YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

祝日と最近の状況~シドニー滞在

2022-04-06 08:53:22 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
・昭和44年4月14日(月)小雨(初出勤の貨物駅の仕事)
 今日は珍しく雨が降った。そして右も左も分らない貨物駅での初仕事であったが、何とか1日無事に終った。他の仲間がたくさんいるし、仕事はきつくなく、まぁまぁであった。後ほどその仕事の内容を纏めて書きたい。

・昭和44年4月25日(金)(祝日と最近の状況)
 今日は、アンザック・デー(第一次世界大戦戦勝記念日)で、国民祝日であった。働いていると久し振りの休みの日は、やはり良いものだ。朝寝坊をした後、洗濯(電気洗濯機が無く手洗い)をしたり、シーラ、家族、そして友達へ近況報告の手紙を書いたり、溜まった日記を書いたりして過ごした。
 今日以降の私の休日は、土曜日だけであるが、とにかく月曜日から金曜日までシドニー貨物駅の仕事、そして日曜日のレストランの仕事が見付かり、経済的にずっと安定して来た。こちらに来て1週間、実質3日間で定期の仕事に有り付け、そしてキングス・クロス近くの貸し部屋に住める様になり、心身ともに落ち着ける様になった。シドニーに来て正解であり、本当に良かった。
もしまだダーウィンに居たら、その日その日が異なる仕事が続いていたし、毎日仕事があるとは限らないので、不安定な気持、生活状態で気が滅入っていたかも知れなかった。
 残る問題は、移民局がどのくらい長く滞在期間(査証)を延長してくれるのか、と言う事であった。アメリカや南米への今後の旅行計画上、その滞在期間の長さによって旅行資金作りも違ってくるので、今度の滞在期間延長申請は、非常に重要であった。
取り敢えずダーウィンで5月7日まで滞在期間を延長してあるが、そろそろ又、移民局へ行かねばならなかった。

旅の心構え

2021-07-12 09:21:42 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ

       △1961年16歳のペンフレンドSheila Morgan、自宅にて。

愈々明日、イギリスへの旅立ち。私は旅に出るに当たって、『下記の原則』を心に秘めた。
①家族、友達、そして人様に決して迷惑を掛けないようにする事。
②『旅の苦労は買ってでも』と言う意気込みを持つ事。
③多くの人と接し、出来れば友達を作る事。
④出来れば長く滞在、或は、働いてその国の内側と生活を肌で感じる事。
 ⑤出来る限り多くの国を巡り、色々な経験や体験をする事。

*自己紹介
・名前~Yoshi
・年齢~23歳
・身長・体重~167㎝・64㎏
・国籍・住所~日本・明日から住所不定
・学歴~高卒
・渡航歴~初めての海外旅行
・英会話力~中学の英語程度
・手持ち金~430米ドルの小切手と聖徳太子2枚
・旅が何か月又は何年になるのか~不明
・旅の旅程~不明(行き当たりばったり)

会社へ提出した休暇願は不許可

2021-07-11 09:37:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
会社へ休暇願を提出したが不許可

 昭和43年5月下旬のある日、休暇願を会社に提出した。内容は、『私は長い間、海外旅行をしたいと願っておりました。ここに現実の運びと成り、付きましては6ヶ月間の休暇を取りたいと思いますので許可をお願い致します。旅行予定計画は、出発前の準備その他1ヶ月間、ヨーロッパ旅行2ヶ月間、イギリス滞在1ヶ月間、帰国の為の乗船日数2ヶ月間、合計6ヶ月間です。』と言うものでした。                     勤務終了後にこの願い書を、「お願いします」と言って最初に職場(私の職場は保谷乗務区)の上司Aに渡した。彼は何を渡されたのか、不思議そうに封を開いて読み始めた。そして、「本当か、冗談だろう」と笑いながら言って、信じようとしなかった。
「本当です。宜しくお願いします」と私は真面目な、本当の気持で言った。
「そうか、分った。今日は既に区長は帰ったから明日、渡しておくから」今度は彼も信用したようで、真面目に答えてくれた。
 「お願いします」と頭を下げ退席した。
 私は終に決定的な物を渡してしまった。そしてその後、区内の2階寝室のベッドに潜り込んだのだが、私の心臓はドキドキして、その夜は興奮してよく眠れなかった。『本当に、そして終に、会社に自分の意思を表明したのだ。もう引き返せないのだ。行くしかないのだ』と何度も何度も自分に言い聞かせた。実際、会社が私の旅行を許可してくれるか、如何か分からなかった。『可能性は10パーセントもない』と思っていた。もし許可してくれなければ、退職せざるを得ない覚悟も100パーセント持っていた。両親の承諾も得たし、お金を払い込みして全ての手続も済み、旅券も取得したのだ。『会社が許可しなかった』と言って、取り止める訳に行かなくなった。
 翌日、仕事が終り区長の所に行った。「本社に行って今、帰って来たところだが、本社の意向として、『許可』は難しいかもしれないぞ。とにかく一両日待ってくれ」と区長。
「分りました。よろしくお願いします」これだけ言って、私はその場を離れた。
 6月1日か2日だと記臆しているが、区長に再び呼ばれた。
「この間の件だが、会社は1ヶ月間なら許可するとの事だ。会社では今までこんな例はないし、会社も他の同種企業に当たったそうだが、この様な例は無いそうだ。だから1ヶ月間が精一杯との事だ」と区長。
「そうですか、分りました。しかし会社の条件の1ヶ月間と私の計画上の6ヶ月間では随分差があります。私は今更計画を変更出来ないし、退職せざるを得ないと言うことですか。それとも旅行を諦めろと言う事ですか」と私。
「会社の条件である1ヶ月間で出来なければ、そう言うことになるな」と区長。
「分りました。どちらかに決めさせていただきますので、一日考えさせて下さい」と私。ここで、『それでは退職させて頂きます』では余りにも素っ気ないので、形式的にも1日、意思を保留させてもらった。
 それにしても半年ぐらい休職、又は、欠勤扱いと言う処置を会社は出来なかったのであろうか。会社は、社員の長年の夢を実現させてやる余裕もないのであろうか。社員の都合でいちいち許可していたら会社の統制が出来なくなる恐れがある、と言う事も理解出来ない訳でもないが。就業規則第32条第8項の休暇扱い規定の一項に『本人の申し出を会社が適当と認めた時』と規定されていった。これをどう解釈するか、結果的に私の休暇願は会社にとって適当と認め難いものであったのだ。
 後日の事であるが、ヨーロッパへ行って何人かの同年齢の日本人の旅人に会ったが、中には、「会社から1年、或いは、2年休暇を貰って来たよ」と言う羨ましい話があった。「私は会社が半年の休暇を認めてくれず、辞めて来た」と言うと、「君、それは随分遅れた会社だなぁ」なんて言われた事があった。
  何はともあれ、自分としては旅に出たかった。休職扱いをして貰えなくても退職して行く意思は、固まっていたのでその夜、6月15日をもって辞職する旨の退職願いを書いた。                    そして翌日、上司にその退職願を渡した。                                                             「やはり辞めるのか」と区長      「はい」                                          「5年以上勤めて、ここで辞めるのは勿体ないのではないか」と長。                     
「仕方ありません。それを考えると何も出来ませんし」と私。                           「運輸部長からの伝言だが、『今回の会社の処置は仕方ないが、帰国したら便宜を計るから、いつでも会社に戻って来るように』との事だ」と区長。                                         「有難うございます。その節はお願いします」と折角の会社の恩情ある提案を私はそのように答えた。  私は『早く自由になりたい』と言う事で頭が一杯であったし、そして『やっと終った。やっと決着がついた』と言う一種の安堵感さえあった。                                                                                        それから6月15日まで〝自分の仕事〟(西武池袋線の電車運転士)を最後まで全うし、昭和43年6月16日付けで退職した。

旅の目的地と出国準備

2021-07-10 13:51:52 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
旅の目的地と出国準備
  
 両親の承諾を得て、第一関門は突破した。次は行き場所を何処にするか、という事であった。しかし、ここまで来たら余り迷わなかった。イギリスのロンドンに7年以上文通しているSheila Morgan(シーラモーガン)が居るので渡航先は、“ヨーロッパ”(西欧)の事である)、そして最終目的地はイギリスと決めた。
 ヨーロッパは他の国へ比較的簡単に陸続きで行かれるし又、多くの国へ訪れる事も出来る。しかも、アメリカより歴史があるのでその点、見所もたくさんあるし、ヨーロッパの魅力の多くはそこにある、と思った。早速、イギリスの彼女に手紙を書き、ヨーロッパへ行く旨を伝えた。又、「イギリスへ行ったらウェールズの貴女の家に1・2週間泊まりたい」と言う事も書いたら、彼女から直ぐに返事が来た。最初、驚きの書き出しであったが、彼女も私に会いたいので楽しみにしているし又、ウェールズの父に話してあるとの事でした。後に彼女のお父さんからOKの返事が届いた。
 昭和43年5月の下旬、JTB(日本交通公社)東京丸ビル内営業所の海外旅行係りの人にヨーロッパへ最も安く行きたい旨を伝えた。『武藤さん』と言う方が担当してくれて、彼は色々な相談や手続きをしてくれた。私は埼玉県の所沢市三ヶ島に住んで居たが、如何して狭山ヶ丘駅から丸の内まで行ったのか、と言うと当時、所沢は勿論、東京の池袋でも海外旅行を扱う事務所・案内所はなかった。丸の内のJTBに何度か(5・6回)行きましたが、いつも海外旅行の窓口は私一人、まだ海外旅行する人は少なかった。
 もうここまで来たら後は、トントン拍子であった。そして、船で横浜からナホトカへのソ連経由ヘルシンキまでのインツーリスト(ソ連国営旅行社)によるパック旅行に決めた。費用はドル持ち出し分500ドルの内“70ドル天引き”(ソ連はドルを欲しがっていて、円建てが出来なかった)でした。その様な訳で私が持ち出せる額は、430ドルになってしまった。それでも面倒なソ連の査証(ビザ)申請手続きもなく又、船舶、航空、鉄道運賃、観光バス料金、ガイド料、各種入場料、ホテル代、食事代、入港税、列車の寝台料金や毛布使用料までが含まれているので世話がなかった。その他に私はヘルシンキ・ストックホルム間の乗船券、ユゥレイルパス(西欧の列車が乗り降り自由,ファーストクラス、1ヶ月間有効)、帰りのフランス郵船M&M乗船引換券(マルセイユ・横浜間、日数50~60日間要する。中東戦争の影響でスエズ運河が閉鎖して喜望峰回りで途中、彼方此方の港に停泊する為)も前もって買いました。この乗船引換券(当時は航空運賃より船賃の方が安かった)は、ヨーロッパから帰国出来る大事な保証書であった。
 海外旅行するのに一番大切な事、それは旅券(パスポート)を取得する事でした。私は埼玉県庁海外渡航課へ行って申請、一週間後再度行って旅券を取得した。信じられないがその時、県庁の役人が、「良いご旅行を」と言ってくれました。2度埼玉県庁海外渡航課行ったが旅券の申請をする人は私以外、誰も居なかった。 
『とうとう旅券も手に入れたぞ』私は内心嬉しくて、半分出国した様な気分であった。
 ここで諸費用を纏めた。
①70ドル分のソ連のセット旅行代~25,200円、②ヘルシンキ・ストックホルム間の船賃代~5,000円、③ユゥレイルパス代~64,800円、④400ドル分のトラベラーズチェック代~144,000円、⑤30ドル分の現金持ち出し代~10,800円、⑥日本円持ち出し金~20,000円、⑦M&M乗船引換券代~150,000円、⑧諸費用(JTB手数料、ドル両替手数料、ソ連の査証代、予防接種代、半年間分の医療保険代等)~約70,000円、 合計489,800円。 *1ドル360円の固定相場制。
  昭和38年3月から43年5月まで5年間、コツコツ貯めた50万円のお金は、既に手元に数万円だけしか残らなかった。 『金銭的、距離的にも西欧は、なんと遠い所なのだろう』とつくづく感じた。

旅への決断(両親の許し)

2021-07-09 07:21:41 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
旅への決断(両親の許し)
 
単調な“仕事”(私の仕事は電車運転士)が2年程続いた。私は当時、寮生活をしていたので、寮生の親睦と寮生活の向上の為、自分が先頭になって寮の自治会規約を纏め、総会を開催し、会を設立して自ら自治会長になり、その活動をしたりして過しました。でも、仕事も寮生活も終りに近づきつつあった。
昭和43年春頃、ヨーロッパ、又は、アメリカへ行って帰って来られる最低限の旅費50万円が貯まった。それは知らず知らずの内にと言う感じでした。そして、夢が実現しそうに成るにつれて、嬉しさに反比例して、『分らない、不安な、そして、心配な事』が湧いてきました。それらは、『①外国と言っても何処へ行くのか。ヨーロッパかアメリカか、その他何処へ回ろうか。②向こうで病気になったらどうしようか。行って無事に帰国出来るのか。③会社は如何するのか。休職して行けるのか、欠勤扱いか或は、退職しなければならないのか。④両親は承知してくれるのか。⑤旅券の取得手続き、査証の申請は如何するのか。出国方法・ルートは』等々でした。
 昭和43年5月の上旬、実家に帰り又、親父に相談しました。
「まだ祥(よし)は、そんな事を言っているのか。お前は、まだ忘れられないのか」と親父。しかし、怒った顔ではなかった。
「ウン。『行って帰って来るのに必要な金が有れば許してやる』と3年前言ったよね」と私。
「それなら行って来い」親父の一発返事でした。
「しかし、お前が外国で野垂れ死にしようが、事故に遭おうが援助の手を出してやる、そんな金は家にはないぞ。俺は一銭たりとも出してやらんぞ、それでも良いか」と親父の条件であった。
「分ったよ、家には心配掛けないよ。手紙を時々書くが、来なくなったら死んだと思ってくれ」と私。家に金がない事は分っていたから、実際に親父にそんな事をしてもらおうと期待していなかったし、思ってもいなかった。
お袋は、傍で心配そうな様子をしていたが、何も言わなかった。全てお袋はお見通しであったようでした。『夫が承知したのだし、自分がとやかく言っても仕方ない。祥(よし)に行かせてやろう』とお袋の想いを私は感じていた。
しかし、この時程、『私の親は、話が分るなぁ』と思った事はなかあった。実際、『お袋は、私が日本を出発してから毎日、仏壇に私の無事な帰国をお祈りしている』と言う事を11ヶ月後、妹の時子から聞かされ、身を詰まされる想いがあった。一番心配してくれていたのは、やっぱりお袋であった。私はこの事を始めから承知していました。『心配掛けてすまん、お袋。必ず無事に帰って来るから』と私は心の中で感謝と、許しを請うのであった。

旅への誘い

2021-07-08 19:55:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
旅への誘い

 昭和40年3月に海外旅行の件で親父と相談する為、実家へ帰った。親父は、明治生まれの頑固な職人でした。酒が好きで毎晩晩酌をしていたので実家へ行く時は、いつも一升ビンをぶら下げて帰り、親父と飲んでいました。
この日も飲みながら、「父さん。俺、ヨーロッパの方へ行って見たいのだが」と話を切り出した。
「行って、帰って来る金があるのか」と親父。
「船で行くだけの金はあるよ」と私。実はこの2年ほどで20万円位貯めていました。この額は、片道の船賃程度であった。
「向こうでどの様にして旅行して、又、帰りは如何するのだ」と親父。
「無銭旅行か働きながら旅行するヨ」と私。
大きな声で、「駄目だ、許さん」親父の一喝が飛び出した。「行って帰って来るまでの必要な金を持っていなければ、承知しないぞ」と親父の凄い剣幕に、私は圧倒され気味であった。
「それなら、それだけの金を貯めたら許してくれるのか」と私。
「それなら行ってもよろしい」と親父が最終的に言ったので、この話は5・6分で終わった。
お袋は傍でじっと聞いていたが、自分の考えは出しませんでした。お袋は夫の前で自分の考え・意見は出さないし、出すものではない、と言う時代の女でした。だから、大事な話はお袋を通さず、親父と相談する事が解決の早道であったのでした。
所で、もしこの時点で親父が承知していたら、2度失敗した事を再び繰り返していたであろう。旅行資金不足、勇気・行動力不足で、きっと大使館辺りに泣きつくか、或いは、野垂れ死にしていたであろう。『そんな惨めな事を息子にさせたくない』と言う親父の想像力、洞察力に感服したのでした。
しかし、2年間、自分が想い続けていた事を親父に表明した事は、意義深いものがあったし、私の頭に何かもやもやしたものが取れた様な気がした。そして、『最低でも行って帰ってくるだけの旅費と滞在費を貯めなければ』と言う確かな目標が出来た。お金を貯める方法は、無駄使いをしない事であった。
所で、如何してアメリカやヨーロッパに憧れていたのであろうか。これは多分、日本が先の戦争に負け、それらの国々から文化が入って来た。特に、映画やテレビの影響が強く、日本人の心は益々、欧米に傾注した感じであった。そして、加えて小田実氏やミッキー安川氏の本が決定的に私の海外への心を開いたのだ。又、島国的、閉鎖的な考え・社会から外へ出て見たいと言う願望の表れでもあった。

蒸気機関車の思い出の話

2021-07-08 14:51:18 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
蒸気機関車の思い出の話
 
 汽車と言えば、蒸気機関車の思い出があります。私は幼い時から『シュシュ』と黒煙と白い蒸気を吐きながら、背よりも高い“丸い鉄の塊”(動輪と言う言葉を知らなかった)が回るその力強さ、『ボォー』と腹の底まで響く汽笛、そして何とも形容し難い煙の匂いが好きだった。又ある反面、蒸気機関車が近くを通り過ぎる時、引き込まれる様なある種の怖さを感じ、その機関車に対する凄さを感じた。
 私は幼稚園や小学校低学年頃は、よく蒸気機関車の絵を描いていた。又、両隣の幼友達のミコチャンとマコチャン(私より1つ年上)と3人で『停車場』(駅の事を『ていしゃば』と言っていた。)へ蒸気機関車を見に、よく行っていた。そんな冬のある日、深谷町(当時は埼玉県大里郡深谷町)は良く晴れて雪が無いのに、列車の屋根にたくさんの雪が積もっている、その光景が不思議でならなかった。
  小学校高学年や中学生の時、熊谷市へ行った帰りの際、蒸気機関士に、「おじさん、運転席に乗せてー」と頼むと、当時は乗せてくれた。「オイ坊主、石炭くべろ」と言われ、罐(かま)の蓋を空けると顔が火照り、罐に機関助手とくべた事もあった。又、助手席に乗せて貰い本当に自分が機関士になった気分で嬉しく、良い体験をさせてもらった。電化された高校生の時、熊谷駅から電気機関車の運転席にも乗せてもらった事もあった。今では規則上、又、周りの目もあるし絶対に運転席には乗せてくれません。

小さな旅~その2、 沼田への旅の話

2021-07-07 08:58:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
小さな旅~その2、沼田への旅の話 
昭和38年8月上旬のある日、『今度はサイクリング自転車で、日本一周しよう』と思い付き、深谷を11時頃に出発した。このサイクリング車は、2番目の義兄の物でした。私が高校3年の時、市ヶ谷の海上自衛隊基地に勤務していた兄が、「不用なので使って良いから、取りに来なさい」と言ってくれました。往きは列車で、そして帰りはこの自転車で国道17号(中仙道)をひた走り6時間要してF市まで戻って来た。この時が私にとっての初めての小さな旅でした。田舎の高校生の私が東京の道路を知る訳もなく、ただ大宮・高崎方面の道路標識を頼りに、夢中でペダルを踏みました。大宮を過ぎた辺りから尻が痛くなって来て仕方なかったが、無事に戻れて本当に良かったことを覚えています。
 話は戻しますが、深谷市を発って本庄まではアスハルトの道でしたが、本庄を過ぎた辺りから砂利道になり、真夏の日差しは暑いし、きつい出足になってしまった。深谷から熊谷まで自転車で遊びに行った中学2年の時、この間の17号国道は既に整備されていました。昨年、東京からF市まではサイクリングした時も、道路は整備されていたので、主な日本の国道はアスハルトで整備されているとばかり思っていた。
 しかし、高崎~前橋間は整備されていたが、前橋を過ぎてから泥道に変わり、渋川を過ぎてから凹凸が酷くなり、ぐしゃぐしゃな、或は、ひどい水溜りの悪路に変わった。おまけに山道になり、日も暮れ出して来た。そしてすっかり暗くなり、電灯の灯も無く真っ暗、こんな山の中に泊まれる場所もある訳は無く、尻は痛くなるしペダルを踏むのも疲れ来た。辺りは闇夜、行き交う人も車も無く、頼れるのは自転車のライトだけで、よく注意していないと崖から落ちる羽目になりかねない道路状況であった。
私は寂しさ、心細さ、不安が突然に湧いて来て、如何してこんなに苦労しなければならないのか、自分自身が分らなく成って来た。『サイクリングで日本一周してやるぞ』と言う意気込みは、早くも挫折感が湧き始めて来た。遥か下界に沼田の街灯が見えてきた時は、「助かった」と言う安堵感で一杯だった。
 沼田に着いた時は既に21時を回っていた為、街はシーンと静まり帰り、人っ子1人見当たらなかった。『何処か泊まる所を探さねば』と思うのだが、ホテルや旅館に泊まっていたら1週間程度で所持金が無くなってしまうので、その様な所には泊まれなかった。それに無断で休んで来てしまって会社はどうするのか。両親の了解を得ないで、しかも何処へ行くとも言わないで飛び出して来て、心配しているのではないか。それらの事を考えていたら、これ以上の自転車旅行を、本当に続けて行ける自信が失ってしまった。
  暑かったけれど、苦しかったけれど昼間の楽しい旅も夜になると一転して旅を継続して行けない要素が働き、又も断念せざるを得なかった。沼田駅でサイクリング車は手荷物扱いにして、上野行き夜行列車に乗る自分に対し不甲斐なさをひしひしと感じ、自分自身が悲しくなってしまった。『ボー』夜汽車の汽笛が心の奥底まで響き渡り、何とも形容しがたい感情になり、溢れる涙を抑え切れなかった。
就職してまだ半年もしない期間に私の2つの旅を反省してみると、次の様に纏まった。
①   就職したばかりで所持金が全くと言っていいほどなかった。例え無銭旅行をするにも、それなりにある
程度の金は必要であった。                                           
② 会社の許可を得ず、無断で休んでしまった。職場ではさぞ心配し、迷惑であったであろう。社会人になったのだ、もう少しまともな(常識的な)行動が必要であった。就職したばかりでやっている事は、まだ子供であった。
③ 両親の承諾を得ず旅行をしようとした。親の同意を得ずして何も出来ないと思った。
④ 旅の仕方、テクニックが無く、その行動の裏づけが全くなかった。2度とも無計画で衝動的に行動してしまったので、深く反省した。
⑤ 若かった所為か、勇気と忍耐が無かった。
 以上の点で、この2つの旅は、2日も続かないのは当たり前で、高校卒業したての私は、『旅をする』と言う事を断念せざるを得なかった。それを肌で感じ取った旅でした。

浜松への旅の話(その1)~小さな旅

2021-07-06 20:08:51 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
浜松への旅の話(その1)
 高校卒業後の昭和38年3月○○会社に入社し、その4月下旬のある日、『外国へ行けないのなら日本国内だけでも無銭旅行しよう』と思い立った。持ち合わせは、1~2か月分の給料(卒業は3月中旬だが、2月から出社していた。)しか支給されてないから、1万円程であった。通勤にいつも利用している直江津発の深谷駅6時15分発の富士行き上り列車に乗り、私は会社や両親に無断でそのまま東京駅から下ってしまった。行く目的地もないので、横須賀線に乗り換え、その日は2番目の義兄のアパートに立ち寄る事にした。兄が帰るまで港を散歩して過ごし、その夜は兄のアパートで1泊した。                『無銭旅行しよう』と思い付きで出て来たので、特に計画を立てた訳でも、行きたい場所もないので、次の日は目的もなく東海道線を下った。天気の良い日で暖かく、車窓からの海岸線の景色や海がとても美しかった。                                                                   
列車は小田原、沼津、富士、そして、清水を過ぎて行った。この各駅列車の行き先は思い出せないが、途中、学生達が乗り降りし、彼等の方言交じりの会話が耳に入ってきた時は、何だか遠い所へ来た様な感じがしてならなかった。私はボクスシート(合い向かいの4人掛けの座席)を1人で独占していた。列車が静岡を出ると、18から20歳位の女性が乗り込んで来ました。私の前の席に座ろうか如何しようかと、迷っていた感じがしたので、「どうぞ」と言って彼女に促した。良い感じがしたので、『この女性と話が出来たら良いなぁ』と内心ドキドキしていたが、何分か過ぎた後に思い切って声を掛けた。
「失礼ですが、会社の帰りですか」と私。
「いいえ、就職の件で静岡の本社へ行って今、家へ帰る途中です」と彼女。
「何と言う会社で、何処で働くのですか」と私の失礼な質問。
「鈴与株式会社と言い、職場は浜松支店に決まりました」と彼女。
「それで、家は何処ですか」又私は不躾な質問をしてしまった。
「浜松です」と彼女。
声を掛け、話し出したら私達は10年の知己の様に色々な話をした。仕事の事、“私の海外文通の事”(実際にイギリスの文通友達の写真を持っていたので、彼女に見せた)、人生の事、この辺り(浜松)の地理の事等々話し合った。そして、彼女との話が途切れる事はなかった。
 彼女は、明るく屈託のない、山や旅が好きな女性であった。静岡から浜松まで1時間30分程だと思うが、この間なんと時間の過ぎるのが早く感じた。出来れば時間が止まってくれれば、と願ったほどであった。私の母校は男子生徒のみで、異性を感じるようになって女性とこんなにも楽しく、そして長い間、話をした事がなかった。このまま彼女と何処までも行って見たい心境に成って来て、浜松に近づくのが悲しくなって来た。
「私も浜松で降ります。何処か無料で泊めてくれる様な所、例えばお寺とか、知っていますか」と尋ねた。彼女ともっと居たいが為、考え出た言葉がこれであった。後から考えると何と愚かな質問であった事か。しかし、彼女は私の為に一生懸命に考えてくれた。しかし、彼女には分らず又、到着したら浜松支店の方に立ち寄らなければならず、私を相手にしている時間がなかったようであった。
私の希望とは裏腹に、列車は浜松に到着してしまった。私は彼女と共に下車した。改札口を出ると彼女は、「それではここでお別れしなければなりませんが、元気でいて下さい」と言ってくれた。         「さようなら。でも、又会えたら良いなぁ」と私はこれだけ言うのが精一杯であった。そして彼女が街の雑踏の中へ消えて行くまで見送った。
 初めて経験した小さな旅、そして人との“出逢い”(文中時々、『出会い』も使用)。出逢いがこんなにも素晴らしく、そして、別れの時の寂しさ、悲しさを初めて経験し、これが旅なのだ、と実感した。
 彼女と別れて行く宛てもなく、何とはなしに東海道を下り、そして郊外に出て、着いた先が舞原駅であった。日が暮れ、辺りが薄暗くなっても泊まる所がない惨めさ。所持金は既に1万円もなかった。言い様もない寂しさが沸いて来て、私の旅もこれまでであった。午後8時頃、上り東京行きの列車に乗って帰って来た。
  数日後、彼女の名前と会社名だけ聞いていたから、浜松支店宛てに手紙を出した。住所は知りませんでしたが、多分届くと思ったからです。間もなくして、彼女から返事が来たので非常に嬉しかった。文中に「静岡から浜松までの間、とても楽しかった」と書いてあった。又、「貴方と別れ、会社に寄った後、家に帰って母に貴方の事を話しました。母は泊めても良いと言ってくれたので、2人で駅前及びその周辺を探しました」との事でした。彼女の手紙を読んだ時、人の情けを感じた。彼女の家に泊まりたかったが、所詮、旅を続けることは出来なかったでしょう。

学生時代

2021-07-05 16:39:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
学生時代                              

 『私が外国に憧れ、そして、旅に出たい』と漠然と想うようになったのは、いつ頃であったのであろうか。見知らぬ異国の旅、ふらっと小さな駅を1人列車から降りる。言葉も、方向も分らない静かな町。幸せそうな家々が建ち並び、そして、私など見向きもしないで人々が通り過ぎて行く。1人公園で物思いに深け、明日は何処へ行くのか宛てのない旅。感傷的に、そして、哀愁を感じるそんな旅を。
 確かそれは、昭和35年(1960年)の高等学校1年の秋頃であったであろうか、私のクラスの右後ろの席に居た“中村君”(G市から通学していて眼鏡を掛けていた人)が、フイリッピン人と文通しているのを知った。それに刺激された私は、『自分も異国の人と文通をして見たい、外国を肌で感じて見たい』と言う事から始まったのだと思う。
 所が、私は英語で手紙を書く能力は全くありませんでしたので、それから約1年間、自分なりに一生懸命、英作文の勉強をしました。翌年の高校2年の春頃、国際ペンフレンドクラブに入会し、会からアメリカのニシシッピー州ニューオリンズに住む、『ブレンダ』と言う女の子を紹介されました。早速私は手紙を出したら、彼女のエアー・メールの返事が来ました。その時の気分は天にも昇る様で非常に嬉しかった事を、今でも忘れる事が出来ません。それは紛れもない異国の香り、アメリカの香りのする手紙でした。しかし、4回か5回程の手紙のやり取りをしてから後、アメリカ娘からピタリと手紙が来なくなりました。その後再び、フランスの女性とも数回、文通しましたが、又も相手方からの音信が途絶えました。これは自分の下手な英語の所為で、仕方ないと思いました。
  私はまだ諦めず、再度ペンフレンドクラブに紹介方をお願いし、イギリスのウェールズに住む女性に手紙を出しました。その方(Mairwen Vemeys)は、既にある日本人と文通していたので、彼女の友達のSheila Morgan(シーラモーガン)を紹介され、その彼女の手紙が同封されていた。シーラは高校1年生で私より一つ下でそれ以後、1961年から1980年まで19年間、文通が続いた。
 シーラとの文通を始めたが、『外国、特に欧米の国へ行って見たい。肌で感じて見たい』と言う想い憧れは、文通では満たされず、何かもやもやしている頃、ある本を読んだ。それは、ドイツ青年4人が自転車で世界一周旅行をした体験談の本でした。心は弾み、そして『旅に出たい』と言う強い願望の現われと成って来た。その後、更に市の図書館で小田実氏の「ヨーロッパ何でも見てやろう」と言う本を読んで、益々『一度でよいから外国へ行って見たい』と言う、走る心を止める事が出来なかった。