YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

パリの旅~私が見た事、感じた事その2、パリの街角の話

2021-07-31 15:55:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△コンコルド広場のオベリスク

*パリの街角の話
パリでも観光は、基本的に歩いて回った。それによって楽しい事、新しい発見や色々な風物に接する事が出来た。
 保守的とも伝統的とも言えるフランスの心と誇りを、今でも脈々と受け継いでいる何が感じられた。彼等が住んでいる建物は、何処へ行っても歴史を感じ、非合理性であっても旨く生活に調和させ、合理的に使っているようであった。
 又、通りのウィンドー・デスプレィーは、実に美しく、感心した。店を遅くまで開けて儲け主義に走らず、殆どのお店は午後7時頃で店を閉じるが、ショーウィンドーだけはシャッターを降ろさず、しかも、明かりをつけて夜の散歩する人を楽しませてくれていた。
メトロの入口や橋の上、或は、ちょっとした所に新聞・雑誌の売店(キオスク)があったりした。
市内には、大小の公園、広場、或は、門(道路の真ん中に広場と記念碑門)があり、そこは一つのオアシスの感じであった。そこでベンチに腰掛けている老人達や若いカップルが語り合ったりしていた。そんな中、夢中で遊ぶ子供達の光景があった。パリジャンは日本人と何処かが違う心のゆとり、或は、仕事と余暇の使い分けが上手い、誠に羨ましい雰囲気があった。

パリの旅~私が見た事、感じた事その1、パリの観光巡りの話

2021-07-31 15:25:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
 △エトワール広場にある凱旋門(PFN)

 私のパリ滞在は、7月30日(午後到着)・31日・8月1日・2日・3日(午後マドリードへ出発)、8月19日(午後到着)・20日・21日・22日・23日・24日(正午ロンドンへ出発)、11月13日(夕方到着)・14日・15日(イタリアへ出発)と言う事で、足掛け14日間滞在し、正味1日中パリに滞在したのは、8日であった。
 滞在期間中、全てを見物に費やした訳ではなかった。強いて言えば、パリは私のヨーロッパ旅行の中継基地と言う感じで、休養したり、次の準備をしたり、日記や手紙を書いたりして過した時間の方が多かった。
しかし、そんな中でも極力、私は観光へ出掛けた。そして、パリについて私が見た事、感じた事、体験した事をここに纏めた。

*パリの観光巡りの話

 パリは、セーヌ川によって南北に2分されていた。見所は川に沿った近くにあり、殆んど歩いて行ける範囲であった。
その中心にあるのが『ルーブル宮殿』であった。そして『ルーブル博物館』は、この宮殿の中にあった。殆どの美術品は、ナポレオンが占領各地から持ち帰った物、と言われていた。展示品が余りにも多いので、2日や3日では見切れない程であった。それで何を見たかと言うと、私は殆んど記憶に残っていなかった。 
何年か前、東京にモナリザの絵画が展示された時、見たい人が余りにも多すぎて、その前に立ち止まって鑑賞出来なかったそうだ。しかしルーブル博物館ではその絵が小さすぎてか、それとも他に見るべき美術品があるのか、モナリザの前に人がいなかった。注意していないと何処にその絵画あるのか、知らない内に通り過ぎてしまうほどであった。

 私がマサオの部屋に帰ってから、今日何を見たのか思い出せなかった。余りにも美術品・作品が多く、その上、漠然と見ていたのでこの様な結果になってしまった。 
強いて上げるなら、ミロのヴィーナス、モナリザ、ミケランジェロの奴隷の像、晩秋、そしてピカソの絵画等であった。それに広すぎて、疲れた。Yoshiは美術品に対する鑑賞の仕方、作品に対する知識がないから、3時間程度で直ぐ飽きたのだ。広い美術館に、たくさん良い作品がいっぱい見られるのに、疲れたとは何事だ、と美術鑑賞が好きな人から怒られるかもしれませんでした。しかし、日本に居た時は、美術館へ行った事がない私が、パリ滞在中このルーブル博物館へ3回も行ったのでした。
 
 鑑賞後、ルーブルを出ると直ぐ『カルーゼルの凱旋門』があり、それを見ながら行くと、広くないがフランス風の庭園『チュイルリー公園』があった。その園内に噴水池があり、近所の子供達がオモチャのヨットを池に浮かばせて楽しんでいた。又、子供連れのお爺さんがベビーカーを押しながらの散策は、平和そのものに映った。アイスクリームを買ってベンチに座りながら、そんな光景を見ているのも楽しい一時であった。
 
 その公園から直ぐ、フランス革命の表舞台になった場所『コンコルド広場』があり、その広場中央に立っているのが大理石の『オベリスク』と言われる塔があった。そのオベリスクの向こう遠くに『エッフェル塔』が良く見えた。
このコンコルド広場から南に『シャンゼリゼ通り』、その通り越しに『エトワール広場』にある『凱旋門』も良く見えた。
ここは正に『パリのどまん中』、その中心に私が今いるのが不思議で仕方がなかった。特に素晴らしいのは、夜のコンコルド広場に数千の街灯が点灯し、そこからのシャンゼリゼ通りの夜景は、最高であった。街や外灯の灯りと自動車の灯り、そして、その向こうに凱旋門が浮かび上がるその光景は、正に『百万ドルの夜景』であった。
シャンゼリゼは、フランスの一流のお店が建ち並び、パリのメインストリートであるが、ケチケチ旅行の私には縁のない場所であった。しかし、歩道までせり出したカフェの椅子に1人腰掛けて、人々の行き交う光景、ネオン輝く街、光を放って往来する車、そして左手に光を帯びて浮かび上がった凱旋門を眺めながら、私は静かに飲むビールにむせび、何故か一筋の涙が出てくるのを抑える事が出来なかった(8月21日夜)。

 私は、ルーブル~コンコルド~シャンゼリゼ~凱旋門と、この一帯を3~4回程散策した。凱旋門のあるエトワール広場(ここを中心に12の街路が放射線状に伸びて整然としている)からクレベール通りを下ると『ジャイヨー宮』(1937年の万博記念)があった。その建物前の公園を通り、セーヌ川を渡ると『エッフェル塔』に着いた。パリへ折角来たので記念にエレヴェーターで昇り、そこからパリの街並み、眺望を楽しんだ。
塔の前の『シャン・ド・マルス公園』の芝生と花壇の花が綺麗で、そちらの方が印象に残った。この公園の先が『エコール・ミリテール』(陸軍士官学校)、直ぐ傍にある『アンバリッド』(廃兵院、1789年フランス革命の歴史的建物)を見学した。 
 
 パリ見物で見逃してはならないのがセーヌ川のシティ島にある『ノートルダム寺院』(ゴシック建築の代表作)だ。建物の形、彫刻群が美しく、又、内部の荘厳さ、ステンドグラスの美しさに感動した。院内に賛美歌が流れ、お祈りの響きに身も心も清めさせてくれた感じであった。  

パリの旅~ホテルでゆっくり過ごす

2021-07-31 14:05:06 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△エッフェル塔とパリの町並み(PFN)

・昭和43年7月31日(水)晴れ(ホテルでゆっくり過ごす)
 
―――日記や手紙を書いて過ごした。―――

パリの旅~国際急行列車の旅

2021-07-30 08:36:46 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ノートルダム寺院(PFN)

・昭和43年7月30日(火)晴れ(国際急行列車の旅)
*参考=フランスの1フランは、約70円(1センチムは70銭)。 

 夜の闇の中を列車は、一路パリへとひた走った。コペンハーゲン~パリ間は、デンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギー、そしてフランスの5ヶ国が存在して、列車(我々)が入出国の度に夜中にも拘らず、各国の係官が旅券の提示を求めに来た。その上更に、1つの国で2回程、乗車券の検札に来たので、睡眠が取れる状態ではなかった。夜行列車なので、もう少し考えて貰いたかった。
フランス領内は田園の中をひた走り、パリに着いたのは午後3時20分であった。乗車時間は18時間から19時間、睡眠不足が加わり疲れた旅であった。
 
 所で、麦畑の中から急に都市になり、パリは田園の中にドカーンとあった。東京や他の大都市は、たんぼや畑から段々家が多くなり、そして工場も多くなり、それから大都市に入って行く。ヨーロッパの大都市、またパリの様にロンドンも、田園から急に大都市の様相を呈した。
 
 私は日本を出国前、会社の先輩からパリ在中の朝倉正雄さん(仮称)を紹介してもらった。その彼に手紙を出したら、「是非こちらに来られたら、自由に私の部屋を使って下さい」と言う有り難い返事があった。彼の住まいは、パリの中心から近い、あるアパートメント・ハウスの一室を借りて住んでいた。パリに住んでいる彼の友達は「マサオ」と言っているので、私も以後、「マサオ」と呼んでいた。
その様な訳でパリに到着後、私と鈴木はメトロ(パリの地下鉄)に乗ってマサオの所へ行って見た。彼の住んでいる建物は、古く(こちらではそれほど古い方ではない)、200年(もっと古いかも)は経っているように見受けた。4階の部屋への階段は、各階ごとに明かり点けて(点けても薄暗かった)、そして次の階に行ったら前の階の明かりを消す、そんな階段用照明を操作しながら上って行った。 
4階の彼の部屋に着き、ノックしたが応答なし、鍵も掛かってドアは開かなかった。すると、隣の部屋の青年(ベネズエラ人)が、「マサオはロンドンへ出掛けていて、3日か4日間、戻って来ないらしい」と教えてくれた。

 我々はユースへ行くには既に疲れていて、この辺りのホテルを探し、泊まる事にした。と言っても勿論、1星の一番安いホテルで部屋代は、1人8フラン(約560円)であった。当然、食事代は含まれていなかった。
 
 ホテルから出て直ぐ表通りに、サラダやパン(フランスパンは長くて、固い)等を売っているスタンド形式のお店があった。我々は夕食と朝食用にそれらを買って、サンドイッチにして食べた。このお店で買物した時の若い女の子は、まったく英語が分らず、身振り手振りでの買物であった。後から気が付いたのであるが、全般的にフランスは英語が通じない国であった。
ヨーロッパ旅行中、私のパリ滞在はトータル的にロンドンに次いで2番目に長く滞在していた。フランス人について感じた事は、フランス人は大国意識を持っていて、たとえ英語を知っていても知らない振り(『フランスに来たらフランス語を使え』と言う感じだった)をする場合があった。そして、概ねフランス人は、他のヨーロッパ人から比べると、本当に英語を知らないようであった。その様な理由でこの国は、英語が余り通じなかった。
 
 所で、我々が泊まった部屋のトイレには、トイレ容器の他に見た事もない容器があった。ホテルの人に聞いたら、あそこを洗う仕草を手真似で教えてくれた。なるほど、婦人のあそこを洗う為の容器(婦人専用の衛生洗浄器『ビデ』と称する物)であった。
イギリスやオーストラリアでは、見掛けなかったが、フランスでは必ずあってフランス文化の一端を垣間見た。
 
 昨夜は、睡眠が取れない長時間の夜行列車の旅、そして今夜はフカフカなダブルベッドに男2人が寝る事になった。寝られそうもないが、ともかくお休みなさい。

コペンハーゲンの旅~コペン見物とヌード写真集

2021-07-29 14:49:11 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△人魚姫(PFN)にて~観光客は我々二人だけであった。有名な割に何か寂しい感じであった。

・昭和43年7月29日(月)晴れ(コペン見物とヌード写真集)
 今夜、20時55分の列車でパリへ行く事にした。充分な時間があるので、今日も我々はコペンハーゲンの観光を楽しんだ。

―――見物の話は省略―――

 市内見物後、我々は特に目的意識もなく街を散策していたら、1つ発見した事があった。それは、フリーセックスの国・スウェーデンのストックホルムより、ここのコペンハーゲンの方がヌード写真集の本屋がたくさんあった。その写真集の中身も大事な部分に透かしがなく(無修正)、良くあそこが拝めて、男性にとって嬉しい限りであった。日本のヌード写真はパンティ着用、修正でリアルさがないので、『北欧のお土産』にと思う人がいるかも知れません。しかし、税関で発見されたら没収されてしまう。ともかく余計な事を考えないで、我々はその代わりに飽きる程、それらのヌード写真集を立ち見した。

 我々は、20時55分発、国際急行列車Paris(パリ)行きに乗車した。前もって寝台車を予約しておいた。牽引はジーゼル機関車であった。ヨーロッパの列車は、日本の列車と比較して外観の見栄えはどちらかと言えば、良くなかった。  

 ソ連もそうであったが、イギリスを除くヨーロッパは何処へ行っても、牽引はジーゼル機関車であった。どうして電化にしないのか、疑問の1つであるのだが、確かに日本より電化が遅れていた。
 多分、電線を切られれば、電気機関車は走れない。戦争になれば電化は、誠に弱点なのだ。さらに、1つの国が電化してもヨーロッパ全体が電化しなければ意味が余りないのだ。
そして、何よりもヨーロッパは、一般的に車の方が早く普及し、それに伴い道路網も良く整備されてしまった。従って、鉄道より車の方が早く、そして便利になってしまった。そんな訳なのか、鉄道の利用率は日本より少なかった。


コペンハーゲンの旅~我々の市内見物の話

2021-07-28 09:09:17 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
*我々の市内見物の話

 私と鈴木の市内観光は、地図を片手に自分の足で多少遠くても、歩いて回るのが原則であった。
旅行会社主催の団体旅行は、見所から次の見所へと時間的に無駄なくバス等で移動し楽である。又、見所に於いてもガイドによる日本語の説明があるので歴史的、或いは美術的について良く理解出来る利点がある。
それに反して団体旅行は途中の過程が空白であり、観光箇所を後で思い出しても何処を見物したのか覚えていない、或は忘れてしまったと言う事が多いのではないか。如何してなのか。理由は簡単、他人任せの楽な観光は、何も思い出として残らないのだ。
 
 我々の市内見物は、団体旅行と違って、何かにつけて時間的な無駄と苦労があった。しかし、自分の見たい所へ行けたし又、時間的制約を受けずじっくり見る事も出来た。そして、何よりも他の人が居ないので、非常に気が楽であった。
地図を便りに苦労しながら、また人に聞きながら見たい所へ歩いて行く、そう言う『過程』が大事であると思った。その過程に於いて人との出逢いがあったり、小さな発見や事件に出逢ったり、そうした中で忘れる事が出来ない鮮明な良き思い出が残った。そして私の脳裏にその過程が線となって結び付いたのです。
 
 市内観光地図は、主要駅、観光案内所、ホテル、或はユース等にて無料(所によって、買わねばならない都市もあった)で手に入れる事が出来た。


コペンハーゲンの旅~コペンの中央駅にビックリ

2021-07-28 06:56:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
・昭和43年7月28日(日)晴れ(コペンの中央駅にビックリ)
*参考=デンマークの1クローネは52円(1オーレは52銭) 

 スウェーデンのヘルシングボルから、今度は連絡船に乗り換え、Denmark(デンマーク) のHelsingor(ヘルシンゲル)へ渡った。
ホールデン~Copenhagen(コペンハーゲン)間は、列車から他の列車へ、列車から連絡船へ、連絡船から又、列車への乗り換えの為、不案内、言葉の不自由さ、肌寒いし、夜中で眠いし、鈴木と一緒でも何か寂しい辛い旅であった。ブルガリアの女性が泣いてしまうのも理解出来るのでした。
国境での出入国手続きは、旅券に出入国証明の押印だけで簡単であった。列車は、デンマークのヘルシンゲルから2時間程でコペンハーゲンに到着した。

 朝の7時、コペンハーゲンの駅は、やっと眠りから覚めたようであった。構内のあちこちにゴミが散乱していて、乞食・浮浪者が転々と寝ていたり、或はたむろしていたりして、『これが童話の国、コペンハーゲンの表玄関の中央駅なのかぁ』と逆の意味で感心してしまった。日本の7時台のラッシュアワー時間帯とは、程遠い感じであった。
昨夜は、本当に寒かった。冷えと空腹の為、駅のフード・スタンドでコーヒーとホット・ドッグで朝食を取った。冷え切った体にコーヒーがとても美味しかった。
 
 駅から一歩街へ出ると、落ち着いた綺麗な都市であった。我々はユースへ直接歩いて行き、今日の宿泊の手続きを取った。大部屋に幾つもベッドがあり、各国の若者達で一杯であった。とにかく、疲れているので一休みした。その後、市内見物に出掛けた。

 夕暮れ時、市庁舎前広場に25人程の日本の若者が群れをなしているのを見た。コペンハーゲンで職探しをしている彼等は、仕事が見付らないので広場にたむろし、或いは群れをなして行動していた。
それにしても日本人は、如何して集団を作るのであろうか。白色人種のヨーロッパで黄色人種の日本人が群れをなしたり、屯(たむろ)したりしている姿は、目立つのであった。一般市民からも反感を買うであろう。私から見ても感心しない光景で、『1人か少人数で行動しなさい』と言いたかった。

 夕食後、我々は久し振りに、10人程がやっと座れる小さなカンター・バーでビールを飲んだのだ。小ビン1本(10クローネ、約520円)であったが、喉に染み透るほど美味しかった。モスクワ以来の12日振り、デンマークのビール(ハイネケン)なので、なお更旨かった。
 
 市庁舎前広場からコンゲスニトロフ広場までのストロイエット通りは、車の進入を禁止して歩行者専用の通り(後の日本の『歩行者天国』)になっていて、夜の散歩を楽しむ市民でかなり混雑していた。
その通りの一寸した広場で議論に熱中している人達や、ギターを弾いて大勢の若者が歌を歌ったりしていて誠に賑やかな、活気溢れる通りであった。そんな通りで、ヒッピー達が屯している光景はこれ又、異質な存在として映った。
特に私の眼に留ったのは、その通りの小さな広場で、男性1人がギターを弾きながらハーモニカを吹き、女姓2人の内1人がギターを弾きながら、もう1人の女性が歌を歌っているライブの様子であった。彼等の前の地面に英文で、『今、私達は世界旅行をしているが、お金がなくなって困っています。どうか御報謝をお願いします』と書いてあった。ライブをしながら旅をしているようであった。彼等の格好から推測して、放浪の旅の楽しさ、辛さ、寂しさが感じられ、印象に残ったのだ。このライブ演奏に大勢の歩行者が取り囲み、聴いていた。
『私は、いつまでこの旅が続けられるのか。私も旅費がなくなったら、あの様な事をしながらの旅も良いなぁ』と思った。実際に旅費、自身の健康面、家族、自分の将来等々の事を考えると、常に不安が付きまとっていた。希望としては、最低半年、帰国しないで多くの国を回り、出来れば色々な物を見たり又、経験したりしたいのであった。これは、私の旅の原則であり是非、貫き通したいと思った。
 
 午後10時30分頃、ユースに戻った。寝ている人は誰も居らず、遅くまで騒いでいた。偶然と言うのか、不思議と言うのか、オスロとサルプスボルのユースで逢った荻と、三度ここのユースで会った。彼はヒッチでここに来たのだ。『けっこう早く来られたなぁ』と感心した。今度、いつ何処で彼と巡り会えるか楽しみであり、元気で旅が続けられる事を願うのであった。

サルプスボルの旅~鉄道の案内放送の話

2021-07-27 17:13:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
*鉄道の案内放送の話
 
 日本の鉄道、特にある鉄道会社は過剰な程にホームや車内放送をしているように感じた。車掌によっては車内に居たたまれない程の大きな音量で、何度も同じ事を放送する人がいた。何度も放送する事、或は決まりきった事を放送する事が、『旅客サービスを提供している』と私は思わなかった。ましてや大きな音量で、しかもしつこい放送は止めて貰いたいだけであった。 
 
 ヨーロッパの鉄道(パリやロンドンの地下鉄を含む)は、何処へ行っても、到着、発車、乗り換え、終点到着、忘れ物注意喚起等の一切の車内放送、或はホーム案内放送をしていなかった。旅客が列車行き先名、時刻表、駅名表示板等を見て、旅客の責任で乗り降りしていた。したがって車内や駅構内は、とても静かであった。

 私は、『案内放送は、無用である』と言っているのではない。もう少し案内放送の仕方を含め、放送音に対する感受性を高め、静かさに対する求め、欲求がもっとあっても良いのではないか、と思っている。

サルプスボルの旅~ホールデン城で美女に出逢う

2021-07-27 15:04:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
・昭和43年7月27日(土)晴れ(ホールデン城で美女に出逢う)
 近所の銀行へ行って両替をして、ユース代を払って出た。今日、何処へ行くかまだ決まっていなかった。駅に着いたらHolden(ホールデン)行きの列車が来たので、それに乗った。ホールデンは国境の町、向こう側はスウェーデン領である。ホールデンはサルプスボルの隣町、キロにして15km程度であるから直ぐに着いた。
我々は、コペンハーゲンへ行く事にした。そこへ行くにはHalsingborg(ヘルシングボル)へ行かねばならなかった。駅員に尋ねると、午後8時40分にヘルシングボル接続の列車を教えてくれた。その列車の時間までは、まだ充分あった。そこで、「何処か観光をしたいので、良い所を教えて下さい」と駅員に尋ねたら、彼はホールデン城を教えてくれた。我々はそこへ見学しに出掛ける事にした。
 城門前にある2門の大砲が我々を迎えてくれた。この城は、1640年に建てられ、城内の庭園は良く手入れされ、気持が良かった。
観光客は、殆んど見当たらなかった。そんな美しい庭園の中で、これまた眩しい程の美しい女性がたった1人、イスに腰掛けていた。彼女は長く伸ばした金髪、美形な顔、スラットした足、そして白のミニスカートが良く似合っていた。しかも、彼女は知的雰囲気も漂う女性でもあった。今まで過って私は、これほど美しい女性を見た事がなかった。彼女を見ているだけで、胸がドキドキしてしまう程であった。  
私は堪らず話し掛けた。彼女はスウェーデンから観光で来ている、との事でした。やはりスウェーデン人は、世界で一番美人が多いと思った。「一緒に写真を撮らせて下さい」と言ったらOKしてくれたので、記念に彼女と撮った。こんなに美しい女性と一緒に写真を撮ったのは、初めてであり、そして、最後になった。


      △ホールデン城にて~スウェーデン人美女と私


        △ホールデン城にて

 城内をあちこちと見学した後、青々とした芝生の上で相棒の鈴木と何番か相撲を取っていたら、パチパチと拍手をするのが聞こえた。振り向くとスウェーデン人の夫婦と子供2人の家族4人が、我々の相撲が面白かったのか、手を叩いてくれた。
相撲を取ったら喉が乾いてしまった。彼等にこの辺りに飲料水があるか尋ねたら分らないと言う事で、その代わりに我々にジュースをご馳走してくれた。
それから彼等と片言の英語で日本とスウェーデンの事を話し合った。 
 半日を楽しく城内で過ごした後、午後8時10分頃ホールデン駅に戻った。すると既に午後8時40分のヘルシングボル接続の列車がホームに停車していた。我々は危うく乗り遅れるところであった。
 ヘルシングボルへ行くには、途中駅で乗り換えねばならなかった。ヨーロッパの鉄道は、『車内放送やホーム案内放送』がないので、我々は乗り換えする時、しかも真夜中なので大いに気を使わなければならなかった。この時、同じ車両でブルガリアの18歳位の娘さんが泣いていた。如何したのか尋ねると、「コペンハーゲンへ行きたいのですが、如何したら良いのか分らない」とシュクシュク泣きながら訴えた。接続駅で私は彼女の手を引き一緒に下車し、ヘルシングボル行きの列車へ共に乗り換えた。

サルプスボルの旅~リュックの話

2021-07-26 10:35:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
*リュックの話
都会や田舎を歩き回る旅になる事は、出発前から考えられていた。しかし、山登りやハイキングをするのではないから、『リュックを背負って海外旅行する』と言う発想は、日本出発前、なかった。
事実、ソ連経由グループ35~40人程の内、リュックの人は1人であった。勿論、その人は若者であった。彼の服装は普段着(ジーパンにラフなシャツ)で、周りの日本人からは異質な存在であった。彼はそんな格好をしていたので、『日本人の面汚し』と言った様な目で見られていたのは、事実であった。本当は、彼の様なラフな服装が一番旅がし易いスタイルであったのだ。
地域、農協、或は職場旅行に於いて年配の方は勿論、若い人も背広で旅行し、ラフなスタイルはいなかった。当然、背広スタイルであるからリュックを背負っての旅行は、考えられなかった。ましてや外国旅行では、なおさらであった。
しかし、こちらに来たらアメリカやヨーロッパの若者は、皆それぞれラフなスタイルでリュックを背負って旅をしていた。彼等こそケチケチ旅行をするスタイルの正統派であり、旅慣れた人達だったのです。
 私も又、ロンドン滞在後の旅発ちする時は、リュックにジーパンとジャンバーで、如何にも旅慣れしたスタイルになったのです。