YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ユース ホステルの話~イタリアのヒッチの旅

2021-11-18 15:57:12 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
*「旅は良いなあ」からの続きです。

*ユース ホステルの話
 〝ユース〟(『Youth Hostel』ユース ホステル)に泊まるには、財団法人ユース ホステル協会の会員にならなければならなかった。諸事情によりヨーロッパでは、極力ユースに泊まる為、私は出国前の5月14日に会員になった。会員になれば、「IYHF」=International Youth Hostel Federation(国際ユース ホステル連盟)に加盟している全ての国のユース ホステルに適用される。大抵の国(共産圏諸国、中近東諸国、インド、アフリカ等は除く)は、この連盟に入っていて、各主要都市及び地方・地区にユースがあり、我々ヒッチ ハイカーにとっては、安く宿泊出来るので有り難い施設であった。
 食事付ですと勿論、宿泊料もアップします。ユースによって2食付き、又は朝食だけ、或は全く食事が付かないユースもある。都会の大きいユースは夕食、朝食付きが殆どであるが、地方のユースは、食事が付かないのが殆どであった。
 ユースは、若者達に安く宿泊させるだけが目的ではありません。それでは、ユースの目的は何であろうか。会則を見ると、次ぎの様に書いてあります。
 『本会は、IYHFの規約に則り青少年に対して自転車旅行、ハイキング等によるレクリエーション及び教育の機会を与え、自力による簡素な旅行によって、国内外の風物・文化・歴史・産業等各方面の見聞を広め、規律あるグループの行動及び日常生活の良き習慣を体得し、以って世界的市民としての見識及び教養を涵養せしめる事を目的とする』と。
従って、宿泊すれば守るべきルールがあるのは当然で、いくつかの禁止事項があります。中は、これらのルールに違反する者がいますが、大体どのユースに宿泊しても、多くの若者はルールに沿って宿泊していた。
ユースには色々な国から若者が集まり、お互いにもっと語り合いたい気持があったが、お互いに言葉の壁があり思う存分コミュニケーションが図られていると言う現状ではなかった。
 私はユースのペアレント(管理者)が先に立って、折角集まった世界各国の若者を同席させ、色んな催事やお互いの意見・主張を発表出来る場をつくったら、もっとコミュニケーションが深まり、そして友好・友情が深められると思った。もしも万能同時通訳機器みたいな便利な物があれば、更に深く彼等の考え・意見を聞けるし、私も日本語で思いっきり話し、意見を述べたいと思った。何はともあれ、言葉が通じ合わなくても心が通じ合えば、それは1つの素晴らしい小さな国際交流ではないでしょうか。ユースとは、そんな小さな国際交流の場であった。

旅は良いなぁ~イタリアのヒッチの旅

2021-11-18 15:36:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
        イタリアのヒッチの旅(旅は良いなぁ)

・昭和43年11月18日(月)晴れ(コート ダジュールの素晴らしい景色)
 内陸部フランスは、本当に寒かった。しかしここニースは温暖で、本当に気持が良かった。日中、ジャンバーを着ていると、暑いぐらいであった。
 ニースは、Cote d Azur(コート・ダジュール)の中心で、この他に有名なカンヌ、モナコがある。この辺り一帯は、世界的にも有名な海水浴場のリゾート・タウンでもあり又、冬は暖かいので、避寒地としても最適なのだ。ニースを中心に別荘が道路を隔てた山側に数多く散在していたし、その反対の海岸線沿いには、ホテルが建ち並び、それがずっと連なっていた。しかしそれにも拘らず今日は月曜日、しかも夏期休暇、或はクリスマス休暇期間ではないので、海岸や街は閑散としていた。
 天気は良いし、地中海も青々として、こんな素晴らしい所で1・2週間のんびりと過してみたいのだが、1泊しただけで本当に残念であった。『でも、良いではないか。天気は最高、海もきれいだし、このニースの町、そしてコート・ダジュールの雰囲気を肌で感じる事が出来たのだから』と自分に言い聞かせ、納得させた。
 ニースから暫らくの間、車は海岸線に沿って走ったので、景色を十分楽しむ事が出来た。それから海岸沿い7号線から青く美しい地中海は所々しか見られず、そして一気にMonaco(モナコ)へ入り、再び海岸沿いを走った。
バチカン市国に次いで世界最小国のモナコ、そのMonte Carlo(モンテカルロ)で1泊して、カジノを楽しんで行きたい気分であったが、車中から一見しただけで、モナコ王国を通り過ぎてしまった。
 ニースからMenton(マントン)までは、車2台を使って着いた。マントンは、フランス領最後の国境の町、私は海岸沿いにその町を歩いた。昨日まで寒さや雪で悩まされたが、今日は本当に暖かく、ジャンバーを脱いで燦々と降り注ぐ優しい太陽の光を体中浴びながら、歩いてコートタジュールの旅を楽しんだ。
 列車の旅と違った、本物の何か旅らしさがここにあった。『本当に外国へ来て良かった』と心の底から純の気持にさせてくれたのは、この景色と気候の所為であろうか。友達や職場の仲間にもこの感じ、この気持を味わって貰いたい、と思った。しかし多分、故国の仲間達は、相変わらず毎日の仕事や生活に追われ、一生こんな気持を味わう事なく終るのは、余りにも悲しい定めであろうか、とここマントンから思った。
 マントンの街を過ぎ無人のフランス出入国管理事務所を通過し、直ぐイタリア国境の事務所があった。係官は愛想よく私を向かえてくれた。彼は、「ハシシを持っているか」と尋ねた。私は、「ノー」と言ったら、素通り状態でイタリアに入国出来た。しかしおかしな事だが、荷物検査をするならいざ知らず、ハシシを持っている人が役人に尋ねられ、「ハイ持っています」とあえて罪になる様な事を言うバカが何処にいるのか、と思った。ただ彼は、形式的に任務を遂行しているのに過ぎなかった。
 私は、既にイタリア領に入ったのであった。道路の右下は断崖になっていて、透き通るほど青々とした海水が、その崖に打ち寄せ、荒々しさをかもし出していた。『旅は良いなぁ!』、いつしか又、独り言を言ってしまった。そして歩きながら「会いたい♪気持が♪ままならぬ♪小樽の町は♪冷たく遠い♪・・・」と〝小樽の人よ〟(鶴岡雅義と東京ロマンチカの楽曲1967年。ウェールズのヒッチの旅の時も、この歌をよく歌っていた)を歌いながら、コートタジュールとリヴィエラの旅情を楽しんだ。リヴィエラも、山が海岸線まで迫っていて、コート・ダジュール同様に素晴らしい光景の連続であった。
 暫らくの間、街道を歩きながら景色や旅情を楽しんだ後、ヒッチして3時半頃、私はGenova(ジェノヴァ)の郊外に着いて、歩いて市内へ入った。ここまで来たら天気も変わり、今にも雨が降って来そうな空模様に変わっていた。
 ジェノヴァは、市と言っても大きな都会、その中心地へ入るのにも道や方向が分らず、気を使いながら、人に聞きながら歩いて入ったので、大変であった。しかしながら、気を使いつつ市内を歩いていると、多少なりともこの都市の様子が分かった。ある時は何かを発見したり、ある時は又何かを思い出したりした。そうだ、学生時代に社会や歴史の授業に出て来た都市なのだ。現実に、自分がそれらを学んだ場所の真っただ中に居る、そう言う事実が不思議でならなかった。歴史的には、アメリカを発見したコロンブスの生地であったり、都市国家として栄えて中世には中近東や北アフリカまで十字軍を派遣しその勢力を伸ばしたり、ヴェネチアやピサの都市国家と勢力争いをし、ヴェネチアに破れ衰えていったとか。
近代になりジェノヴァは工業化に成功し、現在、商業港と共に北イタリアの工業地帯の中心地として栄えているのだ。いずれにしても、そんなことを思い出しながら市の中央広場に辿り着いた。広場の正面には、ゴシック調の聖アンブロジオ寺院が堂々と建っていた。その寺院は、荘厳・壮観・重量感に溢れ、見る人を圧倒する感じを与える建物であった。この中央広場には、無数の鳩がたわむれ、観光客や市民がその中にいる感じであった。
 バス ターミナルはその寺院の反対正面であった。言葉が互いに通じ合わないが、今まで何人かに聞いた感じからユースは、市の郊外にあり、バスで行った方が便利らしいと分った。でも、どのバスに乗ったら良いのか分らず、バス ターミナルをウロウロしていたら若いイタリア女性から英語で、「どうかしましたか」と声を掛けられた。「ユースへ行きたいのだが、どのバスに乗ったら良いのか分らなくて、困っています」と言った。そしたら、彼女は親切にユース行きのバスを教えてくれた。別れ際に、彼女の方から握手を求められた。親切にして貰い、女性の方から握手を求められたのは、初めてであり嬉しかった。旅の疲れを癒された想いであり又、気候や素晴らしい景色で今日は、特別に気持の良い1日であった。
 ユースに着いたのは6時であった。このユースで4度、日高と出会った。彼とは最初11月13日パリのユースで出会って、翌日に彼とパリ見物をした。2度目は、15日共にユースを去りバスに乗ってパリ郊外へ出て、その夜のリオンのユースで再会した。16日リオンのユースを共に去りバスに乗って郊外に出た。3度目は、17日にニースのユースで藤森君と共に再会し、そして今夜で4回目の出会いであった。同じ方向にヒッチの旅をしていると、時にはこの様に何度か巡り会う事があった。前にも荻さんと北欧のユースで何度か会ったが、しかし4度も出会う事は、本当に珍しいのであった。
「やあ、又会いましたね」と言って、今までの旅の事、或いは世間話して旅の疲れを癒した。
この様に今回は、特にユースを使っての旅になったので、良い機会なのでユースについて話しておく事にしよう。

ヒッチの旅は、常に人々の善意で・・・~フランスのヒッチの旅

2021-11-17 08:11:48 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月17日(日)雪のち晴れ(こんな嫌な感じは初めて)
 起きたら雪はまだ降っていてガッカリであった。今日の天候は、ヒッチするのに最悪の状態を予測して、ユースを出た。
リックを背負い、片手にバッグを持った手は、非常に冷たかった。こんな日もあろうかと思って買ったフード付きジャンパーは、雪を凌ぎ、体の体温を防いでくれたが、手袋無しで、その冷たさに悩んだ。片方の手をポケットで温めておいて、一方の手が悴んで来たら逆にして、その冷たさを凌いだ。
 ユースから街道までは直ぐ近くで、思っていた以上に早めに1台目をゲット出来た。午前中だけで3台釣れた。ヒッチ率は、最悪を予想していたので嬉しかった。南下するにしたがって、天候は雪からみぞれ、そして曇りから晴れて来た。3台目でバランスから200キロ稼ぎ、マルセイユに着いた。  
 ちょうどお昼頃、駅前のマーケット街でパンを買ったが、その店のおばさんに、私は異様な目付きで睨まれた。そればかりか私が街を歩いていると、マルセイユの人々は、日本人である私を見る目が敵視するように睨んでいた。
 フランスを含むヨーロッパ旅行中、或は、滞在中にこんな嫌な感じを受けたのは、初めてであった。多くのヨーロッパ人は、普通に接してくれた。中には、友好的、親切心を持って接してくれた人もいた。今までだって、そして先程までフランス人は私に対して普通に、或は友好、友情的に接してくれたのに、如何してマルセイユは違うのだ。
第2次世界大戦で敵対関係であったからか。それとも、最近日本人がこの街で悪い事をしたからなのか。言葉を発しないし、通じ合わないので、その真意は分らなかった。街の人々皆がそんな目付きで見ていると、私は居た堪れなかった。駅前階段に座り、固いフランス・パンをかじって昼食を取りながら、そんな事を考えた。  
 私の最初の計画では、このマルセイユからフランス商船M&Mで帰国予定(今年の出航予定は9月16日と11月6日であった)であったが、自由の身になったので今のマルセイユは、道中の通過都市にすぎなかった。
 所で、マルセイユは南フランス最大の都市であるのみならず、地中海沿岸でも最大の都市であろう。見るべき名所旧跡もたくさんあるかもしれないが、いずれにせよ嫌な感じがしたマルセイユは、通過するのに未練は無かった。感じの悪い街だし、歩いて郊外へ出るのも面倒だから、Nice(ニース)まで列車で行く事にした。大事な所持金の内から7フラン(約490円)使ってしまった。
 この区間の列車の旅は、久しぶりであった。いつこの区間に乗ったのであろうか。日記を見て調べたら、8月8日のフランスのセルベールからマルセイユ経由イタリアのサヴォーナへ行く時に乗ったのだ。鈴木そしてリターと別れ、1人旅の寂しさや不安を感じながらの旅であったのだ。今でも一人旅の寂しさ不安があるが、近頃は旅慣れして来たので、その感じ方が大分、少なくなっていた。
前の事を思い出しながら乗っていたら、ニースに午後8時頃着いた。駅前にいる人達にユースへ行く道を尋ねていたら、1人の男性が近寄って来て、車でユースまで連れて来てくれた。
ヒッチの旅は、常に人々の善意でなされるも。人の善意が無ければ、ヒッチの旅は出来ない。善意を受けながら、いつまで旅が出来るのであろうか。善意を受けるのではなく、善意を与えうる人間に成らなければいけないのであろう。その様な人になるには、もう少し先になるであろう。
 ユースは、ニース郊外の高台にあった。ここから町の夜景が綺麗であった。そして更にその向こうは、どす黒く見える地中海と点々と漁火が見えるだけであった。
このユースで2人の日本人と出逢った。1人はパリ、リオンのユースで会った日高君、もう1人は藤森康雄さん(以後敬称省略、東京都墨田区出身)、私と同じ位の年齢であった。その藤森から始めて貴重な中近東の情報を得た。例えどんな情報でも、私にとって大変有り難かった。彼は大学生でタイ語が話せて、タイからインド、中近東経由でこちらに来たとの事でした。


手が冷たい、手袋が欲しいョ~フランスのヒッチの旅

2021-11-15 21:12:29 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
昭和43年11月16日(土)曇り後雪(バランスのヒッピーとダンスをする)
 昨日と同様、今日も日高と共にバスに乗り郊外に出た。バスの中に、ユースで会ったヒッチ ハイカー達も乗っていた。余談であるが11月22日、その内のカナダ人男女2人と再びヴェネチアの郊外へ出るバスの中で出会っている。所で、リオンのバス運賃は距離制でなく、〝時間制〟(乗車時間で運賃が高くなったり安くなったりするする仕組み)であった。
 今日は又一段と寒さを感じた。今にも氷雨か雪が降りそうな、そんな空模様であった。1台目、2台目と乗り継いで行ったが、とうとう雪が降り出して来た。土曜日と悪天候でヒッチ率は悪く、道路端に立っていると、とても辛かった。叉、いつもの様に昼抜きで腹が減り、加えて手袋が無いので手が冷たく、寒さが一段と身に沁みた。それでもロンドンで買ったジャンパーがとても威力を発揮して、買って本当に良かったとつくづく感じた。傘やレインコートは無く、ウェールズのダディから貰った古コートが雨雪を凌いだ。
 雪が降り続く中、やっとの思いで3台目をゲットして、Valence(バランス)と言う町に辿り着いた。リオンから110キロぐらい南下した小都市であった。雪は相変わらず降り続いて、一面の銀世界になっていた。
 既に午後の4時になっていた。しかも雪が降っているので無理なヒッチの旅は、控える事にした。今日、9時頃からヒッチを始めて7時間経過したが、進んだ距離は、たった110キロ程度であった。この先のユースは、Avignon(アビニョン)と言う町にあり、そこまで100キロ以上あるので、後2・3時間で辿り着ける保証は無かった。そんな訳で移動距離に不満であったが、今夜はこの町のユースに泊まる事にした。
 街の中を歩いていると、向こうからヒッピーの男性2人がやって来たが、近寄って見ると一人は女性であった。私は2人を地元の人だと思い、彼等にユースの場所を尋ねた。するとその男性は、
「6時頃、ユースはオープンするので、その時間まで我々とダンスしに行こう」と誘ってくれた。特にする事も無いし、折角地元の若者に誘われたので親しくなりたいと思い、彼等の後に付いて行った。もう1人の女性も感じが良かったので、〝安心感〟(本当は内心、変な所へ連れて行かれ、金品を巻き上げられるのでは、とチョッピリ不安感があったのも事実であった)があった。
 彼等と逢った場所から歩いて5~6分、裏通りのある簡易建物の2階へ上って行った。物置の様な感じの部屋には、天井中央から薄暗い裸電球が1個ぶら下がっているだけであった。暗く、周りの状況が良く分らず、一瞬、『変な所へ来てしまった』と後悔の念が過ぎった。しかし次第に目が慣れて来ると周りの状況が分り、そこには25人程のヒッピー達が集まっていた。私を案内した彼は、主要メンバーの何人かを紹介した。彼等は皆、私を快く迎えてくれて、一安心したのであった。
 お互いに余り言葉が通じず、心(気持)が意思疎通となった。今日はヒッピー達のモンキー ダンスの集まりの日であったであろう。私も少し長めの頭髪をしていたので、ヒッピー仲間の様に親しさを感じて私を誘ってくれたのであろう。私は水替わりに持参していた2フランの安いワインを彼等に差し出すと、皆は喜んで回し飲みをした。ワインなんてフランスでは、飽き飽きしていると思うのに、しかも一番安物であるにも拘わらず、「メルシー、メルシー」と皆に言われてしまった。私は返って恐縮してしまった。  
 エレキギターが弾ける何人かで編成され、音の大きなビートに合わせて皆、一斉に踊り出した。私も彼等に混じって踊った。暗い板の間の部屋で一斉に踊っているので、大分、埃がたっているのであろうか、喉がいがらっぽくなってしまった。
 フランス人ヒッピー達と共にモンキー・ダンスを踊り、楽しい時間を過ごした。だが、そろそろ時間になったので、再び連れて来てくれたあの男女2人が、ユースまで私を案内してくれたので、無事に泊まる事が出来た。
 フランス滞在中、若いフランス人と付き合ったのは、数回で珍しいのであった。とにかくフランス人は、取っ付き悪いイメージがあったのが、一変に帳消しになったほどで、快い感じがした。彼等と共に踊った一時は、忘れ難い旅の良い思いでとして心に残るであろう。
 ユースは、暖房設備が無い広い部屋に私1人、雪はまだ深々と降っていて、寒さが一段と堪えた。遅くなってから“Tommy”(トミー)と言うイギリス人が入って来て、何か一安心した様な心境であった。
 今日のヒッチは、100キロチョットしか進まず。シンガポールまでは、遥か遠いのであった。

一気にリオンへ~フランスのヒッチの旅

2021-11-15 07:58:01 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月15日(金)曇りのち雨(最長距離ヒッチと日高君)
 同じマルセイユ方面へヒッチする日高と共にバスに乗り、パリの郊外に出た。あちこちの道路上の水溜りは、氷が張っていた。今日は一段と寒かった。
 郊外の街道に出たら直ぐ、彼は車をゲットして去って行った。私も今日は早めにヒッチが出来て、パリを去った。
 2台目の車は、長く乗る事が出来た。フランスの家並みや田園風景を眺めながら、そして野を越え、山を越えて車は走った。
Lyon(リオン)に入る前の山岳地帯から雨が降り出し、薄暗くなって来た。雨の降りしきる山中でも何組かのヒッチ ハイカーがこの車に対して合図を送っていた。しかしこの中年男性ドライバーは彼等を無視して、幾つかの山を越え、峠を下り、リオンへひた走った。この車に400キロ位、乗ったであろうか、今日は本当にラッキーであった。彼はリオン駅前で降ろしてくれて、ユースへ行くバスを教えてくれて去っていった。
 私は2回バスを乗り換えた。私が市民にユースへ行く道を聞いても言葉が通じないので、苦労しながら捜し求めた。午後8時近くになっても、あちらへ行ってウロウロ、こちらに来てウロウロしていると車が走り寄り、「何処へ行くのか」と聞かれた。「ユースを探している」と答えると、彼は親切にユースまで連れて来てくれた。「有難う御座いました」と彼に感謝した。
 今朝、共にバスに乗り、パリの郊外へ出たあの日高(歳は私と同じ位)が先にユースに着いていた。彼は大分、外国慣れした人であると感じた。
 リオンは、パリ、マルセイユに次いでフランス第3位の都会。ローマ時代から既にこの地域に於ける政治・宗教の中心地になっていたらしく、それらの遺跡や大寺院が点在しているとの事だ。又、近年、商業・工業地帯の中核をなしていると聞いている。そんな理由なのか、リオンに入るや工業地帯である事が直ぐ分った。
何れにしてもリオンに折角立ち寄ったのに、それらを観光しないで去るのは、本当に残念であるが、余り道中、立ち寄ってばかりいられない状況であった。


晩秋のパリの様子~フランスのヒッチの旅

2021-11-14 07:58:58 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月14日(木)晴れ(3度目のパリ)
 1度目、そして2度目に訪れた時は夏で、パリは観光客で賑わっていた。今は落ち着きを取り戻した様であるが、晩秋のパリはなんとなく寂しい感じがした。落ち葉が舞い、行き交う人々はコートの襟を立て、足早に歩いていた。そして通りにあるカフェ店のテーブルも寒い為か、あれ程賑わっていたお客も今は居らず、閑散としていた。
 ユースで知り合った日高修吾さん(以後、敬称省略。大阪府豊中市出身)と共にそんなパリの街へ散策に出掛けた。名残尽きないパリを明日、旅立つ。花の都・パリの印象を心に秘めて・・・。

ホモの車に乗ったアメリカ人~フランスのヒッチの旅

2021-11-13 13:57:45 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月13日(水)晴れ(最初で最後の若い女性の車をヒッチ)
 ロンドンに滞在していた時は、毎日曇りか小雨の日が続いて、部屋にいると居たたまれない気分であったが、フランスに渡ってから3日間連続して晴れの日が続いていた。天気が良いと、それだけで気分も晴れた。そう言う意味で人間の心は、天候でも左右され・昭和43年11月13日(水)晴れ(最初で最後の若い女性の車をヒッチ)るのか、ましてヒッチの旅には有り難い。
 今日も昨日に続いてヒッチの旅が続いた。1台目、2台目、3台目と乗り継ぎパリへと向かった。しかし乗車区間が余りにも短かったので、パリへ近づいていない様な感じであった。車に乗っている時は良いのだが、降ろされて道路に立っている時は、とても寒く、辛かった。イギリスに滞在していた時は、寒い日もあったが、こんなに寒くなかった。ここ3・4日で気温が急に変化したのであろうか。それともフランスへ入って大陸性気候になった為なのか。顔が冷たく、手がかじかむ、手袋が欲しかった。
 4台目は、かなりの長い間(約1時間)、道路端に立たざるを得なかったが、寒さの中を辛抱した甲斐があって、若いフランス女性に乗せて貰った。幸運な事にこの車で160キロ、一気にパリまで行った。
この様な車に乗せて貰うと、ヒッチの旅も最高な気分に変わった。彼女は英語が話せず、私はフランス語が全く話せないので、2時間以上同じ車内に居ても、まるっきり会話が無かった。
 途中2回、警察の検問に引っ掛かった。交通取締ではない感じであった。何か重大な事件が発生し、その為の検問の様な感じがした。
 私を乗せた彼女の年齢は、同じ位か年下と推測した。感じはとても良く、フランス女性そのままの雰囲気があった。途中、人気の無い寂しい所で休んだ時があった。ヒッチ ハイカーが私みたいな純情・純粋な男で、彼女は幸運であったのだ。もし卑屈な男であったら、彼女は犯されても仕方ない様な無防備の状態であったのだ。犯罪的行為をしてはいけないのは勿論であるが、乗せる方も、そして特に乗せて貰う方もお互いマナーだけは守って、楽しい旅でありたいものだ。
パリに近づくにつれて、多くのヒッチ ハイカーを見掛けた。彼女は彼等に目をやらず、パリへと車を走らせた。
 パリのほぼ中心に着いて彼女と別れる時、お礼に日本の絵葉書を数枚差し上げた。 お世話になった人(ヒッチで長く乗せてくれた人)に御礼として絵葉書を上げたいので、私はロンドン滞在中、妹から取り寄せておいたのだ。私が日本から持って来た絵葉書は、既に使い果たし無くなっていた。何故その様な事をするのかと言いますと、長距離乗せて貰い、お世話になって「ハイ、さようなら」では余りにも義理が立たないではないか。日本人の心情を良くしておくのも、我々若い旅人の勤めでもあるし又、絵葉書を贈る事によって日本観光の宣伝にもなるのではないか、と思うからであった。又、私の様な心掛けの人が何千何万と後に続いてくれれば、それは、日本とその国の平和交流、国際親善の一環に役立つ、と信じるのであった。
 パリのユースに泊まったら、ドーバーのユースで会ったアメリカ人の旅人と又、会った。我々は再会を喜び合い握手をした。彼は、「カレーの郊外で私が乗っていた事を覚えているだろう。あのフランス人のドライバーはホモで、危うく犯されそうになったが、君は乗らなくって良かったな」と言った。乗らなくってではない、乗せて貰えなかったのである。しかし彼には失礼だが、犯されそうになったとは、可笑しくて仕方なかった。
 今回でパリは、3回目の訪問になった。夕食後、前にパリ滞在中に部屋を提供してくれたマサオの所へ行って見る事にした。私がロンドンに居る時、彼は手紙を書いてくれる事になっていたが、とうとう1通も届かなかった。でも彼はまだ元気で居るかもしれないと思い、再会を楽しみにしていた。 
一方、彼と別れる時(8月24日)、「僕はもう少し経ったらパリを去り、スペインのある島へ行きます」と言っていたので、若しかしたら既に彼は居ないのでは、と危惧していた。懐かしい階段を上って行った。部屋は鍵が掛けられ、マサオは既に住んでいる様子はなかった。管理人のおばさんや隣部屋の人の話では、「10月中旬頃、彼はここを出て行った。行き先は分らない」との事であった。マサオは、スペインの『楽しい島』へ流れて行ったのであろう。私は彼がそこで元気で居る事を望むだけであった。


ジャガイモ畑の中で立ち尽くす~フランスのヒッチの旅

2021-11-12 09:02:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月12日(火)晴れ(ヒッチの効率の悪さ)
 イギリス人の彼と共にユースを去り、ヒッチし易いブローニュの郊外の街道に出て、そこで左右に別れた。
 1台目は、1時間半ぐらいしてやっと釣り上げた。2台目はゲットしても直ぐ逃げられてしまった。
この地方は、昼から2時か3時頃まで店を閉じてしまうので、昼食用のパンも買えなかった。今日も腹を空かせてのヒッチの旅。3台目でブローニュから37キロ位パリ寄りのMontreuil(モントルーユ)と言う町に辿り着いた。 
 リックを背負いバッグを片手に持ち、見知らぬ街をトボトボ歩いて郊外に出て、再びヒッチ合図をした。4台目は7キロほど行って直ぐ降ろされた。乗せてくれた車は畑の中に消えて行った。降ろされた場所は何も無い、両側にジャガイモ畑の地平線が見渡す限り広がる畑のど真ん中であった。『フランスの畑は、雄大だなあ』と感心するが、そんな余裕気分は直ぐ吹き飛んだ。
 私1人、何も無い道路端で午後の2時から5時頃までの3時間、立ち尽くした。車は通らず、忘れた頃時折、車が遣って来ても止まってくれず、素通りして行った。パリへの道程は遠かった。辺りは薄暗くなり、不安が過(よ)ぎった。もし止まってくれる車が無ければ、見渡す限りのジャガイモ畑の何処で寝ろと言うのだ。道路端の1か所に留まっていると寂しさと不安で堪らなくなり、歩きだした。しかし地平線の長い道程を人間が歩いて行っても距離的な事を考えたら、たかが知れている。今夜中に何処かの町へ辿り着ける保証は無かった。ただ、不安を紛らわす為に歩いているに過ぎなかった。その事は良く分って承知して歩いているのであった。1時間ほど歩いたであろうか、時刻は既に6時過ぎになり、辺りは真っ暗になってしまった。。
 ここから次のユースまで130キロはある。もう今日は無理であろうから、近くの農家の家に泊めて貰おうかと何度も思った。思っただけで1時間歩いたが、農家らしき家は、一軒も見当たらなかった。
パリまでは、あと250~300キロ先であろう。既に2日費やしてカレーから60数キロ、1日30キロそこそこしか進まないのでは、どうしょうもなかった。フランスでこんなにもヒッチ率が悪く、精神的肉体的に苦労するのでは、シンガポールまでの道程は、余りにも遠かった。そしてその道程に対して私は、『金銭的、肉体的、精神的に持つであろうか』、と言う不安や心配がいつも付き纏っていた。真っ暗になった旅は寂しさ、そして怖さもあった。迷った揚句、今来た道をモントルーユの町まで戻った方が一番良い方法なのだ、と判断した。
 決断した途端、今までと違う反対方向から車が来た。私は暗闇の中を必死にヒッチ合図をした。そうしたら運良く、車は停まってくれた。そしてそのドライバーの好意で、ユースまで連れて行って貰った。
 先程まで寝る場所も決まらず心配であったが、今夜もベッドに寝られて、取り敢えず安心した。幸運と言っていいでしょう。私にはまだツキは落ちていないようだ。 
 ホステラーは私1人であった。広い部屋に1人で寝るのも初めてであり、淋しい気がした。

腹ペコのイギリス人と出会う~フランスのヒッチの旅

2021-11-11 06:16:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月11日(月)晴れ(イギリスとフランスの天候の違い) 
 イギリスのドーバーから船で、フランスのカレーへ渡った。4度目の船旅、そしてとうとうイギリスを離れたのであった。
 11時頃出航、私はデッキでイギリス本土が見えなくなるまで眺めていた。イギリスは厚い雲で全土が覆われていて、暗く寂しい国の様な感じであった。この天候の様に私のロンドン生活も同じであった。生活も天候に左右されるものであろうか。それでも過ぎ去ってしまえば、数多い楽しい思い出を残してイギリスを去るのは、感無量であった。胸が張り裂ける思いで、いつまでもイギリス本土の方に目をやっていた。
 イギリスとフランスを結ぶこの航路(この区間)は最も短く、2~3時間の乗船であった。
フランスに近づくにつれて、天候は晴れて来た。それは全く対照的な天候で、空が突き抜けるように晴れ渡っていた。ドーバー海峡1つ隔てて、こんなにも天気が違うものなのか。何はともあれ旅の気分は天気しだい、晴れている事は有り難かった。
 乗船中に出入国の手続きを済ませ、私はカレーで下船した。多くの乗船客は、カレー駅からそのまま列車でパリへ行くのであった。
私はカレーの街をパリ方面の街道へ行く為、アメリカ娘3人と共に歩いた。街道に着いて、4人でヒッチした。直ぐに停まってくれたが、私だけ乗せて貰えなかった。女性のヒッチ率は、良いのだ。私もドライバーであったら、どちらかと言えば女性の方を乗せるでしょう。仕方ない事であった。
暫らくの間、そこの場所に立たざるをえなかった。その間、ドーバーのユースで会った旅人を乗せた車が一瞬停まったが、乗せて貰えず行ってしまった。その旅人は「悪いな」と言った様な合図を残して去って行った。2日後、パリのユースで再びそのアメリカ人の旅人と再会した。その彼は「ドライバーはホモで、危うく犯されそうになり、散々な目に遭った」と、あの後の事をこの様に語っていた。
確かに、乗せてくれる人も色々な人がいると思う。時には女性なら乗ったら強姦されたり、脅迫され金銭を巻き上げられたり、先程の話の様にホモに遭ったり、『ヒッチは、決して安全・快適な旅の手段ではない』と私は認識していた。
 そう言えば、ウィーンで照井さんと再会した時に彼は、「我々のグループのOさんと言う彼女にある所で再会したが、彼女は何回も姦淫されている感じであった」と言っていた言葉が思い出され る。やばい感じを経験した事があるから容易に想像出来た。
しかし、怖れていたら何にも出来ない。ヒッチは、私にとってなくてはならない手段だから、危険だからと言って止めよう、との考えは全く無かった。 
フランスの車は道路の右側を走る規則になっていて、日本やイギリスと反対であった。ヒッチする場合は当然、道路の右側に立つ事になる。カレーの郊外に来て大分時間が経つが、乗せてくれる車は無かった。車が余り走ってないので当然であった。この場所は、家が数件並んで見えるだけで、周りは一面の畑が点在していた。その様な所で、私はヒッチ合図を送りながら車が停まってくれるのを待った。
そうしたらやっと1台目の車が停まってくれた。後ろの席にドーバーのユースで会ったアメリカ人2人が乗っていた。 カレーから40キロ程来たBoulogne(ブローニュ)の町まで乗せて貰った。私はこの町にユースホステル(以後、「ユース」と言う)があるし、間もなく夕暮れになるので、無理をしないでここで泊まる事にした。アメリカ人2人は先まで行くらしく、降りなかった。
ユース利用者は、私とイギリス人男性の2人だけであった。彼はスペインからヒッチして帰る途中であった。その彼が「ドーバーを渡る船賃しか持っていないので、腹が減っても今日、何も食べてない」と言った。同じ旅人同士、ロンドンで買った香港製の中華ラーメンを2人分作り、半分彼に分けて上げた。このラーメンは、日本の即席ラーメンでないので余り美味しくなかった。でも、昨日と今日、私は昼抜きで腹が減っていたのでまあまあであった。腹が空いて何も食べていない彼にとっては旨かったであろう。
彼は何も上げる物が無いが御礼にと言って、フランスの道路地図を私にくれた。彼は、義理堅い、そして礼儀を知っている人だと感じた。
 食後、ペアレント(管理人夫婦)と4人でピンポンをして、楽しい一夜を過ごした。


これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話

2021-11-10 10:34:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話
 今、私が持っている旅費はトラベラーズチェックで230ドル(1ドル360円。外貨持出し最高額500ドルの内、ソ連の旅行代金は70ドル建てで、既に200ドル使った)、イギリスのお金10ポンドと少々の小銭、それに15万円相当のM&M乗船券引換券(これはエール フランスの航空券も買える便利な券)でした。私はこのM&M乗船券の書替え手続きの為、ロンドンに滞在しなければならなかった。それに滞在したお陰で内側からイギリスの情勢やロンドンについて知る事が出来、更に色々な体験する事が出来ました。
しかし、レストランの皿洗いの仕事は生活するのにやっとで、今後の旅費の足しには、全くならなかった。金銭的な事だけを考えたら、手持金を余り減らさずに滞在する事が出来た、と言うだけであった。
 今後の旅の事を考えると、これだけの旅費では、心細かった。しかし15万円相当の乗船券があるだけで、『何か最悪の状態になった場合、日本までこれに多少のお金を足せば帰れる』と言う保証が有り、多少の安心感があった。
 「シンガポールまで陸続きで行く」と言ってもビルマは、渡航が禁止されて入国出来ないし、東パキスタンの道路は全く不明・不備の状態であるらしく、陸路で行くのは困難な状態が予想された。又、国によって政情不安や、自分の気まぐれによりどんなコースを取ったら良いのか、全く分らなかった。
2週間ほど前に受け取った妹の手紙と共に、鶴村さんの手紙が同封されていた。鶴村さんはヘルシンキからストックホルムまで照井さん、鈴木さんと共に行動を共にした4人仲間であった。その彼からの手紙によると、「ストックホルムで我々と別れた後、弟さんと車でヨーロッパ旅行をしてからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンを列車・バスを使ってインドのニュー デリーから飛行機で帰国した」との事でした。そして、彼からの助言・忠告として、「イスラムの国とインドは分けの分らない、信用出来ない人達が多く、死に物狂いの旅であった。中近東、インドへは行かない方が良い」と書いてあった。
しかし、英語も全く知らないおじさんが、その経路を通ってニュー デリーへ行けたのだから、私だって出来ない事はない、と確信した。又、「行かない方が良い」と言われれば、どんな所であるのか、余計に好奇心が沸くのを感じ得なかった。
 今の時点(1968年11月11日現在)、シンガポールまでのルート、行く方法等について私は全く分らなかった。後日、何処で逢ったか忘れてしまったが、複数の旅人(アメリカ人かカナダ人か、或は日本人か定かではない)から、イスタンブールからシンガポールへ行く幾つかのルート、方法の情報を得た。纏めて見て以下のルートが最も良かった。
イスタンブール→汽車3等62リラ(2,480円)→エルズルム→バス25リラ(1,000円)→バザーゲン(イラン国境)→バス320リアル(1,536円)→テヘラン→バス200リアル(960円)→メシェッド→150リアル又は100アフガニ(720円から800円位)→ヘラート→バス240アフガニ(1,920円)→カブール→バス165アフガニ又は15ルピー(1,140円、7ルピーは通行税)→ペシャーワル→汽車16ルピー(1,216円)→ラホール→タクシー又バス5ルピー(380円)→国境→力車5ルピー(240円)→バス発車所→バス4ルピー(192円)→アムリツァール→力車・輪タク2ルピー(96円)→アムリツァール駅→汽車2等25ルピー寝台料金6.5ルピー(合計1,600円)→ニューデリー→汽車2等40時間95ルピー寝台料金12ルピー(合計5,350円)→マドラス→船(デッキクラス22ドル・3等34ドル月2度出航)→ペナン島→汽車3等20マレーシアドル(2,400円)→クワラルンプール→汽車3等132マレーシア・ドル(1,560円)→シンガポール
 尚、この情報と併せて中近東やインドは、道路も整備されておらず、自動車の通行量は殆んど無い状態との事であった。従って、ヒッチは出来ないからバスや列車を利用した方がより効率的で、しかも金銭的に返って安くつくとの事であった。
これによると、乗り物料金は約98ドル(約35,000円)、ロンドン~アテネ間約1ヶ月掛かるとして最低1日3ドル要するとして旅費は約90ドル(32,400円)、アテネ~シンガポール間2ヵ月間、最低1日1.5ドル要するとして約90ドル(32,400円)、合計278ドル(100,080円)。ロンドン~シンガポール間は食事代、乗り物代、ユース ホステル、或は安いホテルを利用して、最低限の概算で280ドルから300ドルは必要なのだ。しかし手持金は230ドルと数ポンドしか持ってないので、50~70ドル程不足であった。
『陸続きで行って見たい』と言う想いだけで、金銭的に厳しい旅になる事は予想出来たが、ロンドンを去る時点で、この様なハッキリとした数字的裏付けは全く無く、常にお金に対する心配や心細さが付き纏っていた。
 ヨーロッパ、特に北欧やロンドン、パリ等大都市のユースに於いては、旅に必要な情報交換が全く無かった。その反面、非西洋諸国のユースや安ホテルでは、旅人同士が密接にルート、乗り物、宿泊所等についての情報交換がなされていた。
例えば、ニューデリーで旅人が集まる場所で、シンガポールから来た者がテヘランへ行く場合は、テヘランから来た旅人からテヘラン~ニューデリー間のルート、安い宿泊所、交通等の情報を得て、その逆にその人がシンガポール~ニューデリー間の情報を教えてやる、と言った情報交換をしていました。
又、アメリカ人やカナダ人は、『1日5ドル世界の旅』とか『1日10ドルで経済的なヨーロッパ旅行』と言った本を片手に旅をしている者が多かった。その本には世界各国の最も安く行くルート、方法、宿泊所、観光、レストラン、買物等が集約され、彼等の旅の手助けになっていた。
私も外国へ行く前に本屋を見て回ったが、主にヨーロッパや北アメリカの物ばかりで、アフリカ、中近東、インド周辺、東南アジア、特に地方の情報が掲載されている本は無いに等しかった。情報があったとしても険約旅行を求める旅人に参考になる本は無かった。欧米の他に線で結ぶ旅をした者がいない様であり、それらの本は出版されてなかった。アメリカやカナダでは、それらの本が若者の間でポピュラーになり、彼等は世界を線で結んでいたのでした。
 イスタンブールからシンガポール間を陸続きで旅をすれば、私も先駆者の1人として仲間に入れるであろう。そんな意味で鶴村さんも先駆者の1人になったのだと思う。
所で、鶴村さんの「死に物狂い」とはどの様な事か、ある程度想像が出来た。私もそのルートを旅して見たかったので、彼に先を越された様な感じがした。私は高校時代からユーラシア大陸に憧れ、何度も世界地図を広げて見ていた。特にイスラム諸国特有の文化、何処までも続く砂漠、そして昔栄えたシルク ロード、或いは中学の時に見た映画「砂漠は生きている」の場面を一目でよいから垣間見たいと思っていた。
そんな訳で、中共(現中国。当時「中国」と言えば国連から承認された中華民国であり、台湾政府の事を示す。現中国は承認されてなく、大陸の事を「中共」と言っていた。渡航制限の処置が取られていた)へは行けないが、せめてシンガポールからヨーロッパへ列車、バス、徒歩等で横断したいと思っていた。その中間にある中近東諸国は、イスラムの教えに従って生活しているらしく、そう言う中のシルク ロードの旅は、考えただけで何かゾクゾクするものを感じた。このルートは、世界でいろんな意味で一番変化に富み、旅を志す者にとって先ず目に付く地域であろう。