古い記事ですが、「悟り」の理解について、参考になるかと思いますので、ここに掲載させていただきます。
2007.02.02 Friday
「知行合一」=「悟り」について
「知行合一」とは、“知っている通りに行動できる”ことをいいます。
これを仏教では「悟り」と言うことは、前回お話ししました。
“知っている通りに行動できない”つまり“解っちゃいるけどやめられない”ことを“煩悩”などと表現されます。
なるほど悟った人なら酒や煙草をやめるくらい簡単そうに思えますし、お金を手に入れるためにギャンブルに手を出したり、サラ金や闇金融を利用するようなことはないように思えます。
ところが、もしも知識が間違っていたら、どうなるのでしょう。
間違った知識に基づいてその通りに行動していたら、行動も間違ってしまいます。
例えば、オウム真理教の麻原彰晃は、自分では最終解脱者、つまり“悟っている”と宣伝していました。
私は、麻原彰晃が実際に悟っていたかどうかは知りませんが、もし本当に悟っていたとしても、知識は間違っていたのでしょう。だから、地下鉄でサリンを撒いたりするのです。
よく、オウムの密教や修行は偽物で、麻原は悟っていなかったからあんな事件を起こしたな、などと言われますが、馬鹿げた事件を起したのは、知識が間違っていたからで、正しい修行だったか、悟っていたかどうかなど、もうどうでも良いことです。
つまり、「悟り」=「知行合一」に価値がある、と言うのは、持っている知識が正しい場合だけです。
「南華密教学」には「経典」「功夫」「実学」「秘術」という四つの要素があり、なかでも「実学」では、常に“当時当地の最高の知識”を取り入れることが必要とされております。
「経典」や「功夫」は「悟り」を開くためにあるものですが、知識が間違っていたら「悟り」を開いても何もなりません。
よく、仏教では「悟り」こそが最高の境地とされますが、「知行合一」という意味で考えれば、人間以外の動物はすべて、知っている通りにしか行動できませんから、どの動物も「悟っている」状態と言えます。
周利槃特(しゅりはんどく)という人は、お釈迦様の直弟子でしたが、自分の名前が覚えられないというくらい記憶力は弱く、仏陀の教えを何一つ憶えることができません。その周利槃特には兄があり、兄もまたお釈迦さまの弟子でしたが、こちらは秀才だったといいます。兄は、弟が仲間に迷惑をかけるのを哀しみ、弟を呼んで両親のもとに帰るように説得します。弟は尊敬する兄の言うことには逆らえず、泣く泣くお釈迦様のもとを去ろうとしますが、それを見かけたお釈迦様が彼に一本の箒(ほうき)を与え「大地の塵を払わん、心の垢を除かん」という一句だけを憶えるようにお命じになります。
周利槃特はその教えのままひたすらその一句を唱えて、毎日毎日、来る日も来る日も、庭の掃除に励みます。そして何年か何十年かの後「塵は毎日いくら掃いても掃いても、またどこからか来て溜まっているなあ、ああそうか、塵を払うというのは煩悩を去れということなのか」と気づき、大悟して阿羅漢果(悟りの位)を得たと言います。
自分の名前も覚えられず、一句を憶えるのに何日もかかるような彼でさえ、大悟することができるのです。
このお話が魅力的なのは、誰でも心がけ次第で「悟り」に達することができるという、希望の持てるところではあります。また、念仏さえ唱えていれば往生して極楽浄土に行けるという、浄土思想の根拠というかヒントになっているようにも思えます。(実際はキリスト教の影響かも知れませんが)
また考えてみると、周利槃特という人は、今で言うところの知的障害者であり、もともと知っているとおりにしか行動できない人なのかも知れません。それに、彼にはいったいどんな煩悩があったのでしょうか。彼の悲しみは仏法を学んでも憶えられないことですから、最初から“学ぶ”という“欲”が無ければ煩悩も知らずに済んだのかも知れません。
結局彼が「悟り」を得たのは、何の欲もなくただ庭を掃き清めるという“清浄”な行いの結果だったのです。
ともあれ、秀才と呼ばれる人よりも、知的障害者のほうが「悟り」に近かったというのも、何か象徴的な話です。
『老子』に「為学日益、為道日損」という言葉があります。
「道」を行うことは学問のように知識を積み上げてゆくことではなく、逆に余計なものをそぎ落としてゆくことだ、といった意味です。
しかし、現代の社会で生きてゆくためには、昔の人とは比較にならないような多くの知識を要求されます。
知っているとおりに行動できるようになるために、今こそより正しい知識が必要になるのです。
<豆知識>
「知行合一」を「ちぎょうごういつ」と読む人がいますが、これは「ちこうごういつ」と読まなければなりません。
何故ならここで言う「行=こう」は行動のことであり、修行のことではありません。
また、「知行」(ちぎょう)と言いますと、領地の意味になってしまいます。
たとえば、「百石の知行」(ひゃっこくのちぎょう)、「一万石の知行」などといいます。
“そのまんま知事”などと言う、「知事」の“知る”は治めると言う意味で、“事”は事える(仕える)と言う意味です。つまり知事は治めて仕える人で“領主”ではありません。
また、神武天皇の事を、初めて国を治めた天皇という意味で、初国知所之天皇(ハツクニシラススメラミコト)、と呼びます。この“知らす”は治めると言う意味です。
これを仏教では「悟り」と言うことは、前回お話ししました。
“知っている通りに行動できない”つまり“解っちゃいるけどやめられない”ことを“煩悩”などと表現されます。
なるほど悟った人なら酒や煙草をやめるくらい簡単そうに思えますし、お金を手に入れるためにギャンブルに手を出したり、サラ金や闇金融を利用するようなことはないように思えます。
ところが、もしも知識が間違っていたら、どうなるのでしょう。
間違った知識に基づいてその通りに行動していたら、行動も間違ってしまいます。
例えば、オウム真理教の麻原彰晃は、自分では最終解脱者、つまり“悟っている”と宣伝していました。
私は、麻原彰晃が実際に悟っていたかどうかは知りませんが、もし本当に悟っていたとしても、知識は間違っていたのでしょう。だから、地下鉄でサリンを撒いたりするのです。
よく、オウムの密教や修行は偽物で、麻原は悟っていなかったからあんな事件を起こしたな、などと言われますが、馬鹿げた事件を起したのは、知識が間違っていたからで、正しい修行だったか、悟っていたかどうかなど、もうどうでも良いことです。
つまり、「悟り」=「知行合一」に価値がある、と言うのは、持っている知識が正しい場合だけです。
「南華密教学」には「経典」「功夫」「実学」「秘術」という四つの要素があり、なかでも「実学」では、常に“当時当地の最高の知識”を取り入れることが必要とされております。
「経典」や「功夫」は「悟り」を開くためにあるものですが、知識が間違っていたら「悟り」を開いても何もなりません。
よく、仏教では「悟り」こそが最高の境地とされますが、「知行合一」という意味で考えれば、人間以外の動物はすべて、知っている通りにしか行動できませんから、どの動物も「悟っている」状態と言えます。
周利槃特(しゅりはんどく)という人は、お釈迦様の直弟子でしたが、自分の名前が覚えられないというくらい記憶力は弱く、仏陀の教えを何一つ憶えることができません。その周利槃特には兄があり、兄もまたお釈迦さまの弟子でしたが、こちらは秀才だったといいます。兄は、弟が仲間に迷惑をかけるのを哀しみ、弟を呼んで両親のもとに帰るように説得します。弟は尊敬する兄の言うことには逆らえず、泣く泣くお釈迦様のもとを去ろうとしますが、それを見かけたお釈迦様が彼に一本の箒(ほうき)を与え「大地の塵を払わん、心の垢を除かん」という一句だけを憶えるようにお命じになります。
周利槃特はその教えのままひたすらその一句を唱えて、毎日毎日、来る日も来る日も、庭の掃除に励みます。そして何年か何十年かの後「塵は毎日いくら掃いても掃いても、またどこからか来て溜まっているなあ、ああそうか、塵を払うというのは煩悩を去れということなのか」と気づき、大悟して阿羅漢果(悟りの位)を得たと言います。
自分の名前も覚えられず、一句を憶えるのに何日もかかるような彼でさえ、大悟することができるのです。
このお話が魅力的なのは、誰でも心がけ次第で「悟り」に達することができるという、希望の持てるところではあります。また、念仏さえ唱えていれば往生して極楽浄土に行けるという、浄土思想の根拠というかヒントになっているようにも思えます。(実際はキリスト教の影響かも知れませんが)
また考えてみると、周利槃特という人は、今で言うところの知的障害者であり、もともと知っているとおりにしか行動できない人なのかも知れません。それに、彼にはいったいどんな煩悩があったのでしょうか。彼の悲しみは仏法を学んでも憶えられないことですから、最初から“学ぶ”という“欲”が無ければ煩悩も知らずに済んだのかも知れません。
結局彼が「悟り」を得たのは、何の欲もなくただ庭を掃き清めるという“清浄”な行いの結果だったのです。
ともあれ、秀才と呼ばれる人よりも、知的障害者のほうが「悟り」に近かったというのも、何か象徴的な話です。
『老子』に「為学日益、為道日損」という言葉があります。
「道」を行うことは学問のように知識を積み上げてゆくことではなく、逆に余計なものをそぎ落としてゆくことだ、といった意味です。
しかし、現代の社会で生きてゆくためには、昔の人とは比較にならないような多くの知識を要求されます。
知っているとおりに行動できるようになるために、今こそより正しい知識が必要になるのです。
<豆知識>
「知行合一」を「ちぎょうごういつ」と読む人がいますが、これは「ちこうごういつ」と読まなければなりません。
何故ならここで言う「行=こう」は行動のことであり、修行のことではありません。
また、「知行」(ちぎょう)と言いますと、領地の意味になってしまいます。
たとえば、「百石の知行」(ひゃっこくのちぎょう)、「一万石の知行」などといいます。
“そのまんま知事”などと言う、「知事」の“知る”は治めると言う意味で、“事”は事える(仕える)と言う意味です。つまり知事は治めて仕える人で“領主”ではありません。
また、神武天皇の事を、初めて国を治めた天皇という意味で、初国知所之天皇(ハツクニシラススメラミコト)、と呼びます。この“知らす”は治めると言う意味です。
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