YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

シーラの実家にて~モーガン家の周りの様子

2021-08-31 14:33:06 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△ヘンドリッドの滝(PFN)

・昭和43年8月31日(土)晴れ(モーガン家の周りの様子)  
 今朝、起きて暫らくしても腹痛がなかった。1週間振りに平常状態になった。一時はその痛みで苦しみ悩んだが、治って本当に良かった。そして1週間振りに朝食が取れた。モーガン家の朝食は、目玉焼きにベーコン、キュウリ、トマト、チーズ、バター、そして紅茶で昨夜と同じであった。
 食事の後、シーラの案内でケネスと共に近所へ散策に出掛けた。周りの様子や景色は、昨日書いたので省略します。
家から10分位行った所にHendryd Falls(ヘンドリッドの滝)があるので、そこへ行った。彼女は落差100フィート(30m)あると言ったが、私の見た目では20m(約70フィート)位の落差しか見えなかった。冬には滝が凍って氷柱が出来て、その景観は美しいと言っていた。
滝の裏側を見る事が出来るので、裏側を歩いて向こう岸まで行った。まさに「裏見の滝」であった。規模からすれば、『伊豆の浄連の滝』位で日本では、観光スポットの一つになる様な所であるが、土曜日にも拘らず観光化されていないので、我々3人以外誰もいなかった。彼女は、「昔この辺りでよく遊んだ事があった」と言っていた。滝を見た帰り、柔道場があると言うので立ち寄って見たが、練習時間ではないらしく誰もいなかった。でもこんな小さな村に柔道場があるなんてビックリした。子供を始め稽古する人が何人いるのであろうか。ウェールズの田舎にまであるのだから、柔道は本当に国際化になった、と実感した。
 所で、私はコロブレンを「小さい村」とか、「田舎」と表現しているが、人口が何人いるのか、又、どの位の広さがあるのか分からなかった。ただモーガン家周辺は人家が少ないので「小さい」とか、田舎の様なので、「田舎」と言っているだけで、畑は無く農家も一軒もなかった。            
モーガン家は、コロブレンのBrynawelon(ブリナウィロン)と言う地区なので、その様な幾つかの地区・地域が統合されてコロブレンが形成されているので、人口がかなりあり、広いのかもしれなかった。
話を戻すが、我々3人はその道場から廃止になった線路を歩いて戻って来た。途中、私はその線路の砕石の中から5㎝立法程の化石一つを発見した。ビッグな発見と思い、誇らしげに彼女に見せた。彼女は、「ウェールズは昔、海底に沈んでいたので、この様な化石(彼女は「Shell Stone」と言っていた)は容易に見付けられ、珍しくない」と言って、私をガッカリさせた。『ウェールズのお土産として日本へ持ち帰ろう』と思い、私はその化石を大事にポケットにしまい込んだ。
 この線路は、彼女が学生時代に営業をしていたと言うが、炭鉱の斜陽化、閉山に伴い廃止されたのであろう。鉄道もバス路線もないこの村の足は、車が主体であった。
 家に着くと、モーガン家の愛犬と他の家の犬が取っ組み合いの喧嘩をやり始めた。ケネスは直ぐに分離させ、愛犬を腕に抱えてしまったが、彼女は他の犬に向かって自分のサンダルを投げつけた。その犬に当たったので、「キャンキャンー」と鳴いて逃げ去って行った。
「Do not illtreat dogs, Sheila」(シェイラ、犬を苛めてはダメだよ)
「Oh, sorry. Yoshi」(ごめんなさい)
彼女は、「自分は犬が好きだ」と言っていたが、この光景を見た私は、彼女の犬好きにクエスチョンマークであった。
 午後、「海水浴に行く」と言うので、私はちょっとビックリした。その訳は、朝晩暖炉を燃やしている程に気温は低めなのに、『如何して海水浴なの』と言った感じがあった。ダディは昔炭鉱夫であったので、今でも石炭が無料で配られるそうだ。この地域ではまだ、細々と産出しているのであった。
 ともかく一家皆で自動車に乗って出掛けた。念の為であるが、イギリスは右ハンドル、左側通行で日本と同じであった。
25分程でニースの海岸に到着した。今日は土曜日で晴れている所為か、海水浴客、行楽客が多く来ていた。しかし、海水が冷たいのか泳いでいる人は、殆んどいなかった。彼等の多くは海に入らず裸になって、波打ち際で日光浴をしているだけであった。
 私は、海(ブリストル海峡スウォンジー湾)に入って泳いだが、案の定冷たく、5分と入っていられなかった。直ぐに上り、2度と海に入る気はしなかった。私とケネスは、海を見ながら日光浴していたが、それでも裸で長くいると寒くなって来たので、私は服を着てしまった。
この小さな玉砂利の浜辺近くに、小さめの遊園地があった。ダディ、マミとシーラは、そちらの方へ行って、海水浴は勿論、日光浴もしなかった。
過去、洋画のシーンでセーターやコートを着ているのに、ストーリーの中で海水浴のシーンを見た事が何回かあった。しかしその時は、そのシーンの季節・時期が寒いのか、海に入るほどだから暑いのか理解出来なかった。しかし今日の様な状況だと、日本の海水浴とイメージが全く違う、と言う事が分ったのであった。
 私がウェールズに来て、2日目が過ぎようとしていた。モーガン家の様子も分るようになりつつあった。
 
  △ヘンドリッドの滝(PFN)

シーラの実家にて~シーラの実家へ

2021-08-30 17:03:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△シーラの実家(コロブレン)の絵になる様な牧歌的風景~By M.Yoshida

・昭和43年8月30日(金)曇り(シーラの実家へ)
 今日は、ウェールズのシーラの実家へ行く日であった。「イギリスへ行った際、ウェールズに是非2週間程滞在したい」と前もって彼女の父に手紙を書いたら、歓迎するとの返事があった。彼女が生まれ育った所、ウェールズに大変興味を持って何日か共に暮らして、ウェールズの生活を肌で感じてみたかったのでした。そんな訳で今日、私はわくわくした、そしてチョッピリ不安な気持ちもあった。Pardington(国鉄パディントン駅)に午後2時30分、彼女と待ち合わせをした。
 今朝も食事前、胃が痛かった。胃の具合が治まりユースを去ろうとしたら、ペアレントから芝刈りの仕事を頼まれたが、15分で終わった。ユース利用者は清掃等を頼まれる事があった。   
 朝食を例のカフェ店で取った。ここのお店を何度か利用したが、これが最後になった。
それからパディントン駅のロッカーに荷物を預けて、彼女のお父さんの土産として、日本酒を持って行ってやろうと思った。酒屋を2軒ばかり捜して聞いたが、日本酒は置いてないとの事で、買うのを諦めた。彼女のお父さんは、Ivor Morgan(アイボーモーガン)と言い、彼女はお父さんの事を、「ダディ(お父ちゃん)」と言っているので以後、私も「ダディ」と言う事にした。
 2時30分になるまで食事(7シリング約350円)をしたり、リーダーダイジェストの本を買ったりして時間が来るのを待った。お陰様でこの頃になると、お昼もしっかり食べられるようになって来た。彼女は2時20分に遣って来て、既に私の分の乗車券も買っておいてくれた。Neath(ニース)までの2等往復乗車券は、5ポンド(約5,000円)であった。2時50分、ジーゼル機関車が牽引する列車に乗車した
 パディントン駅を発車して間もなく、イギリス特有の良く手入れされた芝生、青々とした牧草が広がる田園風景が続いた。車内は日本の2等車と同じ4ボックスシートで、労働者風その他の人達で満員であった。労働者風の男達は既にウィスキーを飲み始めて、陽気に騒ぎ始めた。東洋人は私1人で、周囲の目がチラチラと私に向けられているように感じられ、リラックス出来なかった。それはあたかも日本の田舎で外人を見掛けると、我々は好奇心でつい外人(東洋人以外)に目を注いでしまう、それと同じ様な感じであった。彼女も私と一緒なので、それを感じていた。ヨーロッパではこんな感じを受けなかったのに、やはりイギリスは島国なのか、特にウェールズ地方の田舎へ行く人達にとって、東洋人は珍しい様であった。
 牽引は途中から蒸気機関車に変わった。叉、地方に来たら信号機は色灯式から腕木式に代わり、閉塞方式はタブレット(通票)閉塞式に変わった。日本もそうであるが、鉄道発祥の地のイギリスでも、まだあちこちで汽車が走っていた。これは何もイギリスのみならず、ヨーロッパ(イギリスもヨーロッパであるが、イギリス人は自国以外の欧州をこの様に言っていた)は、まだ汽車が主流を占めている線区もあった。概してヨーロッパは道路や自動車が先に発達して、鉄道の近代化が遅れていた。


 △南ウェールズを走る蒸気機関車牽引の列車(PFN)

 シャイラの実家Colbren(コルブレン)は南ウェールズのニース(ウェールズの南部に位置する第2位の都市スウォンジーに継いで第3位の都市(?)。第1位は首都のカージフ)からが近い様であった。列車はニース駅に5時頃に到着した。駅に跨線橋がなく、線路を横断して改札口を出た。ニースの駅前は商店や住宅が建ち並んでいる光景でなく、静かで閑散としていた。まるで田舎の駅前の光景であった。
 彼女は我々が来るのを前もってダディに知らせてあったが、25分位早かったのか、まだ誰も迎えに来ていなかった。私は彼女と共に駅前のカフェ店でコーヒーを飲みながら迎えに来るのを待った。
コーヒーをゆっくり飲み終わって店を出ると、間もなく迎えの車が来た。彼女からダディ、弟のケネス、そして感じの良い叔父さんを紹介された。それから私は彼等と共に彼女の家へ向かった。
 この辺りの景色は、低い山々(緩やかな丘陵)が幾重にも連なった、なだらかな草山であった。又、南ウールズは有数の炭鉱地帯であったので、人工で出来た〝ぼた山〟(石炭の屑の山々)や廃墟化した炭鉱労働者の細長い家々(レンガ造りのテラスハウス)が見られ、それは活気のない寂しい感じがした。いずれにしても、炭鉱地帯の独特の光景が印象的であった。学生時代に社会科の勉強でウェールズと言えば工業地帯、特に石炭の産出で栄えていると学んだ事があったが、燃料が石油にとって変わり、時代の流れをこんな所で感じさせられるとは、無常であった。
 彼女のダディは、炭鉱労働者であった。しかし私が高校3年の時、「今日は悲しい事を書かなくてはなりません。実は、私の父はまだ働き盛りの歳にも拘らず、炭鉱の仕事を辞めざるを得なくなり、私達の生活も苦しくなります」と彼女は、悲しそうに書いて来た事があった。時代の流れの省力化、合理化、或は閉山の為なのか、その辺りの理由は書いてありませんでした。そして私も悲しかった事を覚えている。その後ダディは再び職についたが現在、定年になって年金暮らしである、と私は彼女から聞いていた。そんな理由で彼女の家は、決して豊かでないのを承知しており、私のウェールズへの物見遊山、興味本位で彼女の家に訪問する事に、『迷惑を掛けて悪いなぁ』と言う気持が率直に言ってあった。
 30分程で彼女の実家・コロブレンに着いた。その1つのBrynawelonと言う地区、戸数30~40戸位、周りの景色は小高い山々に囲まれた丘陵や牧草地帯、静かで絵になる様な美しい牧歌的な所でした。しかも家々は集中しておらず、あちらに2~3件こちらに4~5件と点在していて、皆立派なたたずまいをしていた。彼女の実家もそんな家の一軒であり、セメント作りのSemi Detatched House(セミディタッチドハウス~二階建て二件長屋)の右半分、両親が共働きして買ったと聞きました。この様なタイプの家はロンドンを始めイギリスではポピュラーであった。
 家に入り(勿論、靴は履いたまま)、シーラのお母さんも愛想良く私を迎えてくれた。お母さんの名前はSal(サル)と言って、如何にもウェールズ的な名前で、彼女は「マミ(お母ちゃん)」と言っているので、以後私も「マミ」と言う事にした。マミは背が低く小太りタイプで、日本で普段その辺で見掛ける様なおばさんタイプであった。ダディはイギリス人としては背が低く(私より背が低い)、顔はやや赤め、目はブルー、そして髪の毛は茶色をしていた。弟のケネスは彼女と同じくダディやマミとは似ず、とても美男子であった。背は私と同じ位で感じの良い子であった。両親と同じで髪の毛は茶色、目はブルー、中学3年の15歳であると言っていた。来年、彼は進学しないで職につく予定であると言っていた。
お土産としてマミには日本の伝統的な扇子とハンカチを、ダディにはライターを、弟には目覚まし時計を贈りました。彼等は喜んで受け取ってくれました。
 何はともあれ、私は終にシーラの家に来たのだ。日本を離れ、ヨーロッパの一番西の最果て、本当に遠くに来たものだと思った。そしてモーガン家のリビングには、夏にも拘らず暖炉に石炭が燃えていた。
私が家に着いてから、そうこうしている内に(午後6時半頃)、夕食の用意(後で分かったのだが、実は夕食ではなく、遅いハイティーであった)が出来た。
そのメニューは各自のお皿の上にベーコンエッグ、テーブルの中央にどかっと蒸かした皮付きのままのジャガイモ、切ってないそのままのキュウリ、1口で食べられる真っ赤なトマト(大きいビー玉サイズで一口トマトは日本にまだなく、初めて見た)が器に盛られ、その他に大きいケーキ、パン、チーズ、バター、そして紅茶がテーブルの上に並べられた。
ジャガイモやキュウリはまるごとテーブルの中央に出されるので、各自が自分なりの食べ方によって、それらを切って食べるのだ。勿論、トマトは小さいのでそのままで食べられるが、小さ過ぎて私には何か物足りなかった。日本人はキュウリをキュウリのお深厚、キュウリもみ、或いはスライスしてサラダ料理として出すが、モーガン家では違っていた。『成る程、この様な食べ方があるのだ』と感心する反面、何か手料理と言った感じがしなかった。これも日本との食文化の違いであった。
家族の食べ方を見ると、チーズの食べ方が豪快であった。パンにバターを塗って、チーズをパンの厚さぐらいに切って、パンの上に乗せて食べる。食事の度、否、一日一回でもバターとこんなに厚いチーズを食べたら脂肪分の取り過ぎと思うが、成る程、ウェールズ的食事を感じたのであった。
彼女が話してくれたのだが、ケーキはマミのお得意とする所で今日、私の歓迎の意味を込めて作ったとの事でした。以後、マミはケーキを何回か作ってくれました。そしてケーキの中のイチゴはダディとケネスが山へ取りに行った野イチゴでした。私はこのケーキが大変美味しく、好きだった。
 紅茶もとても旨かった。我々日本人が飲む紅茶と煎れ方が違っていた。日本の場合は、ティバッグで煎れた紅茶の中にレモンの輪切りか、クリープを入れて飲むのであるが、モーガン家の家族(多くのイギリス人も同じであった)は、紅茶の中に牛乳を多めに入れて飲んでいた(人によって牛乳の方が多い人がいた)。これが何とも言えない程、美味しかった。以後、私はいつも食事の後に2杯か3杯紅茶を飲んでいた。 
 食事の後、暫らくしてからダディ、マミ、そしてシーラの3人は、クラブへ行くと言うのだ。私は「クラブ」と言われ、頭から金の掛かる『酒場』と思い込み、余り手持金を使いたくないし、疲れているし、早めに休みたかったので行くのを断り、ケネスと一緒に家に残った。
後で分ったのであるが、日本の様な女性付きのクラブではなく、『この周辺地域の社交場』であったのです。
 言葉の件で、記憶に留めておかなければならない事があった。我々が駅からコロブレンへ向こう自動車の中で、ダディや彼女の叔父さんから色々と話し掛けられたが、何を言っているのか、私は全く理解出来なかった。聞き返しても分らず、何をどの様に返答して良いのか分らず、彼等と全く会話が出来なかった。私の代わりに、彼女が答えていた。彼等の話す英語はウェールズ訛りの英語で、彼女の話す英語と全く違った英語であった。彼等の言っている事は、簡単な言葉でない限り、私には理解出来なかった。
私の様な関東人にとって、同じ日本人でも津軽人や熊本人、鹿児島人の訛りのある言葉で話し掛けられたら、全く何言っているのか分らないのと同じで、ダディ、マミや叔父さんの言葉はそれと同じ状態であったのだ。それに加えて、私はヒアリングやスピーキングが弱いので、余計に分らなかった。
 そんな訳で、ダディやマミが言っている事が分らない時は、9月2日に彼女が仕事でロンドンへ帰る日迄、彼女が通訳的な存在でした。ケネスは学校教育やテレビの影響等、イギリスの標準的な英語を身に付けているので、彼女が居なくなってから、ケネスが両親と私の間の通訳者となったのです。 
 ウェールズに来るまで彼女の英語と両親の英語がこんなにも違うとは思ってもいなかった。たかがロンドンから250km位の距離で、同じイギリスなのに言葉がこんなにも変わるものなのか、不思議でならなかった。
彼女の話しによると、現在ウェールズの人々は、その時の感覚、状況で英語を話したり、ウェールズ語を話したりするそうです。私が「どちらが多く話されているのか」と尋ねたら、「フィフティーフィフティーであるが、最近英語が多くなって来た」と言っていた。        
イングランド(英国)とウェールズは、民族が異なっているし昔、国もお互い独立国家であったのだ。幾多の戦争でウェールズはイングランドに併合されたのである。しかし、現在でもウェールズは自治権を持っており、その首都はCardiff(カージフ)である。
 書く事がたくさんあって又、脇道にそれるが、皆がクラブへ行った後、私はケネスと残って少し話をした。学校の事(イギリスでは中学程度であるとO-level、高校だとA-level、大学だとD-levelと言う学歴だそうだ)、入社試験の事(イギリスでも会社に入る時、入社試験がある)、就職事情の事(現在、良い就職口は困難だとか)、或いは石炭産業の事(ウェールズの炭鉱は下火になった)等々について彼と色々話をした。しかし、彼の話から余り景気の良い話はなかった。
 ケネスは私が1人で海外旅行をしているので、私の事を「度胸がある」と感心していた。私が「大人になったら日本に来ないか」と言ったら、「そんな度胸はないよ」と彼。彼1人ではまだ何も行動出来ない、そんな田舎の純粋な中学生であった。でもケネスは、本当に美男子で良い子であった。
 いずれにしても、ウェールズの田舎でこれから就職、或は自分で何か商売をするのも大変なように感じた。彼も都会へ職を求めて、この地を離れるのであろうか。
私は疲れたので、与えられた2階の部屋で先に休んだ。遠くの滝の音がよく聞こえた。

ロンドンの旅~垣間見たイギリスの失業者達の話

2021-08-29 09:36:36 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
・垣間見たイギリスの失業者達の話
 今日(1968年8月29日)、ロンドンブリッジへ行く途中、シティの趣を変えた下町(周りに工場や労働者の住宅があった)を散策中、その地域の図書館が目に入った。私は興味本位で中に入って見た。その図書館の中には失業者らしき50人程の中高年齢者が居て、図書館なのに誰も本・新聞等を読んでいる人は、居なかった。大部分の人は椅子に座り机に顔を乗せ、うたた寝を貪っていた。又ある者は、少人数で何組かがお喋りをしていた。ただそれだけの光景であった。
ここが何処なのか、一瞬錯覚する程であった。彼等は皆、薄汚れた服を着ていて、中には生活苦らしい顔さえ浮かべ、居眠り、或いはお喋りだけで、ナッシングの状態であった。この光景は、私にとって奇奇怪怪・唖然とした感じであった。
 日本では普通、図書館と言ったら主体は、若者が中心で一般の人を含めて皆、本を読んだり、それらを参考にしたりして勉強しているのが普通の光景である。
しかしここではその様な概念に対して、余りにも対照的であった。これは一大発見、図書館が居眠りやお喋りの場として、失業者に占拠されてしまったのだ。時間にしてお昼前であった。閉館時間まで彼等はドゥ ナッシング(居眠りと時間潰しのお喋り)の状態で過ごすのであろう。私はここに2つの問題点を発見した。

1つ目は、図書館の本来の機能及び目的が、彼等によって阻害されている事。
2つ目は、端的に要約すれば、労働者の労働意欲、前向きの姿勢が失業問題を解決する前提条件であろうが、彼等の目の動きや動作は、その欠片も無いように感じられた。
この状態は、政治問題より彼ら自身に転化されるべき問題である。私はここに失業問題を抱えたイギリス政府の解決できぬ苦悶、問題点がここにあると思った。
 シーラにこの状況を後で話したら、彼女は、「彼等はレィズィ(怠け者)で、税金泥棒である」と酷評した。彼女は働き者で週5日間会社へ行っている他、毎土曜日に郊外へ行ってアルバイトをしていた。 
 私の知っている限りで、イギリスの失業保険金は、週に12~15ポンド位出ているようであった。勿論、職種や賃金格差によって、もっと保険金の幅があるであろうが、いずれにしてもこの額であれば、独り者にとって何とかやって行ける。
 低階層級が従事する汚い仕事や肉体労働の仕事は、週10~13ポンドであるから、仕事をしても保険金と大して変わらないので、彼等は楽な方を選ぶのだ。そして、汚い、或は、肉体労働の仕事は、外人労働者が従事していた。彼等の殆どは、昔イギリスの植民地であった国、例えば、アフリカ、インドやパキスタン等の人々であった。
 失業保険の是非論から言えば、私も労働者の1人であったので否定しないが、ここにイギリス経済の衰退の一原因を垣間見た思いで、30分ぐらい新聞を読んでいる振りをして、早々退散した。

ロンドンの旅~ロンドン見物

2021-08-29 08:49:12 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△The Tower タワー(Not PFN)

・昭和43年8月29日(木)曇り時々強風(ロンドン見物)
 今朝も同じ時刻に腹が痛くなって来た。これで5日間連続であった。朝が来るのが恐ろしくなって来た。明日こそ治っているであろうと朝食を申し込んでおいたが、三度朝食は、取れなかった。今朝もベッドで40分間位、激痛が治まるのを我慢した。
 最近、満足に食事が取れない状態になってしまった。取れたのは、シーラやジャネットの家の夕食だけであった。近頃は日本に居た時の一食分のカロリー摂取量であろう。食べたくても食べられないのだから、仕方なかった。
 今日はウェールズへ行く前の日であり、彼女と会う約束はなかった。今日は何処へ行こうか、市内地図を広げて思案した。そしてピカデリーサーカスやトラファルガースクウェア等のある繁華街の東側、テムズ川の左岸一帯The City(シティ)へ行って見る事にした。今日もどんよりした空模様であった。出掛ける前にユース近くのカフェ店で朝食を軽く取った。おかしな事に、この時間帯を過ぎると腹の痛みは、治まった。
彼女にロンドン観光で最初に連れて行って貰った中央郵便局の建物があるこの一帯がシティで、イギリスの商業、経済の中心地。銀行、証券取引所等が集中している街並みを見ながらLondon Bridge(ロンドン橋)へ行った。この橋はロンドン最古の橋、まるで城塞の様であった。橋は結構長く、渡っている時に強風に煽られた。8月の夏であるのに寒く、間もなく冬になる様なそんな天候であった。しかも雲は低く垂れ下がり、寂しい陰うつさを感じさせられた。橋を渡っている人々はコートの襟を立てて、足早に去って行った。彼女の話しによるとこの橋は、アメリカの観光会社に売られる、と言っていた。
ロンドンブリッジの上流にTower Bridge(タワーブリッジ)があるので、そこへも行った。最近この橋は、交通量が多くなって来たのと、テムズ川が浅くなった為、大きい船は通る事が出来ないので、橋の開閉はないらしい。橋の袂に古い大砲が並べられ、ロンドンの歴史をひしひしと感じさせられた。
 次にThe Tower(ロンドン塔、又はタワー)へ行った。タワーブリッジの隣に位置し、昔のお城である。王宮・政治犯の牢獄として使われていたが、現在は観光スポットであり、一部が博物館に使用されていた。タワーに着くと凄い衣装を着たビーフィーター(タワーの衛兵)が迎えてくれた。彼等は、真っ赤な外套服みたいなものに金モールを縫い取付け、真っ赤な股引の様なズボンを履き、黒の山高帽子を被り、黒の靴、そして腰には剣をぶら下げていた。バッキンガム宮殿の衛兵の方が格好良かったし、こちらの衛兵は年配の人が多かった。タワーに入るのに2シリング払った。 
 帰り際にユースの近くのカフェ店でコーヒー、フィッシュアンドチップス、それにパンで夕食を取った。日本食を腹いっぱい食べたい今日この頃である。
 夜、彼女に明日の確認の為、ユース前の公衆電話から電話を掛けた。最初、彼女から教えられた電話番号(SPEEDWELL1059)を掛けても通じないので困っていたら、電話を掛けに来た紳士に掛け方を教えて貰った。

                                
                           △イギリスの代表的な料理フィッシュアンドチップス

ロンドンの旅~シーラの友人宅訪問とキスの見解

2021-08-28 15:12:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△夜10時過ぎ、ヘンドンセントラル駅へ腕を組んで歩く私とシーラ By M.Yoshida

・昭和43年8月28日(水)曇り(シーラの友人宅訪問とキスの見解)
 3日間続いて、又今朝も胃が痛くなって来た。異国の地でいつまでもこんな状態では、非常に心配、不安であった。『日本へ帰ろうか。帰らなければいけないのか』とも考えた程であった。しかし、やっとここに来たばかりで、もっと旅をしたいし、もっと自由を満喫したいのだ。『その内に腹の調子も良くなる。ここは我慢のしどころ』と1時間ばかり、ユースのベッドで痛みが和らぐのを「ウー、ウー」唸りながらじっと耐えた。
 今日、私は彼女の友達のMrs. Janet Tomlin(ジャネット・トムリンさん。以後「ジャネット」と言う)の家へ、彼女と共に遊びに行く予定であった。午後5時30分、Wembley Park(ウェムブリー・パーク駅。Bakerloo又はMetropolitan-Lines)で彼女と会う約束になっていた。
 胃の痛みが治まり、ペアレントに「昨日と今朝、お腹が痛く食べられなかったので、2日分の朝食代金を返して下さい」と払い戻しを請求した。
「食事の用意をしていたのに、食べなかったのは貴方の都合上であり、申し訳ありませんが払い戻しはしません。もし、食べないようでしたら、前日までに申し出して下さい」と言われてしまった。血も涙もない仕打ちに感じられた。苦しんでいるので、私はそう感じてしまった。でも、仕方ない事であった。
観光の為にユースを出たが、腹が空いていた。食べられるか如何か不安であったが、ユース近くのカフェ店で軽く朝食を取ろう、と入った。この店は安いので労働者やダブルデッカーの運転手や車掌達でいつも大勢いた。
コーヒー(9ペンス36円程度)に、パンにバターを塗ってもらって食べた。栄養はないが、何でも腹に入ればこの場合はそれで良かった。腹痛は10時を過ぎた辺りから今日も和らいだ。全くおかしな病に苦しめられる毎日であった。
観光は、ウェストミンスター寺院 、テートギャラリー(美術館)等をゆっくり見て廻った。
 夕方、彼女の友達の家に訪問するので、何を手土産に持って行って良いのか、トンと分らなかった。日本人以外の家庭を訪問するのは初めての機会であるし、それに彼女の為にも悪い印象はしたくはなかった。
ヴォークソールブリッジ通りを散策していたら、初めてロンドンに来た時のヴィクトリア駅前に来た。駅周辺は、人々が商業活動をして賑やかであった。その駅前に花屋さんがあった。そこで彼女の友達・ジャネットに花束を買って持って行く事にした。『女の子であるから、お花であれば喜んでくれるであろう』と吾ながら良い手土産と思った。
 散策しながらハイドパーク前まで来た時、急に雨が降り出して来た。待ち合わせ時間にそろそろなるので散策を切り上げ、ピカデリーサーカス駅から電車で待ち合わせ駅のウェムブリー・パークまで行った。
約束の午後5時30分過ぎても、彼女は来なかった。『待ち合わせ駅を間違ったかな。若しかしたらPiccadilly-LinesのWoodside Parkかな』と思って、ここの駅員に「ウッドサイド・パーク駅へ電話をして、ミス・シーラ・モーガンを呼び出して欲しい」とお願いした。しかしその駅員は「電話はないので出来ない」と断られた。電話がない訳はないのだ。イギリスの鉄道は、個人的な事を受け入れない、そんな制度になっているようだ。日本では不親切に捉えるが、ここでは不親切でなく、乗客の個人的な事を言ってくる方が不当な要求、と私は認識した。
とにかく、ロンドン郊外の中西部地域だけでも、『何とかパーク』が付く地下鉄の駅名は5~6駅あった。私は彼女が言った駅名を聞き違いしたのかと、連絡方法がなく不安と心配で仕方がなかった。20分位そんな状況の中、彼女が申し訳なさそうに、「遅れてゴメン」と言いながら現れたのでホッとした。
 この後、私と彼女は駅前からバスに乗ってジャネット宅へ向かった。今回、私達はバスの2階に上ったので街の景色が良く見えた。「シーラ、2階からだと景色が良く見えるね」と私。
「そうだね。でもYoshi、貴方は話が上手になって来たね」と彼女に言われた。今までそれほど彼女に積極的に話し掛けなかったのだ。私は英会話力がないもので、どうしても受身的(彼女が話し掛けないと、私も話さない状態)な状況になっていた。何度か会っている内、彼女の言っている事が、最初の頃より分るようになって来た事は確かであった。
 ジャネットの家はロンドン郊外の中西部Wembley(ウェムブリー)で、バスの2階から物珍しそうに街並みを楽しみながら乗っていたので、直ぐ着いた感じがした。
ジャネットとジェネットのご主人は歓迎して私を迎え入れてくれた。ご主人は間もなくして仕事の都合で出掛けてしまったが、彼はなかなかの知日的の様で、彼女やジャネットも知らなかった日本のSONYやカメラ製品、或いは自動車等の良さを知っていた。
彼女がSONYのトランジスターラジオをプレゼントされた事を知った彼は、「シーラ、Yoshiから良い物をプレゼントして貰ったね。SONYのトランジスターは、最高なのだよ」と言ったのだ。私もその事を言ったのだが、彼も言ってくれたので彼女もプレゼントの良さを改めて認識したようであった。彼は、『彼女達はSONYも知らないのか』と云った様な顔をしていたのが印象的であった。
 ジャネットの家は、彼女の所と同じテラスハウスで、その一戸に住んでいた。間取りは広い感じはしなかった。確か、2部屋と台所(2DK)、部屋は良く整えられ、新婚家庭の雰囲気が感じられた。
 私はジャネットに花束をプレゼントした。ジャネットは大変喜びして「明日は私の誕生日なの。その事をシーラから聞いたの」と言われた。
「シーラはその事について何も言いませんでした。自分で花束を贈るのを決めました」と私は言った。
「Oh、Yoshi. 貴方は優しいのね。有り難う」とジャネットに感謝された。彼女からも、「Yoshi, You are a good guest 」と褒められてしまった。私は彼女達に大いに心証を良くした。花束を買ったのは正解であった。
 それから夕食をご馳走になった。彼女と私(私はシーラの『つま』)は、ゲストとして招待されたが、だからと言って特別用意された料理ではなく、彼等が普段食べている様なスィンプルな料理であった。
私が、「テレビを点けませんか」と言ったら、ジャネットは「ゲストが来ている時、テレビを点けるのは『バッドマナー』で、決してテレビは点けません。点けないのが習慣になっているの」と言った。「どうして」と聞くと、「折角、友人が来たのだから、点けると大事な、或いは楽しい会話が出来ないでしょう」と説明されてしまった。『成る程な』と私は感心した。我々日本人は、お客さんや友人が尋ねて来ても、直ぐにテレビを点ける習慣があるが、見習うべきであると思った。 
所で、洋の東西に関係なく女の子のお喋りは、たわいもない話題で盛りあがっていた。猫が如何の、犬が如何の、今年の冬のファッションが如何のとか。
 ジャネットはシーラより少し背が低め、美人タイプではないが(中肉中背で私のいい加減な感じで見て)、感じが非常に良い女(ひと)でした。食事中やお喋り中でもジャネットは、私にとても気を使ってくれて、有り難かった。
何はともあれ私と彼女は、ジャネットのお陰で楽しい一時を過し、10時頃お暇した。ジャネットはバス停まで見送りに来てくれた。 
 私と彼女はバスに乗り、そして最寄り駅の停留場で下車した。人通りのない夜の街を私は彼女と腕を組んで歩いた。
突然、私は彼女の唇が欲しくなったので立ち止まり、「シーラ、キッスしたいのだけど。君が好きだし」と彼女の目を見て言ってしまった。彼女は表情を崩す事なく、「私とYoshiは、恋人同士ではないの。だからダメ」と彼女のあっさりした言葉が返って来た。
日本男子、遥々ロンドンまで来たのだから、せめて彼女の唇だけでも私の物にしたかった。彼女の所へ既に2度行き、部屋には誰も居ない2人だけであった。出来ればその時が良かったのであるが、まだ会ったばかりであり、しかもフィリングがそこまでまだ無かったし、強要もしたくなかった。
しかし、今夜は彼女の友達に会って夕食をして、楽しい時を過ごした。彼女の感情は良く、そして、街は薄暗いし誰もいない、私はこのチャンスを逃したくなかった。
「シーラ、君の唇が欲しい。好きだから」と縋る思いで又言った。しかし彼女は冷静であった。子供を諭すように、「Yoshi、貴方と私は文通を通じての友達同士、否、兄弟姉妹の関係と言ってもよいのよ。だって明後日、家族の一員としてYoshiは私のウェールズの家に来るのでしょう。兄妹がキッスをしますか」と彼女の説得力のある「NO」の言葉であった。
私は彼女の感情を害し、友達関係まで破綻させたくなかったので、「分ったよ、シーラ」と言うだけであった。だって彼女の言っている事は事実であるし、眞であったからこれ以上、何も言えなかった。自分が想い、欲していた事を口に出してしまったので、気も晴れ晴れであった。以後、2度と私は、彼女にこの様な事を口に出さなかった。
 私達は何もなかったように腕を組んで歩き、ウェールズの事等を話しながらHendon Central(ヘンドンセントラル)駅へ行った。駅のプラットホームで電車を待つ若いカップルがキッスをしている光景を見ると、私は何とも口惜しい感じがした。彼女は如何に感じたのであろうか・・・・。
 電車に乗った。彼女が降りるブレント駅は、一つ目であった。彼女は下車し、そして電車が発車して見えなくなるまで私に手を振っていた。彼女の心の温かさ、純情さが感じられた。しかし、私は甘いのだなぁ。彼女に手を振って貰っただけで感じてしまうのだから。先程、キッスを断られ、『シーラは、固いし、真面目過ぎる』と思ったのに・・。
 途中ずっとユースは閉まってしまったか、心配であったが、まだ開いていた。午後11時30分頃、寝た。

ロンドンの旅~腹痛に耐えて1人ロンドン見物

2021-08-27 08:52:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△タワーブリッジ(PFN)

・昭和43年8月27日(火)曇り時々雨(腹痛に耐えて1人ロンドン見物)
 明日こそ腹の調子は大丈夫であろうと思って、昨日、前払いで朝食を申し込んでおいた。食事内容は、コーンフレーク、ベーコンとエッグ(soft-roast-egg半熟目玉焼き)、パン、ティーの〝コンチネンタル的な食事〟(朝のイギリス代表的な食事。所謂、日本の味噌汁、ご飯、卵か納豆に漬物)であった。
しかし、1口か2口食べ始めたら又、昨日と同じように今朝も腹が痛くなって来た。折角頼んだのに、朝食代が無駄になってしまった。
 ベッドに横になって1時間ばかり、「うーうー」唸りながら腹痛の治まるのを我慢した。同じ部屋のホステラー達は、「如何したのか」と心配してくれたが、「お腹が痛いが直に治るから、心配しないで」と感謝するも干渉を断った。やはり、昨日の同じ時刻に痛くなり、又、同じ時刻近くに痛みは和らいだ。全くおかしな病気に悩まされる毎日であった。
 お腹の痛みは治まったが、まだシクシクしていた。我慢してロンドン見物に出掛けた。ユースに日本人は誰も泊まっていなかったし、他の国の若者達とも知り合っていないので、勿論1人であった。
 シーラは、今日も仕事であった。私のロンドン滞在中、彼女が観光案内してくれたのは、一昨日(日曜日)の1日だけであった。
今日は雨が降ったり止んだりして、観光をするには生憎の天候であった。彼女から貰った地図付き案内書の本を参考にしながらの観光であった。大英博物館、ピカデリーサーカス、トラファルガースクウェアー等を観光、散策してユースに戻った。
 

ロンドンの旅~腹痛に耐える。夜はシーラと過ごす。

2021-08-26 14:14:28 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△私とシーラは腕を組み、静寂した街に2人の足音だけが響いた。挿絵 By M. Yoshida

・昭和43年8月26日(月)曇り時々晴れ(腹痛に耐える。夜はシーラと)
 
 一泊食事なしの宿泊代1ポンド以上は、高かったので、ユースへ移る事にした。私は世界各国ユースの住所録の本を持っているので、市内地図を頼りに移動するのであるが、この移動が今日、腹痛の為、非常に辛かった。
私が泊まろうとしたユースは、郊外のピカデリー ラインにあった。そのユースへ行こうとして、地下鉄パディントン駅から電車に乗ろうと切符を購入していたら、急に腹が痛くなって来た。
昨日は、8時から9時頃の間、少し腹の調子が悪かった。しかし今日は非常に痛く、私は改札口前附近の片隅でうずくまってしまった。イタリア旅行中の2日間、腹痛で悩まされた事があったが、今日はそれを上回る痛みで苦しんだ。
 腹痛の原因は多分、食事内容の変化、食事の不規則(取る時間も不規則なら、食事を取ったり取らなかったり)、生活や環境の変化等からこの時期になって起こったと考えられる。そして右も左も分らない異国で毎日神経を使っての一人旅、胃の方も参るのも不思議ではなかった。
 日本であれば即、救急車の手配をお願いする状況であったが、異国ではそう容易く行かなかった。私は6ヶ月間有効の旅行傷害保険に入っているが、だからと言って即、医師の診断を受けるより、我慢して治る方を願っていた。又、言葉の障害に加えて手続きの煩わしさ、煩雑さが嫌だった。しかもその保険の条件は、治療代等は現地払い(医師の証明書等を貰って帰国後、清算)で、私の手持ち金がその分、減少するが嫌だった。そんな訳で救急車手配、病院での治療等は論外であった。
 改札口前の片隅に座り込んでしまった私は、一時的な腹痛である事を願いながら極度の痛みに耐え、和らぐのをじっと我慢しました。。私の前を多くの乗客が通り過ぎて行ったが、誰も心配してくれる人はいなかった。なんて哀れな姿であろうか、自分でも嫌になるほど悲しかった。暫らくしてから、私の状況を見ていた中年女性の改札係の方が心配し、「如何しましたか」と声を掛けてくれた。
「お腹が痛くて歩けないのです。直ぐに治ると思いますので、暫らくの間、ここに居させて下さい」とやっとの思いで答えた。改札口前の片隅で30分~40分程安静にし、和らぐのを待った。改札係員の私に対する関心がせめてもの慰めであり、万が一の場合(救急車等の手配)の安心感であった。
 腹痛が少し和らいで来たら、今度は大きい方のトイレへ行きたくなって来た。トイレを貸してくれるようにその係員にお願いしたら、「何処の地下鉄駅には一般乗客用のトイレはないので、国鉄パディントン駅へ行って、そちらのトイレを使ったらいいですよ」と教えてくれた。係員にその場所を教わり、トランクを預かって貰った。腹痛とウンコが漏れそうで歩き方もぎこちなく、腹を抑えながらやっとの思いで国鉄のトイレに辿り着いた。距離的には近いが、私にとって遠い感じがした。用を足したら腹痛は大分、和らいで来た、と言っても完全に治った訳ではなかった。 
 ユースに予約制がないのは、既に承知していたが、取り敢えず電話を入れてみた。「5時に来てくれ」と言うだけで、電話は一方的に切れてしまった。仕方ないのでユースへ午後5時に行く事にした。それまで時間を潰さなければならなかった。国鉄パディングトン駅のコイン ロッカーにトランクを預けようとしたら、やり方を知らなかったので6ペンス(約24円)損してしまった。余談であるが当時、まだこの種の物は日本に無く、駅事務室で一時預かりをしてくれた。
 腹は空いていたが、まだ胃はジクジクしていて、食べる気はしなかった。それに疲労感もあって何処か見物に行く気力もなく、近くのハイドパークの公園で暇を潰した。晴れていたので多くの人が日光浴を楽しんでいた。又、若いカップル達は、人目をはばかる事なくキスをして愛を確かめ合っていた。そんな光景は、やはりヨーロッパ的であった。それに反して私は腹痛で一日中、公園でボケーとして時間が過ぎるのを待った。お陰で胃の痛みは治った。ユースの人は「午後5時に来い」と言うので5時に行ったら、危うく泊まれ損なう所であった。皆、その前から並んで待っていたのでした。
 午後7時にブレント駅でシーラと会う約束をしているので、6時にユースを出た。ユースから駅まで歩くと25分位掛かるので、ダブル・デッカー・バス(ロンドン名物の赤い2階建てのバス)に乗った。駅前で降りたのに何を勘違いしたのか、まだ駅に着いていないと思い込み、歩き始めた。振り向いたらバスが来たので駅まで乗ろうと思って車掌に聞いたら、「駅は後方、あちらですよ」と言われた。大分行過ぎているのに気付き慌てて戻った。
 そんな理由で5分遅れてブレント駅に到着した。シーラは、笑って待っていてくれた。
彼女は、今日も夕食を作ってくれた。私は今度、何も口出しをせず、大人しく部屋で待った。夕食は、野菜と細切れの肉が入っている料理(缶詰から取り出し、暖めた即席の料理。マーボー豆腐の様な味であった)、パン、アイスクリーム、ケーキ、そしてティーであった。私にとっては豪華な料理であり、腹痛も治りとても美味しかった。彼女は私を部屋に招き、持て成してくれて本当に有り難かった。
 彼女と一緒に食事をしながら一時を過ごせる事は、私にとってとても嬉しい事でした。私は寧ろ彼女に申し訳ない感じがするのでした。と言いますのは、女性が1人で都会に住むのは、経済的にも大変だと思う。それなのに、自分が好き勝手にこちらに遣って来て、彼女に出費や時間を私の為に何かと費やしてしまった。文通友達と言ってもそんな事を考えると、私は気が重いのであった。
 私はローマでバスに入って以来、ここ暫らくバスに入っていなかった。身体を洗いたいので、申し訳ついでに彼女に言って入浴させて貰った。久し振りに暖かいお湯に浸り、とても気持が良かった。しかし、ユースでシャワーが使用できる時は、身体を洗っていた。
 今夜も私と彼女は、腕を組んで駅まで歩いた。そしてシェイラは改札口で手を振って見送ってくれた。
ユースに帰って来たのは、門限近くでペアレントに注意されてしまった。危なく入口の鍵を閉められるところであった。

ロンドンの旅~ロンドン観光とシーラの手料理

2021-08-25 16:00:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△トラファルガー広場とシーラ

・昭和43年8月25日(日)晴れ(ロンドン観光とシーラの手料理)
 興奮の一夜が明けた。今日は、シーラの案内でロンドン見物がとても楽しみであった。これは、私の今回の旅行に於ける最大イベントでもあった。
 朝食を取らずペンションを出た。昨夜のカフェ店前へ歩いて4分程、9時40分に着いて暫らく待った。私の聞き違いで、この場所にシーラが果たして来るのかちょっと心配であった。しかし、それは取り越し苦労で、彼女は丁度、10時に遣って来た。「イギリス人は時間を守る国民である」と言われているが、まさにその通り、きっかり10時に着いたので驚きであり、不思議であった。
彼女が近寄って来たら香水の香りがして来て、心地良かった。そして彼女の白系のジーパンスタイルがとても似合っていた。 
彼女がジーパンを履いて来たのは昨夜、私がジーパンを持っていたら履いて来るようにお願いしたからであった。何故そんな事を言ったのかと言うと、それは昨夜の彼女の服装(彼女はおめかしして来た)では、私の色付き半袖シャツのラフな格好とでは不釣り合い又、観光で歩き回るのにラフな服装の方が良いであろう、と思ったからであった。
 我々は私が宿泊しているペンション近くの地下鉄のPaddington(パディントン駅)から乗って、最初に案内してくれた所は、ロンドンの新名所になった中央郵便局タワー(高さ187m の35階建)であった。
それからロンドンで最も有名な広場の一つTrafalgar Square(トラファルガー広場)へ行った。高い塔にネルソン提督の像が立ち、その周りに四頭の青銅のライオンがネルソンを守るようにうずくまっていた。ここで写真を撮った。この広場は、鳩と戯れる多くの市民や観光客で賑わっていた。
 トラファルガー広場からザ・モールストリートを歩いて、St. James’s Park(セント・ジェームズ公園)で彼女が持参して来たポテトフライを食べながら一休みした。イギリスの8月下旬は、暑くなく、むしろ天気が良いので暖かかった。芝生に腰を下ろして2人で過ごす時間は、最高な一時であった。
「シーラ、今度は何処へ連れて行ってくれるの」と私。    
「衛兵の交替儀式を見に行きましょう」と彼女。
「ストックホルムとコペンハーゲンで衛兵の交替式を見たよ」
「Yoshi、それよりはバッキンガム宮殿の方がもっと素晴らしいと思うよ。とにかく11時30分から始まるから、行って見ましょう」
「バッキンガム宮殿は遠いの」
「直ぐそこよ。この公園の隣で、よく分らないけど歩いて5分かな」
Buckingham Palace(バッキンガム宮殿)前には、既に大勢の観光客が集まっていた。Queen’s Guard(衛兵)の交替式は、間もなく始まった。鮮やかな赤い制服、毛皮の黒い帽子を被った衛兵が音楽隊の伴奏に合わせて整然と行進するこのセレモニーは、ストックホルムやコペンハーゲンの衛兵交替式より華やかで見応えがあり、私は感動しながらシャッターを切った。 
 この後も彼女の案内で、バードケージ・ストリートからWestminster Abbey(ウェストミンスター寺院)、Houses of Parliament(国会議事堂)へと見て廻った。ウェストミンスター寺院はゴシック様式の壮大な建築物、国王の戴冠式や葬儀等の歴史的行事が挙行される所で、一見の価値ある観光スポットであった。又、テムズ川に沿ってどっしりと構えた国会議事堂は、ウェストミンスター寺院から直ぐ近くにあり、ゴシック様式の姿はやはり見事であった。“Big Ben”(大時計塔)とそれと向き合うようにして立つ塔は、ヴィクトリア・タワーである、と彼女の案内で見て廻った。
 以前、私は彼女と共にテムズ川を散策し、これらの建物を見て廻りたいと、過去何回もこの様な光景を頭に浮かべていた。実際に実現しても、こうして見て廻っているのが夢の様であった。私の生涯で今日は忘れられない日であり、出来事になるであろうと思った。
 そして、ロンドン観光はまだ続いた。天気が良いので、テムズ川の辺で日光浴をしている人達も見られた。我々はこの辺りの船着場から船に乗って歴史的な建物を両側に見ながら乗船を楽しみ、そして、テムズ川を上った。下船した所に遊園地があった。そこは東京の豊島園や後楽園の様に数多くの遊戯物があった。彼女の説明によると、イギリスで最大のアミューズメント・パークであると言う。2人一緒にジェットコースターに乗った。彼女は乗っている間、「キャー、キャー」とまるで子供見たいに絶叫を張り上げ、私も愉快であった。しかし乗り終わって彼女の顔を見たら真っ青であった。どうも彼女は高所恐怖症の感じであった。
 「Yoshi、次は何処へ行きたい」と彼女が聞くので、「ピカデリーへ行って見たい」と言った。地下鉄に乗って、彼女は私を賑やかなある通りに案内してくれた。
「Yoshi、ここがピカデリーですよ」と.
彼女が連れて来た場所は、確かに賑やかな通りであった。でも、私が頭に描いていた場所とは違った場所であった。私が描いていた場所は、Piccadilly Circus(ピカデリー・サーカス)の事であった。通りの表示を見るとPiccadilly Rd(ピカデリー通り)になっていた。この道の左右どちらかを行けば、ピカデリー・サーカスへ行けるなと思ったが、折角シーラが連れて来てくれたので彼女に任せた。
 私は朝と昼、まだ食事を取っていなかったので、腹がとても空いて来た。彼女に、「昼食を食べてないけど、お腹が空いてない」と言ったら、彼女は通りにある店でフィッシュアンドチップスを買って来てくれた。これらは確かマグロをパン粉に絡ませ油で揚げた物とジャガイモを棒状に切って揚げた物であった。少し塩を振りかけて食べると味は上々であった。又、ハンバーグとフィッシュをパンに挟んだサンドイッチも旨かった。これらは私の知っている範囲内で日本にまだなかった。
 ドーバー海峡の船の中で交換した手持金が無くなったので、ヴィクトリア駅近くのフォリンイクスチェンジ(両替所)にて、日本円持ち出し可能な限度額2万円の内、1万円を両替した。
 その後、シーラの案内で彼女の住んでいる部屋へ行く事になった。ロンドン中心地から地下鉄に乗って20分位、Brent(ブレント)と言う駅で降りた。この辺りは、住宅街でイギリスらしい家々が建ち並び、静かな環境の中にあった。彼女の住んでいる家は、駅から10分位のその一画であった。この辺りの住宅は個々の家はなく、Terraced House(二階建ての細長い住宅)であった。日本流で言えば長屋で、一つの建物に複数の家族が区切られた空間に住んでいる建物なのだ。そんな家に、下は老夫婦、そしてシーラは2階の部屋を借りて住んでいた。
 部屋は台所、洋間、寝室の間取り、良く整理整頓され、如何にも女性が住んでいる明るい感じの部屋であった。そして暖炉もあった。昔は薪を燃やして使用していた様な感じの暖炉だが、今はガスストーブが置かれていた。
 彼女は、「夕食にカレーライスを作るからちょっと待って」と言って台所に入って行った。 
『日本を出て初めて、本当に久し振りのご飯が食べられる』と内心喜んだ。台所で何かを作っているので私も台所へ入って行った。すると彼女は鍋にお米を入れ、水をその鍋いっぱいに入れてガスコンロで煮始めた。お米と水の配分が我々日本とまったく違うのだ。
「米の量に対して水の量が余りにも多過ぎないか」と言った。
「煮込み、米が柔らかくなったら、余った水を捨てるから」と彼女。
「ダメダメ、米の炊き方は、私の方がよく知っている。この様にするのだ」と言い出し、私は彼女から鍋を取ろうとした。そうしたら彼女は、「男は台所へ入って来てはダメ。向こうの部屋へ行って、待っていて」と一喝されてしまった。
「シュン」として、私は部屋に戻った。しかしどうも彼女のご飯の炊き方は原始的(日本のご飯の炊き方に比べ、合理的でない)であった。「何でも米が柔らかくなれば構わない」式の調理方法で、どんなご飯が出てくるやら、内心不安であった。
それにしても、彼女の一喝は怖かった。台所は日本でも主婦の天下の場である。その場所へ男がのこのこ入って行き、任せておけば良いのに、要らぬ口を挟んだ私の方が悪かったのだ。これは、イギリスでも日本でも同じなのかと思いつつ、彼女の気の強さの一面を見た思いで、その方で私は、面食らってしまった。
 暫らくして食事が出て来た。カレーの味は旨いが、ご飯はどうもパサパサして硬めであった。でも、思ったより美味しかった。彼女は私の為に食事を作ってくれたのだ。本当に有り難いと思った。
ご飯は日本米と違いパサパサ感があっても仕方ないのだ。外米はパサパサ、硬さが残るのだ。日本米はふっくら、柔らか感がある。これを食べている日本人の食感と比較しては、かわいそうなのだ。 
「シーラ、先程はごめん。余計な事を言って」と私。
「Yoshi、良いのよ。気にしないで」と。
「でも、シーラは食べるのが早いね」。
「そうね、鳩のようだね」と言って、彼女は首を上下に振って鳩が餌を食べている真似をした。
「食事は、もっとゆっくり取った方が良いのでは」。
「そうだね、Yoshi」
そんなたわいもない会話をしながら食事を取った。デザートはおしゃれなお皿に添えた缶詰の果物、そして香り良いブリテッシュティー(英国紅茶)が振舞われた。彼女の友情溢れる証として、自分の部屋へ私を案内し、そして手料理で持て成してくれたのであった。
 食後、彼女は、押入れ(イギリスにあるのかな。物入様な所から)から、私が今まで書いて送った手紙を出して見せてくれた。それはまさしく自分が書いた手紙で、懐かしさが込み上げて来た。最初の頃の手紙を幾つか開いて見た。こんな事、又あんな事を書いたのか、私の頭の中は『過ぎ去った歳月と言うのか、この様に彼女に会うまでのプロセスがこの手紙なのだ』と感慨を新たに感じた。
80通程あろうか、彼女が大事に取って置いてくれた事が、私にとって何よりも嬉しかった。高校以来、私の唯一の彼女(自分で思っているだけ)であり、彼女から来る手紙が私の人生の糧でもあった。お互いに人生の大事な時期に知り合い、自分自身、趣味、家族、学校、地域、或いは日本の事等を書いたり、又は意見交換、苦労話、悩みを相談したり、打ち明けたりして手紙を続けて、その友情を深めて来たのであった。
 彼女の青春も私と知り合い、文通を通しての私の存在は大きかったと思う。そして7年間も私の下手な英文に付き合ってくれた彼女の真面目さ、優しさには、本当に感謝する思いであった。
文通を通して友情を深めたその結果が昨日の劇的な出会いであり、今日のロンドン観光、そして彼女の部屋での持て成しであった。そしてこれから8月30日にウェールズへ行って、彼女の実家滞在する予定であった。
 我々はベッドの上で私の旅の事、ウェールズの事、将来の結婚の事等について話し合った。特に彼女は結婚にナーバスになっていた。それはそうであろうと思った。彼女は私より一つ若いけど22歳、充分に結婚適齢期なのだが、「彼氏が出来た」と言う話は、一度も聞いていなかった。彼氏がいれば当然、私に手紙で報告してくれるはず。そして彼女に会って又、彼女の部屋に来て見ても彼氏の存在をまったく感じられなかった。彼女は美人で真面目、そして働き者の女性だ。どうして彼氏が出来ないのかある反面、私は不思議でならなかった。
ウェールズの片田舎から一人ロンドンに出て来て、ある化粧品系列会社の秘書をしていると言っていた。だが田舎のウェールズから出て来た女性が1人、大都会で生活して行くのは大変である、と容易に想像が出来た。私の思い違いかもしれないが、彼女にはハンデーがあるかも。それは、彼女がウェールズ人(言語はウェールズ語)であると言う人種、階級、そして貧富等の格差やマイナス要素を持っている。そしてこれらを肯定するイギリス特有の保守的な考えがあるのだと思う。これらのハンデーを持った中で、彼女がロンドンで英国人(イングランド人の意味、イギリス人ではない)と結婚に結び付く相手を探すのは難しいであろうと思った。
 そんな理由なのか、彼女は結婚話になった途端、彼女の顔色が冴えなくなったのを、私は見逃さなかった。
突然、「私と結婚しませんか。そして日本で住もうよ」と言った。半分冗談、否内心私は本気であった。
「Yoshi、私は日本語を知らないし、風俗習慣も違うし、結婚は無理よ」と彼女。
「私が日本語を教えるよ。それに住んでいる内にその様な事は慣れて来るよ」と私。
「日本は遠い国、行ったら両親に会えなくなるかもしれないし、結婚は無理よ。絶対に出来ない」
彼女の最後の語句は強い調子であったが、まんざらでもないようであった。私が旅人でなかったら、もっとお金(経済力)があったら、彼女の言葉は違っていたかもしれなかった。 私はこれ以上無理強いしなかったが、内心残念な気持であった。
 大分ゆっくりしてしまい、午後10時を過ぎてしまった。それに明日、彼女は仕事があるのだ。そろそろお暇し、ペンションへ帰る事にした。我々(時には『私とシーラ』或いは『私達』と言う)は、明日も午後7時、ブレント駅で会う約束をした。
私とシーラは腕を組み、駅まで歩いた。誰も歩いている人はなく、静寂した住宅街に2人の足音だけが響いた。
 ペンションに戻り、日記を書く事がたくさんあった。思うに、シーラと共にロンドン見物し、そして、彼女の手料理をご馳走になり、本当に幸せであった。イギリスに無事に来られて満足であった。


ロンドンの旅~(その2)ヴィクトリア駅で捜し回る

2021-08-24 16:23:17 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△ロンドンのヴィクトリア駅にてシーラと会う 挿絵  By M.Yoshida

(その1)からの続きです。
 Dover(ドーバー)駅から再び列車に乗り換えた。列車はロンドンのVictoria(ヴィクトリア)駅に向かって田園の中をひた走った。私は乗車中、シーラに会えるのか如何か、どんな出逢いになるか、思案しているとハートがバクバクするのでした。
 そして終に、ほぼ定刻通りの午後7時35分、ロンドンのヴィクトリア駅に到着した。シーラには既に知らせてあるように、私は列車から下車したらその場を動かず、万が一の為に昨日作った『Sheila Morgan』と書いたプラカードを高く掲げ、胸をドキドキさせながら彼女が現れるのを待った。彼女は必ず私の手紙を受け取っているはず、そしてきっと迎えに来ている、と信じていた。
 お互いに初めて会うのだから、写真を交換したその顔だけが頼りであった。実際に実物と写真では見方によって大分違うので、分るかどうか不安であった。一周り見渡しただけでも、このプラットホームに東洋人は、私だけであるから分る筈だ。既に他の乗客は下車し、プラットホームからその姿はなくなり、私だけがホームに取り残された状態であった。不安が募り、10分、20分と時間だけが過ぎて行った。
 上野や東京から比べたらこのヴィクトリア駅構内は、それほど広くなかった。私はプラカードを高く掲げ、もう一方の手でトランクを提げ、恥ずかしさと荷の重さで暑くないのに汗をかきながら、今度は駅構内を捜し歩いた。何人も振り返って私を見た。中には、「どうしたんだ」と言ってくれる人も居た。私は一々説明せず無視した。念頭にあるのは、彼女を捜し出す事だけであった。
30分を過ぎた頃には、不安で一杯になって来た。『今日はもう会えないのであろうか。パリから出した手紙は、確かに届いたのであろうか。何か手違いがあったのではないか』等、色々な事を考えてしまった。彼女の住所を知っているので明日、彼女が住んでいる所へ行けば会える事は確かなのだ。何も今、会えないからと言って不安や心配する必要はないのだ、とも思った。
 既に時刻は、午後8時10分近くになっていた。とりあえず今日の泊まる所を確保しなければならないので、構内にインフォメイション・オフィス(案内所)があったので、そこに行ってペンションの予約を取る事にした。
予約を取った後、中年女性のスタッフに事情を話したらその彼女は、「駅の方に話して、アナウンスをしてもらってはどうか」とアドバイスをしてくれた。
私は、ヨーロッパの駅・列車内に於いて案内放送をしていないのは承知していたが、イギリスは分らないのでお願いしてみる事にした。
案内所近くの2階に駅事務室があると教わった。私は階段を上って駅事務室へ行き、ドアをノックした。出て来た駅員に、「私は日本からシーラ モーガンさんに会いに来ました。約束の時間を既に過ぎて、30分以上捜しているのですが、まだ会えないのです。どうかシーラ モーガンさんの呼び出しをお願いします」とお願いした。
「残念ですが、呼び出しはしていません」と駅員。
「駄目ですか。わざわざ日本から来たのです。お願いします」と私。
「申し訳ないが、出来ません」とあっさり断られてしまった。
システム上出来ないのか、呼び出し業務をしていないのか、いずれにしても仕方なかった。後日分ったのだが、イギリスもやはり何処の駅でも構内放送、列車の案内放送をしていないのであった。
 仕方なく、再び駅構内に出てプラカードを掲げ、「シーラ、シーラ」と呼びながら捜し歩いた。皆がジロジロと私を見た。恥ずかしいやら情けないやら、胸中は複雑な心境であった。      
 7年間文通して来てやっとシーラに会う為、ロンドンに遣って来たのに彼女の出迎えもないのか。非常に残念であった。諦めの気持で引き返し、トランクを預けてある案内所へ戻ろうとした。すると、若い女性が私の前面に来て立ち止まり、そして、その女性が不意に、「私、シーラです」と言ったのです。私はただ、「Are you Sheila Morgan?」と聞き返すのがやっとで、後は何も言えなかった。 
「Yes」と彼女が言った。その瞬間、私は彼女に抱きついてしまった。そしてお互いに抱き合い、会えた事の喜びを確かめ合った。彼女から伝わる温もり、香水の香りとシーラの匂い感じながら一瞬の間であったが、彼女は私の胸の中に居たのでした。
彼女の友達(Miss. Mairwen)からシーラを紹介され知り合うようになって7年間、お互いに文通を続けて来たのだ。その過程の中で個々に於いては色々な事があったが、終にこうしてやっと会えたのだ。私は何も言えない感じであった。 
シーラを良く見るとミニスカートが良く似合い、スラットして美人であった。
「私の送った手紙は届いたのだね。40分位シーラを捜して、今日はもう会えないと思った」と私。
「私がここに居る事が届いた証拠よ、Yoshi。私も随分と捜し廻りました。もう、今日は貴方に会えないから、帰ろうかなと思っていたのよ」とシーラ。
「そうでしたか。どうしてお互いに会えなかったのでしょう。手紙に書いた通り、列車が到着し、下車した場所から私は動かずに貴女を待っていたのです。なかなか貴女が来ないので、駅構内を随分捜し歩きました。今日、私は貴女が来てくれないのかなと思い、諦めかけていました」と私。
「でも、こうして会える事が出来て、本当に嬉しいです。Yoshiは長旅で疲れているでしょう。何処か泊まる所を予約してあるのですか」
「先程、ペンションを予約しました」
「そうですか。それでは私がそこまで連れて行ってあげましょう」
案内所の女性スタッフが特別に預かってくれたそのトランクを受け取りに、シーラと共に行った。
「トランクを預かっていただき、有り難うございました。お陰様で友達に会う事が出来ました」とお礼を述べた。
「会えて良かったですね。どうぞロンドン滞在を楽しんで下さい」とその女性スタッフは言ってくれた。その女性スタッフと言うのは、私がイギリスに来て初めて言葉を交わした人だった。
 それから私とシーラはUnderground(『アンダーグランド』と言ってロンドンの地下鉄)を乗り継いで、ペンションの最寄り駅へ行った。
それにしても、ギリギリセーフでシーラに会えて本当に良かった。私の今までの人生でこんな劇的な出会い、出来事があったであろうか。そして、想像していた以上の綺麗なシーラが私の隣に居るのだ、と地下鉄に乗りながら思った。
 宿泊最寄り駅は、ヴィクトリア駅からそんなに遠い感じではなかった。ペンションも簡単に見付かり、泊まる手配は直ぐ出来た。宿泊代は1泊1ポンドと少々、私にとっては高い感じがしたが、2泊する事に決めた。前払いであったが、ロンドンに来ての初めての支払いで金の計算方が分らず、所持金を示しその中からマダムに取って貰った。何だかマダムに余計取られた様な気がしたが、シーラが付いていたのでそんな事はないだろうと信じた。
 マダムはある部屋にベッドが5つある、その1つを案内した。私の隣は田舎から出て来たイギリス青年、他に3人居た。私とシーラのカップルが珍しいのか、我々は彼等の注目の的になってしまった。 
「シーラ、これは世界的に有名なソニーのトランジスターラジオです。貴女にお土産です」と言って、秋葉原で買って持参して来たラジオを手渡した。シーラは大変喜んでくれました。彼女は以後、大事に使ってくれたのでした。余談ですが8年経ったある時、Yoshiがプレゼントしてくれたラジオは、まだ調子が良いよ、と手紙が来た事があった
 午後の10時近くになっていたが、まだ会ったばかりで何処かコーヒーでも飲みに行こうと言う事で、我々は近くのカフェ店へ出掛けた。
カフェ店で“私の旅の事(彼女は旅の途中で送った絵葉書を大変喜んでくれた)、明日のロンドン観光の事等を話し合った。シーラから、「これがあると、とても便利だから」と言って、公共交通の案内、観光案内等が記されているロンドンの地図本を頂いた。以後、この本は大変役立った。 
所で、私の英会話力の無さで、彼女の話し方が早すぎて(実際は早くないのだ。聞き取れないから早く感じたのだ)聞き取れなかったり、言っている事が分らなかったりして、コーヒーを飲みながらシーラと会話を楽しむと言う訳には行かなかった。いずれにしても、私の英会話力の無さを暴露してしまった。
彼女からすれば、『何年も文通をして来たので、私が上手く英語を話せるであろう』と思っていたに違いない。しかし私自身その事は、最初から承知していたし、私の英会話力については、既に前もって彼女に伝えてあった。彼女は自分の思っている事、伝えたい事を私が分るように話す、と言う事を理解する事が大事なのであった。
大分夜も遅くなって来た。明日、この店の前で10時に待ち合わせして、それからロンドン見物することを約束して、今夜はこれにて別れる事になった。
 私はベッドの中に入ってからも今日の出来事が頭の中を駆け回り、興奮して眠りに付くのが遅かった。
  

ロンドンの旅~(その1)ヴィクトリア駅で捜し回る

2021-08-23 09:29:36 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△シーラの自宅にて~1961年、15歳で高校1年の時の写真

          ロンドンの旅
  
・昭和43年8月24日(土)晴れ(ヴィクトリア駅で捜し回る)
 朝、早めに起きた。身体を拭いて頭を洗い、そして髭も剃った。今日、7年間文通を続けているSheila Morgan(シーラ・モーガン)に会う為、イギリスへ行く日であった。   
 午後0時30分の列車であるが、早めに出立する事にした。マサオの好意より部屋を無料で使わせてもらった上、とてもフレンドリーに接してくれて本当に有り難かった。そんな彼と別れるのは、名残惜しかったが、行かねばならなかった。
 別れる際に彼は、「私はもう少し経ったらこの部屋を去り、スペイン領の〝ある島〟(ヒッピーのユートピアの島)に行くが、良かったらヨシ(私の愛称)も来いよ。そこは別天地だ。モロッコも面白い所だから、行ければ行った方が良い。ヨシに又会えることを楽しみにしているよ」と言って、その島の場所を教えてくれた。
「有り難う。これがイギリスの彼女の住所ですが、私に後で手紙を下さい。機会があったら、その別天地やモロッコの方へ行って見たいと思っています。本当に有り難う御座いました。私はマサオに何も土産を持って来ず、すいませんでした。その代わりとは何ですけれども、この懐中時計を使って下さい」と言って彼に懐中時計を差し出した。彼は最初断ったが、「こんな大事な物を有り難う。元気で旅をして下さい」と言って有り難く受け取ってくれた。
「有り難う。マサオも元気で」握手をして私は部屋を出た。ドアの前で彼は見送ってくれた。薄暗い階段を下りながらマサオに、「マサオ、色々有り難う。元気で、さようなら」と手を振った。マサオも手を振って応えてくれたが、その顔は何故か憂い、寂しさを感じた。外へ出てからも何度も振り返り、彼のアパートメントハウスを見上げた。
 私はマサオが健康で、そして自分の〝アイデンテティ〟(自分が自分であると言う事)をいつまでも持って貰いたい、と願うであった。本当に名残惜しい人であった。
しかし、今日もパリは華やかであった。気分は既にロンドン、そしてシーラであった。北駅への歩行も軽やかであった。
 
 北駅前辺りで軽い食事をして、12時30分発の列車・ゴールデンアローに乗った。ジーゼル機関車が牽引する列車は、一路Calais(カレー)へ向かった。途中から牽引は、蒸気機関車に変わった。久し振りの汽車の旅であったが、フランスの主本線でまだ、蒸気機関車が走っているのにビックリした。 
 カレーから連絡船に乗り換えた。船は間もなく出航したのだが、船内は入国係官の入国手続きで、何となく騒然と緊張感が漂っている雰囲気があった。と言うのは、イギリスは西ヨーロッパの中で最も入国が厳しかったのだ。イギリスは観光目的の場合、査証なしで3箇月間滞在出来るのは承知していた。私は出来る限り長く滞在したいし、可能であれば外国人用の語学学校へ行きたいと漠然と思っていた。そんな訳で、Immigration Application(入国申請書)に滞在日数を『1年間』と記入して入国係官に渡した。
 しかし、滞在費用(入国係官が1人1人所持金をチェックする)や査証なしの観光目的の為、係官は3箇月しか許可してくれなかった。マサオの例でも分るように所持金不足であると、たとえ観光目的であっても上陸出来ず、そのまま送り返されてしまったのだ。イギリスは、ある意味でソ連より厳しい入国手続きであった。
 船の中で少々のフランスのお金とトラベラーズチェック10ドル分を両替して、£5.15s.6d(言い方~5ポンド15シリングアンド6ペンス=5,774円)のイギリスのお金を受け取ったが、イギリスのお金の計算方(換算)が他国と比較して大変複雑で、良理解出来なかった。余談ですがこの後、何日か、何回か買物をしてやっと慣れて来るのでした。
 イギリスのお金の単位は、1pound(1ポンドは約1,000円。正確には1,004円)は20shillings(1シリングは約50円)、20シリングは240pence(単数はペニー、複数になるとペンスと言う。それで1pennyは4円)、240ペンスは960farthings(1ファースィングは約1円)であった。通常の呼び方の他に硬貨の種類によって、sovereign(「ソヴリン」と言って1ポンドの金貨)、crown(「クラン」5シリング)、florin(「フロリン」2シリング)、half-crown(「ハーフクラン」2シリング6ペンス)等の言い方がある。普通の硬貨の種類は5s、2s、1sそして6d、3d、1/2d、1d、がある
 イギリスのお金でその他に注意する事は、£は数字の前に、sやdは数字の後に書く事や、ペンス(単数はペニー)の前に「アンド」を入れて読む等々がある。従って当分の間、私はイギリスのお金の計算方に悩まされるのです。何はともあれ、入国手続き、及び両替が済んだので、私はドーバー海峡の海を眺めて過ごした。
                *明日の(その2)へ続く