YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ウェールズの旅~素朴なウェールズの人々との出逢い

2021-09-06 08:37:02 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△南ウェールズの山並みと谷間の町並み(PFN)

・昭和43年9月6日(金)晴れ(素朴なウェールズの人々との出逢い)
 久し振りに朝から晴れていた。今の時季のウェールズは一年で一番天候が悪いそうで、3日に2日は雨が降ると言う。良い天気が続く時期は、5月と6月であると言う。
 7時30分頃起きて、朝食を多めに取った。多少の雨が降っても濡れないようにジャンパーとコートをダディから借り、家を出た。                   
最初日本にいた時の私の旅の目的は①列車でヨーロッパ旅行する事。②シーラに会う事。そして③ウェールズのシーラの家に滞在する事で、これらはほぼ目的が達成した。今度のヒッチ旅の目的は今後、私は如何なる行動、目的を取るべきか、ヒッチしながら考え、決断する為であった。
それと付帯的な次のような理由もあった。
  • コロブレンだけではなく、ウェールズをもう少し肌で感じてみたい為。
  • 妹、友達から手紙が来る事になっているので、それを受け取らなければならない為。
  • マミが1日中、忙しく働き回っているのに、ダディと私が一日中家の中でブラブラしているのは、どうも気が引けてしまう為。
 私は取り敢えずこれと言った行き先を決めず、ウェールズを行き当たりばったり廻って見る事にした。そしてノースウェールズのMt.Snowdon(イギリスで一番高い山。1085mの『スノードン山』)の麓まで、山へ登れる条件であったら登る、と言う事で出発した。
 それにしても今日は、天気が良かった。自然と心も弾んだ。コロブレンの小道を私は、歌を歌いながら街道に出る方向に歩いた。すると直ぐに向こうから     
 1台目がやって来て私の傍に停まり、「何処まで行くの?」と言ってくれた。スノードンは、北ウェールズの北辺に位置するConway(コンウェイ)の近く、この車の方向と違うので主要道路まで乗せて貰った。この道路は、余り車が走っていなかった。道路端に座って本でも読みながら気楽に待った。
 10分位したら2台目が停まってくれたが、直ぐに降ろされてしまった。
 3台目の車は、羊の売買をしていると言う若いバイヤーであった。彼は何回も「今日は良い天気だ」と言って運転を続けた。お陰様で私はウェールズ特有のなだらかな、そして絵になる様な美しい小高い山並みと広がる準平原、そして所々に羊が放牧されている景色を楽しみながら同乗させて貰った。「本当に今日は、旅に出て良かった」とつくづく感じた。
 4台目は、若い男性が乗ったスポーツカーであった。
 5台目は、何の商売をしているか忘れてしまったが、このおじさんに2時間ぐらい乗せて貰った。昼食時に山の中腹に車を駐車させ、景色を眺めながらおじさんから提供された食事や一服は、本当に美味しかった。今回の旅でしか味わえない体験でもあった。又、おじさんからアイルランドの銀貨(2シリング)を貰ったりして、本当に親切にしてもらいました。
 6台目は、若い人が運転する車であったが、短距離であった。彼は、町の中だとヒッチ率は悪いと言って、わざわざ街外れまで私を乗せてくれた。 
 7台目は、おじさん、これも短い距離であった。車を降りた所にストアがあったので何か食べ物でも買いに行ったら、東洋人が珍しいのか5人程の子供達が集まって来て、ギョロギョロと私の行動を見ていた。
 8台目は、中々停まってくれなかった。前半はヒッチ率が良かったが、後半は悪かった。今日の宿泊は、Corwen(コーウェン)のユースにする事にした。8台目をやっと乗せて貰う事が出来た。今日、乗った車の中で一番格好が良い車であった。しかしこの紳士は、愛想の方は一番悪かった。しかし私が、「コーウェンのユースに泊まる」と言ったら、わざわざ人に何回も聞いたりしてくれて、ユースを捜し廻ってくれた。
 ウェールズの見知らぬ色々な人々にお世話になりながら、そしてウェールズの景色を楽しみながらスノードンまで後3分の2、コーウェンまで遣って来た。
 田舎のユースにしては食事なしの一泊6シリング(300円)、高いと思った。

シーラの実家にて~シーラが居なくなって

2021-09-03 08:47:49 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
・昭和43年9月3日(火)曇り~5日(木)曇り(シーラが居なくなって)
 ここ3日間の天気は、曇りで風の強い日もあったし、少し雨が降った日もあった。こちらに来て早1週間経つが、晴れた日は1日だけで、毎日どんよりした日の方が多かった。天候の影響とシーラが居なくなり、余計に寂しさが感じられた。それにダディやマミとは余り話が通じず、ケネスは学校で、平日の日中は居なかった。田舎だから何処も観光や散策する所も無く、私は家族や先輩の岡田さんや友達の中野や横沢へ手紙を書く以外、する事が無かった。そんな事で5日(木)は、午後1時まで寝ていた。
 2週間滞在予定で、1週間が過ぎた。後1週間、こんな状態ではいけないので明日、ヒッチハイクでウェールズの旅に出掛ける事にした。                          
手紙と言えば、日本からイギリスへ出す場合は、航空便で115円したが、イギリスから日本へ出す場合は随分割安で1s4d(1シリング4ペンス~65円)であった。
 ウェールズに来た途端、私の腹痛は治って、腹の調子は正常になった。あの腹痛はいったい何であったのか。具体的な原因は、分らなかった。

シーラの実家にて~モーガン家の食事の話

2021-09-02 16:22:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
・モーガン家の食事の話 

 モーガン家の朝食、昼食、ハイ・ティー、そして夕食の時に出される基本的な食べ物は、スィンプルであった。テーブルの中央の器の中にキュウリ、小さな一口サイズのトマト、パン、バター、チーズ、それと紅茶であった。その他に朝食時はベーコンエッグ(卵は目玉焼き)が、昼食時は日によってポークやチキン、或はビーフ料理が、ハイティー時は蒸かしたジャガイモやマミの手作りのケーキがそれぞれ出された。従って、モーガン家では昼食がデナー(その日の一番重たい食事)であった。
 High Tea(ハイティー)とは、昼食と夕食時の間に食事をするティータイム(午後のお茶の時間)の事です。モーガン家の様にイギリスでは、ハイティーの時、食事を取る家庭が一般的の様で、家によっては時間をずらして夕食の代わりにするそうです。モーガン家のハイティーは、4時半から5時頃の間に取っていた。従ってお茶の時間だか、夕食だか曖昧な食事(シーラは夕食と言っていた)であった。叉夜の10時前後に夕食(夜食)を食べていた。
 マミはいつも忙しいが、基本的な食べ物を用意するだけで、料理に時間が掛からなかった。昼食以外に毎食出されるキュウリ、トマト等では、我々日本人にとっては味気なく、栄養面に於いても如何なものか、疑問が残った。シーラに後で聞いたのであるが、「ウェールズでは貧富によって多少違うが、基本的には、大なり小なり実家の様な感じである」と言っていた。
 世界には色々な料理がある。ロシア料理、フランス料理、スペイン料理、イタリア料理、中華料理、日本料理等。しかし『イギリス料理』と言う言葉を1度も聞いた事がない。実際は無いのだ。強いてあげれば、ベーコンやスモッグサーモンそしてフィッシュアンドチップス料理なのだ。
 結論だが、モーガン家、私の実家、或いは寮の食堂も食している物は大して変わりなかった。寮の朝食はご飯、噌汁、お新香、日替わりで納豆か焼き海苔か生卵、小さい頃の実家は麦ご飯でこれらも付かなかった。そして夕食はうどん(季節によって、そうめん、煮込みうどん、蕎麦等)だけであった。
モーガン家は、私を家族の一員として飾らずに、普段通りの食事をご馳走してくれたのだ。マミ、どうも有り難う。私は牛乳をたっぷり入れた英国紅茶が好きであった。又、マミの手作りケーキが大変美味しかった。

シーラの実家にて~シーラはロンドンへ

2021-09-02 13:51:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
     △シーラの水着スタイル~南ウェールズのニースの海岸にて

・昭和43年9月2日(月)曇り(シーラはロンドンへ)
 今日はBanks Day(銀行の日)で、イギリス国民の祝日の日であった。
ケネスと例の滝のある川に魚釣りに行った。川は増水し少し濁っていたので、結果は1時間以上して、2人で一匹であった。帰りに滝を見に行って、そこで素晴らしい虹を見る事が出来た。
 今日の午後、彼女はロンドンへ帰る日であった。昼食を済ませ、ゆっくりした後、ダディ、ケネス、そして私の3人でニースの駅まで彼女を見送りに行った。
「Yoshi、好きなだけ滞在して良いのだからね。でも、直ぐに滞在は飽きてしまうかな。コロブレンは何もないし」と彼女。
「シーラに色々な所へ案内して貰ったり又、昨夜はクラブで歌ったり、シーラとダンスしたりして楽しかったよ。有り難う、シーラ」
「ロンドンに戻ったら連絡して下さい」
「そうします。シーラ、身体には注意して、働き過ぎないように」。
「有り難う、Yoshi」
 間もなくして列車は到着し、そして発車して行ってしまった。我々は列車が見えなくなるまでシーラを見送った。急に何だか、寂しさが沸いて来てしまった。
 家に帰ってからも、何かポッカリ穴が開いた様な感じがして、落ち着かなかった。昨夜、私と彼女は歌やダンスをして楽しみ、そしてつい先程まで、私の前に彼女は居たのだ。その彼女が居なくなり、私がここに居るその存在理由が無くなった感じがして来た。彼女の存在は、余りにも大きかった。
 夜、ケネスとトランプをしたが、何か気分が乗らなかった。

シーラの実家にて~マミの話

2021-09-01 11:15:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
・マミの話
 マミは、とても忙しい人でした。彼女は家事をしながら近所のストア(田舎の店なので、切手を含め何でも売っていた)にパートとして働いていた。そんな訳で午前、午後とも何度も家とストアの間を往復していた。
 例えば、朝食の準備、後片付け、部屋の掃除、洗濯等して、それからパート労働に出掛けていた。お昼前に家に戻って昼食の準備と後片付けをし、又出掛けてパート労働。4時半頃戻ってハイ・ティー(説明は『食事の話』の中に記述します)の準備、後片付けをし、又またストアへ出掛けていた。
 マミは更に夜7時30分頃からクラブで給仕係の仕事もしていた。帰りはいつも10時過ぎであった。マミはそれから夕食と夜食を兼ねた様な感じの食事の準備と後片付けをしていた。 
 この様にマミは、本当によく働いていた。否、彼女は過重労働気味で、身体を壊さなければ良いのだが、と私は心配する程であった。これもダディが現失業中(年金暮らし)の所為なのか。
一日中ボケーと過している人(私とダディ)も居れば、マミの様に1日中働き回っている人もいた。モーガン家の人も様々であったが、「マミに幸あれ」と祈らずにはいられなかった。 

シーラのj実家にて~モーガン家の様子の話

2021-09-01 10:58:05 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
・モーガン家の様子の話
 モーガン家は、1階が6畳程の台所、12畳程のリビングルーム兼ダイニングルーム(新しい壁紙で綺麗にしてあった)、そして奥まった所に6畳程の部屋があり、そこにピアノが置いてあった。
2階は、8畳程の寝室が2部屋、6畳程の寝室が1部屋、そしてバスとトイレが一緒になっている間取りになっていた。4LDKタイプで日本平均住宅より広かった。私の部屋として2階の6畳程の部屋を滞在中、使用させて貰った。
 私にとって不便な点が一つあった。それはバス(浴室)とトイレがユニット(2つで1つの空間になっている)になっているので、誰かがバスを使っている時はトイレが使用出来ず、トイレを使用中は、バスに入れなかった。家族同士ならいざ知らず、他人の私が滞在中、彼等にとっても不便であったに違いなかった。
 そんなある日、シーラがバスを使っているのに気付かず、トイレへ行きたくなった私はドアを開けてしまったのだ。「キャー。Yoshi、開けてはダメ」と彼女の絶叫の声と注意が飛んで来た。この時、彼女の身体がチョット見えてしまった。
 イギリス人は、自分の家をカッスル(お城)と言う概念を持っているので、余り他人を家に招かない慣習があるらしい。それだけ他人から交渉をされたくない自己保守性を持っている。従って、家の中へ招く事は、「最大のもてなし」とされ、本当に親しい友人、知人だけが持つ特権と言えそうだ。
 そう言えば「私とYoshiは兄妹だ」と彼女は2・3日前に言っていた。しかし、前後あわせて2週間以上滞在したが、兄弟姉妹と言われても彼等の寝室に1度入った以外(1度入って彼女に注意された)、2度と入った事はなかった。これは最低限、内面的(プライバシー)な部分に干渉をして貰いたくない、見て貰いたくない空間がそこにあった、と言う事であった。日本の家は襖や障子の仕切りになっているので、家の中で自分のテリトリー(自分専用の部屋)、或はプライバシーな空間を持つ事は考えられない事であった。
私が部屋を与えられている間、彼女の家族は決して私の部屋を干渉する事もなく又、1度も部屋に入って来なかった。同じ家の中でもテリトリー(個人の部屋・空間と言う捉え方)が決められているようであった。
そんな事を考えると、ロンドンで一人住まいをしている彼女が自分の部屋に男の私を招いた事は、『最大のもてなし』であり、ただ端に『友達だから』と言う事だけではなく、それを超えた兄妹の様に私を信用していたのであろう。
 私はある程度の欧米の生活習慣を知っているつもりであったが、やはり実際に彼等と生活してみると、色々な点で習慣や文化的相違を感じた。モーガン家は、私を家族の一員として向かい入れてくれましたが、その様な事で習慣や文化的相違があって、私は注意されたり、或はお互いに気まずい思いをしたりした事も事実であった。
 私はそう言った習慣的・文化的ショックを受ける事も、彼女の家を訪問する楽しみの一つであった。

シーラの実家にて~クラブで三池炭鉱節を歌う

2021-09-01 09:21:55 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△スウォンジー渓谷鍾乳洞(PFN)

・昭和43年(1968年)9月1日(日)曇り(クラブで三池炭鉱節を歌う)
 午前中、私は妹の時子、今回の旅行でお世話になった先輩の岡田さん、そして友達へ私が元気にいることを含め、旅の様子やシーラに会った事等について手紙を書いて過した。
又、私がこちらに滞在中、モーガン家宛てに時子、岡田さん、そして友達の中野から手紙が届いた。手紙の内容は、私の行動に対する感想、旅に対する励まし、彼等の状況、及び日本の状況等について書かれていた。日本を出てから2ヶ月近くになり、活字に飢えて来た頃であったので、彼等の手紙を受け取った時は大変嬉しく、そして日本を懐かしく感じた。
午後、シーラ、マミ、ケネスと共に車で20分位行った所のSwansea Valley Caves(スウォンジー渓谷鍾乳洞)へ見に行った。モーガン家から結構近い所に立派な鍾乳洞(ケイブ)があったので驚きであった。
ケイブをゆっくり歩いて約1時間位掛かった。そのケイブの規模、色々な形・色をした大きな鍾乳石群、地底の中の透き通る様な小川があって、それらを大いに楽しんだ。奥多摩の日原鍾乳洞や秩父の鍾乳洞より規模も大きく、見応えもあった。彼女の話しによると、最近(1920年頃)発見されたとの事であるが、立派なケイブにも拘らず観光地化されてない印象だった。
ケイブの中は足元が悪いので、彼女がマミに優しくエスコートしていたのが好印象であった。後で思ったが、男の私がマミにそうしてあげれば良かった、と思った。帰り際にケネスが、「このケイブの小冊子を買って時子へ贈って上げよう」と言ってくれた。ケネス、どうも有り難う。時子も喜ぶと思います。
家に帰ってからハイ・ティーをゆっくり取った後、ケネスを除いて皆でクラブへ行く事になった。最初の日に、「クラブへ行こう」と言ってくれた時、直ぐに日本のクラブの類を思い出し、それに疲れ気味であったので行かなかったのだ。
そのクラブは家から歩いて10分程の所にあり、割かし近かった。クラブは、この付近の人達(コロブレンの老若男女)が一日の仕事の疲れを癒す為の娯楽場、或は社交場として、地域の人々によって運営されていた。
クラブハウスはゆったりと150以上が入れる大きな建物で、100人以上の人達で既に賑わっていた。舞台にはピアノ、アコーデオン、その他打楽器が置いてあり、それらを演奏する演奏者もいた。
又、秩序・進行を役の為に司会者もいた。彼の司会の下にビールを飲みながらお喋りしたり、皆で歌を歌たり、ダンスをしたり、ビンゴーゲームをしたりして、とにかく楽しく一時を過すのが目的の感じであった。
 司会者の進行で、何曲か皆で歌を歌った。中には私の知っている曲もあったが勿論、英語では歌えなかった。
炭鉱で有名なウェールズに来たのであるから、こちらの元、或は現炭鉱夫達に日本の三池炭鉱節を歌って聞かせやろうと思い、ダディを通してその旨を司会者に話してあった。知らない土地で、しかも日本語が使えない上に、大勢の地元の方が注目する舞台で何か話をしてから歌おうと思うと、もう胸がドキドキであった。そのドキドキは、『楽しいドキドキ感』であった。
私がこのクラブへ入った時から、「如何してこんな田舎によそ者、しかも外人が居るのだ」、「何処から来た人なのか」、「如何してこのクラブを知ったのか」、「誰が連れて来たのか」等々の彼等の疑問・関心の為か、既にその視線を受け、私は注目の的になっていた。
 その内に、「ジャパニーズジェントルマン、プリーズ」と司会者が言った。途端、ざわめいていた会場が静寂になった。私は舞台に立ち、皆の注目、視線を一斉に受けながら会場を見回し、そしてシーラの方を見た。彼女は私がこんな行動を取るとは知らなかった。恥ずかしがり屋の彼女が知ったら止めていたでしょう。いずれにしても彼女は、友達である日本人の私が勇敢(?)にもこの様な行動を起こしてしまい、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに、不安そうにして私の成り行きを見守っていた。
「皆さん、こんばんは。私は日本から来ましたYoshiです。皆様とこの様にしてお会い出来た事を嬉しく思います。私はシーラモーガンさんと7年間文通をして、その縁でコロブレンを訪問する機会を得ました。今、私は彼女の家に宿泊して、ウェールズの滞在を楽しんでおります」
「所で、サウスウェールズは炭鉱で有名でしたので、日本の炭鉱節を歌いたいと思います」と私は一気に捲くし立てた。
そして、「月がー♪出た出たー♪月が出たーヨイヨイ♪♪。三池炭鉱の上に出たー♪♪」と歌い出した。そしてこの辺りからアコーデオンの伴奏も入って、二番まで歌い終った。
歌い終わって、人々からの盛大な拍手が起こった。そして司会者から感謝されるやら、ウェールズの滞在を楽しめられるよう希望の言葉を戴いた。舞台から戻ってからも周りの方から、「ヴェリーグッド」と賞賛された。又彼女からも、「ヴェリーナイス」と言って大変喜び、大ジョッキのビールを注文してくれた。
私は舞台に上る前、坂本九のスキヤキソング(上を向いて歩こう)を続けてもう1曲歌おうと思っていた。だが、やはり私は上っていたのか、その事をすっかり忘れ、炭鉱節の1曲だけになってしまった。
 その後、ダンスに移った。ダンスを知らない私は彼女と肩を組んでごまかしながらダンスを楽しんだ。
最後のお楽しみは、ビンゴーゲームであった。私は初めてのゲームで知らなかったが、やり始めたら割かし簡単な遊びであった。司会者が言った数字とカードの数字が縦横斜めに揃えば、「ビンゴー」と言って、司会者から小額な賞金をゲット出来た。皆、このゲームにワィワィガャガャと夢中になっていた。 
最後は、参加者全員が起立して国歌を斉唱して、お開きになった。ここは酒場であり、飲んで歌って、楽しく過す場であるにも拘らず、最後は皆起立して国歌斉唱とは、『随分愛国心があるなぁ』と私はつくづく感心した。因みに日本では相撲の千秋楽以外、国歌斉唱は歌われていないのが現実であった。最後は、『国家、愛国心』について考えさせられる想いであったが、楽しい愉快なクラブであった。
帰って来てから夕食なのか、夜食なのかハッキリしない食事を食べた。

シーラの実家にて~モーガン家の周りの様子

2021-08-31 14:33:06 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△ヘンドリッドの滝(PFN)

・昭和43年8月31日(土)晴れ(モーガン家の周りの様子)  
 今朝、起きて暫らくしても腹痛がなかった。1週間振りに平常状態になった。一時はその痛みで苦しみ悩んだが、治って本当に良かった。そして1週間振りに朝食が取れた。モーガン家の朝食は、目玉焼きにベーコン、キュウリ、トマト、チーズ、バター、そして紅茶で昨夜と同じであった。
 食事の後、シーラの案内でケネスと共に近所へ散策に出掛けた。周りの様子や景色は、昨日書いたので省略します。
家から10分位行った所にHendryd Falls(ヘンドリッドの滝)があるので、そこへ行った。彼女は落差100フィート(30m)あると言ったが、私の見た目では20m(約70フィート)位の落差しか見えなかった。冬には滝が凍って氷柱が出来て、その景観は美しいと言っていた。
滝の裏側を見る事が出来るので、裏側を歩いて向こう岸まで行った。まさに「裏見の滝」であった。規模からすれば、『伊豆の浄連の滝』位で日本では、観光スポットの一つになる様な所であるが、土曜日にも拘らず観光化されていないので、我々3人以外誰もいなかった。彼女は、「昔この辺りでよく遊んだ事があった」と言っていた。滝を見た帰り、柔道場があると言うので立ち寄って見たが、練習時間ではないらしく誰もいなかった。でもこんな小さな村に柔道場があるなんてビックリした。子供を始め稽古する人が何人いるのであろうか。ウェールズの田舎にまであるのだから、柔道は本当に国際化になった、と実感した。
 所で、私はコロブレンを「小さい村」とか、「田舎」と表現しているが、人口が何人いるのか、又、どの位の広さがあるのか分からなかった。ただモーガン家周辺は人家が少ないので「小さい」とか、田舎の様なので、「田舎」と言っているだけで、畑は無く農家も一軒もなかった。            
モーガン家は、コロブレンのBrynawelon(ブリナウィロン)と言う地区なので、その様な幾つかの地区・地域が統合されてコロブレンが形成されているので、人口がかなりあり、広いのかもしれなかった。
話を戻すが、我々3人はその道場から廃止になった線路を歩いて戻って来た。途中、私はその線路の砕石の中から5㎝立法程の化石一つを発見した。ビッグな発見と思い、誇らしげに彼女に見せた。彼女は、「ウェールズは昔、海底に沈んでいたので、この様な化石(彼女は「Shell Stone」と言っていた)は容易に見付けられ、珍しくない」と言って、私をガッカリさせた。『ウェールズのお土産として日本へ持ち帰ろう』と思い、私はその化石を大事にポケットにしまい込んだ。
 この線路は、彼女が学生時代に営業をしていたと言うが、炭鉱の斜陽化、閉山に伴い廃止されたのであろう。鉄道もバス路線もないこの村の足は、車が主体であった。
 家に着くと、モーガン家の愛犬と他の家の犬が取っ組み合いの喧嘩をやり始めた。ケネスは直ぐに分離させ、愛犬を腕に抱えてしまったが、彼女は他の犬に向かって自分のサンダルを投げつけた。その犬に当たったので、「キャンキャンー」と鳴いて逃げ去って行った。
「Do not illtreat dogs, Sheila」(シェイラ、犬を苛めてはダメだよ)
「Oh, sorry. Yoshi」(ごめんなさい)
彼女は、「自分は犬が好きだ」と言っていたが、この光景を見た私は、彼女の犬好きにクエスチョンマークであった。
 午後、「海水浴に行く」と言うので、私はちょっとビックリした。その訳は、朝晩暖炉を燃やしている程に気温は低めなのに、『如何して海水浴なの』と言った感じがあった。ダディは昔炭鉱夫であったので、今でも石炭が無料で配られるそうだ。この地域ではまだ、細々と産出しているのであった。
 ともかく一家皆で自動車に乗って出掛けた。念の為であるが、イギリスは右ハンドル、左側通行で日本と同じであった。
25分程でニースの海岸に到着した。今日は土曜日で晴れている所為か、海水浴客、行楽客が多く来ていた。しかし、海水が冷たいのか泳いでいる人は、殆んどいなかった。彼等の多くは海に入らず裸になって、波打ち際で日光浴をしているだけであった。
 私は、海(ブリストル海峡スウォンジー湾)に入って泳いだが、案の定冷たく、5分と入っていられなかった。直ぐに上り、2度と海に入る気はしなかった。私とケネスは、海を見ながら日光浴していたが、それでも裸で長くいると寒くなって来たので、私は服を着てしまった。
この小さな玉砂利の浜辺近くに、小さめの遊園地があった。ダディ、マミとシーラは、そちらの方へ行って、海水浴は勿論、日光浴もしなかった。
過去、洋画のシーンでセーターやコートを着ているのに、ストーリーの中で海水浴のシーンを見た事が何回かあった。しかしその時は、そのシーンの季節・時期が寒いのか、海に入るほどだから暑いのか理解出来なかった。しかし今日の様な状況だと、日本の海水浴とイメージが全く違う、と言う事が分ったのであった。
 私がウェールズに来て、2日目が過ぎようとしていた。モーガン家の様子も分るようになりつつあった。
 
  △ヘンドリッドの滝(PFN)

シーラの実家にて~シーラの実家へ

2021-08-30 17:03:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△シーラの実家(コロブレン)の絵になる様な牧歌的風景~By M.Yoshida

・昭和43年8月30日(金)曇り(シーラの実家へ)
 今日は、ウェールズのシーラの実家へ行く日であった。「イギリスへ行った際、ウェールズに是非2週間程滞在したい」と前もって彼女の父に手紙を書いたら、歓迎するとの返事があった。彼女が生まれ育った所、ウェールズに大変興味を持って何日か共に暮らして、ウェールズの生活を肌で感じてみたかったのでした。そんな訳で今日、私はわくわくした、そしてチョッピリ不安な気持ちもあった。Pardington(国鉄パディントン駅)に午後2時30分、彼女と待ち合わせをした。
 今朝も食事前、胃が痛かった。胃の具合が治まりユースを去ろうとしたら、ペアレントから芝刈りの仕事を頼まれたが、15分で終わった。ユース利用者は清掃等を頼まれる事があった。   
 朝食を例のカフェ店で取った。ここのお店を何度か利用したが、これが最後になった。
それからパディントン駅のロッカーに荷物を預けて、彼女のお父さんの土産として、日本酒を持って行ってやろうと思った。酒屋を2軒ばかり捜して聞いたが、日本酒は置いてないとの事で、買うのを諦めた。彼女のお父さんは、Ivor Morgan(アイボーモーガン)と言い、彼女はお父さんの事を、「ダディ(お父ちゃん)」と言っているので以後、私も「ダディ」と言う事にした。
 2時30分になるまで食事(7シリング約350円)をしたり、リーダーダイジェストの本を買ったりして時間が来るのを待った。お陰様でこの頃になると、お昼もしっかり食べられるようになって来た。彼女は2時20分に遣って来て、既に私の分の乗車券も買っておいてくれた。Neath(ニース)までの2等往復乗車券は、5ポンド(約5,000円)であった。2時50分、ジーゼル機関車が牽引する列車に乗車した
 パディントン駅を発車して間もなく、イギリス特有の良く手入れされた芝生、青々とした牧草が広がる田園風景が続いた。車内は日本の2等車と同じ4ボックスシートで、労働者風その他の人達で満員であった。労働者風の男達は既にウィスキーを飲み始めて、陽気に騒ぎ始めた。東洋人は私1人で、周囲の目がチラチラと私に向けられているように感じられ、リラックス出来なかった。それはあたかも日本の田舎で外人を見掛けると、我々は好奇心でつい外人(東洋人以外)に目を注いでしまう、それと同じ様な感じであった。彼女も私と一緒なので、それを感じていた。ヨーロッパではこんな感じを受けなかったのに、やはりイギリスは島国なのか、特にウェールズ地方の田舎へ行く人達にとって、東洋人は珍しい様であった。
 牽引は途中から蒸気機関車に変わった。叉、地方に来たら信号機は色灯式から腕木式に代わり、閉塞方式はタブレット(通票)閉塞式に変わった。日本もそうであるが、鉄道発祥の地のイギリスでも、まだあちこちで汽車が走っていた。これは何もイギリスのみならず、ヨーロッパ(イギリスもヨーロッパであるが、イギリス人は自国以外の欧州をこの様に言っていた)は、まだ汽車が主流を占めている線区もあった。概してヨーロッパは道路や自動車が先に発達して、鉄道の近代化が遅れていた。


 △南ウェールズを走る蒸気機関車牽引の列車(PFN)

 シャイラの実家Colbren(コルブレン)は南ウェールズのニース(ウェールズの南部に位置する第2位の都市スウォンジーに継いで第3位の都市(?)。第1位は首都のカージフ)からが近い様であった。列車はニース駅に5時頃に到着した。駅に跨線橋がなく、線路を横断して改札口を出た。ニースの駅前は商店や住宅が建ち並んでいる光景でなく、静かで閑散としていた。まるで田舎の駅前の光景であった。
 彼女は我々が来るのを前もってダディに知らせてあったが、25分位早かったのか、まだ誰も迎えに来ていなかった。私は彼女と共に駅前のカフェ店でコーヒーを飲みながら迎えに来るのを待った。
コーヒーをゆっくり飲み終わって店を出ると、間もなく迎えの車が来た。彼女からダディ、弟のケネス、そして感じの良い叔父さんを紹介された。それから私は彼等と共に彼女の家へ向かった。
 この辺りの景色は、低い山々(緩やかな丘陵)が幾重にも連なった、なだらかな草山であった。又、南ウールズは有数の炭鉱地帯であったので、人工で出来た〝ぼた山〟(石炭の屑の山々)や廃墟化した炭鉱労働者の細長い家々(レンガ造りのテラスハウス)が見られ、それは活気のない寂しい感じがした。いずれにしても、炭鉱地帯の独特の光景が印象的であった。学生時代に社会科の勉強でウェールズと言えば工業地帯、特に石炭の産出で栄えていると学んだ事があったが、燃料が石油にとって変わり、時代の流れをこんな所で感じさせられるとは、無常であった。
 彼女のダディは、炭鉱労働者であった。しかし私が高校3年の時、「今日は悲しい事を書かなくてはなりません。実は、私の父はまだ働き盛りの歳にも拘らず、炭鉱の仕事を辞めざるを得なくなり、私達の生活も苦しくなります」と彼女は、悲しそうに書いて来た事があった。時代の流れの省力化、合理化、或は閉山の為なのか、その辺りの理由は書いてありませんでした。そして私も悲しかった事を覚えている。その後ダディは再び職についたが現在、定年になって年金暮らしである、と私は彼女から聞いていた。そんな理由で彼女の家は、決して豊かでないのを承知しており、私のウェールズへの物見遊山、興味本位で彼女の家に訪問する事に、『迷惑を掛けて悪いなぁ』と言う気持が率直に言ってあった。
 30分程で彼女の実家・コロブレンに着いた。その1つのBrynawelonと言う地区、戸数30~40戸位、周りの景色は小高い山々に囲まれた丘陵や牧草地帯、静かで絵になる様な美しい牧歌的な所でした。しかも家々は集中しておらず、あちらに2~3件こちらに4~5件と点在していて、皆立派なたたずまいをしていた。彼女の実家もそんな家の一軒であり、セメント作りのSemi Detatched House(セミディタッチドハウス~二階建て二件長屋)の右半分、両親が共働きして買ったと聞きました。この様なタイプの家はロンドンを始めイギリスではポピュラーであった。
 家に入り(勿論、靴は履いたまま)、シーラのお母さんも愛想良く私を迎えてくれた。お母さんの名前はSal(サル)と言って、如何にもウェールズ的な名前で、彼女は「マミ(お母ちゃん)」と言っているので、以後私も「マミ」と言う事にした。マミは背が低く小太りタイプで、日本で普段その辺で見掛ける様なおばさんタイプであった。ダディはイギリス人としては背が低く(私より背が低い)、顔はやや赤め、目はブルー、そして髪の毛は茶色をしていた。弟のケネスは彼女と同じくダディやマミとは似ず、とても美男子であった。背は私と同じ位で感じの良い子であった。両親と同じで髪の毛は茶色、目はブルー、中学3年の15歳であると言っていた。来年、彼は進学しないで職につく予定であると言っていた。
お土産としてマミには日本の伝統的な扇子とハンカチを、ダディにはライターを、弟には目覚まし時計を贈りました。彼等は喜んで受け取ってくれました。
 何はともあれ、私は終にシーラの家に来たのだ。日本を離れ、ヨーロッパの一番西の最果て、本当に遠くに来たものだと思った。そしてモーガン家のリビングには、夏にも拘らず暖炉に石炭が燃えていた。
私が家に着いてから、そうこうしている内に(午後6時半頃)、夕食の用意(後で分かったのだが、実は夕食ではなく、遅いハイティーであった)が出来た。
そのメニューは各自のお皿の上にベーコンエッグ、テーブルの中央にどかっと蒸かした皮付きのままのジャガイモ、切ってないそのままのキュウリ、1口で食べられる真っ赤なトマト(大きいビー玉サイズで一口トマトは日本にまだなく、初めて見た)が器に盛られ、その他に大きいケーキ、パン、チーズ、バター、そして紅茶がテーブルの上に並べられた。
ジャガイモやキュウリはまるごとテーブルの中央に出されるので、各自が自分なりの食べ方によって、それらを切って食べるのだ。勿論、トマトは小さいのでそのままで食べられるが、小さ過ぎて私には何か物足りなかった。日本人はキュウリをキュウリのお深厚、キュウリもみ、或いはスライスしてサラダ料理として出すが、モーガン家では違っていた。『成る程、この様な食べ方があるのだ』と感心する反面、何か手料理と言った感じがしなかった。これも日本との食文化の違いであった。
家族の食べ方を見ると、チーズの食べ方が豪快であった。パンにバターを塗って、チーズをパンの厚さぐらいに切って、パンの上に乗せて食べる。食事の度、否、一日一回でもバターとこんなに厚いチーズを食べたら脂肪分の取り過ぎと思うが、成る程、ウェールズ的食事を感じたのであった。
彼女が話してくれたのだが、ケーキはマミのお得意とする所で今日、私の歓迎の意味を込めて作ったとの事でした。以後、マミはケーキを何回か作ってくれました。そしてケーキの中のイチゴはダディとケネスが山へ取りに行った野イチゴでした。私はこのケーキが大変美味しく、好きだった。
 紅茶もとても旨かった。我々日本人が飲む紅茶と煎れ方が違っていた。日本の場合は、ティバッグで煎れた紅茶の中にレモンの輪切りか、クリープを入れて飲むのであるが、モーガン家の家族(多くのイギリス人も同じであった)は、紅茶の中に牛乳を多めに入れて飲んでいた(人によって牛乳の方が多い人がいた)。これが何とも言えない程、美味しかった。以後、私はいつも食事の後に2杯か3杯紅茶を飲んでいた。 
 食事の後、暫らくしてからダディ、マミ、そしてシーラの3人は、クラブへ行くと言うのだ。私は「クラブ」と言われ、頭から金の掛かる『酒場』と思い込み、余り手持金を使いたくないし、疲れているし、早めに休みたかったので行くのを断り、ケネスと一緒に家に残った。
後で分ったのであるが、日本の様な女性付きのクラブではなく、『この周辺地域の社交場』であったのです。
 言葉の件で、記憶に留めておかなければならない事があった。我々が駅からコロブレンへ向こう自動車の中で、ダディや彼女の叔父さんから色々と話し掛けられたが、何を言っているのか、私は全く理解出来なかった。聞き返しても分らず、何をどの様に返答して良いのか分らず、彼等と全く会話が出来なかった。私の代わりに、彼女が答えていた。彼等の話す英語はウェールズ訛りの英語で、彼女の話す英語と全く違った英語であった。彼等の言っている事は、簡単な言葉でない限り、私には理解出来なかった。
私の様な関東人にとって、同じ日本人でも津軽人や熊本人、鹿児島人の訛りのある言葉で話し掛けられたら、全く何言っているのか分らないのと同じで、ダディ、マミや叔父さんの言葉はそれと同じ状態であったのだ。それに加えて、私はヒアリングやスピーキングが弱いので、余計に分らなかった。
 そんな訳で、ダディやマミが言っている事が分らない時は、9月2日に彼女が仕事でロンドンへ帰る日迄、彼女が通訳的な存在でした。ケネスは学校教育やテレビの影響等、イギリスの標準的な英語を身に付けているので、彼女が居なくなってから、ケネスが両親と私の間の通訳者となったのです。 
 ウェールズに来るまで彼女の英語と両親の英語がこんなにも違うとは思ってもいなかった。たかがロンドンから250km位の距離で、同じイギリスなのに言葉がこんなにも変わるものなのか、不思議でならなかった。
彼女の話しによると、現在ウェールズの人々は、その時の感覚、状況で英語を話したり、ウェールズ語を話したりするそうです。私が「どちらが多く話されているのか」と尋ねたら、「フィフティーフィフティーであるが、最近英語が多くなって来た」と言っていた。        
イングランド(英国)とウェールズは、民族が異なっているし昔、国もお互い独立国家であったのだ。幾多の戦争でウェールズはイングランドに併合されたのである。しかし、現在でもウェールズは自治権を持っており、その首都はCardiff(カージフ)である。
 書く事がたくさんあって又、脇道にそれるが、皆がクラブへ行った後、私はケネスと残って少し話をした。学校の事(イギリスでは中学程度であるとO-level、高校だとA-level、大学だとD-levelと言う学歴だそうだ)、入社試験の事(イギリスでも会社に入る時、入社試験がある)、就職事情の事(現在、良い就職口は困難だとか)、或いは石炭産業の事(ウェールズの炭鉱は下火になった)等々について彼と色々話をした。しかし、彼の話から余り景気の良い話はなかった。
 ケネスは私が1人で海外旅行をしているので、私の事を「度胸がある」と感心していた。私が「大人になったら日本に来ないか」と言ったら、「そんな度胸はないよ」と彼。彼1人ではまだ何も行動出来ない、そんな田舎の純粋な中学生であった。でもケネスは、本当に美男子で良い子であった。
 いずれにしても、ウェールズの田舎でこれから就職、或は自分で何か商売をするのも大変なように感じた。彼も都会へ職を求めて、この地を離れるのであろうか。
私は疲れたので、与えられた2階の部屋で先に休んだ。遠くの滝の音がよく聞こえた。

ロンドンの旅~垣間見たイギリスの失業者達の話

2021-08-29 09:36:36 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
・垣間見たイギリスの失業者達の話
 今日(1968年8月29日)、ロンドンブリッジへ行く途中、シティの趣を変えた下町(周りに工場や労働者の住宅があった)を散策中、その地域の図書館が目に入った。私は興味本位で中に入って見た。その図書館の中には失業者らしき50人程の中高年齢者が居て、図書館なのに誰も本・新聞等を読んでいる人は、居なかった。大部分の人は椅子に座り机に顔を乗せ、うたた寝を貪っていた。又ある者は、少人数で何組かがお喋りをしていた。ただそれだけの光景であった。
ここが何処なのか、一瞬錯覚する程であった。彼等は皆、薄汚れた服を着ていて、中には生活苦らしい顔さえ浮かべ、居眠り、或いはお喋りだけで、ナッシングの状態であった。この光景は、私にとって奇奇怪怪・唖然とした感じであった。
 日本では普通、図書館と言ったら主体は、若者が中心で一般の人を含めて皆、本を読んだり、それらを参考にしたりして勉強しているのが普通の光景である。
しかしここではその様な概念に対して、余りにも対照的であった。これは一大発見、図書館が居眠りやお喋りの場として、失業者に占拠されてしまったのだ。時間にしてお昼前であった。閉館時間まで彼等はドゥ ナッシング(居眠りと時間潰しのお喋り)の状態で過ごすのであろう。私はここに2つの問題点を発見した。

1つ目は、図書館の本来の機能及び目的が、彼等によって阻害されている事。
2つ目は、端的に要約すれば、労働者の労働意欲、前向きの姿勢が失業問題を解決する前提条件であろうが、彼等の目の動きや動作は、その欠片も無いように感じられた。
この状態は、政治問題より彼ら自身に転化されるべき問題である。私はここに失業問題を抱えたイギリス政府の解決できぬ苦悶、問題点がここにあると思った。
 シーラにこの状況を後で話したら、彼女は、「彼等はレィズィ(怠け者)で、税金泥棒である」と酷評した。彼女は働き者で週5日間会社へ行っている他、毎土曜日に郊外へ行ってアルバイトをしていた。 
 私の知っている限りで、イギリスの失業保険金は、週に12~15ポンド位出ているようであった。勿論、職種や賃金格差によって、もっと保険金の幅があるであろうが、いずれにしてもこの額であれば、独り者にとって何とかやって行ける。
 低階層級が従事する汚い仕事や肉体労働の仕事は、週10~13ポンドであるから、仕事をしても保険金と大して変わらないので、彼等は楽な方を選ぶのだ。そして、汚い、或は、肉体労働の仕事は、外人労働者が従事していた。彼等の殆どは、昔イギリスの植民地であった国、例えば、アフリカ、インドやパキスタン等の人々であった。
 失業保険の是非論から言えば、私も労働者の1人であったので否定しないが、ここにイギリス経済の衰退の一原因を垣間見た思いで、30分ぐらい新聞を読んでいる振りをして、早々退散した。