YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

東西パキスタンの話~ シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

2022-01-31 11:02:06 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・東西パキスタンの話
 「パキスタン」と言っても、私が居るラホールは西パキスタンです。インドを挟んだ東側にも東パキスタンがあります。如何して東西に分かれているのであろうか。
 そもそもイギリスの植民地であったインドは、1946年に独立した。独立の父・ガンジーは、全ての宗教・民族を統合した「統一インド」を主張していた。それに反し、イスラム教徒連盟のリーダーだったジンナーは、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒はまったく異なる「二つの民族」であると言う、宗教の違いに基づいた「二民族論」を主張した。ジンナーのイスラムの指導者達は、もしガンジー達が主張する統一インドが実現されれば、国民の大多数を占めるヒンドゥ教徒がイスラム教徒を支配する事になる、と恐れていたのだ。   
 宗教、主張の違いから対立は激化し、終に武力衝突(『独立戦争』又は『第1次印パ戦争』と呼ばれる)が起こった。結局、ジンナー達の主張はイギリスに受け入れられ、インドの東西にイスラム教徒が数多く住んでいる、と言う事で東西に分け、1947年に東・西パキスタンとインドがそれぞれ別々の国として独立した。
 独立した東パキスタン(以後『東』と言う)は、経済的にもジュートの原料以外、主な産業も無く、常に西パキスタン(以後『西』と言う)が優位に立ち、東は隷属化に置かれていた。西に対する東の不満は、独立当初からくすぶっている状態であった。
 昨年(1968年、昭和43年)の秋頃から西は、学生・市民等の反アユブの政治デモで、情勢は混沌としていた。そして東の人達は、今年(1969年)に入り、西との政治的・経済的格差にますます不満を爆発させる様になり、内戦の一歩手前まで来ていた。そんな時期に私は西へ入ったのであった。 

 その後の東パキスタンは・・・・・
(注)東~東パキスタン、 西~西パキスタンの事です。
 東西関係悪化→1970年にモンスーンが東に来襲し死者18万人→西の援助の不備から不満が頂点に爆発→統一選挙でラーマン率いるアワミ連盟過半数以上獲得し第1党→東は西に諸要求を突きつける→西中央政府は拒否→武力を持って東を弾圧、多くの人が殺され、1千万人の難民がインドのカルカッタ(現在は「コルカタ」)へ→党首ラーマン逮捕され、東は最悪の危機→インドは困り、ガンジー首相解決の為に欧米歴訪、しかし解決の具体策無し→1971年12月3日、東で印パ戦争勃発(第3次印パ戦争)→東解放軍ゲリラを組織、インド軍と協力し各地で西政府軍を破る→ダッカの西総司令部落ちる→1972年3月17日インド側勝利で停戦→ヤヒア・カーン辞任、ブット就任→処刑寸前のラーマン釈放→東の大歓迎を受けて帰国→東はバングラデシュとしてラーマン独立を宣言、初代首相に就任。
 因みに第2次印パ戦争は、1965年カシミール帰属問題に端を発した『カシミール戦争』です。印パは、大戦後20年で3回戦っている。

 

パキスタンのトラックの話~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

2022-01-31 08:16:51 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
△パキスタンのカラフルなトラックーPFN

・パキスタンのトラックの話
  トラックで気が付いた事なのだが、パキスタンのトラック(インドのトラックも同じ)はカラフルで、しかも絢爛(けんらん)であった。何がそんなにカラフル・絢爛なのか。それはトラックの周りにペンキで綺麗に色々な装飾模様を描き、相撲取りの化粧回しの様に煌びやかな色で飾り立て、運転席下(ナンバー板下)に綺麗な暖簾を施し、最後に運転席屋根の上にトラや大鷲、或は美女を描いた大きな絵を掲げて、トラック全体を飾り立てていた。それはあたかもお祭りの屋台や山車の様であった。 
 トラックは高いであろう、その飾り立て費用も相当掛かるであろう。それに反比例して、トラック運転手の収入は低いであろうし、彼らの着ている物もみすぼらしく、パキスタン人の生活も貧しい感じであった。それでも自分のトラックの飾り立てには全財産を注ぎ込んでいる様で、不思議であった。
 風の強い日やスピードを出せば、空気抵抗から走行は、不安定になる。飾り物は全くと言って良い程、安全運転に役立っていないのだ。それにも拘らず、彼等は自分のトラックの存在をアピールしているのであった。そして、インドのトラックも輪を掛けて派手に飾り立てていた。

苦難の末に出したウンコと横暴な警察軍~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

2022-01-30 08:58:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月29日(水)晴れ(苦難の末に出したウンコと横暴な警察軍)
 我々は昨日の夕方に到着したばかりなので、もう1泊する事にした。旅の疲れもあり、お昼近くまで寝ていた。とは言っても私は早朝5時、既に目が覚めていた。『覚めた』と言うより、拡声器からの アーザン(サラート=礼拝への呼び掛け)の大音響で起こされてしまった。イスラム教徒は時間になると、お祈りをする義務がある。従って人々は寺院へ行ってお祈りし、或は寺院へ行けない人は、自宅の一定の場所(自宅内に狭い囲いの礼拝の為の場所)でお祈りをする。
 午後、ラホールは学生、市民、労働者によるアユブ大統領の軍事的政策に対する反政府デモがあるので、宿の主人から「外出禁止令が出されている。外へ出ないほうが良い」と注意を受けていた。しかし駅近くの安宿(ドミトリー)に泊まっていた私は、怖い物見たさで様子を見に駅前へ行った。そうしたら警察官の数、その物々しい警備でビックリした。成る程、一昨日と昨日、列車に警察官が乗っていたのは、我々を守ってくれる為の警乗でなかったのだ。今日のデモに対して、彼等は地方から応援の為、呼び寄せられたのだと私はやっと理解した。 
 こちらの警察官に初めて砂漠で会って以来、雰囲気的に粗暴に感じられた。それはここに来て証明された。大勢の一般市民が様子を見ているだけで、通りを歩いているだけで、或は自転車を乗っているだけで、警官隊はあの長い警棒を市民に対して振り回し、駅前広場や通りから彼等を追い出していた。追い回された市民は蜂の子を突っついた様に、右に左に逃げ回っていた。警官隊がこちらに来たら大変だ。そして面倒な事に巻き込まれては、何にも得にならないと思い、早々宿に戻った。
 警官隊とデモ隊のその後の状況は、駅前附近ではなく、他の場所で大規模な衝突があったのだ。翌日の英字新聞には、「学生7~8人が射殺された」との見出しがあった。パキスタンの警察隊は市民や学生に鉄砲を向け撃つ、そんな野蛮な国であった。
 話は戻るが、今朝ウンコをしたいので便所へ行ったが、中々出なかった。それもその筈、テヘランを発ってから今日まで、余り水分を摂取しておらず、食べる物と言ったらあのナンばかり、それが原因で硬いウンコになり、それが尻の穴に詰った状態になっていた。便所は汚い、臭い、それに囲いも無いので他の人から丸見えの状態であった。それだけで出る物も出なくなると言うのに、硬いウンコが詰ってしまい、余計に苦労した。額から汗がダラダラ、「ウーン、ウーン」と何度も気張り、尻の穴に力を入れて出したウンコは、乾燥したコチコチの状態であった。しかも、無理やり出した為か、痔になってしまったのか、それとも尻の穴が切れたのか、直後にドバーと出血。その多量の血を見た私はビックリ、「わぁー、これは大変だー。尻がおかしくなって来たぞー。」と思ったが、如何することも出来ず、様子を見る事にした。
  そして夜、ウンコがまだ詰った状態であったので、また気張って出したら、再び多量に出血してしまった。今後、こんな状態で旅が続けられるのか、私は心配、不安で仕方がなかった。            

車内を威圧する武装警官~ シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

2022-01-28 08:42:45 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月28日(火)晴れ(車内を威圧する武装警官)
 日本に居た時、パキスタンは森林が生い茂った国と想像していた。いつ列車がインダス川を渡ったのか、夜間で気が付かなかった。実際に列車はこのインダス川流域に沿って走っていたが、車窓からの光景は荒れ果てた大地が、クエッタからラホールまで続いていた。如何して田畑が無いのであろうか。そして町や村の様子は、イランより貧しい様に見受けられた。
 昨夜、屈強の警察官7~8人が我々の車両に乗り込んで来た。そして彼等は、今日もまだ乗っていた。この車両だけではなく、他の車両にも分乗して乗っていた。彼等は緑のベレー帽子、カーキ色のシャツに黄色のベスト、それにカーキ色のズボンを身にまとっていた。彼等の武装は、日本の警察官が携行している短い警棒や拳銃ではなく、2m程の長い警棒と鉄砲であった。『彼等の乗車目的は、武装した強盗団、或は反政府武装集団からこの列車を守る、或いは襲撃されたら乗客を守る為に警乗している。そしてパキスタンは列車まで襲う相当物騒な国である』と最初、私はそう思っていた。
 パキスタンの一般の人達は、私(168㎝)より平均的に背が低いが、彼等武装警察官の体格の良い事、皆身長も175cm以上ありそうで、濃い髭を生やし、そして見るからに屈強な男達に見えた。その様な彼等が我々のワンボックス前の席に陣取り、車内の乗客に威圧感を発していた。
 19時30分頃、列車はやっとラホールに到着した。木製座席の3等車の旅は疲れた。我々は駅の食堂で夕食を取った。その後、宿泊するドミトリー(ホテル)の件で私とロンはフランス人のジェーン達と意見が合わず、ここで別れた。私は何となくジェーンが好きでなかったが、テヘランから共にここまで旅をして来た仲間、今後の旅の無事を願った。
  私、ロンそして竹谷の3人は、駅近くの2ルピーのドミトリーに泊まった。今夜と明日、学生市民による反政府デモで『外出禁止令』が出されていた。そんな事で街は、静かであった。

せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋~ シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

2022-01-26 08:44:50 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月27日(月)晴れ(せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋)
  我々6人は朝寝坊をして、ゆっくりと食事を取り、それからレストラン(ドミトリー併設)を出た。
「よしなさい」と私は言ったのに店を出る際、ロンとジェーンはレストランのテーブルの上に置いてあったオリエンタル風の金属製灰皿等を、ポケットにしまい込んでしまった。
その店の主人は無くなった事に気が付いたのか、直ぐに大声を発しながら我々を追って来た。彼は我々に捲くし立てた。2人は渋々盗った物を返した。
共に旅をしている仲間がこんな事をするなんて恥ずかしく、嫌な感じがした。後で分ったのだが、私と違ってロンは貧乏旅行者でなかった。ニューデリーへ行った時、彼はアメリカから送金されて来た2,000ドルを受け取っていた。私にとっては羨ましい限りであった。
 それにしてもロンとジェーンは、なんと手が早い事か。2人は店の物を失敬する事に、全く罪悪感が無い様であった。そもそも我々6人は友達でもなければ、気が合って一緒に旅をしている訳でもなかった。竹谷以外、テヘランで私が呼び掛け、集まったグループなのだ。『単独でイスラム諸国を旅するのは不安、危ない』、そして『行く方向が同じ』、ただそれだけの事であったのだ。そんな事で彼等が何をしようと、私には関係ないと言えばそれまでの事であった。  
 その後、我々は16時30分発カラチ経由ラホール行き列車(3等客車、4人掛け木製座席)に乗り込んだ。混雑して席が取れなかったと言う状態ではなかった。周りの乗客は全て男性パキスタン人、何か違和感があった。当然我々は彼等の注目の的になったが、特に問題も無く乗車する出来た。しかし木製座席、しかも横になれないので夜間一泊過すのは、辛い旅であった。 
  食事は途中駅に停車した際、駅弁を列車の窓越しで買った。日本の様に鉄道弘済会が、責任を持って売っているのでなく、近所の人達がホーム越しに大勢遣って来て一定の秩序、決まりも無く、自分勝手に家で作った駅弁を売っていた。
そんな訳で食中毒になった場合、その責任は誰が取るのであろうか。そんな心配しながら、「駅弁を下さい」と窓越しに言ったら、6~7人の販売人が集まって来て、彼等販売人同士が客の私の取り合い、奪い合いが始まり、凄まじい光景であった。買う方の私がビックリし、面食らってしまった。彼等の売っている駅弁はやはりナン、それを巻いて、或いは付けて食べる副食物(香辛料の強いカレー)、そしてチャイであった。

ナン以外の食事が出来た~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

2022-01-24 09:32:37 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月26日(日)晴れ(偽学生証で学割切符を購入)
 我々(アメリカ人のロン、フランス人のジェーン、カップルのミシェルとカトリーヌ、ザーヘダーンの郊外から乗って来た竹谷そして私の6人)は、ラホールまでの3等車の切符を買いに駅へ行った。運賃は大人25ルピー、学生12.6ルピー(約958円)であった。私は学生証を持っていたので、学割運賃で切符を買った。
「Yoshiは学生でないのに、如何して学生割引で買えたのか。」と言うと、私はアテネのユースに滞在していた時、「これからインド方面に旅をする場合、学生証を持っていると何かと便利である。」とあるアメリカ人に言われ、その彼から2ドルで偽の学生証を作って貰った。多少後ろめたさがあったが、今日その偽学生証を提示したら学割切符が買えた。確かに偽学生証で切符を買うのは、良い事でないが、『これもHow to trip(旅の仕方)の1つである』と思っていた。従って大それた悪事という認識は、無かった。   
 その後、我々はレストランも経営している別のドミトリー(安ホテル)に引っ越した。このドミトリーはシャワーがあり、部屋も昨日より奇麗で1泊3.5ルピー(273円)であった。私は10日振りに身体を洗い、砂漠の埃を落とす事が出来た。又この様な時は、靴下や下着を洗うチャンスでもあった。 
  我々は久し振りにここのレストランで、主食のナンと副食物を添えた食事をすることが出来た。しかも夕食はご飯も食べられた。久し振りのご飯と副食物で美味しかった。人間は食べる為に生きるのではなく、生きる為に食べるのだ。しかしナンだけでは、我々日本人や欧米人は生きて行けない。クエッタではたいして美味しい食べ物は無いが、砂漠を旅した後は、「ナン以外の食べ物が食べたい」と言う、食べ物に対するそんな欲望が湧いたのも事実であった。人間の欲望を満たしてくれたクエッタは、砂漠の終着駅、まさに大オアシスであった。
 所で、ナンはイラン、パキスタンの主食(インドでは「チャパティChapati」)と言う)で、小麦粉を発酵させずに水で練り、薄く伸ばして焼いた食べ物です。

海の様な大蜃気楼を見る~ シルクロードの旅その2(パキスタンバスの旅)

2022-01-23 13:43:07 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月25日(土)晴れ(海の様な大蜃気楼を見る)
 朝食は又々ナンとチャイであった。飽きた。テヘランを発ってからこればかりであった。何か食べ物がこの他に無いのか。砂漠の島には無かった。栄養が摂れない、腹も満たされない、充分な水分も摂れなかった。お陰で一昨日、昨日、そして今日と、オシッコもウンコも出なかった。それもその筈、水分、食料を余り取っていないから、出ないのも無理なかった。
 今日も天(空)と地(砂漠)だけの旅が始まった。砂漠には、ルート(砂)砂漠とカヴィール(塩)砂漠がある。この見渡す限りの茫洋たる砂漠は、砂砂漠の様であった。今日もこの砂漠と灰褐色の世界が相変わらず続いた。
 窓はきっちりと閉まらないオンボロ・マイクロバスの為、砂埃で車内も我々も既に真っ白、そして終に口の中までジャリジャリして来た。砂漠と道の区別がつかないそんな道で、ただ轍を頼りに砂塵を巻き上げながらバスはひたすら走った。砂嵐で轍が消え、砂漠と道の区別が出来なくなり、方向が分らなくなったらどうするのであろうか。大海原で羅針盤が故障したのと同じだ。しかし、運転手は砂漠生まれの砂漠育ちだ。彼等の感と経験で、道が判然としない場合でも、〝決まった道〟(ルート)の上を運転できるのだ。  
 所で、パキスタンに入ったらイランと比べて何よりも違うのは、まれにラクダが見られる様になった事だ。昨日、夕日を浴びて明暗をくっきりと浮かび上がらせている砂丘の彼方から、ラクダが揺ら揺らと首を振りながら出て来るのを見た。『あぁ、ここはシルクロード、砂漠を旅しているのだ』と、ひしひしと感じた。
 パキスタンに入ってから、行き交うトラックや自家用車は、全く無かった。このルートでの両国の物資の流通、人の往来は殆んど無い状態であった。ヨーロッパの様に素晴らしい道路で結ばれれば、お互いに経済的にも大きな発展、繁栄が見られるであろうに。であるが、イラン、パキスタンのみならずアジア諸国は、分岐点から国境までお互いに隣国に猜疑心を持っている為か、極めてどの道も悪い様であった。私はシルクロードの復活計画を望んでいるが、隣国諸国の疑心暗鬼、セクショナリズムや政治・軍事事情からこの計画は、前途多難で現実的に厳しい感じがした。
 バスは、尚も走り続けた。暫らくすると進行右側、遥か彼方に海が見えて来た。地図の上から言っても、このルートはアラビア海よりずっと内陸部にあるのだ。海が見える訳がなかった。
「ロン、あれはなんだ。海か。」と私。
「あれはミラージ(蜃気楼)だ。」とロン。
「海の様に見えるね。」と私。
「ヤー」とロン。
逃げ水なら何度も見たが、まるで海か大きな湖の様に見える『大蜃気楼』を初めて見た。これも砂漠を旅したお陰、又1つの体験が出来た。    
砂漠の中で水が欠乏した時、旅人達は本当にそこにオアシスが存在するかの様に見える、その蜃気楼に悩ませられた事であろう。 
 バスがクエッタに近づくにつれて、周辺の状態と言うのか光景は、砂漠から砂礫と岩肌の山々に変わって来た。
 車窓から外を眺めていると、ある地点で岩の上に白い髭の老人がポツンと座っていた。日差しにさらされてたった1人、杖を手に岩と化したあの老人は、この荒涼とした大砂漠の中で、いったい何を待っていたのであろうか。タバコをふかしながら、単調で何の変化も無い光景を見ている内に、いつしか私は形容しえない憂鬱な物思いに浸っていた。夢にまで描いたシルクロードの旅を5日間して来た。砂漠の旅をもっと喜ぶべき、もっと楽しむべきであるはずであったのに、私はそれが出来なかった。心の片隅を過ぎったこの陰りは、いったい何であったのだろう。私は砂漠の旅の疲れと、一抹の哀愁を感じた。 
 マイクロバスはBolan Pass(ボーラン峠と書いてあった道標を見た)を駆け下り、午後4時頃やっと、そして無事に大オアシスの町・クエッタに到着した。我々皆、安堵の思いで1ルピー(76円)の安ホテル(不潔、汚い感じがしたが、それでもベッドと毛布はあった)に泊まる事になった。イラン、パキスタンやこれから訪れるインドで、私が泊まったホテルはホテルと言っても自分専用の部屋でなく、大・中部屋に複数のベッドがあり、その1つを借りるスタイルであった。この「ドミトリー形式」が一番安く、貧乏な旅人にとって手頃な宿泊施設でした。
 夕方、我々は久し振りに食堂でしっかり食事を取った。クエッタは活気のある町でなかったが、やっと町らしい町に来たと言う感じであった。散策中、我々は印刷屋の前に来た。店の中を覗いていたら、そこの若者が「中に入ってチャイでも飲んで行きな」と声を掛けて来た。その店に入って彼等と雑談していたら、5~6人の若者達も集まって来た。話がイスラエルについての話題になった。彼等はイスラエルの事を余り良く知らないし又、疑心暗鬼を持っていた。「パキスタンはイスラムの国」と言う、ただそれだけで彼等はイスラエルを嫌がっていた。
 そう言えば今日、私がバス車内でタバコを吸っていたら、左側に座っていたおじさんが、タバコを吸いたそうにしていたので、彼に1本差し出した。彼は嬉しそうにそのタバコをシミジミと見て、タバコを後で吸うのか大事そうにしまい込んだ。少し経ってからそのおじさんが、「何処の国のタバコか」と聞いて来た。
「イスラエルのタバコです。」と私は答えた。
 彼は、「イスラエル?イスラエルはノーグッド。」と言って、そのタバコを私に返して来た。タバコを吸いたそうな顔をしていたから、1本だけど差し上げたのに、「イスラエル」の言葉を聞いただけで、彼は躊躇なく返してきたのであった。パキスタン人はイスラエルのタバコを吸うだけで、『イスラムの魂を失う事になる』と感じているのであろうか。彼等のイスラエル嫌いは相当なものの様で、その一端を私は垣間見た。
 所で、タバコを20箱ぐらいキブツから貰って来たが、仲間のロン、ジェーン、ミシェル、カトリーヌやテヘランで会った日本人旅人に1箱ずつ配ってしまい、残りは半分以下になっていた。


満天の星空下、砂塵を巻き上げマイクロは砂漠を行く~ シルクロードの旅その2(パキスタンバスの旅)

2022-01-21 08:38:52 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
△満天の星空の下、大海原の様な砂漠の中を小舟が行く-Painted by M.Yoshida
「星の砂漠を♪♪遥々と♪♪オンボロのバスで♪♪行きました♪♪――ナンとチャイとの♪♪食事だけで♪♪腹を空かして♪♪行きました♪♪」
                      (童謡「月の砂漠」の替え歌)

・昭和44年1月24日(金)晴れ( 満天の星空下、砂塵を巻き上げマイクロは砂漠を行く)
 昨夜、家の中とは言え直に地面で寝たので、ぐっすり寝られたとは言えなかった。そしてここ3日間、余り寝ていないので旅の疲れも溜まって来た感じであった。
 朝食は例の不味いナンとチャイであった。我々が食事をしている前で、子供や大人達が動物のウンコを手で拾って集めているのを見た。何に使うのであろうか。肥料にするには村の周辺は見渡す限りの砂漠で、畑など見当たらなかった。それでは乾かして燃料にするのか。この時点、はっきり分らなかった。
 ノク・クンディの国境のこの地域(村なのか、それとも部落なのか?)の人家は、30軒程であった。彼等の暮らし振りを何て表現してよいのか、とにかく家の中を覗いて見て、家具類は勿論、家庭・生活用品類等、何にも見当たらなかった。
 クエッタ行きのマイクロバスは、夕方の発車であった。午前中、バラック造りの出入国管理事務所で入国手続きを済ませた。我々は昨日の昼頃、既に入国していたが、特に問題無く正式にパキスタンに入国した。今日は春の様にぽかぽか陽気であった。贅沢して目玉焼き2枚、ナン2枚、それとチャイで昼食を取った。食事代は2.5ルピー、国境の辺鄙な所だから高いと感じた。ここもチャイは砂糖湯で紅茶の味は全くなかった、彼等が出せる食べ物はこんな物しか無かった。
 夕方5時頃、我々6人、現地人5人、そして運転手と助手を乗せ、昨日と同じバス(ノク・クンディ~クエッタ間、運賃15ルピー(1,140円)は出発した。砂漠は相変わらず続いた。バスが走った後ろは、もうもうと砂塵が舞い上げっていた。昨日もそうであったが、バスの中は勿論、我々も砂埃で真っ白になった。そして、砂漠の旅は既にうんざりし、嫌になって来た。そんな感じであるから皆、無口で我慢するだけ、早く砂漠地帯を脱出するのを願っていた。
 バスは真っ暗な、ある砂漠の中で停まった。警察官2名がバスの中に入って来た。『何事か』と思った。彼等は我々の旅券の提示を求め、そしてバスの中も調べた。私は何の目的であったのか分らなかったし、誰も聞きもしなかった。つまらない事に関わらない方が良い、そんな感じであった。要するに、こちらの警察官はヨーロッパと比べてスマートさが無いどころか、横暴さが感じられた。
 警察官が立ち去った後、運転手が「(中は埃っぽいので)バスの屋根に乗っても良い」と言ったので、私とロンはバスの屋根に昇った。バスは再び発車した。風は冷たいどころか、心地が良く、屋根に寝転んだ。夜空は、満天の星空であった。星座群がこんなにもくっきりと、そして手で掴めそうな、そんな近くで煌いていた。こんなにも素晴らしい星空を見た事がなかったので、とても感激であった。
 午後の10時過ぎ頃、ノク・クンディとクエッタの中間地点の民家が3~4軒ある所で今日のバスの旅は終った。遅い夕食は例のナンとチャイであった。横になる様なスペースもないマイクロバスの車内で、我々は夜を明かさなければならなかった。

イランとパキスタンの国境の様子~ シルク・ロードの旅その2(パキスタン・バスの旅)

2022-01-19 09:37:05 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月23日(木)晴れ(イランとパキスタンの国境の様子)
*参考=パキスタンの1ルピーは約76円(1パイサは約76銭)。
  
 かなり南下して来たので、今朝は寒くなかった。我々5人はザーヘダーンから国境までのマイクロバス(料金イランのお金で80リアル、10人乗り)に乗り込んだ。それから直にある場所から日本人旅人(仮称「竹谷さん」と言う学生。以下敬称省略)が乗り込んで来た。我々仲間は6人となり、共に旅をする事になった。
 国境まで約80キロから90キロ先であるのに、街外れに出入国管理事務所(事務所と言っても小屋であった)があった。我々はイランを出なくても、出国手続きを済ませた。事務所まで舗装されていたが、此処から先は未舗装の砂漠の道で、バスはひたすら走った。そしてイランの国境に着いたのか、我々は2階建て鉄筋コンクリートの建物前で降ろされ、バスは来た方向へ戻って行ってしまった。
 建設して間もないと思われるその2階建て建物は、何も無い、何も見当たらない砂漠の中にドカーンと建っていた。その玄関前に『Health Of Center』と書いてあった。こんな砂漠の中に如何してこんな立派な建物があるのか、誰の為にあるのか、判断しかねた。私は中を覗いたが、誰も居なかった。玄関ドアは鍵が掛かっていた。それにも拘らず建物近くにある国旗掲揚台のその掲揚柱に、イランの国旗が高々とはためいていた。私はイランの国旗を下ろし、テヘランのアミルカビルホテルで大西さんから貰った日本の国旗を掲揚しようと一瞬思った。しかしそんな事をして、もしイランの役人に見つかれば、下手をすれば問題若しくは犯罪になるのではと直ぐ思い直し、日本国旗を揚げるのを止めた。如何してそんな馬鹿な事を思ったのかと言いますと、茫洋たる砂漠の中に日本国旗がはためいている、その情景が見たかったのであった。
  所で、この先のバスの便、宿泊施設、パキスタンへの入国方法は、全く分らなかった。砂漠の中に我々は、取り残されてしまった。
「誰も居ない、何にも無いこんな所に我々は降ろされてしまった。パキスタンへどうやって行くのだ。」誰かが困惑な声を放った。しかし誰も分らなかった。我々はこの建物前で野宿する覚悟を決めていた。6人もいるが、何だか心細さが漂って来た。ザーヘダーンで誰かが、「バスは明日出る」と言っていたが、あえて個人のマイクロバスをチャターして来てしまった。
我々はどうしようかと暗中模索の状況で、建物の周りをウロウロしていた。それから間もなく、「遠くに家らしき物が見えるぞ。」とロンが叫んだ。どれどれと言って皆、ロンが指差す方を見た。確かに家らしき影が数軒、見える様な感じがした。「おー」と我々は喜び、そしてそこまで歩き難い砂漠の中を歩いて行った。茫洋たる砂漠の中、まるっきり距離感(2km程か、歩いて40分位?)が分らなかった。
  8~9軒程の貧弱な民家があった。民家と言ってもそれは、1人か2人用の犬小屋の様な小さな家であった。家への出入りは腰・頭を屈まねばならないし、小さいので家の中は歩く事も、立つ事も出来ない、そんな感じの家であった。そんな訳で家が小さすぎて、遠距離でなかったにもかかわらず、あの建物から此方の民家の存在が分からなかったのだ。
家の中を覗きこんだら、横になれる程のスペースに、湯沸し用の鍋だけであった。とにかく『物』が無かった。我々と砂漠の民との生活必需品が違うのだ。彼等は砂嵐を避け、横になるスペース、そして水とナンがあれば生きて行ける、そんな感じであった。私にはここで暮らすどころか、3日居る事も出来ないであろう、と思った。でも水の供給はどうしているのであろうか。カナート(地下水脈)から水を確保する井戸やポンプが周辺にある様には見うけられなかった。そして、ここは見渡す限りの砂漠で草木も生えていなかった。彼等は燃料の確保をどうしているのであろうか。こんな所であってもブラックマーケット(闇の両替屋)、或は粗末な、そしてほんの僅かな食料品を売っているも食料店(犬小屋の様な小さい狭い店で、しかも品数が極端に少なく、賞味期限切れの物ばかり)や、チャイやナンを旅人に売っている店もあった。
我々はそのブラックマーケットで両替し、お昼が過ぎて腹が減っていた私は、その貧弱・粗末な小さな極端に狭い店でジュースの缶詰1個2ルピーとビスケット1袋1ルピーで買った。ジュースの缶詰は錆びていて大丈夫か心配であったが、飲んでしまった。叉ビスケットもいつ製造されたか、賞味期限も分らない様な古い感じがしたが、食べてしまった。後に分ったのであるが、ここのジュースやビスケットの値段は、2倍以上も高かった。
 小さな小屋の前で男が座り、チャイ用に湯を沸かし、ナンをその灰の中に入れて焼いていた。その男の手は何ヶ月も手を洗っていない様で、垢と汚れで真っ黒、その手で灰の中から取り出したナンを両手で、パンパンと叩いて灰を落とし、我々に出してくれた。チャイも注文したが、その男はその手で、ゴミが浮き、ヒビがはいった非衛生的なカップでチャイを出してくれた。そのチャイは、紅茶の味が全くしない、ただの砂糖湯であった。しかもこれが1ルピー(70円)した。ここは全てに於いて物価が非常に高かった。大体に於いてパキスタンの経済、生活レベルから1ルピーは、500円位の価値があるのだ。嫌なら買わなければ良いのだが、飢えと喉の渇きで我々は我慢できなかった。
  旅人の情報やキブツの友・エンディも言っていたが、中近東(パキスタン含む)やインドはトイレにトイレットペーパーが無いのでこの地域を旅する時、ペーパーを用意した方が良いと言われていた。だから私はキブツからロール用トイレットペーパーを3個、持って来ていた。貴重な水で手を洗う、そんな事に使う水は、ここには一滴も無かった。そしてこの地域に於いて紙は、非常に貴重であった。砂漠の生活はトイレットペーパーを含め紙が無い、水は非常に貴重であった。
それで彼等は『うんこ』をした後、何を使って拭くのか、手で拭くのだ。その手を砂漠の砂で擦り合わせ、くっ付いたうんこを落とし、パンパンと両手を叩いて砂を落とし、こうして手に付いたウンコを拭うのであった。彼等はそんな手でナンやチャイを出してくれたのだ。我々は『非衛生、汚過ぎる』と思うが、こんな事では砂漠の中で生活出来ないし、勿論我々も砂漠の旅は出来なかった。テヘランのアミルカビルホテルでさえ、トイレに紙が置いてなかった。何で尻を拭くのかと言うと、水と水差しがあり左手を使って洗うのだが、私は自分のトイレットペーパーを使用していた。 
 テヘランを出発して既に3日間、以来食事回数は1日2回、内容もまともな食事をしてなかった。そんな訳で食べられる時は、何か食べなければならなかった。寧ろ「食べる」と言うよりは、「何か腹の中へ入れねば・・・。」とそんな感じであった。我々は「汚い、不味い」と文句を言いつつ、ナンを砂糖湯で胃の中に流し込んだのであった。
 こんな所であっても我等旅人にとっては、オアシスなのだ。『オアシスは、砂漠の海原に浮かぶ島』なのだ。従って我々は、『バスと言う船』に乗って、島から島へと渡り行く、そんな旅をしているのであった。
ここは既にパキスタン領であった。我々はイラン領から歩いて来たが、境界線は全く無かった。両国とも査証又は通行許可書が必要であるが、この辺は往来が自由に出来た。何故ならば、パキスタンの出入国管理事務所はここから200キロ程先のNok Kundi(ノク・クンディ)であった。
我々は幸いにもここの彼等から「夕方、ノク・クンディ行きのバスがある」との情報を得た。我々皆は、『助かった』と言う思いであった。それまでの間、我々はあのセンターの建物に行って、その軒下に寝そべって身体を休めたり、又この部落に戻ったり、要するにイランとパキスタンの間を行ったり来たりしてバスの発車時間を待った。僅かな距離であるが、両国を自由に出入り出来る国境は、この地帯だけかも知れません。
 アミル・カビルのホテルで会ったある旅人(カナダ人)の話で、彼はトルコからイランに入国した際、トルコ出入国管理事務所にカメラの忘れ物をした事をイラン管理事務所で気が付いたので、係官に「取りに行きたい」と申し出したのだと。そうしたら係官が、「取りに行っても良いが、再度イランに入る場合は、査証を取り直して下さい。」と言われたそうだ。彼は「目と鼻の先の忘れ物を取りに、如何して行けないのか。」と憤慨したが結局、諦めたそうだ。「国境」とは、出入りが厳しい所なのだ。 
 夕方、中型バスは午後7時30分に発車した(イラン時刻は9時。イランとパキスタンは1時間30分の時差があった)。国境から国境の町ノク・クンディ間(距離は約200キロ?)のバス運賃は、10ルピー(760円)であった。乗客は我々6人、他に現地のパキスタン人10人程であった。このバスはオンボロ、座席は木製、窓は閉めても振動で直ぐ半開きになってしまった。それに道路は未舗装の為、砂塵を巻き上げ走るので、車内はその砂塵で真っ白、我々の体中も真っ白になり、しんどいバスの旅になった。
  午後11時を大分過ぎて、バスはノク・クンディに到着した。我々はバスから降りたが、闇夜で一寸先が見えないので、辺りの様子が全く分らなかった。我々はどちらに向かって行けばよいのか迷っていたら、誰かが懐中電灯を照らし、家のある方へ誘導してくれた。闇夜で、周りの様子は全く分らないが、食べ物を売っている屋台があった。
 屋台の男は商売の為に、バスから降りて来た旅人を待っていた様であった。お陰で我々はその屋台で食にあり付けた。その食事内容は、ナン2枚、それにひびや少し割れてある汚いティーカップにゴミが浮いたチャイで、味も全く無かった。普通なら到底喰えない、飲めない代物であったが、今日もろくな物しか食べておらず、空腹で且つ喉も渇いていたので、食べて飲んでしまった。純粋な水の補給は全く無く、この様に飲むチャイだけが、水分補給であった。
  我々が泊まる所を心配していたら屋台の男が、「前の建物がホテルで、無料だ。」と教えてくれた。我々はそこに行った。確かに建物の壁にペンキで、「Hotel」と英語で書いてあるのが、わずかな屋台の光で判明出来た。そのホテル(翌朝、分ったのであるが、この辺りの民家と同じであった)の中に入った。真っ暗で、中の様子は分らなかった。ただ分った事は、部屋もベッドも何の設備も無い、と言う事であった。我々は家の中の地面に、そのままの格好で横になった。寒くはなかった。  
今回の旅で後にも先にも、ともかく「ホテル」と書いてある宿に無料で、しかも直に地面にそのまま寝たのは、これ1回であった。

ホテル(ドミトリー)の値引き交渉~シルクロードの旅その1(イラン・バスの旅)

2022-01-18 15:31:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月22日(水)晴れ(迷路の様なケルマーンの街)
 昨夜、バスの中で一睡も出来なかった。大分南に下って来たが、ここケルマーンも朝方、とても寒かった。我々はバスターミナル広場で露天商いしている店へチャイを飲みに行った。まだ5時過ぎたばかりだが、バスの乗客目当てか、既に店は営業していた。     
 イランに来る前まで、イランはイスラム諸国の一つであり、当然お茶はコーヒーで、パリ滞在中、マサオに連れて行って貰ったアラブ風の喫茶店で飲んだ、あの粒々がカップに残るアラビアン・コーヒを飲んでいるとばかり思っていた。所がパキスタンやインドと同様にイランは、イギリスの植民地であった影響からか、チャイ(お茶)はイギリスのティーと同様、紅茶にミルクと砂糖入りであった。
  『バスは11時に発車』と言うので、我々はその店でゆっくり、ゆでたまご、ナン、チャイで朝食を取った後、街へ散策に行った。ケルマーンは南部でも地図に「◎」の印が付いた大きな町の表示であったが、テヘランの様な近代的建物は見当たらず、泥やレンガ、或は石を削って作った家々と土塀で、街は迷路になっていた。私1人であったなら、悪い男達に迷路の奥に連れ込まれ、身包みを剥がされる、そんな雰囲気を感じさせられる所であった。
  全ての女性は黒のチャドルを被り、そしてほとんどが黒の網目で目を隠していた。私はそんな女性達に怖さと近寄り難さを感じた。テヘランではチャドルを纏っていても多少、女性としての美的感覚が見られた。チャドルの色は黒だけでなく、水色であったり白色や茶色であったり、中にはチャドルに刺繍を施しているのもあった。しかしここは違っていた。黒の世界、闇の世界、そして保守性の強いイスラムの世界の様であった。 
イスラムの社会では、「チョッとお嬢さん、お茶でも飲みに行きませんか」と声を掛ける、そんな雰囲気は微塵も無かった。イランの男性は、女性と知り会う機会が全く無いのだ。親が決めた相手と結婚するので、結婚するまで相手の女性の顔を見られない。イランの男性も女性も、理に合わないイスラムの教えに縛られている彼等に、私は理解できない部分もあった。しかしイスラムの教えを守っている彼等は、そんな邪推な気持が無いのかもしれません。中には、テルアビブのユースで会ったイラン人のガブリエルの様に、「イランは嫌いだ、帰るつもりもない」と言っていた人もいた。こんな現状を見るとイランを嫌いになった理由も分かるが、彼は本当のムスリムではないのかもしれません。

  
△チャドルを覆った女性。この外に目の部分に黒の網目で覆っているのが普通で、また素手さえも見せないようにしているか、手袋の様なもので手隠しもしている。イラン以外は「ブルカ」と言う。

 ザーヘダーン行きのバスは、予定時刻より1時間遅れの12時頃発車した。乗客はケルマーンで殆んど降りてしまい我々以外、イラン人2~3人だけであった。砂漠は行けども、行けども変化無く続いた。昼食抜きで腹は減るし、喉も渇くし、乗りっぱなしで疲れるし、砂漠の旅2日目で既に嫌になって来た感じであった。我々は我慢の連続で無口が続いた。ザーヘダーン到着は夜の10時頃であった。この間は約600km程、時速約60キロの計算となり、意外と早く走行していた。 
 我々は何処か泊まる所を探さねばならなかった。5人で探し回るのも大変なので、私とジェーンが暗闇の街へホテル探しに行った。あるホテルを探し当てた。そこの主人は全く英語が分らず、英語が分る別の男を連れて来た。
その男は、「1泊150リアル」と言った。テヘランでは50リアルで泊まったのだ。こんな所で150リアルとは余りにも高い、吹っ掛け過ぎであった。「高い」と私は言った。
「130リアル」と男。「高い」私。「100リアル」と男が決めていて、主人は黙っていた。「高い。帰る」とジェーンが言った。「70リアル」と男。とうとう半分以下になった。『イランの宿泊代は、どうなっているの』と言う感じであった。彼等は相手を見て、相手の弱みに付け込んで値段を決めていた。「Yoshi、ここは止めよう」とジェーンは言って、そそくさと外に出てしまった。
私とジェーンは他の所を探し、先程と同じく交渉を始めて今度、彼らは100リアルから吹っ掛けて来た。ジェーンが粘ってやっと50リアルにして、泊まる事に決めた。そして待っていてくれた他の仲間3人を迎えに行った。                                                                    我々はリックを下ろし、寝る準備をしていたら、主人が入って来た。50リアルで決まったにも拘らず、彼は「60リアル」と再び値段を上げて来た。時刻はすでに11時近く、私は疲れていたので60リアルでも良いと思った。しかし他の仲間は妥協を許さなかった。「こんな嘘つきなホテルは泊まれない」と言って、そこのホテルから躊躇なく退去した。
 この辺の感覚が我々日本人と欧米人とでは、違っていた。状況を考えると『たかが10リアル、50円もしないのだ。それに既に夜も遅い、疲れているし、早く休みたい。10リアル位、仕方ない。』と考えるのが普通の日本人だと思うのだ。所が、彼等は違うのだ。「50リアル」と言う事で約束(契約)し、その約束違反に対して、彼等は妥協しなかった。『たかが10リアル、されど10リアル』なのだ。今後、私は『この1円単位、10円単位に拘(こだわ)る事が大事である。』と言うことを知り、形相を変えて言い合いする事が多くなるのであった。
 我々はさらに他の所を探し、やっと50リアルの〝ホテル〟(ベッドが複数ある相部屋。以後、「ドミトリー」と言う。)に泊まる事が出来た。そして私の交渉下手が皆に分ってしまった。
  寝たのは午後11時30分過ぎであった。疲れた。お休みなさい。