近頃、10年余りも前に出たスマサーラ長老の本を真似して、「般若心経は間違い」という主張をしている論者がいるそうです。
それに対して何の反論もできない日本仏教は情けないものですが、自分たちも「般若心経」を理解していなかった、つまり「空」を理解していなかったのですから、仕方がありません。
以下の記事を読めば、スマナサーラ長老の主張の間違いや正しいところも理解でき、『般若心経』の正しい理解、つまりは「空」の正しい理解に達することができます。
一度に全部読みたい人は>『般若心経は間違い?』の間違い(1)空即是色を悟る ~(9)龍樹・一切皆空のパラドクス~ (15) 苦=空=自己疎外
古いブログ記事の冒頭部分以外が消失しており、再編集して掲載致します。他の記事と重複しておりますのでご了承ください。
2007.09.12 Wednesday
『般若心経は間違い?』の間違い (二)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より
「第一章 色即是空と空即是色」(『般若心経は間違い?』P19〜85)
般若波羅蜜多心経(玄奘訳の原文 P20〜21)
同上 読み下し文 (P22〜23)
「第一章 色即是空と空即是色」(『般若心経は間違い?』P19〜85)
般若波羅蜜多心経(玄奘訳の原文 P20〜21)
同上 読み下し文 (P22〜23)
これは通常用いられているテキストで、特に問題はありません。ただ「受想行識」に「じゅそうぎょうしき」とルビを振っていますが、この「行」は「意志決定」や「行動」のことであり、「修行」のことではありませんから「こう」と読むべきです。
かたや「行深般若波羅蜜多時」の「行」は「修行」のことですから、もちろん「ぎょう」と読んで当然です。
読み下し文では、「このゆえに、空というなかには、色もなく、受も想も行も識もなし。」と、ここで文を区切っていますが、「是故空中」は「無色無受想行識」から「無智亦無得」まで全体に懸かっています。つまり、「識もなし。」と切らずに、「識もなく、眼もなく、・・・・」と文を続けるべきです。
ここは重要なところで、スマナサーラ氏の読み間違いと考えると、『般若心経は間違い?』の「間違い」が分かって来るようにも思えます。
般若波羅蜜多心経
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー張明澄・掛川掌瑛)
観自在菩薩は深遠なる智慧を実践した時、存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。
観自在菩薩は、求道者にして聖なる観音、とほとんど同じ意味です。
深遠な智慧の完成を実践していたときに、と、深遠なる智慧を実践した時、も別に変わりません。
しかし、
「存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれらは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった」
と、言うのと、
「存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり」、とでは、意味がずいぶん違ってきます。
「見きわめた・・・・見抜いた」
というのは、観音が自分で修行して初めて見極めて見抜いたのであり、
「明らかにして見せてくださり」(照見)
のほうは、観音はもともと知っていたことを、衆生に対して明らかにして見せてくださった、という意味になりますから、観音の立場が全く違っています。さらに漢訳のほうは、その結果として、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。と続けており、サンスクリットよりも漢訳のほうが観音をはるかに偉大なものとして描いていることになります。
「観自在菩薩」とは、「観音菩薩」とも言われるように、「虚心に人の話を聞くことができ、柔軟で囚われのない、自在な心で物事を観ることができる修行者」という意味です。「修行者」といっても、すでに「自在心」を持っており、つまりは「空」を悟っていますから、さらに、人々を「悟り」に導くことができ、いずれは「仏陀」とか「如来」になれる、非常に高度なレベルの修行者です。(部派仏教では認めていない、とかいうことは、ひとまずおいて下さい)
「行深般若波羅蜜多時」は、「深遠なる智慧の完成の行を行ったとき」、つまり「お釈迦様が初めて悟りを開いたとき」と同じシチュエーションと考えたら良いでしょう。あるいは、そのときのお釈迦さまのこと、と考えても同じことです。
「照見五蘊皆空」は、「人間であること(自己と他者を分別すること)の五つの構成要素(苦の原因)は、すべて空であることを、明らかにして見せてくださり」であり、
観自在菩薩が新たに見た、というのではなく、衆生に対して明らかにした、という意味です。
「度一切苦厄」は、「一切の苦しみや災難をから人々を救うこととなりました」となります。
この、二句を合わせた意味は、「肉体と心によって自己と他者とを分別することが苦の原因であり、自在な心で、物事に囚われない認識を持つことができれば、あらゆる苦の原因から解放される」ということになります。
「人間であること」とは、「自己」と「他者」を「分別」できる「認識」を持つことができる、つまり「自己」という「意識」を持っていることが「人間であること」です。
「自己」という「意識」を持つことで「類」という概念や「他者」という概念を持つことができるようになり、逆に「他者」という概念によって「自己」という「意識」が生まれます。
それまで、自分の「肉体」は、自然の一部であり、自然が自身の一部だったのですが、「自己」という「意識」の獲得とともに、自然は、自分の身体ではなく、巨大な「他者」に変化します。
また同時に、自分以外の人間たちも、「他者」であり、かつ「同類」と「認識」するようになります。
このように、人間が「自己」を獲得することを「疎外」または「自己疎外」と言います。
「度一切苦厄」は、「一切の苦しみや災難をから人々を救うこととなりました」となります。
この、二句を合わせた意味は、「肉体と心によって自己と他者とを分別することが苦の原因であり、自在な心で、物事に囚われない認識を持つことができれば、あらゆる苦の原因から解放される」ということになります。
「人間であること」とは、「自己」と「他者」を「分別」できる「認識」を持つことができる、つまり「自己」という「意識」を持っていることが「人間であること」です。
「自己」という「意識」を持つことで「類」という概念や「他者」という概念を持つことができるようになり、逆に「他者」という概念によって「自己」という「意識」が生まれます。
それまで、自分の「肉体」は、自然の一部であり、自然が自身の一部だったのですが、「自己」という「意識」の獲得とともに、自然は、自分の身体ではなく、巨大な「他者」に変化します。
また同時に、自分以外の人間たちも、「他者」であり、かつ「同類」と「認識」するようになります。
このように、人間が「自己」を獲得することを「疎外」または「自己疎外」と言います。
人間が、自然から「疎外」され、「自己」を「疎外」し「他者」から「疎外」され、ここから、すべての「苦しみ」が生まれます。
「疎外」とはすなわち「苦」のことであり、「疎外」の原因は、人間に特有の、「自己」と「他者」という「認識」もしくは「意識」によるものです。
つまり、「自己」と「他者」を「分別」するものは、「意識」であり、「意識」と「肉体」の集合体である「五蘊」こそは、「苦」の原因ということができます。
そして、「五蘊」が「空」であるということは、人間が「現象」として「認識」できるものは、すべて「肉体」と「意識」によって生じる「関係」という「認識」であり、人間の「苦」とは、すべて「関係」でしかありません。
つまり「苦」とは「空」であり、「関係」でしかないと知ることによって、本質的な「苦」の原因を取り除くことができます。
たとえば「自己」という「関係」は「他者」という「関係」によって生じており、「自己」と「他者」を対立させる「分別」こそが「苦」の原因であり、そのような「分別」を消し去ることで、「苦」を消し去ることができます。
「分別」を消し去ることで「苦」も消えることは、誰でも理解できそうですが、その通りに行動しようとすると、なかなかできるものではありません。
たとえば、同じお釈迦さまの教えを受け継いだ「仏教」なのに「大乗仏教」とか「小乗仏教」とか「部派仏教」とか、「分別」することによって対立し、さらに、自派や自派の教理に「執着」し、他派を排撃することに血道をあげ、かえって「苦」の原因を増やすことになりました。
このようなことは、誰でも分かることで、「分別」や「執着」を捨てることで「苦」を一つでも減らすことができるのですが、「分かっちゃいるけどやめられない」のが人間なのです。
ならば、「知っているとおりに行動できる」ようにすれば、人間の「苦」は消し去ることができる筈です。
仏教では、「知っているとおりに行動できる」ことを「悟り」といいます。といっても、「知っていること」が間違っていたら、そのとおりに行動しても、かえって問題が大きくなるかも知れません。
すると、「悟り」には「正しい知識」が、絶対に必要であり、そのため、「仏教」には、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などという「法」があり、「苦」の原因がどこにあり、どうしたら「苦」を消し去ることができるかを学ばなければなりません。
ならば、「知っているとおりに行動できる」ようにすれば、人間の「苦」は消し去ることができる筈です。
仏教では、「知っているとおりに行動できる」ことを「悟り」といいます。といっても、「知っていること」が間違っていたら、そのとおりに行動しても、かえって問題が大きくなるかも知れません。
すると、「悟り」には「正しい知識」が、絶対に必要であり、そのため、「仏教」には、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などという「法」があり、「苦」の原因がどこにあり、どうしたら「苦」を消し去ることができるかを学ばなければなりません。
なかでも、「五蘊」には、その他の「法」がすべて含まれており、「十二処」と「十八界」は、ただ「五蘊」を、より詳しく分類したものに過ぎません。
また「十二縁起」は「五蘊」が「苦」の原因であることを、展開して、空間的、かつ、時間的に述べたもので、「五蘊」からはみ出すものではありません。
「四聖諦」は、もっと具体的に「苦」の原因と解決法を示していますが、「五蘊」が「空」であることを完全に理解し、かつ、そのとおりに行動できれば、つまり「五蘊」が「空」であることを「悟り」さえすればよく、結局は「五蘊」から一歩も踏み出すものではありません。
<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(三)
当時のコメント無し
『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い 三蔵法師が漢訳した現存最古の般若心経発見
『般若心経は間違い?』の間違い(一) 空即是色 般若心経を理解する 2007-09-11
『般若心経は間違い?』の間違い(二)照見は明らかにして見せること
『般若心経は間違い?』の間違い(三)Apple is a fruit.
『般若心経は間違い?』の間違い(四)無我=空なら色=無我
『般若心経は間違い?』の間違い(五)「空」を悟れば「苦」が消える
『般若心経は間違い?』の間違い(六) 法=規範と記述
『般若心経は間違い?』の間違い(七) 中村元さんの間違い?
『般若心経は間違い?』の間違い(八) 密教と記号類型学
『般若心経は間違い?』の間違い(九)龍樹「一切皆空」のパラドクス
『般若心経は間違い?』の間違い(十) 中観(一切皆空)と般若心経(五蘊皆空)
『般若心経は間違い?』の間違い(十一)空即是色という呪文
『般若心経は間違い?』の間違い(十二) 悟りのイメージと効用
『般若心経は間違い?』の間違い(十三) 竜樹の「空」と般若心経の違い
『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 無我と輪廻
『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その1 苦=空=自己疎外 2007-10-31
『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その2 10年経っても反論できない? 2007-10-31
張明澄師 南華密教講座 DVD 有空識密 智慧と覚悟
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