何処かの公園か広場(square and circus)に辿り着いた。それ程ロンドンは大都会にも拘らず、公園や広場が多かったので、「公園都市」と言っても過言ではなかった。それに皆立派でよく手入れもされていたし、ゴミも落ちていなかった。イギリス人は公共道徳がある証なのである、と感じた。
 ロンドンの代表的な公園は、リージェント パーク、ハイド パークやケンジントン パーク等があった。これらの公園は、広いので一回りするのにかなりの時間が必要で、余ほど時間があるかジョキングをする人以外、一回りする人はいないであろうと思った。
ロンドン市民は、サッカー、フットボール、乗馬、読書、散策、夏季は日光浴等、色々な方法で公園を楽しんでいた。そんな公園に小鳥は勿論、リスも住んでいた。公園は本当にゆったりとした時間が流れていて、彼等を見ていると「本当に日本人は、忙しく働いていて、落ち着かない人種だ」と感じた。
シーラの話によると、これらの公園は昔、王室の所有であったそうだが、今では庶民に開放しているとの事であった。

私のロンドン生活~買い物の話

2021-10-15 09:06:54 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・買い物の話
 八百屋、魚屋、そして雑貨屋も近くのHighbury Street(ハイバリー通り)にあるので、買物は不便でなかった。しかし野菜や魚の種類は日本より少なかった。特に野菜の種類は顕著であった。
 イギリスは、〝アメリカ式ストア〟(スーパーマーケット)の近代的な店ではなく、個人経営の従来の店舗型であった。スーパーマーケットは北欧やドイツで見掛けたが、その他の国では見掛けなかった。
 買物は1人生活なので量に於いて不便さがあった。1度何かを買うと何日も残った。特に食パン(一斤。こちらは防腐剤が入っていない)を買うと2・3日でカビが発生し、勿体ないが捨てた事も度々あった。
 買物時の失敗談と言うか、チョットした事があった。それは・・・・。
下町の郵便局へ行った時、マッチが売っているので、私はそれを買おうと思った。局員のおばさんに、「Match, please」(マッチを下さい)と言ったら、そのおばさんは、「・・・マッチ?」と言って私の言った言葉が分らないのか、考えている様子であった。私はマッチを擦る手真似をしながら、再び「Match, please」と言った。そのおばさんは、「Oh, matches」(分りました。マッチ箱ですね)と言って、私にマッチ箱を差し出しながら「This is matches, no match」(これはマッチ箱で、(一本の)マッチではありません)と言ったのだ。我々のやり取りを見ていた周りの人達は、可笑しそうな顔をしていた。私の顔は恥ずかしさで赤くなった感じがした。そして局員のおばさんから恥をかかせられたようになり、腹立たしさを感じた。
英語の複数で成り立っている単語は、複数形で発音すると言う事ぐらい知っていた。しかしマッチ1本を買いに来るバカがどこにいるかと思うのだ。「Match」と言われて、「A box of matches」を連想出来ないイギリス人の融通のなさ、機転のなさが証明された様なものであった。日本であったら、「マッチ下さい」と言ったら、店員は黙って一箱のマッチを出す。マッチ1本出す店員は100%いない。日本では要するに、『マッチ一箱』でも『マッチ』でも同義語なのだから、イギリスでも同じに連想出来ないのか、如何であろう。
頭に来たからと言って、怒る程の事ではないが、それについて議論する英会話力がない私なので、悔しいが「Thank you」と言って引き上げざるを得なかった。
 それから似た様なケースが後一つあった。それは・・・。 
歯磨き粉も練歯磨も、私は日常生活に於いて「歯磨き粉」と言っていた。そして練歯磨は子供の頃、無かった。
いずれにしても、『その歯磨粉』が使い終わった。買いに行くのにその単語が分からず、和英辞書で調べた。辞書には、『toothpowder, dentifrice, toothwash, toothpaste, toothcream, dentalcream』と色々載っていた。
 ハイバリー通りの雑貨屋(野菜も売っている)へ行って、いつも使っている様な歯磨き粉がないか、店の陳列棚を一回り見たが、見当たらなかった。それで男性店員に一番言い易い単語で、「Toothcream, please」と言った。しかしその店員は?不思議がって、理解して貰えなかった。それでは二番目に言い易い単語で、「Toothpowder」と言ったが、又も店員は分からず、『・・・?』と考えていた。さぁー弱った、あとの単語を忘れてしまったのだ。
仕方なく私は、「I want something to brush my tooth」(歯を磨くのに必要な物が欲しいのですが)と言ったのだ。すると店員は、「Oh! toothpaste」(オー、練り歯磨きですね)と言って、ある陳列棚からそれを取り出し、私に渡してくれた。
 私の発音が悪いのは、最初から承知していた。不思議なもので、辞書に出てくる単語が実際に通じなかった。英会話に於ける単語の使い方は、その時の内容や状況によって、色々と区別されるのだ。
そしてここでも店員の融通や機転が無かった。『一歩突っ込んだ考えが無いのか』と疑いたくなった。彼等はお客さんに言われた事を考え、「それは何ですか」、「どんな時に使うのですか」、或いは「toothpowder(歯磨き粉)はありませんが、paste(練り用)ならありますよ」等、お客さんが何を求めているのか、分らなければなぜ質問しないのか、それが不思議であった。要するに彼等は、前向きな売り方が足りないのであった。裏を返せば、品物を積極的にお客さんに売りたくないように受け取られた。否、イギリス人は概して『積極的にお客さんに商品を売ろう』と言う姿勢が足りない、と感じられた。
 しかし、「融通や機転が無いから、彼等は不親切であった」とは言ってないのだ。彼等は、親切であった。ただ、融通、機転が『今一』なのであった。

私のロンドン生活~ミルスおじさんの話

2021-10-13 21:16:25 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・ミルスおじさんの話
 あの日(1968年9月21日)の深夜、泊まる所が無く困り果てて通りを歩いている時、ミルスさんに会わなかったら、今頃はどうなっていたか分らなかった。彼はシングル ベッド一つにも拘らず私を泊め、朝食を作ってくれて、直ぐに今の部屋を探してくれた。命の恩人に値する程に恩があり、私のロンドン生活が出来たのも、彼のお陰であった。
 彼に親切、恩を受けておきながら、仕事や生活が落ち着かなかった理由があったがその後、直ぐにお礼に行かなかったのは、本当に私の怠慢であった。
決して忘れていた訳ではなく、『近い内にお礼に行こう』といつも思っていた。11月11日頃、ロンドンを去る予定であったので、11月に入って直ぐ、食料品を買って、それを手土産に彼の所へ行った。しかし、折角行ったのに留守であった。隣の部屋に住んでいるおばさんに、ミルスさんの状況を聞いたら、「彼は病気の為、病院に入院している」との事であった。見舞いに行きたいので、彼が入院している病院の住所を教えて貰い、その日は帰って来た。
 しかし、私の不義理で見舞いに行く機会すら持たず、ロンドンを去る日が来てしまった。恩を受けて、お礼方々お見舞いに行く機会すら持たなかった私は本当に心苦しく、そして残念な気持でイギリスを去らねばならなかった。
 勿論、帰国してから礼状を出しました。以後、時々文通をしていましたが、それから3年後、治療虚しく持病である心臓病の為、南イギリスのある所で亡くなりました。ミルスおじさんのご冥福をお祈り致します。

私のロンドン生活~食事作りの話

2021-10-13 09:15:47 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・食事作りの話
 1人生活では、何と言っても億劫なのが食事作りであった。オックスフォード ストリートのレストランで働いていた時は、お店で夕食が食べられたので、部屋で朝昼兼用の食事で済ませていた。又、ボンド ストリートのレストランの時は、昼食と夕食が食べられたので、部屋で軽朝食を食べてから出掛けていた。
 「朝昼兼用」や「軽い朝食」と言っても、それは貧しい食事であった。ジャガイモを煮て、皮を剥き、マーガリンを塗り、それにパンとコーヒー、時にゆで卵を付けた食事が主であった。偏った栄養だが『量と栄養はレストランで』と言う考えでしたので、それで充分であると思っていた。
 仕事が休みの月曜日は、いつも10時過ぎまで寝ていて、それから朝昼兼用の食事を作っていた。その休日の兼用の食事は、少し豪華にして〝スペイン風お好み焼き料理〟(スペインで食べた「トルティージャ」と言う訳に行かないが)、パンそしてコーヒーで栄養、カロリーとも充分な内容であった。
 このスペイン風お好み焼き料理とは、私がスペインへ行った時に食べた料理が気に入って、それを真似して作った私のオリジナル料理であった。作り方は卵3~4個を割って良く掻き混ぜ、その中に蒸かしたジャガイモをほんの少し細かめに(細かくではない)輪切りに切り、それを混ぜた卵の中に入れ、それと少し炒めた野菜(キャベツと玉ねぎ)と肉の代わりにソーセイジも卵の中に加えて良く全体を掻き混ぜてから、お好み焼きの様にフライパンで焼いた料理であった。味付けは、醤油・ソースがないので塩とコショウであった。かなり大きめな料理なので中までよく火が通るように、両面を等しく焼く(焦がしては駄目)のがポイントであった。
スペインで食べたトルティージャの様に作れなかったが、これが結構旨かった。しかし休みの都度に作っていたので、最後の頃は飽きたのも事実でした。
肉や魚料理は、ロンドンを去る前の日に2回作っただけであった。

私のロンドン生活~寂しさの話

2021-10-12 13:57:29 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
   △ハイドパークのスピーカーズコーナー(PFN)

・寂しさの話
 私のロンドンでの生活は、話し相手がシーラ以外、誰も友人知人が居なかったので、孤独であり、寂しさもあった。又、必要最低限以外、お金を使えないので娯楽や食事も楽しめず、おまけにテレビやラジオも無いので、虚しかった。それに輪を掛けて毎日、陰うつな天候が続き、孤独と寂しさに拍車を駈けていた。
 私の寂しさを癒してくれたのは、時たまパブへ行ってビールを飲んだ事、シーラの心使いで週に1度、彼女の所へ遊びに行けた事、そして日本から来る先輩のOさんや友達の手紙でした。私もまた手紙を送ってもらえるよう、まめに手紙を書きました。返事の手紙がそろそろ来る頃の9時半前後、1階の郵便受けに手紙が配達されているかどうか、ちょくちょく見に行ったものでした。手紙が来ていると本当に嬉しく、日本を懐かしみながら(望郷の念とは違う)何度も読み返した。
 所で話は変わるが、何ヶ月間(10/1の大金以外、3ヶ月間)も日本語を話さないと、人は「言葉に飢えたり、活字に飢えたりする」と言う事を知らなかった。多分、世界の人達も同じだと思った。
しかし、だからと言って折角外国に来たので、ロンドン滞在中や旅行中、日本人に積極的に話し掛けたり、日本人だけで群れをなしたりする様な事は嫌だったので、私は敢えてしなかった。