YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

キブツ仲間と相撲を取る~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-25 06:24:20 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月26日(木)雨後曇り(鶏小屋の清掃作業)                        6時に起きた。雨が降っていたので、今日のジャガイモ収穫作業は中止になった。その代わり朝食後、作業は鶏小屋の清掃作業になった。臭かったが、我々は小屋をきれいにした。
 作業後、私は相撲のルールを仲間に教え、相撲を取った。勿論、私は皆に勝ったが、馬鹿力のあるジョンだけには上から羽交締めされ、相撲ルールにない技でギブアップして負けた。

キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その2)~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-24 07:23:58 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)
 (その1)からの続きです。その1はキブツの仲間達とキリスト降誕の地・ベツレヘムに来ました。降誕キリスト教会とキリストの生れた洞窟室を見物しました。以後(その2)になります。

 この後、我々キブツ仲間はレストランへ行ってビールを飲もうと言う事で、ある店に入った。店は大勢の人で混んでいたが、「小瓶1本1ポンドは高い」と言う事でその店を出て、60アゴロ(52円)で飲める他の店を見付けた。ここの店と最初の店とは大して変わらないのに、どうして値段が余りにも違うのか。アラブ人は人を見て値段を替える、油断出来ない民族の様であった。
  ベツレヘムは、六日戦争(第三次中東戦争)前までヨルダン領であったので、顔を白い布で覆った多くのヨルダ人を見掛けた。レストラン経営者や従業員もアラブ人(パレスチナ人、ヨルダン人)であった。イスラムの世界では、「アルコールを販売してはいけない、飲んではいけない民族」と聞いていたが、イスラエル領になって、欧米人にビールを販売する様になったのか。聞く所によると、「ヨルダンの首都・アンマンでさえ全くアルコール類は無い」と言うのであるのに、ベツレヘムではその方面に於いてイスラエル化、商業化しているようであった。                                                                                                                                                                                                                                                              
我々の仲間は次第に別々に分かれて行動し、私の傍にキブツ仲間は誰も居なくなってしまったので、私も店を出た。降誕教会前の広場は、相変わらず混雑していた。ビールで酔っ払ったのか、多くの欧米人の若者は、「メリー・クリスマス」と言ってバカ騒ぎをする者、或は若い女性に抱き付きハシャイデいる者も現れた。真のクリスマス イヴ、或は厳格なクリスチャンは、イブにバカ騒ぎ、乱痴気騒ぎをする夜ではない、と言う事を私は承知していたが、ある反面、欧米人は陽気で屈託がなかった。所で、日本人は勿論、欧米人の一般旅行者は、誰も見かけなかった。
 帰りの件について、キブツの人からも仲間からも、何にも聞いていなかった。私は当然、『今夜、皆と一緒に帰る』とばかり思っていたので、気にしてなかった。広場周辺は大勢の人で賑わっているが、狭い地域であるから、仲間を捜せば直ぐ見付かるであろうが、私は強いて捜さなかった。
 私は再び店に入った。所で、ここの全ての店は、我々がイメージしている様な(上品な)店ではなかった。雑然としていて、安そうなテーブルとイスがただ置いてあるだけで、飾りも何も無かった。そして店の明りは薄暗い裸電球がポツン、こちらにポツンとぶら下がっているだけで、店内は薄暗かった。この辺りは一等地、しかも由緒ある教会やキリストの生まれた場所の近くで、この様な店だけであった。歴史あるこの町は、まだ(国際的に)観光地化されてなかった。
 私は、雑然したそんな店のテーブルに座っていたら、アテネの空港で出会い、テルアビブまで一緒の飛行機に乗り合わせたシーラおばさんが、知人の方らしい人と共に店へ入って来て、私の前を通り過ぎた。ベツレヘムのこんな所の店でシーラおばさんに会えるなんて、私は夢にも思わなかったので一瞬、眼を疑った。しかし確かにシーラおばさんだ。ここで出会えるなんて、とても不思議な感じがした。
私は大きな声で「Mrs. Sheila」と叫んだ。彼女も気が付き、私に近づいて来た。我々は手を取り合い、再会を喜び合った。「ハイ、Yoshi。又会えて嬉しいです。今、何をしているのですか。」と彼女。
「私も再会出来て嬉しいです。ハッゼリムキブツに滞在しています。今日、私はキブツの仲間とクリスマスイヴを過しにここに来ました。」と私。
「そうですか。大いに楽しんで下さい。エルサレムに来た時は寄ってください。私の住所を知っていますよね。」と彼女。
「はい、住所を書いて貰ったメモを大事に持っています。」と私。
「今夜は連れが居ますので失礼しますが、ビールでも飲んで下さい。」と言って店員に私の為にビールを注文してくれた。
 世の中は狭いとはこの事なのか。そう言えば、鈴木と言う日本人と共にヴェネチア観光をしたカナダ人のアーロンと先程逢ったばかりであった。彼とはアテネでも逢っているので、これで3回目であった。この時、私はキブツの仲間達と飲んでいたし、アーロンも気を使ってくれたのか、お互い「ヤアー」と言って手を上げただけであった。 
  ベツレヘムは寒いので、私は夜を明かすつもりはなく、ヒッチで帰る事にした。夜の11時を過ぎていたにも拘らず、ベツレヘムの町は賑わっていた。雑踏を通り抜け、エルサレム方面の夜道を歩いていたら、郊外で同部屋のピーターが前を歩いていた。彼も同じ様に一晩過ごす気分になれないので、「ヒッチで帰る」と言うのだ。我々は一緒に帰る事にした。                                       
 深夜のヒッチは効率が全く悪く、5時間30分以上費やし、翌朝ベエルシェバの郊外に到着した。郊外からキブツへ行く道をトボトボ歩いていたらバスが遣って来たので、二人はそのバスをヒッチしてキブツ前に辿り着いた。                                                                   
 深夜のヒッチで寝不足、疲れていたので、今日25日は一日中ベッドの中で過ごした。他の仲間達は何時に帰って来たのか、分らなかった。25日は特に休みの日でないのに、我々仲間は誰も作業に出なかった。

キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問(その1)~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-23 14:20:02 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月24日(火)晴れ(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問)
 今日はクリスマス イヴであった。所がイスラエルはキリスト誕生の地・聖地にも拘らず、休みどころか普通と変わりなく、我々はジャガイモ収穫作業をしなければならなかった。ガッカリしたのは私だけでなく、他の仲間達も同じであった。
 お昼に食堂へ行くと、「夕方、Bethlehem(ベツレヘム)へ連れて行って貰えるから、午後の農作業は早めに終り」の情報が届いた。皆大いに喜びで、午後の農作業に従事した。
 作業は3時前に終った。シャワーを浴びた後、他の仲間と共に食堂前に集合した。キブツから1人6ポンドのお小遣い(原則キブツは無賃金で、この様な事は最初で最後)、そしてイスラエル軍及びベツレヘム陸軍総督のクリスマス セレモニーの招待状が手渡された。管理者から「招待状は、身分・安全を保証される物であるから、決して紛失しないように。」との注意があった。
 私は仲間のピーター、フランク、ジョン、ロス、フレッド、エンディ等と共にキブツのマイクロ車に乗り込んだ。私は聖地・ベツレヘムでのクリスマス イヴ、そしてベツレヘムとはどんな所なのか、大いにワクワク感があった。キブツで働くイスラエル人は、ユダヤ教徒なので運転手以外、誰も同行しなかった。
 ベツレヘムは、イエス キリストの降誕の地、エルサレムから15キロ程南下したヨルダン川西岸地域にあり、昨年の六日戦争で占領した古くから存在する町であった。我々の車は、一端北上してエルサレムへ行き、エルサレムで他のキブツ滞在者の人達と共にバスに乗り換え、南下した。
 エルサレムへの途中は、快適なドライブであったが、エルサレムからベツレヘムへは、警察や軍の厳しい警戒に度肝を抜かれた。ベツレヘム郊外で軍の検問所でバスは停車した。すると自動小銃の銃口を我々に向けて、複数の兵士がバスに乗り込んで来た。兵士達は我々の手荷物検査や車内点検をする一方、他の兵士達がバスの車体下まで点検していた。今まで経験した事もない、見た事もない厳しい警戒態勢に私はビックリした。この厳しい検査、点検は、ベツレヘムの町へ入る手前で、もう一度行なわれた。
 我々は、町に入って直ぐバスを降り、町の中心地へ歩いて行った。既に薄暗くなっていたが、街角(交差点)と言う街角全て、装甲車や土嚢を積んで陣地を作り、機関銃を構えていつでも撃てる体制をして、多くの兵士が睨みを効かせて警戒していた。警備・警戒状態は、そればかりではなかった。あちらこちらの建物の屋上から、機関銃の銃口が通りの群集に向けて構えられていた。まるで戦争中であるかの様に感じられた。無理もない、ここは6日戦争で占領したヨルダン川西岸の町、安全・安心できる地域でないと言う事、イスラエルはまだ臨戦態勢中であった。そんな状況であったが、周りの建物は古風的に溢れ、中世のアラブ世界そのものを感じた。石造りの古い教会(降誕教会)やイエス誕生の建物前は広場になっていて、そこを中心にその周辺地域は、老若男女の訪問者や欧米の若者達で賑わっていた。ただし外国人一般観光旅行者は見られなかった。
 我々はその教会を参拝した後、キリストが誕生したと言われる建物に入った。建物内部を入って行くと、裸電球が点いた薄暗い洞窟になっていて、我々は頭を岩にぶつけない様に腰を屈めて進んだ。さらに進みその奥に『馬小屋らしき跡』があり、そこがイエス キリストが生まれた場所とされていた。そこはかび臭さと古い歴史感が漂う、何の飾り気も無い、ただの『馬小屋の跡』(「キリストは馬小屋で生まれた」と言われているので、私も馬小屋の様に見えた。)であった。
 しかし実際は馬小屋で生まれたのではなかった。ここにキリスト生誕について、ほんの一部を記して置く事にした。
[BC4年、ナザレからヨセフとマリアは住民登録の為、ベツレヘムに来ていた。泊まる宿が無かった彼等は、ナザレで自分達が住んでいるのと同じ様な洞窟を見付けて仮の宿とした。冬だから追い込まれた羊や山羊が回りに蠢(うごめ)いていたことであろう。仮の宿とする事が出来たのは、その家畜の群れの主人である羊飼いの温情のお陰だったかも知れない。
 その夜、おさな児(キリスト)は、ユダの山里なる洞窟で産声をあげた。おりしも冬であったから洞窟の外では、尾根越しに冷たい風が唸りをあげていた。母は布に包んで寒さ凌ぐ為に『飼い葉桶』に寝かせた。
 飼い葉桶からの連想が『馬小屋』を生み、実際に馬小屋を作り、生きた牛や馬を使って降誕祭(クリスマス)を祝い始めたのは誰であろう、アッシジのフランシスコ(1181~1226年)であった。これがルネサンス絵画を通して世界中に広まり、私達の脳裏に焼きついたのだ。
 イスラエルのユダ、サマリア、イドマヤの山々に木らしい木は無く、石灰岩質の地盤だから洞窟が多い。そういった洞窟が住居ともなり、仮の宿とも、冬場の雨風を避ける家畜小屋代わりともなっていた。現在も羊飼い達が、羊や山羊を天然の洞窟に追い込み、共棲している光景によく出会う。・・・・][ ]内は、著者・河谷龍彦の「イエスキリスト」(河出書房新社)より。
 実際にイスラエルの自然環境は、10キロ、20キロたらずで変化する。ベツレヘムは、ハッゼリムキブツから60キロ程北(地中海から50キロ内陸部)、標高600~700mの山岳地帯である。昼間の農作業中は温かい陽気であっても、夜は寒い。ましてここベツレヘムは特に寒く、私は我慢が出来ないので、夜中にキブツに帰らざるを得なかったほどであった。
 そんな事で冬暖かく夏涼しい洞窟は、羊飼い、羊、そして一時的な宿としての旅人にとっても最適な空間と言えた。馬と言えば、馬は多量の草や水を必要とするので、砂漠地域では適さないのだ。砂漠の地域に馬はいないのだ。これは2,000年前も変わらないと思う。それに洞窟内の天井が低いので、馬が背を屈めて出入りしたのか。我々は背を丸め、腰を屈めて洞窟内を歩いた。羊用の飼い葉桶からいつの間にか馬の飼い葉桶、そして洞窟から馬小屋になってしまった。いずれにしてもクリスマス イヴにキリストの聖地・ベツレヘムに、又その誕生の場所にも来られた事は、イスラエルに来た甲斐があった。
*その2へ続く(明日掲載します)

 

ジャガイモの収穫作業~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-22 09:08:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月15日(日)晴れ~23日(月)晴れ(ジャガイモの収穫作業)
 7時前に起き、食事をしてからジープに乗ってジャガイモの収穫作業に行った。9人も一緒にジープに乗ったので、ぎゅうぎゅう詰の状態であった。
 ジャガイモ畑は広く、そしてその向こうは、木一本もない半砂漠の小高い山並みが幾重にも連なっていた。ジャガイモ収穫作業は、キブツ人が大きなトラクターを運転し、掘削機見たいな機械でジャガイモを掘り起こし、振いに掛けてベルトコンベアーで運ばれて来たジャガイモと共に泥の塊や石ころが混ざって来るので、我々の作業は左右に分かれ、その泥の塊や石ころを手で取り除く作業であった。そしてベルトコンベアーの先に麻袋が設置されていて、ジャガイモだけが袋の中へ入って行く様になっていた。従って我々が手を抜くと、泥の塊や石が混ざってジャガイモ袋に入ってしまうので、機械とベルトコンベアーが動いている間は、手を休める事が出来なかった。
 いずれにしても、荒地・砂漠化した土地を開墾し、最近ジャガイモ畑にしたらしく、石がまだたくさんあったし、畑そのものもが、まだ充分耕されていない状態であった。作業は、中腰の前屈みの状態でするので腰が疲れ、又作業を半日しているだけで、顔が土埃で真っ白になってしまった。11時近くになると、私はお昼が待ち遠しかった。
 お昼は一端キブツへ戻り、手や顔を洗ってから昼食を取った。労働をしていると、食事や休憩時間は尊いものであると感じた。今日12月15日の昼食は、ハムカツにご飯が出た。午後の作業は1時から始まり、終りはいつも3時半から4時頃であった。一日の労働が終るとホットした。
 それからここ1週間、作業内容は変わらず、ジャガイモ収穫の泥石の取り除き作業であった。毎日天気が良く、温暖な気候であった。12月中旬になっても日中は裸になっても寒くなかった。                         午前10時と午後2時の休憩の時は、私と同じ一時滞在者のアメリカ人、カナダ人やヨーロッパ人の仲間との語らい、或いはふざけ合うのも楽しいものであった。又、畑の真ん中で裸になって寝そべり、澄み切った空を見上げるとスカッと感じた。
 我々がそんなノンビリした状態であっても、警戒態勢なのか、上空には複数の戦闘機がいつも飛び交っていたし、遠くの方で時々砲撃音が聞こえていた。国境周辺では戦闘状態が続いているのか、そう思うとここは大丈夫なのか、チョッピリ不安であった。
  23日(月)の夜、フランクとピンポンをして過ごした。部屋に戻ったら、キブツから有り難い事にクリスマス・プレゼントとして各自1本、ブランディーが支給され、嬉しかった。

イスラエルの休日の日~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-21 15:21:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月14日(土)晴れ(イスラエルの休日の日)
 今日はユダヤ教の教えから来るユダヤ人のシャバス(安息日)の日で、公官庁、商店、レストラン等も休みの日であった。しかし、休みの日でもキブツの食事担当の人は働いていた。その代わり振り替えて休める。日曜日は労働する日で、一週間で土曜日だけが休みであった。従って、一時的滞在者にとってもキブツ人にとっても土曜日は、貴重な日であった。
  その最初の休みは一日中、本(深田久弥の「中東の砂漠を自動車で走破」)を読んだり、日記を書いたり、イギリスの友達(シーラ、マリアン、ジャネット)、日本の友達そして家族に手紙を書いたりして過ごした。手紙を書くのは1ヶ月振り、否それ以上であった。
 後日、N君の手紙によると、私がイスラエルのキブツに居るとは想像外の様であったらしく、彼は私が船で帰国途中(予定通りなら、そうであった)だと思っていた。

キブツでの最初の労働~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-18 14:10:22 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月13日(金)晴れ(キブツに来て、初めての農作業)
 昨日の午後にキブツに入り、今朝、早々キブツの人に6時前に起こされ、食事前から温室内の穴掘り作業をキブツ人と共にした。
 午後は鶏小屋で鶏の糞や小屋の清掃作業に従事した。私と同年配位のキブツ人との作業で、言葉が通じ合わず、気疲れと久し振りの労働で疲れた。                                                                 
 夜、深田久弥の「中東の砂漠を自動車で走破」の本を読んで過ごした。この本は先日、長倉から貰った本だが、後日何処かに紛失してしまった。

共に働いたキブツの仲間達の話~ハッゼリムキブツ滞在

2021-12-17 08:35:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
△ハッゼリムキブツの私の部屋の前にて~左からナンシー、私、そしてジョアン。
 木が見えるその後方は何も無い砂漠であった。

・共に働いたキブツの仲間達の話
 私の部屋の仲間は2人居た。1人はFrank(フランク)、もう1人はPeder(ピーター)と言う人でした。フランクは、北アイルランド出身の田舎者、髭を生やし、少し太り気味、海賊バイキングに似ていた。彼はイギリス人であるが、アイルランド系なので訛りのある英語を話していた。彼は読書が好きなのか、よく本を読んでいた。少し意地が悪く、私はフランクを好かなかった。ある日、フランクと話をしている時、何度か「Is that so ?」と言ったら、彼が「Is that so ?は日本語で何と言うのか教えてくれ」と聞くので、日本語で「『(あ、)そうですか』と言う意味です」と教えた。その後、彼は事あるごとに「あ、そうですか」とバカの一つ覚えで、口癖になっていた。何回も言うので、私はバカにされている感じがして来た。そして終に12月28日、彼と喧嘩をした。
 ピーターは、ノルウェー人で背が高く色白であった。彼の歳を聞いた事がないが、見た目は20歳以下、おとなしい人であった。クリスマス イヴにベツレヘムへ行った帰りそこから深夜、彼とキブツまでヒッチして帰って来た事はイスラエルの思い出となった。
 その他の仲間で、Andy(エンディ)と言うカナダ人とは、一番仲が良かった。彼は責任感が強く、他の仲間は元旦ズル休みしたが、彼と私だけは作業に従事した。食事や農作業時、私はいつも彼と共に行動していた。彼は良き話し相手であったし、中東の旅についてアドバイスをしてくれた。又、フランクと喧嘩した時、私の味方をしてくれて、良き理解者であった。彼は帰国後、数年してから日系女性と結婚した。
 John(ジョン)と言うアメリカ人も居た。彼はゴリラに似た赤い顔をして、力があった。又、我々仲間の中心的存在で、気持の良い男であった。ある日、私は仲間に相撲のルールを教え、彼等と相撲を取った事があり、仲間の皆を投飛ばした。しかしジョンと相撲取った時、下に潜ったら上から力強く両腕を抱え込まれ、身動きが取れなくなり、その内に首が痛くなってギブアップ(降参)してしまった。彼は私より一回りも二回りも大きくその上、馬鹿力があった。それから1週間ぐらい首筋が痛かった。怪我をしてからでは遅いので、外国では余り無理をしない方が良いと反省した。相撲を取った感想として、彼等(ジョン以外)は、日本人と違って、腰が弱い事が分った。
  Bart(バート)と言うオランダ人も居た。ボクシングが好きで、私とよくボクシングの真似事をしていた。彼曰く、「Yoshiには相撲では負けたが、ボクシングでは負けないぞ」と。私は「何言っているのだ、ボクシングだって負けないよ」と軟弱な外人には、負けない気持だけはあった。
 Nancy(ナンシー)と言う、可愛いアメリカ人女性が居た。彼女はいつも同じアメリカ女性のJoan(ジョアン)と一緒に仕事をしていた。パーティ(仲間内の飲み会)や食事の時、ナンシーはいつもジョンに寄り添っていた。二人は出来ているのかどうか分らなかったが、私は彼女に一目ぼれ、嫉妬を感じていた。愛くるしい彼女にジョンの手前、指を咥えて見ているだけであった。
穏やかなある日、畑のネズミ捕りでナンシーと共に作業した事があった。その日、食堂からオレンジ数個を持って来て、休憩時間の時に一つ彼女に分け、話をするチャンスがあった。それ以後、時々話をする様になり、彼女と親しくなった。
 イギリス人と同棲しているユーゴスラビア人の女性も居た。もしかしたら彼女は結婚しているかもと想像した。顔立ちやアクセントから彼女は、直ぐにユーゴ人と分った。ユーゴを旅している時、あのトラックの運転手が女性を見る度に、「ピーチカ、ピーチカ」と言っていた事を思い出して、彼女にその言葉の意味を尋ねた。そうしたら、彼女から『ピーチカ』の意味をユーモアたっぷりに教えてくれた(ユーゴの旅「ピーチカと美味しいワイン」参照)。
 又こんな事もあった。ある日、イギリス人一時滞在者2人が部屋でハシシを吸っていた事が分り、管理人から怒られていた。翌日、彼等はキブツから追い出された。キブツは薬やハシシを吸う人に対して、キブツに入る条件の通り、決して許さない行為であったのだ。 
 その他にも、私の様な一時滞在者が何人も居たが、日本人は私だけであった。

 

ハッゼリム キブツの話~ハッゼリム キブツ滞在

2021-12-16 14:27:29 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・ハッゼリム キブツの話
 私は前記の条件を承諾して、テルアビブのキブツ事務所からこのキブツを紹介され、遣って来た。このキブツの周囲は、鉄条網で囲まれていた。1日数回、銃を片手に管理人の方2名が、その鉄条網に沿って巡回、警備をしていた。
 私の家(時に「部屋」とも言う)は、ゲートから一番奥にあった。そこからの光景は、木一本も生えていない、赤茶けた半砂漠的な小高い台地が幾重にも連なり、荒涼とした大地が広がっていた。15キロ~20キロ先はヨルダン川西岸地域で旧ヨルダン領であった。ヨルダン兵やゲリラがキブツに潜入し、攻撃して来てもおかしくない地理的な状況を思うと、『少しも不安を感じない』と言う訳にはいかなかった。
 私の様な一時的滞在者の為の家も、何件もあった。共用のトイレは、キブツ内に何ヶ所かあった。私の部屋の右の奥まった鉄条網脇にもあった。部屋にバス(お風呂)は無く、共同シャワー室があった。食事は、我々一時滞在者やキブツ人(キブツの人達)と共に広い食堂で取っていた。このキブツの人数は、食堂に集まった人達の目算で約200人位であった。
 食事は、キブツ生活の中で最も楽しみの一つでした。私はソ連の旅、及びシーラの実家滞在以外、量・栄養そして3食きっちり食事を取っていなかったので、いつも腹が空いている状態であった。特に、ロンドン~アテネ間をヒッチ中の昼は、全く取ってなかったので、腹が空いている状態が通常の状態になっていた。そんな事で3食、そして量的にも質的にも充分に取れるキブツの食事は、満足であった。食事はバイキング形式であった。例えば、朝食はミルク、パン、ジャム、バター、ハム又はベーコン付き野菜サラダ、卵の料理、チョコレート、ヨーグルト、そしてコーヒー又はティーが好きなだけ食べられ、飲めた。昼食や夕食時は、前記の食べ物の他、日によって色々な肉料理も出たし、魚料理もあった。魚や肉等のメイン料理は好きなだけ食べられる訳ではなく、給仕担当さんが給仕してくれた。色々な果物も出た、特にオレンジはいつでも毎食出た。私は時にオレンジを好きなだけそれを持ち帰り、自分の部屋で食べていた。
 とは言うものの、私は『好きなだけ腹いっぱい食べる』と言う事をしなかった。何の農業知識も無い、入所したばかりで何をして良いのか分らない私が、『食事だけは人一倍食べる』と言う事に、気が引けた。実際に食事の量について直接、或は間接的に1度も言われた事は無かった。しかし、根底には『働かざる者、食う可(べ)からず』、の様な雰囲気があった。大切な事は、周りのキブツ人達と合わせる事、そしていずれにしても『腹八分目』が大事であった。 
  キブツでの労働の対価としての賃金の支払は、基本的になかった。賃金の支払が無くても、衣食住及び病気怪我等は、心配無用であった。私に直接関係ないが、大学を含め子供の教育費等は、キブツが面倒を見てくれていた。ここに居れば、欲を出さない限り何の心配も無かった。
 アルコールに関してキブツはノンベイの人を嫌うが、クリスマス前にキブツから1人1本ブランデェの支給があった。おいしいブランデェで嬉しかった。娯楽については、時に映画鑑賞、ゲーム遊び、ホークダンス等もあったし、またキブツ主義の説明もあった。本を読みたい人は、図書室にたくさん本が置いてあり、スポーツ関係では卓球台があった。
 私がこちらに来て10日過ぎた頃、キブツ管理人から有り難い事に「大学へ通って見ないか」と薦められた事があったが、私は断った。頭の悪い私は日本語でさえ大学の授業に付いて行けるのか、疑問であった。英語を十分に話せる、聞き取れる事が出来ると言う訳でないし、ましてやヘブライ語は全く知らないので、『苦労するのは、目に見えている』と思った。そして私は旅の途中であるし、突然言われても、しかも学校へ行くとなれば半年や1年ではなかろう。両親の意向も無視出来なかった。又『無料で学校へ行かせてくれる』と言う事は、このキブツ、或はイスラエル国に対して恩を受けるので、『一定期間、拘束されるのでは』と言う不安を感じたからであった。しかしキブツを去り、後から良く考えてみると、イスラエルの大学への招致は旅に出てから私に与えられた最初で最後のチャンスでもあった。ヘブライ語を学びイスラエルの為、或は日本とイスラエルの掛け橋になる為に、何らかの貢献に努力すべきではなかったのかと思った。余り深く考えずに、取り敢えず大学へ行って見て、駄目だったら駄目で良かったのだ。チャンスは自分からゲットすべきものであり、後から悔やんでも仕方ない事であった。
 イスラエルは共産主義国ではないが、生活、労働、キブツの組織・運営は、ある意味に於いて『共産主義的な社会生活』の一面があると私は見た。何故ならば、イスラエルは建国まだ20年の新興国で、世界的認知に於いても、国内の国家的社会的基盤に於いても、まだまだであるし、人口(200万人から250万人)も国の広さに対して少ない。その為、シオニズム運動はまだ継続中であった。
 3度の中東戦争に勝っても平和条約は締結されず、依然アラブ諸国に囲まれ、国防は最重要な課題であった。又、国土(農地)の確保は、イスラエル国家・国民皆の課題であると思われた。占領地を含む国土を開墾し、耕し、そしてその農地を守る、その最前線がキブツ組織であった。ある意味に於いて、キブツは過って大日本帝国の国家・軍が推し進めた、満蒙開拓移民政策の様な国防対策の一環とも考えられた。
 いずれにしても、ユダヤ教の信仰から生まれる連帯責任感の強いキブツの人達やイスラエルの国民は国家の為、そして後からイスラエルに集まってくる世界各地のユダヤ人移住者のシオニズム政策実施の為に、砂漠や荒れ果てた土地を開拓・開墾し、農地を作り、或は植林し緑化を成し遂げ、豊かな国土を作り上げる、そんな崇高な理想・理念を持った先駆者達であった。私の様な無宗教で理想もない、まして欲がある者には、長居は出来ない気がした。キブツに入る条件とは別に、そんな意味からも私の滞在は、最低期間の1カ月にしたのであった。そして私の浮いた想いは、ここに来て打ち砕かれてしまった。と言うのは、私の無知から『キリスト教が生まれた土地だから、キブツでもクリスマス休暇や年末年始休暇があるだろう』と思って遣って来たが、イスラエル人はユダヤ教徒、彼等はユダヤ歴で生活しているので、キブツでのクリスマスや年末新年休暇は無かった。無知とは怖いもの、すっかり当てが外れてしまった。
 毎週木曜日は、配給所で生活用必需品類が支給される日であった。例えば、タバコ、石鹸、タオル、靴や衣類(新品、良い物は無かった)に至る生活関連品を自分の好きなだけ貰えた。『好きなだけ』と言っても、これも暗黙の了解があり、家族構成や自分本人の使用量に応じて受け取るべき、と心得るのが涵養であった。
 結論として『キブツ』とは、原野、荒地を農地として開墾し、農場として維持・運営している集団農業共同体を指し、又そのキャンプ地を指す。

 

キブツ入所条件の話~ハッゼリム キブツ滞在

2021-12-15 09:21:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・キブツ入所条件の話                                             
 こちらのハッゼリム キブツに来る前に、テルアビブのキブツ事務所である条件を提示され、それに署名したので、こちらのキブツを紹介され来たのでした。その提示された入所条件は英文であった。日本語にして、ここに書き留めて置く事にした。
 キブツとは集団農業共同体、若しくは集団農業共同組織、英語ではa Collective agricultural communityであろう。ソ連のコルホーズ、中共の人民公社に似ている様であるが異なります。イスラエルのキブツは自主、運営、管理、平等を基本として政府から独立した組織です
 
 キブツ事務所からの提示条件
【一時滞在労働者へ
簡単に貴方が働くキブツが見付かる様に、この紙面を読んで頂きたいのです。
 キブツは、貴方にとって不思議な、或は全く理に合わない様に思われるかもしれませんが、習慣や制度を伴った一つの生活の道なのです。例え不思議な現象であったとしても、全体的に見れば通常、良き道理なのです。そして貴方がキブツの組織、及びキブツ精神(キブツ主義)について説明出来るまで、キブツを信用して物事を捉える事を、我々は提案致します。
 貴方はキブツに長年住んでいる人達の客人である、と言うことを忘れないで欲しいのです。そして個人の感情に支配されない、利己主義であってはならない事を望むし、一般的な公共機関への訪問者ではない、と言う事を理解して下さい。「感謝と理解」と言うこの真実が、他の方と接触によって起こる不必要な摩擦を避けてくれるのです。
 〝キブツ主義〟(感謝と理解、そして相手の事を思いやる心)は、チョットした人間性であり又、全てこれを根源とする事を理解して頂きたいのです。多くの点に於いて、キブツの理想に達しない状況に出会うかも知れませんが、一時的滞在者を含めメンバーは、キブツに対し全ての面で責任があります。
 一般的にイスラエル人は深酒をしませんし、薬(麻薬を意味)には眉をひそめます。薬を飲んでの車の運転は、重い罰が与えられます。キブツに於いて現実からの逃避は不承知であり、注意されます。ハシシやLSD(大麻や覚せい剤)の使用は、如何なる状況であっても、黙認するキブツはありません。又、酒を飲んでの乱痴気騒ぎも嫌われ、洋服や一般的な行状に於いては、キブツの習慣に照らし合わせ、自身が判断すべきであり、キブツ主義は甘えを許しません。
 9月から1月までの期間、キブツ探しは容易ですが、2月から8月までは、キブツ主義に則って組織化されたグループが入ってきますので、見付けるのは不可能です。キブツに於ける一般的な労働状態や、異なった住居に慣れるまで日数が掛かりますので、1ヶ月未満は受け付けておりません。友達から如何なる事を聞いたとしても、前もっての連絡無しで入所しようとしても、入所が出来るキブツはありませんので、注意して下さい。前もって電話や手紙で入所を希望される場合は、返事を出す為の時間的余裕が必要です。他の如何なる方法は、控え目に言っても無作法であります。どうぞ上記の事務所を通して手配して下さい。
 少なくても最初の2週間分位のタバコ、トイレの必需品、バンドエイド等持参して行くべきであります。その後、それらは支給されます。作業着が必要な場合、貸与しますが、試着してから持って行って下さい。労働は1日8時間、週6日です。これは、季節や作業内容によって多かったり少なかったりします。〝Sabbath〟(「シャバス」と言ってユダヤ教徒の安息日。通常土曜日)の休日は、必ずしも土曜日に当てはめる必要はありません。土曜日に働く事は度々あり、代わりに次週、繰り下げて休みを取る様に成っています。
 医療についての質問は、詳しく一覧表にして分かり易い様になっています。キブツに到着前から病気で悩んでいる方や、日常的に病気がちな方は、健康保険の適用はありませんので、指摘しておきます。
 特別な手配は到着後、キブツで行います。入所は、18歳から35歳までの方のみ受け入れます。これらの条件を御承認されるなら、我々は喜んでキブツを紹介致します。我々は、貴方のキブツへの申込をお断りする権利を有するし又、貴方を必要とする所へ送る(紹介する)権利を持っております。但し、心に留めてあるキブツがあれば、ごく自然にそのキブツを我々は考慮いたします。
〈キブツに於ける一時的滞在者の為の保険〉
①医療と入院~説明省略 ②国民保険~説明省略 ③雇用責任保険~説明省略 ④第三者保険~説明省略 ⑤個人的事故~説明省略
 私(署名者)は、上記の条件を受け入れますので、署名によって宣誓します。】と書かれてあった。 

・パレスチナ人、ヨルダン人そしてユダヤ人の見分け方(私感)の話~ハッゼリム キブツ滞在

2021-12-14 16:05:08 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・パレスチナ人、ヨルダン人そしてユダヤ人の見分け方(私感)の話
 所で、六日戦争(第3次中東戦争)でエルサレムの旧市街地を含むヨルダン川西岸地域やシナイ半島をイスラエルが占領したので、私が訪れたベエルシェバ、エルサレム、そしてベツレヘムの一帯はパレスチナ人の他に、多くのヨルダン系のアラブ人も住んでいた。イスラエルは又、複雑な地域であった。
  イスラエル人(ユダヤ人)、パレスチナ人、そしてアラブ人(ヨルダン人)の見分けは、そんなに難しくなかった。彼等の顔は三者とも似ているが、外見はどこかが違って、見分けが出来た。
 パレスチナ人男性はズボンを履いて、長い手ぬぐい(クーフィーヤ=パレスチナの代表であるアラファタ議長が頭に被っている物)を頭に巻いていた。パレスチナ女性は、ワンピースの様な服で、頭に頬被りをしていた。
 アラブ人(ヨルダン人)男性は白衣の長いドレスを着て、頭に白い布物(クーフィーヤ)で頭を覆って丸い輪っかを付けていた。履物はサンダルみたいなものが多かった。アラブの女性は殆どが黒の長いドレスを着て、顔と頭部をベール(ヒジャブ)で覆ったスタイルをしていた。これを「ブルカ」、イランでは「チャドル」と言っていて、彼女達の顔が見えるのは目だけで、中には目をも黒網で覆って、全く顔が見えない女性もいた。履物はスリッパの様なものであった。
 イスラエル人男女の外見は、西欧人が着ている、履いている様な一般的な服装であった。イスラエル人の顔は西欧人に似ている人もいたが、大多数の人は中近東人に似ていた。イスラエル人は大昔、チグリス・ユーフラテス川辺り(メソポタミア)からパレスチナへ移住して来たと言うから、中近東人に似ているのも無理はなかった。そしてイスラエル人は自分達の国を持たなかった所為か、大抵の人はヘブライ語の他にもう1ヶ国語、或は2ヶ国語以上を話せた。