YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

シーラとの日々、そして、別れ~日本食レストランで食事を楽しむ

2021-10-18 20:27:45 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                     △昭和44年か45年に送られてきたシーラの写真(イギリスへ        
     折角行ってシーラの写真は一枚しか撮れなかった、と言ったら)

・昭和43年9月30日(月)曇り(日本食レストランで食事を楽しむ)
 今日、仕事は休みの日であった。午後7時、ボンド ストリート駅でシーラと待ち合わせをして、日本レストランへ行く事になっていた。『いつもご馳走になって申し訳ないし、日本食を是非、彼女に食べさせてあげたい』と言う想いもあったのでした。
 駅を出て、オクッスフォード ストリートの向こう側、狭い道を入った所に日本レストランHiroko(ひろこ)があるのを前もって調べておいた。我々が7時過ぎに行ったら、「只今満員で、8時過ぎに席が空く」と言うので、その時間帯に予約を取った。カフェ店でコーヒーを飲んだり、街を散策したりして、1時間程過してから8時過ぎに、『ひろこ』へ再び行った。
 このレストランは、日本人経営であるが、従業員はイギリス人と日本人の半々ぐらいであった。高級レストランなのか、綺麗な着物を着飾った女将が恭しく我々を席まで案内してくれた。我々の席の担当ウェイターは、美男子のイギリス人で黒のスーツに黒の蝶ネクタイ、身なりはきちんとしていた。もう1人の担当ウェイトレスは、若い日本人女性であった。
 若者や一般庶民は、値段の高い高級レストランに殆ど見当たらない様で、このレストランもそんな部類に入る高級感があった。この店は、1階にテーブルが15台程で、各テーブルとの空間を充分とってあった。客入りは、7割程であった店内をぐるりと見回して、我々の様な若い人や日本人は誰も居らず、殆ど紳士淑女のイギリス人であった。私の前の席も50歳代の紳士数人が、日本通で酒の良さが分るのか、日本酒を盃で飲んでいた。
 ウェイトレスからメニューを見せられた時、私は迷った。天ぷらコース、お刺身コース、すき焼きコース、鮨コース等に分かれていた。それらのコースで更にスペシャル コースと並コースに分かれていた。私は出来れば安く、豪華に見えて美味しく、且つシーラが喜んで食べられそうな料理、コースを選ばねばならなかった。
選択は難しかったが、これらの条件を満たすのに、『並のすき焼きコース』をオーダーした。お通し、魚料理、昆布巻き料理、すき焼き、ご飯、味噌汁、おしんこう、果物、アイス クリーム、そして日本茶が出された。腹を満たすには充分な内容であった。
レストランを出る時に支払った食事代は、二人分5ポンド5シリング(約5,200円。この金額は私の賃金の一週間分)であった。
私は久し振りに日本酒が飲みたかったし、又シーラにも飲ませて上げたかった。しかし後先の事を考えると、これが私の精一杯の『もてなし』であった。 
 シーラは、箸を使って食べるのが初めてで、使い方はぎこちなかった。しかし美男子のウェイターが彼女に付きっ切りで、箸の使い方から料理一品ごとに説明してくれた。私は彼女に上手く日本料理の説明が出来なかったのでこの点、非常に有り難かった。余裕があれば、彼にチップを出してあげたかったが、日本式に出さなかった。
彼女は美男子のウェイターが付きっ切りでの食事は初めてであるのか、恥ずかしいやら嬉しいやらで、その顔はご機嫌、ご満悦の様であった。そんな彼女の顔を見るのは彼女に会って以来、初めてであった。彼女はレストランの雰囲気や日本料理を充分に楽しんでくれたので、彼女を連れて来た甲斐があり、私も本当に嬉しかった。
食事が終り、彼女が「自分の使った箸を、記念として持ち帰りたい」と言うので、使ってない箸を加えて2膳、希望を叶えさせて上げた。後日、ジャネットに会った時に、彼女は日本レストランへ行った事を楽しそうに話していたのがとても印象的であった。
私がロンドンを去る前、ジャネットを入れて3人でもう一度、来たかったが、経済的理由と決断力がなく、その機会を失ったのは悔いが残り、本当に残念であった。
 所で、今日私は食事中トイレへ行きたくなったので、地下階段を降りて行ったのです。地下に20畳程の和室があり、大勢の日本人が酒を飲んでいる光景を見てしまった。その数40人程、彼等は皆、ネズミ色の背広を着て、酔っぱらって顔を真っ赤にして外国単身赴任の憂さを晴らしているのか、「ワィワィガャガャ」大声を出して飲んでいた。その光景は、日本の養老の滝等の大衆酒場以下で、上と下のアンバランスが何とも皮肉で一瞬、ここがロンドンなのか、信じられなかった。高級レストラン気取をしているなら、大衆酒場で飲んでいる醜態達と同じトイレ(非常に小便臭かった)にすべきではないし、こんな醜い飲み方をしている日本人をロンドンの紳士淑女達に見せたくない、と思った。

シーラとの日々、そして、別れ~シーラの悲しそうな顔

2021-10-17 10:27:08 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
       △1961年自宅にての16歳のSheila Morgan、

                         シーラとの日々、そして、別れ

・昭和43年9月23日(月)曇り(シーラの悲しそうな顔)
 今日は月曜日で私の休みの日、そして部屋も見付かり、久し振りに心身共にゆったりとした気分で過すことが出来た。
 昼間、家族や友達へ手紙を書いて過した。特に先輩のOさんへ、大事なM&M乗船券変更手続きのお願いの手紙を書いた。M&M乗船券は、別途書留で送る事にした。
 夜、シーラの所へ遊びに行った。彼女はマミと同じ働き者で、会社の休みの土曜と日曜に、ロンドン郊外へアルバイトとして、オナーの馬のお世話をしに出掛けていた。私と彼女の仕事の関係で、会える都合の良い日は月曜日だけであった。誰も友達や知人がいない約50日間のロンドン生活が出来たのも、彼女に毎週月曜日に会える楽しみがあったからこそと思う。
 彼女はいつも笑顔で私を迎えてくれた。2人で食事をし、そして紅茶を飲みながらの一時が私にとって安らぎであり、『次週月曜日まで、又がんばろう』と思える時間であった。そして時に、彼女の友達・ジャネットも来て、一緒に食事をした。
彼女は毎回、私と腕を組んで駅まで送ってくれた。レストランの仕事は非常に忙しく、面白くないし、ロンドンの生活は誰とも話す人がおらず、孤独で寂しかった。だから余計に彼女とのそんな一時が、私にとって唯一の楽しみであった。私がいつもシーラの所へ行っていたが、私が誘っても、彼女は1度も私の部屋へ遊びに来なかった。
 所が、そんな私とシーラの付き合いの中で、今夜の彼女は時たま悲しそうな顔をするのを感じたので、如何したのかと尋ねた。すると彼女は「近く勤めている会社が倒産するので、失業になる」と言うのでした。
 彼女は仕事や結婚の事で、色々悩んでいるようであった。彼女の元気なさそうな、悲しそうな顔を見ると、私までも悲しくなってしまうのでした。「シーラ、元気を出して」と言うだけで、私には何もしてあげる事が出来なかった。
それでも彼女は、腕を組んでブレント駅まで私を送ってくれたが、いつもと違って今夜は悲しい(寂しい)駅までのデートであった。彼女に新しい仕事が見付かり、そして元気になってくれればと願うだけであった。
いつもシーラに食事をご馳走になっているし、元気になってもらいたくて次週の月曜日、私の招待で日本レストランへ行く事にした。
今日は慣れた乗換駅のKing’s Cross(キングス クロス)で、乗る電車を間違えてしまった。




私のロンドン生活~暇な時の話

2021-10-16 06:33:25 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
       △ハイドパーク(PFN)

・暇な時の話

 毎週月曜日の休みの日は、近所やロンドン中央の公園へ、よく散策に出掛けた。陰うつな天候で暗い部屋に居ると、余計に寂しさを感じたので、外出したのもその為であった。
 外へ出掛けると、必ず何処かの公園か広場(square and circus)に辿り着いた。それ程ロンドンは大都会にも拘らず、公園や広場が多かったので、「公園都市」と言っても過言ではなかった。それに皆立派でよく手入れもされていたし、ゴミも落ちていなかった。イギリス人は公共道徳がある証なのである、と感じた。
 ロンドンの代表的な公園は、リージェント パーク、ハイド パークやケンジントン パーク等があった。これらの公園は、広いので一回りするのにかなりの時間が必要で、余ほど時間があるかジョキングをする人以外、一回りする人はいないであろうと思った。
ロンドン市民は、サッカー、フットボール、乗馬、読書、散策、夏季は日光浴等、色々な方法で公園を楽しんでいた。そんな公園に小鳥は勿論、リスも住んでいた。公園は本当にゆったりとした時間が流れていて、彼等を見ていると「本当に日本人は、忙しく働いていて、落ち着かない人種だ」と感じた。
シーラの話によると、これらの公園は昔、王室の所有であったそうだが、今では庶民に開放しているとの事であった。

私のロンドン生活~買い物の話

2021-10-15 09:06:54 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・買い物の話
 八百屋、魚屋、そして雑貨屋も近くのHighbury Street(ハイバリー通り)にあるので、買物は不便でなかった。しかし野菜や魚の種類は日本より少なかった。特に野菜の種類は顕著であった。
 イギリスは、〝アメリカ式ストア〟(スーパーマーケット)の近代的な店ではなく、個人経営の従来の店舗型であった。スーパーマーケットは北欧やドイツで見掛けたが、その他の国では見掛けなかった。
 買物は1人生活なので量に於いて不便さがあった。1度何かを買うと何日も残った。特に食パン(一斤。こちらは防腐剤が入っていない)を買うと2・3日でカビが発生し、勿体ないが捨てた事も度々あった。
 買物時の失敗談と言うか、チョットした事があった。それは・・・・。
下町の郵便局へ行った時、マッチが売っているので、私はそれを買おうと思った。局員のおばさんに、「Match, please」(マッチを下さい)と言ったら、そのおばさんは、「・・・マッチ?」と言って私の言った言葉が分らないのか、考えている様子であった。私はマッチを擦る手真似をしながら、再び「Match, please」と言った。そのおばさんは、「Oh, matches」(分りました。マッチ箱ですね)と言って、私にマッチ箱を差し出しながら「This is matches, no match」(これはマッチ箱で、(一本の)マッチではありません)と言ったのだ。我々のやり取りを見ていた周りの人達は、可笑しそうな顔をしていた。私の顔は恥ずかしさで赤くなった感じがした。そして局員のおばさんから恥をかかせられたようになり、腹立たしさを感じた。
英語の複数で成り立っている単語は、複数形で発音すると言う事ぐらい知っていた。しかしマッチ1本を買いに来るバカがどこにいるかと思うのだ。「Match」と言われて、「A box of matches」を連想出来ないイギリス人の融通のなさ、機転のなさが証明された様なものであった。日本であったら、「マッチ下さい」と言ったら、店員は黙って一箱のマッチを出す。マッチ1本出す店員は100%いない。日本では要するに、『マッチ一箱』でも『マッチ』でも同義語なのだから、イギリスでも同じに連想出来ないのか、如何であろう。
頭に来たからと言って、怒る程の事ではないが、それについて議論する英会話力がない私なので、悔しいが「Thank you」と言って引き上げざるを得なかった。
 それから似た様なケースが後一つあった。それは・・・。 
歯磨き粉も練歯磨も、私は日常生活に於いて「歯磨き粉」と言っていた。そして練歯磨は子供の頃、無かった。
いずれにしても、『その歯磨粉』が使い終わった。買いに行くのにその単語が分からず、和英辞書で調べた。辞書には、『toothpowder, dentifrice, toothwash, toothpaste, toothcream, dentalcream』と色々載っていた。
 ハイバリー通りの雑貨屋(野菜も売っている)へ行って、いつも使っている様な歯磨き粉がないか、店の陳列棚を一回り見たが、見当たらなかった。それで男性店員に一番言い易い単語で、「Toothcream, please」と言った。しかしその店員は?不思議がって、理解して貰えなかった。それでは二番目に言い易い単語で、「Toothpowder」と言ったが、又も店員は分からず、『・・・?』と考えていた。さぁー弱った、あとの単語を忘れてしまったのだ。
仕方なく私は、「I want something to brush my tooth」(歯を磨くのに必要な物が欲しいのですが)と言ったのだ。すると店員は、「Oh! toothpaste」(オー、練り歯磨きですね)と言って、ある陳列棚からそれを取り出し、私に渡してくれた。
 私の発音が悪いのは、最初から承知していた。不思議なもので、辞書に出てくる単語が実際に通じなかった。英会話に於ける単語の使い方は、その時の内容や状況によって、色々と区別されるのだ。
そしてここでも店員の融通や機転が無かった。『一歩突っ込んだ考えが無いのか』と疑いたくなった。彼等はお客さんに言われた事を考え、「それは何ですか」、「どんな時に使うのですか」、或いは「toothpowder(歯磨き粉)はありませんが、paste(練り用)ならありますよ」等、お客さんが何を求めているのか、分らなければなぜ質問しないのか、それが不思議であった。要するに彼等は、前向きな売り方が足りないのであった。裏を返せば、品物を積極的にお客さんに売りたくないように受け取られた。否、イギリス人は概して『積極的にお客さんに商品を売ろう』と言う姿勢が足りない、と感じられた。
 しかし、「融通や機転が無いから、彼等は不親切であった」とは言ってないのだ。彼等は、親切であった。ただ、融通、機転が『今一』なのであった。

私のロンドン生活~ミルスおじさんの話

2021-10-13 21:16:25 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・ミルスおじさんの話
 あの日(1968年9月21日)の深夜、泊まる所が無く困り果てて通りを歩いている時、ミルスさんに会わなかったら、今頃はどうなっていたか分らなかった。彼はシングル ベッド一つにも拘らず私を泊め、朝食を作ってくれて、直ぐに今の部屋を探してくれた。命の恩人に値する程に恩があり、私のロンドン生活が出来たのも、彼のお陰であった。
 彼に親切、恩を受けておきながら、仕事や生活が落ち着かなかった理由があったがその後、直ぐにお礼に行かなかったのは、本当に私の怠慢であった。
決して忘れていた訳ではなく、『近い内にお礼に行こう』といつも思っていた。11月11日頃、ロンドンを去る予定であったので、11月に入って直ぐ、食料品を買って、それを手土産に彼の所へ行った。しかし、折角行ったのに留守であった。隣の部屋に住んでいるおばさんに、ミルスさんの状況を聞いたら、「彼は病気の為、病院に入院している」との事であった。見舞いに行きたいので、彼が入院している病院の住所を教えて貰い、その日は帰って来た。
 しかし、私の不義理で見舞いに行く機会すら持たず、ロンドンを去る日が来てしまった。恩を受けて、お礼方々お見舞いに行く機会すら持たなかった私は本当に心苦しく、そして残念な気持でイギリスを去らねばならなかった。
 勿論、帰国してから礼状を出しました。以後、時々文通をしていましたが、それから3年後、治療虚しく持病である心臓病の為、南イギリスのある所で亡くなりました。ミルスおじさんのご冥福をお祈り致します。

私のロンドン生活~食事作りの話

2021-10-13 09:15:47 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・食事作りの話
 1人生活では、何と言っても億劫なのが食事作りであった。オックスフォード ストリートのレストランで働いていた時は、お店で夕食が食べられたので、部屋で朝昼兼用の食事で済ませていた。又、ボンド ストリートのレストランの時は、昼食と夕食が食べられたので、部屋で軽朝食を食べてから出掛けていた。
 「朝昼兼用」や「軽い朝食」と言っても、それは貧しい食事であった。ジャガイモを煮て、皮を剥き、マーガリンを塗り、それにパンとコーヒー、時にゆで卵を付けた食事が主であった。偏った栄養だが『量と栄養はレストランで』と言う考えでしたので、それで充分であると思っていた。
 仕事が休みの月曜日は、いつも10時過ぎまで寝ていて、それから朝昼兼用の食事を作っていた。その休日の兼用の食事は、少し豪華にして〝スペイン風お好み焼き料理〟(スペインで食べた「トルティージャ」と言う訳に行かないが)、パンそしてコーヒーで栄養、カロリーとも充分な内容であった。
 このスペイン風お好み焼き料理とは、私がスペインへ行った時に食べた料理が気に入って、それを真似して作った私のオリジナル料理であった。作り方は卵3~4個を割って良く掻き混ぜ、その中に蒸かしたジャガイモをほんの少し細かめに(細かくではない)輪切りに切り、それを混ぜた卵の中に入れ、それと少し炒めた野菜(キャベツと玉ねぎ)と肉の代わりにソーセイジも卵の中に加えて良く全体を掻き混ぜてから、お好み焼きの様にフライパンで焼いた料理であった。味付けは、醤油・ソースがないので塩とコショウであった。かなり大きめな料理なので中までよく火が通るように、両面を等しく焼く(焦がしては駄目)のがポイントであった。
スペインで食べたトルティージャの様に作れなかったが、これが結構旨かった。しかし休みの都度に作っていたので、最後の頃は飽きたのも事実でした。
肉や魚料理は、ロンドンを去る前の日に2回作っただけであった。

私のロンドン生活~寂しさの話

2021-10-12 13:57:29 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
   △ハイドパークのスピーカーズコーナー(PFN)

・寂しさの話
 私のロンドンでの生活は、話し相手がシーラ以外、誰も友人知人が居なかったので、孤独であり、寂しさもあった。又、必要最低限以外、お金を使えないので娯楽や食事も楽しめず、おまけにテレビやラジオも無いので、虚しかった。それに輪を掛けて毎日、陰うつな天候が続き、孤独と寂しさに拍車を駈けていた。
 私の寂しさを癒してくれたのは、時たまパブへ行ってビールを飲んだ事、シーラの心使いで週に1度、彼女の所へ遊びに行けた事、そして日本から来る先輩のOさんや友達の手紙でした。私もまた手紙を送ってもらえるよう、まめに手紙を書きました。返事の手紙がそろそろ来る頃の9時半前後、1階の郵便受けに手紙が配達されているかどうか、ちょくちょく見に行ったものでした。手紙が来ていると本当に嬉しく、日本を懐かしみながら(望郷の念とは違う)何度も読み返した。
 所で話は変わるが、何ヶ月間(10/1の大金以外、3ヶ月間)も日本語を話さないと、人は「言葉に飢えたり、活字に飢えたりする」と言う事を知らなかった。多分、世界の人達も同じだと思った。
しかし、だからと言って折角外国に来たので、ロンドン滞在中や旅行中、日本人に積極的に話し掛けたり、日本人だけで群れをなしたりする様な事は嫌だったので、私は敢えてしなかった。 

私のロンドン生活~「霧の都ロンドン」の話

2021-10-11 08:52:04 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・「霧の都ロンドン」の話
 ロンドンの天候は、毎日どんよりした曇りの日が多く、時々、小雨が降った。晴れた日は、私がロンドンに滞在するようになってから1・2度だけであった。
毎日毎日、曇りか小雨では憂鬱(ゆううつ)で、心も晴れなかった。しかしロンドンは例え雨が降っても小雨のなで、余り傘の必要性は無く、そして降っても1日中降り続く事はなかった。
 ロンドンは、よく「霧の都」と呼ばれていた。私も当地に来るまで、霧の日が多いと思っていたが、霧の日はなかった。シーラの話では昔、fire place(暖炉)に薪や石炭を使用して暖を取っていたので、その煤煙の影響で霧が発生した様な空模様になった、と言っていた。確かに厚い雲が建物の屋上まで垂れ下がった様な状態で、若しくは小雨で各家庭や会社・公共の建物から出される煤煙が加わったら、正に濃霧の様な状態になったのだ。地形、地理的に於いてもロンドンは霧の発生し易いと言われ、昔は霧の都ではなく、「暗黒の都」とも言われていた。そして先が見えず、自動車同士の衝突も多かったそうだ。
 今では暖を取る為の燃料に薪や石炭の使用は禁じられ、暖炉の所にガスストーブが置いてあった。私の部屋もそうだし、シーラ、ジャネット、ミルスさん、そしてここの大屋の部屋も、皆ガスストーブになっていた。しかしシーラの田舎では、まだ石炭を使用していた。しかし暖炉にはやはり薪が似合うかもしれません。

私のロンドン生活~私の部屋の話

2021-10-10 08:52:02 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
      △2階に住んでいたMarian Watts(マリアン ワッツ)
         
          My life in London(私のロンドン生活) 
・私の部屋の話
 9月21日の深夜、アルベート ミルスさんに出逢えたお陰で彼が翌日、週3ポンドの部屋(住所は5 Arvon Road Highbury London N5)を探してくれました。その部屋は、地下鉄ピカデリー ラインのHolloway Road (ホロウェイ ロード)駅を下車し、駅前のホロウェイ通りを右方面へ、暫らくすると左側にアーボン通り(ロンドンはどんなに短い、狭い通りでも名称がある)があり、その通りの住宅街の一画、四階建て建物(建物の名称はAnticipate Angel)の3階、駅から10分であった。
 ロンドン中心地まで電車で23分程、アクセスは良かった。部屋には洋服ダンスから鍋や食器類まで揃っていて、その日から直ぐに生活する事が出来た。ただし、テレビ、ラジオ、洗濯機、冷蔵庫は無かった。
 家主は、イタリア系の夫婦と10歳位の女の子が一階に住んでいた。2階にはどんな人が住んでいるのか、私がロンドンを去る4日前まで知らなかった。もっと早く気が付けば、もっと早く彼女(名はマリアン ワッツ)と仲良くなっていれば私のロンドン生活は、もう少し潤いがあったかもしれなかった。4階はアメリカ人夫婦が住んでいたが、顔はアメリカ系ではなく、ラテン系の感じであった。
 トイレは、2階と3階の中間にあり、不便を感じたが、2階と4階の人とかち合った事は一度もなかった。
 バス ルームにバスとシャワー設備があったが、暖かいお湯は栓を回しても出て来なかった。ガスの元栓は家主の方にあって、家主へ申し出て使用する事になっていた。そんな理由で週3ポンドの他、バス使用料は別途に取られた。1度バスを使ったが、湯の量が少なくバスにゆったり浸かれなかった。余りにもバスの湯が少ないので、家主に言ったら、1階から洗面器でお湯を持ってくる始末なので呆れてしまった。お金を使いたくないし、そんな事もあってバスを使わず、時々ガスで湯を沸かして頭を洗い、身体を拭いて済ませていた。  

私が見た事・感じた事 in London~ロンドンのバスの話

2021-10-09 14:24:37 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
                    △ロンドンのダブルデッカー バス(PFN)

・ロンドンのバスの話
 ロンドンにはアンダーグラウンド(地下鉄)の他に、もう一つ足の便がある。それは例の「ダブルデッカー バス」と言って、赤い二階建てのバスの事です。
古い歴史的な建造物の間を縫うように走る赤いバスは、一際目立ち、正に絵になる様な光景であった。私は10数回程度しか乗車経験がないが、ロンドン名物の赤い二階建てのバスについて、その感想を書いて見る事にした。
 地下鉄と違って、私はバスの乗車はいつも不安であった。行き先が分らず、例え分っていても自分の降りる停留場が分からなかった。叉、日本の様に車掌の案内もなかった。地下鉄すら放送をしていないので、バス車掌の案内などあり得ないのだ。
私の場合は、地理不案内の為、いつも車掌(大柄のアフリカ人男性が殆どであった)の傍に座って、「どこそこへ行きたいのですが、着いたら教えて下さい」と言ってお願いをしていた。車掌にお願いしたからと言って、不安は解消されなかったし、2階へ昇って景色を楽しむ余裕など全く無かった。2階へ昇ったのは、シーラの友達のジャネットの所へ行った時に乗っただけであった。
 不案内の乗客に対して車掌は、親切であった。私が不安になって、「どこそこはまだ着かないですか」と聞くと、「着いたら教えてやるから、ゆっくり座ってなさい」と言ってくれたり、身振り手振りで合図してくれたりしてくれた。それでいて大勢の他の乗客を扱って忙しいのに、着いたらちゃんと教えてくれた。私はこんな時、有り難く思うし、職務を全うしているのだ、と感心させられた。    
 バスの切符は、乗ったら車掌に行き先を言って買うのだ。すると車掌は、腰に巻いた切符発行機をキリキリ回して切符を売ってくれた。それは、車掌にとって大変な仕事の様であった。バス停から乗った乗客の一部は、切符を買わずに1階や2階の席に座ってしまう。車掌は今乗った客を目指して、「只今乗った方は申し出を、切符を発売します」と言いながら、階段を上り下りして切符を素早く売りまくっていた。
『申し出しないで無賃乗車しよう』と思っても周りの眼があるし、又そんなケチな了見を持っているロンドン子はいないのだ。常に2階へ行ったり下へ降りたりして、切符を売り廻る車掌の仕事は、私は重労働に見えた。
 このダブル デッカー バスは、『定員数』を越えると乗せてくれないが、特に車掌権限で定員を超えて、乗せてくれる時もある。朝のラッシュ時は満員の場合、停留場で降りる人がいなければ、乗る人がいても通り過ぎてしまう。私もその様な状況に出くわした事があったが、誰も文句を言う人はいなかった。
 バスの乗降口は、一番後ろでステップが一段低く広くなっていて、乗客はそこから乗り降りする。人によっては、バス停留所でない場所で、例えば信号が赤で止まっている時、曲がり角で速度が落ちた時等で、平気で乗り降りしていた。又、車掌は危ない行為をした人に、注意もしなかった。乗客の責任に於いての行為は、万一怪我をしても乗客の責任なのだ。個人の権限と責任、車掌の権限と責任がはっきりしているようであった。
日本の交通労働者は、守備範囲は広く、権限は誠に不明瞭で、責任だけがどっしりと圧し掛かっていた。乗客が危険な乗車や降車して怪我をすると、車掌又は運転手に大きく責任が掛かり、時には業務上過失致死傷罪で逮捕される事もある。
 「交通の主体は交通労働者にあり」の概念は、やはりイギリス特有なものであろう。