・昭和44年5月1日(木)晴れ(義姉の死、そして帰国を決心)
貨物駅の仕事が終え、家族や友達から手紙が来ていないかと思い、以前宿泊していたYMCAに立ち寄って見た。そうしたら私の妹、昨年の12月18日に帰国していた最初の頃に共に旅をしていた鈴木、そしてロンドンのレント・ルームに住んでいた頃の階下の女性マリアンから手紙が来ていた。鈴木が無事に帰国した事は嬉しかったし、マリアンからの手紙も嬉しかった。しかし妹からの手紙は悪い知らせであった。
【妹の手紙の内容】・・・前文省略・・・。兄さんが日本を去ってから9ヶ月間が経ちました。その間、兄さんは色々な事に出会い、経験し、又色々な事を感じて来られたでしょうね。
こちらは悲しい事が起こりました。どうか驚かないで下さい。とても信じられない事です。2月8日(私はこの日、ニューデリーからアグラへ行った。)午前3時頃、義姉さん(兄嫁)が急性肋膜癌で亡くなりました。そして49日も1ヵ月前に済みました。母は義姉の長女6歳と長男3歳の子供達の世話で大変です。私も出来るだけ母の手伝いをしています。
母は兄さんの無事な帰国を毎日、仏様に祈っています。それから父が出来るだけ早く帰国する様に、と言っていました。 以下省略・・・【手紙の内容は終り】
私は3ヶ月間近く、家族の状況を知らずに旅をしていた。読み終わった時は、『そうか、義姉さんが死んでしまったか』と思っただけで、別に何の感情も無かった。しかし、次第にその事に驚き、残念な、そして悲しい気持が湧いて来た。死んだ義姉さんもかわいそうだが、残された義兄さんや子供達は、もっとかわいそうだ。そして家事や子供の世話・育児の事が、年老いたお袋の肩にどっと圧し掛かって来たのだ。一番大変なのはお袋であった。
私の海外旅行に一番理解していた親父が、「早く帰って来い」と言っていた。その本当の含みは、『外国でいつまでブラブラほっつき歩いて遊んでいるのだ。真面目に働いて、早く身を固めろ。』と同じで、私にはそれが分るのであった。
お袋も毎日(仏壇の)仏様に向かって、私の無事な帰りを祈っている、と言う。私が幼い頃からお袋は毎朝、仏様に御膳とお水を供え、「南無阿弥陀仏」と唱えて何か祈りや願を掛けていた。妹からの手紙を読んで、私は、私の無事な帰国を仏様に祈っている母のその姿、が思い浮かんだ。
更に私の良き理解者である妹も早期帰国を願っているし、義理の兄貴達も早く帰国し、真面目に働けと言っていた。私の「旅」も、いよいよ年貢の納め時になって来た様であった。私としては両親や妹、兄弟の理解を得られない、或いは家族の想いに逆らってまで旅を続ける信念が無かった。
妹からの手紙で、今まで張り詰めていた『私の旅への想い』が崩れて行く様で、何とも言えない気持になった。YMCAからレント・ルームがあるキングス・クロスのまでの間、歩きながら色んな事を考えさせられた。そして訳の分からない気持になり、まだ明るい街の中であるのにもかかわらず、無情にも涙が溢れ出て仕方なかった。
オーストラリアに来てから今まで毎日、今後の旅への希望、想い、そしてそれに付帯する経済的な事(滞在費用)や滞在期間延長の事で悩んでいた。しかし、妹からの手紙はそれらを一変に吹き飛ばし、『帰国した方が良い』と私の背中を押したのであった。