YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ローマの旅~日本人の団体行動と団体旅行の話

2021-08-11 09:36:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△トレビの泉にて~アメリカ女性と肩を組んで再びローマに来られるよう祈って

・昭和43年8月11日(日)晴れ(ローマ見物)  
 ――観光の話は省略――

*日本人の団体行動と団体旅行の話
 「日本人は集団にならなければ、何も行動出来ない」とある本に書かれていたことを思い出した。私はコペンハーゲン市庁舎前広場の若者の集団、ロンドンの日本レストランの地下で見た異様な集団(P144)、そしてパリやローマの団体旅行者の集団を見掛けた事があったが、これらは本当に印象的であった。
 旗を掲げてJTBのガイドに導かれ、忙しそうに観光名所から次の観光名所へと時間に追われて見学していたそれらの団体は、一見善良そうな大人達であったが大声を出し、或はバカ笑いをしながら見物していた。その幼稚的な行動は、日本人である私も恥ずかしい感じがした。他の国の団体旅行者を全く見掛けなかったので、パリやローマで余計に日本人団体旅行者が目立った。
 終戦の焼け野原から立ち上がり、朝鮮戦争特需、その後の神武、岩戸景気と続き経済は上向きになった。そして東海道新幹線が開通し時速200kmの時代が到来、首都圏に高速道路が開通、終に昭和39年東京オリンピックが開催された。経済が発展してカメラ、時計、オートバイ等日本製がヨーロッパを始め世界各国へ輸出されるようになった。経済発展と共にまだ国民の一部であるが、海外旅行(ヨーロッパ団体旅行のお値段は平均50~60万円。大学出の初任給は17,000円)へ行ける良き時代になった。
 団体旅行は、宿泊施設、観光個所、ルート、交通機関等が決められているから、何の心配・苦労もなく観光を楽しむ事が出来る。逆に言えば、何の苦労も心配も要らないのが団体旅行の最大の魅力でもある。ソ連を含む共産圏諸国の特定の国は、旅行の自由が制限されている為、私のソ連経由の団体旅行は仕方がなかった。しかし西ヨーロッパは本当に旅行に関して自由であった。言葉で不自由するかもしれないが、1人で思いのままに自由旅行をして、色々な体験をしてこそ旅の良さがある、と思った。
 確かに1人旅に伴う苦労や心配があった。しかし、そこには自分が辿った足跡があり又、人との出逢いもあり、それが楽しい思い出として心に残った。今回の旅は、私のその様な想いに基づいて行動していた。お陰で苦労、心配、不安が多かったが、それが旅なのだと思った。後の話だが、私はそんな事を想いながら、ロンドンを後にしてユーラシア大陸を経由、シンガポールへ向けて旅をしようと決めたのであった(11月9日「旅に想いを巡らす」より)。
 所で、団体旅行(団体ツアー)と1人旅の最大の相違、それはその土地、その場所に於ける密着度だと思う。団体ツアーは、表通りを素通りする様なものであるが、1人であればその土地の人と接触する機会や、旅人同士と触れ合う機会もあった。そして、心が通じ合えば必然的に友達になれた。何はともあれ、折角外に出たのであるから、外国人の1人ぐらい友達を作りたいものだが、団体ツアーはその機会が余り無い、と思った。
 今回、私は団体ツアーとしてソ連経由で旅行をした。ハバロスクへ行く車中でソ連人の鉄道技師と語り合い、ハバロスクの彼の家に招かれながら団体ツアーの為、その機会やその人を失ったのは、本当に残念であった。団体ツアー中であったので、諦めるより仕方なかった。それにソ連旅行中、話をしたのは彼1人だけであった。
団体ツアーは、この『仕方ない』と言うのが、最初から最後まで付きまとった。自分はもっとこの場所をじっくり見ていたいと思うのだが、ツアーの日程、時間的都合で仕方ない。ホテルで違った物を食べたいが仕方ない。ゆっくり寝たいが早朝出発でこれも仕方ない。この様に『仕方ない』が付きまとうのが団体ツアーであった。
 所で、何も集団的馬鹿げた行動は、団体ツアーだけではなかった。コペンハーゲン市庁舎前の広場や、アムステルダムのダム広場での若者達の群れ、その群れは他の人を寄せ付けない、排他的な雰囲気を感じた。地元の人は、もっと嫌悪感があったようであった。集団でなければ何も出来ないのは、島国根性に加えて言葉の不自由さ、マナーの悪さが日本人の心の根底にあるのか、最大の理由は彼等が十分な持ち金や能力もなくこちらに来て、仕事にあり付けず困っている者同士が群がっていた様であった。
 いずれにしても、日本がもっと豊かになり、一般の多くの日本人が団体ツアーで世界の多くの国々へ行くようになった時、島国根性丸出し、旅の恥を省みない様な行動していたら世界各国の笑いものになるであろう。日本人皆がマナーを守り、紳士的に行動して、各国から顰蹙(ひんしゅく)されないように心掛けたいものだ。


ローマの旅~苦しみに耐えローマへ

2021-08-10 14:26:11 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△私の目の前を辻馬車が『パカパカ』と蹄の音を残して夕闇に消えて・・・
                
               ローマの旅

・昭和43年8月10日(土)晴れ(苦しみに耐えローマへ)
 ピサは、ピサの斜塔で誰でも知っているが、私は大聖堂の鐘楼であるとは知らなかった。ペンションから近くにあり、午前中の早い時間に見物に行った。
 10時05分、ローマ行き急行列車に乗った。朝、水を飲んだ所為なのか、急いで駅へ来て乗り込んだ所為なのか、或いは、昨日からの胃の具合が治っていないのか、再び腹が痛くなって来た。言葉が通じぬ異国での体調不良は、最悪であった。
直接の原因か如何かはっきり分らないが、昨日から腹が痛かったにも拘らず、そしてあれ程に注意していたにも拘らず、水道水を空腹と喉の渇きで我慢しきれずに今朝、飲んでしまったのだ。車中で2時間近く、「ウーウー」唸って我慢して治るのを待つだけであった。1人旅で病に成る程、辛いものはなかった。腹痛と不安が一杯の列車の旅になってしまったので、車窓の景色や列車の旅を楽しむ余裕が全くなかった。
 ローマ到着は午後1時45分、この頃になってやっと腹痛は治まっていた。白い大理石のテルミニ中央駅は構内も大変広く発着番線も1番から30番まであった。ローマと言えば、「終着駅やローマの休日」で我々にも馴染み深い首都であった。そして若しかしたらリターに逢えるかもしれなかった。私は彼女に逢える事を楽しみにしていたが、何処に居るのか、或は既にローマを去ったか、期待は余り出来なかった。 駅構内の観光案内所へ行き、ペンションの予約をした。1泊1200リラで2泊と言う事で話は決まった。
ペンション探しにバスに乗ったり、何回も人に尋ねたりして大変苦労して到着、ペンション建物の旧式エレヴェーターに私1人が乗った。所定の階のストップ・ボタンを押して、エレヴェーターはその階に止まったが、ドアは開かなかった。勿論、手動でも開かなかった。そしてエレヴェーターは上ったり、下ったりと何回も上下を繰り返した。誰も乗って来ない、或いは故障しているから誰も乗れないのか、薄暗い孤独の空間を何回か上下している内に私は、恐怖感を覚えた。暫らく経って、ある階に止まった。私は大声を出し、無我夢中でドアをドンドン叩いた。エレヴェーターのドアがやっと開いた。『助かった』という思いであった。何かトラブルでもあったのかと5~6人が集まって来た。安堵と恥ずかしさの気持でいっぱいであった。
 3階にあるフロントで予約書を渡した。そしたら、「1泊2400リラ」と言うではないか。案内所では確か、1泊1200リラで話が決まっていたのにその値段の2倍で、腹立たしかった。サヴォーナのホテルでは800リラ(階段下で狭い部屋・朝食付き)、ピサのペンションも800リラ(2人用の部屋・食事なし)、それらを比較しても非常に高かった。ここのマスターは英語が下手で余り意思が通じ合わず、抗議しても駄目であった。私は疲れていたので、ユースホステルや他のペンションを探すのが億劫で諦めた。
 Colosseum(コロシアム)がペンションから歩いて行ける距離にあるので、一息入れて見に行った。コロッセオは古代の円形闘技場だが、今は建物の半分以上が廃墟になり、雑草があちこちと生え、古(いにしえ)の建造物となりつつあった。人間の歴史の一端を見た思いであり、古代ローマの偉大さ、愚かさ、そして、その歴史の重さを考えざるを得ない建物であった。
 コロシアムの直ぐ西側にある、白大理石の優雅な門は、古代コンスタンティヌス凱旋門であった。
ローマの空に夕日が真っ赤に染まった。凱旋門やコロシアムを焦がし、古い石畳や古代建築物を背景に辻馬車が『パカパカ』と蹄の音を残して夕闇に消えて行く様は、私の旅情を一層醸し出してくれた。
 既に暗くなって来たので、ここだけの見物にした。今日、腹痛で何も食べていなかったので、とても腹が空いていた。ペンションへの途中、一寸高そうなレストランで懐具合と合わない感じがしたが入った。老年のウェイターがメニューを持って来た。イタリア語で書いてあるのでチンプンカンプン、適当に安そうな物を指で示して注文した。しかし、出て来た料理は私には到底食べられそうもない、『犬の料理』であった。ゲテモノ喰いが食べる料理なので、他の料理を持って来るようにお願した。注文する時、頭を使えば良かった。
 腹痛が治ったようで良かった。

マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~おばさんに怒鳴られるし、腹痛に苦しむしし、もう最悪

2021-08-09 10:18:34 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ピサ大聖堂の鐘楼(PFN)

・昭和43年8月9日(金)晴れ(おばさんに怒鳴られるし、腹痛に苦しむしし、もう最悪)
 
 サボーナの街へ散策に出掛けた。朝食(パン、野菜サラダ、コヒー)を取ったばかりなのに、お腹が空いていた。それは当然であった。昨日の朝、軽食を食べてから夕食にパンと果物を食べた以外、今朝まで満足に食べていなかったのだ。
街に出かけ途中、屋台で売っていた果物を買って食べながら歩いていたら、今度はスイカを切り売りしている屋台があった。1切れ70リラ(42円)なので、試しに買ってみた。冷たくて美味しかった。その屋台のおじさんに、安いレストランを尋ねたら場所を教えてくれた。
 そろそろお昼になったので、教えて貰ったその店に入った。店内は感じが良く、600リラで野菜料理、スパゲテ、肉料理、パンの料理を注文した。イタリアでは値段的にも量的にも普通の食事であったが、私にとっては贅沢であった。『でも時には栄養を取って体力を付けなければ』と思って注文した。料理が出て来たが、腹が空いているのに食欲が湧いてこなかった。それのみならず、何だか吐き気がする感じもして来た。にもかかわらず無理してスパゲテを3分の1、肉を1切れ、野菜料理は全部食べた。残りの肉はパンに挟んで貰って店を出た。
 店を出た途端、店の前で今食べた物を吐き出してしまった。そしたらレストランの人がすっ飛んで来て、何だか訳の分らないイタリア語で怒鳴られてしまった。昼間から店の前に吐いてしまい、恥ずかしかった。「アイム・ソリー」と言ってその場を逃げるように立ち去った。
私は他の店の横で再び吐いてしまった。分ってしまったのか、店の太った中年女性が出て来て、再び凄い剣幕で怒鳴られてしまった。私は一目散に逃げるだけであった。腹は痛くなって来たし、吐き気はするし、腹は空いているが食べられないし、600リラ損するし、2度も怒られるし、もう最悪の状態であった。
 腹の調子が悪くなるのも、無理はなかった。今まで20年以上、日本食を食べて来たのに、7月13日を境に日本食から洋食に、そして2日から3日程度で国が違う食べ物を食べて来た。しかも、栄養・量とも充分でないし、食事を取らない時も多かったから、腹の調子がおかしくなってしまったのか。その他に思い当たるとすれば、セルベールで買ったパック牛乳をホテル自室で飲んだ所為か、それとも今朝、頭痛がしたのでノーシンを服用するのに自室の水道水の〝生水を少し飲んだ〟所為なのか、これだと言うはっきりした原因は分らなかった。因みに日本出国前から西欧、特にイタリアの水道水は衛生・安全面から飲まない方が良い、とガイドブックを読んで承知していた。それなのにあれ程注意していたのに、少しだからと油断してしまったのか・・・。
 午後2時15分、サヴォーナ駅から各駅停車のローマ行きの列車に乗り込んだ。乗ってからも暫らくの間、胃が痛いと言うのか、むかつく感じで腹の調子は最悪であった。
 6時30分頃、やっとユースがあるPisa(ピサ)に到着した。体調が悪くお腹を押さえて寝転んだ状態での各駅停車の旅は、ゆっくり楽しむ雰囲気でなかった。ユースは駅から1.5km、歩いて20分程度なのに何回も尋ね、やっと着いたにも拘わらず満員で泊まれなかった。ユースの人が他のペンション(宿泊代800リラ、食事なし)を案内してくれた。今日は日本を出国して以来、最悪の日であった。
明日になったら治っていますように、と願いながら寝た。

マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~ホテル捜しに街を彷徨う

2021-08-08 08:34:18 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△サボーナの浜辺(PFN)
・昭和43年8月8日(木)晴れ(ホテル捜しに街を彷徨う)
*参考=イタリアの1リラは、約60銭(10 Centesimoは6銭)

 チェックアウトして旅券を戻して貰おうとしたら、マネージャーが居ないので20分位待たせられた。待っている間、私はブローチと話をした。折角彼女と友達になったのに別れの時が来た。残念だし、何か寂しかった。しかし私は旅人、行かなければならなかった。彼女と話をするのもこれが最後、お互いの住所を交換し、手紙を書く事を約束し合って別れた。
 セルベールを午後1時04分、マルセイユ行き2両編成のジーゼル列車に乗った。マルセイユからミラノ行きTEE国際急行列車に乗り換えた。Savona(イタリアのサボーナ)に到着したのは、既に午後8時をとっくに過ぎていた。
宿泊捜しにあちこちのホテルを当たったが皆、断れた。困り果ててしまったが、それでも何処かに泊まらなければと思い、あるホテルで再度、宿泊出来るか尋ねた。フロント係の人は、気が良さそうなおじさんであったが、やはり満員で断られてしまった。しかし私は満員でもなおも食い下がり、そして粘った。おじさんは根負けしたのか、「800リラ(480円)で階段の下の余り良い部屋でないなら空いている」と言うので、泊まる事に決めた。私にとって良い部屋でない方が、安いから良かった。おじさんに案内されて行ったが、確かに階段下で部屋は狭かった。しかし真っ白なシーツ、枕、そして清潔そうな毛布が用意されていた。
 何処のホテルでも満員であっても1つや2つ空いているものなのだ。フロント係りのおじさんにチップとして、タバコ1個を渡した。480円のホテルであれば高くはないと思った。
 今夜の宿が決まって良かった。お休み。 

マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~フランス人高校生と出逢う

2021-08-07 13:24:22 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
・昭和43年8月7日(水)曇り(フランス人高校生と出逢う)
 朝食を海辺に面した大広間の食堂で取った。そこから青い海、回りの山々、そして山の中腹にあるキャンプ場が見えて、展望はとても良かった。こんなに素晴らしい場所が余り観光地化されていない、正に穴場であった。
 昨日、ホテル代が安かったので朝の食事は付かないと思っていたのだが、付いて良かった。朝食は、軽食(トースト2枚のマーガリンとマーマレード付き、野菜サラダ、そしてコーヒー)であったが、私は量的に充分であったし、素晴らしい景色を眺めながら食べたので、余計に美味しかった。
 今日、家族や友達へ手紙を書いたり、日記を付けたりして過ごした。書き終わって手紙を出しに街へ出た。郵便局の場所が分らないので向こうから遣って来た若い女性に尋ねた。そうしたら彼女は私をわざわざ郵便局まで案内してくれた。彼女は私が手紙を出し終わるまで待っていて、私がホテルへ帰るのも付いて来てくれた。可笑しいなと思い尋ねたら、「貴方が宿泊しているホテルで夏休みの間、アルバイトをしている」との事であった。
彼女は、私がこのホテルに宿泊している事を知っていたのだ。「なるほど、だからわざわざ案内して又、私の行く所と一緒だったのだ」と私の独り言。彼女の名前は、Broch(ブローチ)と言って、かわいらしいフランス人高校生であった。でも彼女は英語を私より話せなかった。 
 それから後は、一日中寝ていた。

マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~相棒の鈴木、そしてリターとの別れ

2021-08-06 09:41:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△現在のマタロの海岸(PFN)

マタロ、セルベール、サボーナ、ピサの旅~相棒の鈴木、そしてリターとの別れ

・昭和43年8月6日(火)晴れ(相棒の鈴木、そしてリターとの別れ)
 昨日、私と鈴木は話し合って、別々に別れて旅をする事になった。彼が私の気持を傷つける事を言ってしまっては、私としても一緒に旅をする気持にはなれなかった。我々2人はどうやら外国にも慣れて来たし、別々に旅が出来ると考えた。
ただモスクワで意気投合し、「共に旅をしよう」とそれでここまで一緒に旅を続けて来た。本当に楽しい日々であったし、彼が居るだけで寂しさも紛れたし、心強さもあった。しかし、旅の途中で出逢った人は、必ずいずれかは別れる日が来た。人それぞれ自分に合った旅をすれば良いし。2人一緒だとどちらかが妥協しなければならないし又、相手を頼る事にもなった。それは、自分の為にも決して良くない事であった。この辺で別れて、自分の旅をするのが一番良い、とは言っても今まで私がイニシアチブと取って来た経緯があった。
 私はこちらに来る前、列車の旅のイメージ又は希望として、『知らない町や村を2等列車で地元の人達とのんびり旅がしたい』と言う事であった。しかし実際こちらに来ての旅の仕方が、最初の日を除いて違っていた。大都市から大都市へ、1等車で駆け回っているだけだった。自分が望んでいたものと違った列車の旅をしていた。これは彼の責任ではなかった。私の責任であり、その原因は私のパスが1ヶ月間有効だからであった。結果として、1ヶ月間だけだと大都市間を駆け回る様な旅をしなければならない。のんびりと地方を旅する暇がない。それでは2ヶ月・3ヶ月間有効のパスにすれば良かったが、イギリスのシーラに会う件もあるし、半年や1年の旅の希望で経済的なこともあるし、それは難しかった。

 午前9時頃、列車はバルセロナに到着した。彼は前からここで下車するつもりであった。
「それでは」と言って彼は席を立った。「日本に着いたら手紙を書いて下さい。又会いましょう。元気で旅を続けて下さい」と私は言った。しかし彼は無言でカナダ人女性と共に下車して行った。無言が彼のせめての抵抗であったかもしれなかった。私が彼を突き放した様なものだから。プラット・ホームを歩く彼の後ろ姿が、何故か寂しそうであった。実際、私も寂しかった。
 
 列車は少しずつ動き出した。辛い別れであった。思えば3週間、彼と共に旅をして来たのだから・・・。しかし、これも運命であるし、旅であった。私とリターが同じコンパートメントに残った。彼女に鈴木との旅について話をした。そして、「今は別れて寂しいのだ」と言ったら、彼女は私を励ましてくれた。2人で、『You are my sun shine』の歌を歌った。
列車はマルセイユ行きで、リターもマルセイユからローマへ行くと言った。私はリターと一緒にローマへ行きたかったので、「ローマまで一緒に行きませんか」と言った。
「マルセイユまで一緒に行きましょう。後は別々に旅をするの。OK?」と言われてしまった。返す言葉がなかった。
彼女は婚約者がいるそうで、卒業したら結婚する予定との事。そんな彼女に付き纏う事はいけないし、人それぞれの旅をしなければいけない。だから鈴木にも、「お互い違った旅をしよう」と互いに納得して別れたばかりなのだ。そんな訳で、彼女の言った事が良く分るのであった。
「ヨシ、貴方には親切にしてもらい、マドリードから楽しい一時を過ごす事が出来て感謝しています。でも、いつかは別れなければならないの。それがマルセイユなの」とリター。
「I understand you, Rita」と私。
旅とは、つくづく寂しいものだと感じた。先程、鈴木と別れ、そして又、リターとも別れなければならない。独りよがりであるけれど、私はリターが好きになってしまった。マルセイユで別れるのであれば、何処で別れても同だ。『未練を残さず、列車が次に停車する駅で別れよう』私はそう思った。   
 
 列車は、Mataro(マタロ)と言う小さな駅に滑り込んだ。
「今、列車から降りた方が良いのだ。良い思い出を作ってくれただけでもリターに感謝しなけれ
ば」と思い、そして下車する決心をした。
「リター、私はここで降ります。マルセイユで別れても、ここで別れても同じだから。貴女には楽しい旅を続けて下さい。そして、宜しければ私に手紙を書いて下さい」と言って、私の住所を書いた紙切れを彼女に渡した。
「ヨシ、ありがとう。Good luck」とリター。 
私は列車から降り、そしてすかさず彼女の窓際へ行った。彼女は窓から手を出していた。私はその手を握った。私は何と言えば良いのか、分らなかった。列車は動き出しそして、手が離れた。「Good luck, Rita」私は叫んだ。
「Good luck to you too, Yoshi」と言って彼女は手を振った。私も列車が遠ざかるまで、いつまでも手を振った。リターとの束の間の出逢いであった。私は彼女を好きになり、楽しい一時を過し、そして、それは夢の様に終った。
鈴木と別れ、そして今、又リターと別れた。ホームに残された私は2人の旅の友を失った悲しさ、寂しさが覆い、涙が止めどなく溢れ、頬へ伝わった。

 下車したマタロは小さな町、バルセロナから1時間半程来た所であった。駅の裏側は地中海の美しい海岸が広がっていた。寂しさを吹き飛ばす為、一泳ぎしようと思ったが、まだ朝食も取っていなかった。昨夜、早めに夕食をしたので朝食用に買ったパンは、その夜に食べてしまったのだ。駅前の商店は、11時頃なのにまだ閉まっていて、街に活気が全くなかった。日本のこのくらいの街であったら、何らかの経済活動があるのであるが、この街では見られなかった。
駅前のバーに入った。スペインのバーはレストランも兼ねていて、食事も取る事が出来た。その店に入ったら、午前中から既に何人かが酒を飲んで盛んにお喋りをしていた。午前中から酒を飲んでいるから、スペインはヨーロッパの中で時代遅れになってしまったのだ、と私は思った。しかしその反面、日本人はコセコセと働き過ぎ、働く事しか知らない国民なのだとも思った。どちらに人間らしさがあるのか現時点、答えは見出せなかった。
私はマドリードで食べた例の〝トルティージャ〟(卵焼きの中にポテト・肉・野菜が入ったスペインの代表的な料理)とコーヒーを注文した。こんな田舎町に東洋人が珍しいのか、食べながらの私は、彼等の注目の的になってしまった。
 
 食後、浜辺へ行った。泳いでいる人は勿論、誰もいなかった。鈴木やリターの事を忘れよう、と海に入った。今年、初めて泳ぐ海は外国の、しかも日本人には誰も知らない田舎町のマタロの海岸であった。
しかし、他国の誰もいない海で泳ぐのは、海の底から足を引っ張られる様な怖さと薄気味が悪い感じがしたので早々、海から上った。
 今日は、色々な事があった。3週間共に旅して来た鈴木と別れ、そして、リターとは1~2時間前まで私の傍に居たのに、今はもう居なかった。「出逢い、そして、別れ。それが旅なのだ」と言う感傷に慕っていた。それは素晴らしく又、悲しかった。海外旅行は私にとって一生にこれ一度しか出来ないのか。否、又来られるように頑張ろう。私は色々な事を考え、想うのであった。
今思えば、リターの住所ぐらい聞いておけば良かった。写真も撮っておけば良かった。残念であるし、反省した。夢であるなら住所も聞けないし、写真も取れない。そうか、夢であったのか。自分に言い聞かせた。泳いだり、物思いに深けたり、日記を書いたりして、浜辺で2時間ほど過ごした。
 
 又、駅前のバーで今度は、昼食を取った。夕食用に例の料理とファンタジュースを買った。午後1時38分、ローカル列車のCerbere(セルベール)行きの列車に乗った。一人寂しく車窓からスペインの山河、町や村を眺めていた。凄く人が恋しくなって堪らなかった。
日本を出て、初めて1人旅になってしまった。鈴木は私より英語が駄目であったが、彼がいるだけで心強かったし、何か安心感があった。しかし自分から、「別れよう」と言い出したのだ。そして、彼と実際に別れ私の胸中は、寂しさと何か不安でしかたがなかった。
不思議なものだ。共に居れば時には気まずさもあるし、居ない方が良いと思う。そして居なければ寂しさを感じる。人間と言うものは、訳の分らない者なのだと感じた。でも私は思うのだ、『人生勉強をするには1人旅をする事だ。異国の地で自分なりの旅をして行く事が大事であり、自分にプラスになるのだ。そして私はこの道を選んだのだから寂しさを乗り越えなければならないのだ。これからが本当の自分の旅になるのだ』と。
 
 列車は国境を越えると乗っていた乗客はスペイン人からフランス人に変わった。スペインの余り木が生えていない、何か殺伐とした風景から、フランスに入ったら木も建物もまろやかな風景にがらりと変わった。 
国境から間もなくして、セルベールと言う小さな町に到着した。観光地化されていない小さな町、この様な所をぶらぶら歩いてみるのも面白いと思った。駅からそんなに遠くない一つ星のホテルで一番安い部屋を頼んだら、1泊6フラン(480円で食事なし)にしてくれた。

 夕食用のパン、果物、牛乳を買いに出掛けた。食料店はホテルから駅へ向かう途中、右手に曲がり、坂を下りた左手にあった。ここから海はもう見えた。そこからなお下りて行くと海岸で海水浴があった。ここの海は、とてもきれいで透き通っていた。『何ときれいな海や景色であろう』と1人で感激した。
浜辺は、砂浜ではなく、小さい石が敷き詰められ、遠浅ではなかった。ここは、リゾート地であった。海水浴客は居たが、ほんの数十名程度であった。海水は冷たく、長く入っていられなかった。
良い所だし、もう一日ここでのんびり過ごし、出立は8月8日とした。

マドリードの旅~相棒との旅の相違、そしてリターとの出逢い

2021-08-05 14:30:02 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ユース近くの公園でスペインの美女達に囲まれて

・昭和43年8月5日(月)晴れ(相棒との旅の相違、そしてリターとの出逢い)
 早めに起きてバルセロナ行きの座席予約の為、中央駅へ行った。鉄砲を持った兵隊や警官が駅構内にうようよいた。我々はあっちへ行ったり、こっちへ来たりして時刻表を捜し求めた。言葉が分らず、時刻表が何処にあるのか分らなかった。又あちこちと駅構内を歩き回った。全く嫌になってしまった。『どこそこ行きは何番から何時に出発』と言う発車時刻表が見付らなかった。
8時40分頃駅に来て、12時00分のBarcelona(バルセロナ)行きがあるのが分るまで、かなりの時間を費やしてしまった。それでは12時のバルセロナ行きに乗ろうとして出札窓口へ行ったら、全部予約が一杯で駄目だった。
 
 他の列車の予約を取る為、また列に並ばなければならなかった。窓口が5つあるが、各窓口は長蛇の列であった。日差しが強く、屋根のない所に並んでいるので、非常に暑かった。 
そんな我々を見越してか、2つのバケツを天秤棒で担いで、裸足で汚らしいぼろ服を着た貧しそうな小学1・2年生位の少女が、「お水、お水、お水はいかかですか。コップ一杯10センチモア」(私には少女の言っている言葉が分らないが、その様に言っている感じがした)と何度も言って、列の我々に悲しそうな目で、必死になって売っていた。しかしかわいそうだが、誰も買う人はいなかった。私は生水には充分注意していて、他国の生水を飲まないようにしていた。それにしてもこんな小さい女の子に重たい水を運ばせて売らせている、スペインのこの現状の方が悲しかった。
 
 なかなか列が動かないので窓口へ見に行ったら、出札係(予約担当)は他の係員と話しながらノンビリやっていた。日本では考えられない程の超スローペースの仕事振りであった。2日前の夜、列車の中で出逢ったスペイン人が、「スペイン人は働かない」と言っていた事が頭によぎった。
 
 1時間30分も並んでやっと午後8時45分のMarseille(マルセイユ)行きの列車の予約が取れたのがお昼頃であった。我々は駅に着いてから予約を取るだけで3時間半も費やした。こんなに時間が掛かったのは初めてであり、そして最後になった。
 
 私の旅はアバウトで計画性がなく、行き当たりばったりであるが、私はこれで良いと思っていた。しかし私の行先、列車の選択方法、予約の仕方等が私の旅の相棒の鈴木と考え方が合わず、彼は私に文句を言って来たのであった。
彼は、「日本などでも長距離列車は、通常夜に出発するので朝、駅に来ても駄目なのだ。Yoshiは鉄道員であったのに、そんな事も知らなかったのか」と言ったのだ。
「そんな事を言っても、長距離列車に乗った事はないし、国鉄職員でないので私は知らないよ。それに私が今まで色んな事を段取りして来たではないか」と私は言った。その含みとして、『英語を知らない君の為にも便宜を計って来たではないか。それだったら君が段取りすれば良いではないか』と言いたかったのであるが、全部言っては彼だって頭に来ると思い、私は言わなかった。
しかし、一緒に旅をしている友から言いたい事、人を傷つける様な事を言われてしまっては、共に旅は出来ないな、と思った。
 
 根本的に人は、それぞれ違った旅の仕方があるのだ。私と鈴木とでは、行きたい、見たい、宿泊したい所はお互い異なるし又、互いの食事の取り方も違った。外国への持ち出し額は最高500ドル(実際430ドル。70ドル分はソ連の旅行でドル建てであった)で同じあるが、彼は2ヶ月間有効のユーレイル・パスを持ち、ヨーロッパを2ヶ月旅行したら帰国する予定だった。私のパスは1ヶ月間有効であるが、最低でも半年間はこちらに滞在したかった。
 
 当然、旅行者は持ち出し金額、旅行日数、趣味趣向でその人の旅の仕方も変わってくる。これは、当然の事であった。であるから異国の地、しかも言葉がお互いに分らないので、小異を残してお互い助け合って旅をするのが基本であると思った。それが出来なければ、別れて旅をするしかないな、と私は感じて来た。
「鈴木さん、それでは別れて貴方は貴方の旅をして下さい。私は私の旅をしますから」と言った。彼は黙っていた。
 我々は、午後8時45分のマルセイユ行き列車に乗った。コンパートメントには誰も居らず、私と鈴木とは向かい合って別々に座った。今日の座席予約の件で、別々に別れて旅をする方向に我々はなってしまった。だからと言って今、喧嘩をしている訳ではなかった。
 
 暫らくしたら、カナダ人の女性2人(カナダ大学の学生)が入って来て、相棒の方の席に座った。それから直にアメリカ女性1人が私の方の席に座った。コンパートメントルームは、5人になった。
 
 アメリカ女性の名前は、Miss. Rita(私は「リター」と呼んでいた)と言って、どちらかと言えば我々日本人がイメージしているアメリカ女性よりやや背が低かった。でも金髪が良く似合う優しい感じの女性であった。こんな女性が私の隣に座ってくれてラッキーであった。
 
 私とリターは直ぐ、友達の様に親しくなった。リターは私の下手な英語に付き合ってくれて、しかも、陽気に話をしてくれて、とても楽しかった。
彼女と日本の100円オリンピック記念銀貨(お土産用に何枚か持って来ていた)と1ドル紙幣を交換したり、日本の絵葉書とサンフランシスコの絵葉書とを交換したりした。カナダ女性にも日本の絵葉書を1枚ずつ渡した。
リターと話をしていると、彼女は私の話に突然、驚いたように、「Sock it to me Baby!」と言った。私は全くその意味が分らなかったので、「What does it mean?」と言ってその意味を教えて貰った。それは、感情を表す1つの表現であった。意味は、『It means―An expression of action like in dancing or sports. In America we say to me one who has had his feeling hurt, because he was laughed at! He does not laugh at you, rather we laugh with you』(驚いた時のダジャレの表現であった)。
彼女は、サンフランシスコに住んでいる大学生で、夏休みを利用してヨーロッパを列車で旅をしているとの事であった。
 
 私とリターは、もう少し話をしたかったが、夜も遅くなってきたので寝る事になった。寝る位置として、鈴木側の席は、彼とカナダ女性2人で彼が横になった為、女性2人は座ったまま寝る事になった。私の方は座席をリターと半々に、彼女の足を抱く様な状態で横になって寝る事が出来た。

マドリードの旅~マドリードの印象の話

2021-08-04 16:03:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△繁華街にての私~シエスタ時で人も車もまばら

*マドリードの印象の話
 マドリードに来て驚いたのは、駅や街で警察官や兵隊がやたら目に付いた事であった。スペインにとって悲しい事だが、まぁ今日になってもフランコの様な独裁政治を続けている国は、西ヨーロッパでスペイン(ギリシャは軍事政権)だけであった。
 
 大きな通りの全ての十字路では土のうを積んで機関銃を備え、主要な箇所・建物、中央駅の各出札口、或はホームに警察官や兵隊が鉄砲を担いで警備しているのは、民衆や乗客を威圧していて、権力・武力によって抑え付けている感じが良く分った。
学生や若者による暴動が起こり、スペインは近い将来、情勢が変わり民主国家になるであろう、と今まで各国を見聞して来た過程で、容易に想像が出来た。
 
 スペイン人の背の高さは、一般的に私と同じか、或はチョッと高いぐらいであった。 しかし、警官・兵隊達は、皆背が高く、体格も良かった。良い体格の者は皆警察官や兵隊に召集してしまうのか、街では若者が見掛けなかった。そんな事情で、街の雰囲気や市民の表情は、どことなく暗いイメージであった。

 西ヨーロッパは、〝経済的に一体化〟(EECからEC)になろうとしている昨今、スペインだけがいつまでも閉塞状態でいられるか疑問であり、フランコ総裁の独裁政治がいつまでも続くとは思わなかった。


マドリードの旅~フランコの独裁国家

2021-08-04 09:42:41 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ユース近くの公園でスペインの美女達に囲まれる

・昭和43年8月4日(日)晴れ(フランコの独裁国家)
 目が覚め、起きて外を見た。それは素晴らしい光景であった。半砂漠化の様な木が生えていない山岳地帯を、列車は縫うように走っていた。山々が幾重にも連なり、そして列車はそれを越えて行った。

 マドリードに着いて、地下鉄を使ってユースへ行く事にした。マドリードの地下鉄の電車は古く、速度は遅く、車内は本も読めない暗さ、おまけに座席は木製、駅構内は暗く、汚い感じであった。
ユースがある駅まで最初、3ペセタ(15円)払って切符を買ったが、乗換駅出口で駅係員が切符を回収しているので渡してしまった。その乗換駅改札口を入るのに又、2ペセタの切符を買って入った。次の乗換駅で新たに買った乗車券を又、渡してしまった。3度乗換駅で3度2ペセタ払って切符を買って電車に乗らなければならなかった。改札を出なければ、乗り換え出来ない駅構内になっているのは、ここだけであろう。乗り換えの仕方と言うのか、切符の使い方と言うのか、最初分らず、4ペセタ余計に払ってしまった。後から分った事であるが、本当は最初の切符を通しで使えたのだ。乗り換える度に係員へ申し出て、『乗り換え証明のスタンプ』を押して貰うのが正規の乗り換え方法だったのだ。
地下鉄の乗り換え時、こんなやり方をしている国は他にあるか、と思った。言葉が全く通じず、苦労しながら電車に乗っている状態なので、乗り換えシステムが理解出来ず、4ペセタも無駄なお金を使ってしまった。20円と言ってもケチケチ旅行している私にとっては、無駄にしたくない金額であった。1ペセタは5円と言っても、こちらでは1ペセタを50円の感覚であった。
 
 スペインは、ヨーロッパで英語が一番通じない国であった。駅を降りてユースへ行くにも何回も道を尋ねて、苦労しながらやっと辿り着いた。ユースは空いていたので直ぐに泊まる事が出来た。我々は疲れているし眠いので一休みした後、市内へ散策に出掛ける事にした。

 市内散策後、ユース近くの公園で休んでいたら、我々の近くで3歳位の子供が1人、サッカーをやっていた。ボールを蹴っては走り、走っては蹴り、その光景は微笑ましかった。遠くの方を良く見ると5~6人の子供達がやはりボールを蹴って遊んでいた。スペインはサッカーが盛んな国、そして世界でもトップクラスであるらしい。それで『なるほど』と思った。日本はサッカーをやる人は珍しかった。このサッカー競技について、日本は後進国であった。
私のサッカー経験は、中学1年の体育の時間で何回かした程度であった。日本では子供から大人までスポーツと言えば、野球が盛んだ。特にプロ野球のテレビ観戦は、娯楽の一番人気になっていた。日本のサッカーは、いつになったらオリンピックやワールド・カップに出られることやら。
 その公園で我々はまだベンチに座っていると、スペイン女性4人が話し掛けて来た。4人とも皆、感じの良い女性で、その中に私好みの女性が1人居た。彼女は茶色の髪をスラット長くして、白の半袖セーター、短めの白のスラックス、目はキョロットして口元はしまり、胸の膨らみは良く、足もスッラとしていた。しかし、言葉がお互いに通じず今一つ、話しは盛り上がらなかった。もっと彼女等と話をしたかったのだが、本当に残念であった。





      









マドリードの旅~陽気なスペイン人

2021-08-03 13:50:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ドン・キホーテの像(PFN)

・昭和43年8月3日(土)晴れ(陽気なスペイン人)
*参考=スペインの1ペセタは、約5円(10センチモは、50銭)。 
 トランクは持ち運びが大変なのでマサオの部屋に置いて(8月20日頃、戻って来る予定)、私と鈴木はマドリードに向けて出発した。必要最低限の荷物は、軽い手提げ用バッグを昨日買って、その中に入れた。
 前もって座席予約したIrun(イルーン)行き列車は、モンパルナス駅を午後2時05分、余裕を持って出て来たので充分、時間があった。我々は時間が来るまで駅前のカフェで、ゆっくりコーヒーを飲んで時間を過した。
イルーンは、大西洋側のスペイン領でフランスとの国境の町、近くにSanSebastian(サンセバスチャン)と言う大きな町がある所であった。

 イルーンには午後9時に到着した。Madrid(マドリード)行き列車は夜中の午前0時05分であった。コンパートメントには我々2人の他、後から田舎者風の5人のスペイン人が乗り込んで来た。真夜中で然も、乗車してから時間が経っているにも拘らず、彼等はのべつ幕なしにペチャクチャ唾を飛ばしながら、声高らかにして話し続けているのには参った。おまけに前の人の足がプンプン臭く、異臭を放っていた。寝ようと思っているのに寝られず、頭に来ていた。

 暫らくすると、彼等は林檎を取り出し、その1人が我々に1つずつ林檎をくれた。それから間もなくして一人がワインを荷物から取り出し、5人で回し飲みを始めた。5人の内、小学2~3年生位の子供が1人居たが、その子供までがグイグイとラッパ飲みをしていた。大人が子供に気にもしないで酒をかまわず飲ませていた。日本ではありえない光景であった。後から分ったが、スペインでは他の子供もワインを飲んでいた。
その内、私に彼等の回し飲みをしていた衛生的とは思われない瓶を、『飲め』と言わんばかりに差し出されてしまった。『弱ったなあ』と思ったが、根が嫌いではないので一口ゴックン、もう一口ゴックン。これは正直に旨かった。「ヴェリー・ナイス」と言ったら、「もっと飲め」と言うのだが、私は断った。
 これを機会に、彼等とコミュニケーションを図った。私は大して英語を話せなかったが、彼等はもっと話せなかったので、身振り手振りも加わった会話であった。彼等は陽気で屈託がなかった。「日本人は良く働き、スペイン人は余り働かない」とこんな事も語って一時を過した。ある程度、日本の事を知っているのだ、と感心した。
 
 2時間或はもっと過ぎた頃、列車はある駅に止まった。彼等はおもむろに、「何処の駅なのかなぁ」と外の駅名表示板を見た。自分達の降りる駅だと分るや否や、荷物を窓からホームへポンポン放り投げ、ドタバタと下車して行った。彼等のその慌て様ときたら可笑しくてしかたがなかった。
降りてから彼等は、窓越しに握手を求めて来た。スペイン語で何を言っているのか私には分らなかった。多分、「スペインの旅を楽しんで下さい。ごきげんよう、さようなら」と言っているようであった。
列車が動き出した。私が窓から手を振ると、彼等も見えなくなるまで手を振っていた。彼等は、本当に陽気なスペイン人であった。
 
 やっと静かになり、少しでも寝る事にした。「お休みなさい」。