大神神社の最寄り駅である三輪駅から1つ北に巻向駅がある。駅名は巻向だが、地名としては纏向になる。
東の三輪山の北側から纏向川が流れ落ちてきて、平野部に至ると大量の土砂を吐き出し、緩やかな傾斜地を作る。扇状地である。
砂利がちで水を蓄えにくく、水田には向かない。1971年、この地に大規模な遺跡が発見された。奈良盆地で遺跡が出るのは珍しくない。むしろ掘れば何か出てくる。
だがこの遺跡、少々変わっていた。
・関東から九州までの土器が広く見られた。
・掘立柱を差すための穴を掘る器具は見られたが、一般の農具はほとんど無い。
・3世紀半ばと思われる紅花の花粉が大量に出土した。
紅花はインド発祥で、中国を通して日本に伝わった。他の発見地は纏向の3世紀後である。
ここから、壮大な仮説論争が始まった。
まず纏向は、農業集落ではない。日本各地の勢力が集まっていた、政治的または商業的な集落だった。楽浪郡を含む中国との交流もあった。ここまではほぼ確実だろう。
だが桜井市は、卑弥呼の邪馬台国がここであったとほぼ断定している。
例によって、このあたりの年表に纏めてみた。
1c後 纏向の建造始まる
239 卑弥呼 魏への朝貢開始
247 狗奴国との交戦
247/3/24 部分日食
248 卑弥呼死亡
3c前 纏向衰退
3c半 纏向に紅花の花粉発見
280-300 箸墓古墳築造
纏向は、2世紀後半体3世紀前半まで続いたが、突然消滅している。大体時代は合っているが、箸墓古墳を卑弥呼の墓とするには、魏志倭人伝の墓の記述と全く異なっているし、時期も合わない。桜井市は既に卑弥呼の里と断言しているようだが。
それでも、3世紀にこの地に、九州から関東に影響力を持つ政権があったことはほぼ疑いがない。
桜井市立埋蔵文化財センターでは、古墳がどこで始まりどの中心がどこに移っていったのか分かり易く示している。
でもやっぱり北九州ではないの?こちらは二次感染ではないの?史料が見つかっていないことをいいことに一番は頂けない。
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