YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

黄金のバルト海~ヘルシンキの旅

2022-07-26 16:11:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
       △ヘルシンキ港にて出港前の私(右)と鈴木

・昭和43年(1968年)7月21日(日)晴れ(黄金のバルト海)
 パン、ミルク、キュウリ、そして、トマトで朝食を取った。ソ連の旅行は、ホテルでナイフとフォークを使ってのコンチネンタル・ブレックファーストであったが、個人の旅になると食事内容も貧しくなった。
 船でストックホルムへ行く為、タクシーで港の船会社へ行った。私と鈴木は既に日本でヘルシンキ~ストックホルム間の船切符を買ってあったが、照井と鶴島さんは、まだ買ってなかったので買う事になった。その鶴島さんは、四国の松山で個人商店を営んでいる人で今回、ストックホルムのホテルでボーイをしている弟さんに8年振りに会いに来たと言う事であった。鶴島さんは英語が分らないので私に、「明日、船で行くから弟に迎えに来て貰いたいので、電報文を書いてもらいたい」とお願いされてしまった。そこで、私が英文を書いて船会社の人にこれを電報にしてくれるよう、頼んだのであった。それにしても、彼は自分の事を人に頼まなければ何も出来ないで、よくこちらに来たものだ、と思った。
 午後2時の出航なので、まだ4時間程あった。我々は荷物を船会社の事務所に置かせてもらい、市内へ散歩に出掛けた。
 その後、我々4人は港に戻り乗船した。出航の際、先程知り会った自称学生で写真家の『青木さん』が大きな日の丸を振って我々を見送ってくれた。異国の最果ての港で日の丸の旗を振って見送ってくれた青木さんを、私はいつまでもデッキで見ていた。

 鈴木の部屋で我々3人は、これからの旅行について話し合った。例えばドイツで100ドルずつ出し合って中古車を買って旅行しようとか。しかし人それぞれ旅の仕方がある。私のユーレイル・パスは1ヶ月間有効の物でその後、イギリスへ行ってシェイラに会う計画がある。鈴木は2ヶ月間有効のパス、そして照井はパスを持ってないとの事であった。そう言う事で我々はいつまでも一緒に旅が出来る訳がないから、『出来る範囲で、そして、外国が慣れるまで共に行動しよう』と言う結論になった。
 船の中は、国際色豊かであった。日本人は同じソ連ツアーの仲間が9人居た。夕食は食堂で2日振りにナイフとフォーク付きの食事で、ポークソーテ、ポテトチップス、ミルク、そして、パンが出た。これは、船賃の中に含まれていた。夕食後、1人デッキに出た。静かな海であった。暫らくしたら、太陽が水平線に沈みかけ、辺り一面黄金色に染まったバルト海がそこにあった。それは何とも言い表す事が出来ない光景で、ただ感嘆するだけであった。
黄金に染まったバルト海を眺めていると、日本でセコセコとやって来た思いが吹き飛んで行くようで、何か心の奥底までがスッキリして来た。『私は今、最果てのバルト海の真只中に居るのだ。あれ程までに行って見たいと想っていた外国・ヨーロッパの地に』と想うと、私は胸が熱くなり、涙が出そうになった。

白夜を楽しむ~レニングラードの旅

2022-07-26 15:19:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
    △レニングラードのネヴァ川の畔にて~案内してくれたガイドと

・昭和43年7月19日(金)曇り(白夜を楽しむ)
 目を覚ますと、広大な草原の中を列車はひた走っていた。その景色は変わらない緑一色の世界、改めてソ連の国土の広さを感じた。車中の居心地はまぁまぁで、良く寝られた。7時30分、レニングラードのモスクワ駅に到着した。レニングラードは、ソ連第2位の都市(帝政ロシア時代の首都・ペトログラード)であった。
 ホテルに到着し、荷物を置いて直ぐにバスで市内観光になった。ガイドさんは、美人のロシア人で数々の名所・旧跡を案内してくれて、忘れる事が出来ない旅の1ページになった。彼女はいつも説明の最後に「This is one of the most famous and beautiful buildings 」と言って終るのが口癖と言うか、案内の一つの形式であった。モスクワのガイドさんは日本語で案内してくれたが、こちらでは英語であった。


△レニングラードのネヴァ川の畔にて~巡洋艦オーロラ号(十月革命はこの艦の号砲から始まった。その記念する巡洋艦)
                         
 夕食後、私、照井、鈴木の3人は街へ散歩に出掛けた。このレニングラードはネヴァ川と切っても切れない縁のようであった。そして市内縦横に走る運河があり、まるで『水の都』の感じであった。ネヴァ川は綺麗で、ポンポン船がのんびり往来していた。建物や街の雰囲気は、モスクワより明るい感じがして、少しヨーロッパ的な雰囲気が漂っていた。
 夜の9時、10時になっても暗くならなかった。市民、恋人達(モスクワでは若い男女のカップルを見掛けなかった)は公園、河畔に集い、一時の夏の夜(白夜)を楽しんでいた。『白夜、運河、革命と石造りの街』、それが私のレニングラードの印象であった。

△エルミタージュ博物館出入口にて~ヤポンスキー(日本人)を珍しがるウクライナから来たオバチャン達と記念写真

バルト海船上で17歳の若者と口論

2022-07-25 09:52:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
△ストックホルム入港前で生粋な彼と仲直り記念写真

・昭和43年7月22日(月)晴れ(・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海船上で17歳の若者と口論)     
*参考=スウェーデンの1クローネ(Krona)は、約70円(1オーレは、70銭)。
 昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝た。非常に寒く、そして長い夜であった。こんなに寒い中を一晩過ごした経験は過ってなかった。勿論、船員に毛布を貸してくれるよう尋ねたのですが、2等用には備えがないとの事で、ブルブルと震えながら一晩過したのでした。
 やっと朝の5時頃になったので、私は体を温めようとシャワー浴びた。しかし、その時は温まったので良かったが、後になって反って寒くなってしった。体が丈夫の方ではないので風邪を引くのでは、と心配してしまった。日本の夏は夜でも非常に蒸し暑いので、『いくら北欧でもカーデガンがあれば大丈夫であろう』と思い込んでいた。外国へ行って見たいと強い想いがあった割に、諸外国事情を全く知らなかった私の認識不足は甚だしかった。私が持って来た衣類と言えばカーデガン1着、靴下数組、パンツ数枚、半袖下着数枚、半袖シャツ2枚、ワイシャツ2枚、背広1着、ズボン1着であった。どちらかと言えば、夏向きの支度であった。緯度的に考えればそれなりの支度が必要であったが、それが私の欠点であった。以後、何度も夜間や朝方の寒さに悩まされた。「セーターや冬用の上着、シャツも持参すべきであった」と何遍も後悔した。いずれにしてもこれは、これから多くの失敗を重ねるほんの1例であったのだ。
 ストックホルムに近付くにつれて、小さな島が幾つも散在するようになって来た。船は入り江の奥深く進んでいた。海ではなく、あたかも湖の中を小さな島が多くあり、それらを縫って行く様な感じで、素晴らしい眺めであった。デッキでその光景を眺めていると、やくざ風のサングラスを掛け、一見して20歳以下と分る若者が一丁前にタバコを吸っているのを見掛け、「あなたは何人ですか」と私は尋ねた。
「スウェーデン人です」と彼。
「そして幾つですか」と私。
「17歳だが」と彼。
「スウェーデンは17歳がタバコを吸って良いのか。日本では20歳にならないと吸ってはいけない事になっているのだが」と私。
「スウェーデンも同じだが、貴方に関係ないだろう」と彼は怒り出した。
「若造の癖に生意気な事を言うな」とこちらも言い返した。
しかし、余り怒らせてトラブルになるのも詰らないので今度、宥めに入った。
「大きなお世話かもしれないが、吸いすぎると体に悪いから注意したたけだよ。友達になろう」と私は言って彼に握手を求めると、彼も握手して来た。
「記念に写真を撮ろう」と言って私は彼と肩を組んで写真を撮った。
 私は如何してこんな事を言い出したのか、後になって不思議であった。彼は色眼鏡を掛け、ジャケットを着て、余りにも一丁前にタバコを吹かしていたのでからかいたくなったのは事実であった。しかし後で分った事であるが、17歳はまだ良い方であった。ヨーロッパでは、小学校低学年齢の子供達も吸っているのが実際であった。
 船はほぼ予定通りの8時30分、ストックホルム港に着岸した。鶴村さんの弟さんは迎えに来ていた。その彼はあるホテルでボーイの仕事をしていて今回、8年振りの再会であった。私は鶴村さんがヘルシンキ・ストックホルム間の乗船券を所持してないのでその乗船券の手配や又、何日の何時、何処の会社の何の言う船がストックホルムに着くから、迎えに来るよう電報文を打って上げたのだ。照井、鈴木と共に鶴村さんを連れて来た様なものであった。
そんな鶴村さんが、弟(30~33歳位)を我々に紹介し、「ここまで3人にお世話になった」旨を話した。しかし、彼は何の挨拶も一言の言葉もなかった。普通「兄がお世話になり、有難う御座いました」、と言うのが常識であろう。私は彼が何か同邦人ではない感じを受けた。と言うより彼の態度は、『私は貴方達と関わりを持ちたくありません』と言う感じであった。しかし、私は彼がここでホテルのボーイをしているし、8年も住んでいるので宿泊施設の情報を良く知っていると思って、「何処か安く泊まれる所があれば教えて貰いたい」と彼に尋ねてみた。すると、「ユース・ホステルか、観光案内所へ行って聞いてみれば」と彼の素っ気ない言葉が返って来た。彼に言われなくても、私はそうするつもりであったが、何らかの期待を持ったのがいけなかった。日本から遥々、兄と共に遣って来た我々に対し余りにもつれない言葉に、全く好かない奴であった。彼は兄を車に乗せ、さっさと走り去って行った。我々3人は、呆気に取られてしまって言葉もなかった。
その後の私がロンドン滞在中、妹の手紙と共に彼の手紙が同封されて来て、鶴村さんは「弟と車で1ヶ月間ヨーロッパを旅行して、一人で中近東経由インドのデリーから飛行機で帰国した」との事であった
所で、異国の地において邦人同士が会っても互いに背を向けると言うか、話したがらない人達にも会ったが、嫌な感じであった。

―――ストックホルム観光巡りの話は省略―――

 泊まる所が決まっていない観光は、何となく落ち着かない感じがした。しかも昨夜、寒さの為に一睡も出来なかった私にとって、市内観光巡りで歩き回るのは、非常に疲れを感じた。 
午後4時になったので再度、ユース・ホステルやYMCAに電話をしてみたが、又も満員で断られてしまった。仕方なく再度、駅観光案内所へ行って、安いホテルかペンションをお願いしたが、やはり満員で断られてしまった。野宿する訳にいかないので、強い口調で三度、私は女性スタッフに頼み込んだ。「我々は、何処で泊まれば良いのですか。公園のベンチに寝ろと言うのですか。夜の屋外は寒いので耐えられません。それに、我々は疲れているのでゆっくり休みたいのです。どうかお願いですから安いペンションを探して下さい」と訴えた。
「それでは、暫らく待って下さい」と言った彼女は、何処かあちこち電話をしてくれた。
3人の内、いつも交渉役は私でした。そして満員と言っても強く交渉すれば何とかなるもので、彼女は安い〝ペンション〟(日本の民宿の様な感じの宿泊所で、同じ部屋にベッドが複数ある)を探してくれた。
ペンションと言っても、相部屋で泊まるだけで1人30クローネ(約2,100円)であった。北欧、特にスウェーデンは非常に物価が高かった。日本で70円のハイライトの様なタバコが、ここは700円ぐらいした。酒場の小瓶のビール100円がこちらは600円した。平均日本の7倍から10倍高かった。私みたいなケチケチ旅行者にとって、スウェーデンは長く滞在する様な国ではなかった。
 大野から夜、「私達(大野と山下)は、明日、オスロまでヒッチするので貴方達もやらない。どちらが先に着くか競争しようよ」との電話があった。明日、私と鈴木は、ストックホルムからオスロまでヒッチ・ハイクの旅をすることにした。
 今日は疲れたので早く寝ることにした。それでも午後10時であった。