大阪府警SAT野戦訓練
第9章 日本のテロ・ゲリラ・コマンド対処
第2節 警察の対テロ作戦 1990年代 1
防衛出動、治安出動には時間がかかる。
非正規戦やテロリズム事件発生時、初動対処(2時間)にあたるのは
地域部自動車警ら隊、機動警ら隊、
刑事部機動捜査隊
である。
1990年代、地域部隊員の主装備は
アルミ・フレームで非常に軽いスミス&ウェッソン(S&W)M37エアー・ウェイト38スペシャル口径拳銃、
S&W M3913「LADY SMITH」9mm×19口径自動拳銃
が導入され始めた。
1990年代、刑事部機動捜査隊捜査員の装備は
シュバイツイッシュ・インダストリー・ゲゼルシャフト(SIG)
P230 32ACP口径(7,65mm×17)拳銃
であり、非正規戦や銃乱射などのテロリズム発生時には対応は困難と思われた。
1997年2月28日に
ロサンゼルス市ノース・ハリウッドのローレル・キャニオン通りにある
バンク・オブ・アメリカで銀行強盗事件が発生した。
犯人はごく普通の凶悪犯罪者ラリー・フィリップス・ジュニアとエミール・マタサレムの二人だけである。
二人は全身をアラミド繊維製の防弾装備で固め、
ノリンコAK-47突撃銃、
H&K HK91ライフル、
ブッシュマスターAR-15ライフル
などの自動小銃、
ベレッタM92F拳銃
を乱射し、
周囲を警察官50人以上で完全に包囲したロサンゼルス警察と銃撃戦を展開した。
拳銃とショット・ガンしか装備しないロサンゼルス警察のパトロール警官と刑事はなすすべもなく、一方的に銃撃された。
アラミド繊維製防弾装備には効果が無い拳銃、ショット・ガンによる反撃は全くの無力だった。
アラミド繊維製防弾装備を貫通する能力を持つM16A1自動小銃を装備するSWAT部隊は渋滞で到着が遅れ、SWAT隊員がM16A1自動小銃で犯人を射殺するまでに重傷者が多数発生、死者が出なかったのは奇跡であった。
この事件以後、M16A1自動小銃が普通のパトロール車両に配備されるようになった。
銃犯罪に精通したロサンゼルス警察ですらごく少数の素人重武装犯罪者に対処するのは至難の業であった。
立て籠もり、人質事件、誘拐・拉致事件、銃器犯罪、テロリズムの発生時、最初に対処するのは各都道府県警察本部刑事部捜査第一課におかれる特殊犯捜査係である。
テロ事件が長期化することが見込まれる場合は、
能力が高い
警視庁刑事部捜査第一課特殊犯罪捜査係・特殊捜査班SIT(東日本)、
大阪府警察刑事部捜査第一課特殊事件係・制圧攻撃班MAAT(西日本)
が犯行現場に派遣され、武力行使によらない解決に尽力がそそがれる。
SITとMAATは他の県警察とは比較にならないほどの人員、予算が与えられている。
一方で、武力行使も含めた強行解決にむけた準備がすすめられる。
各警察本部警備部機動隊による現状調査、警備がすすめられ、
機動隊銃器対策班、
特殊急襲部隊SAT(Special Assault Team)
による突入準備が進められる。
突入にはSATがあたり、銃器対策部隊はその支援にあたる。
特殊捜査犯捜査係とSATは、
レーザー測距機、指向性高感度マイク、超小型カメラ、コンクリート透過レーダー、骨伝導デジタル無線装備などを使用し、状況把握に全力を注ぐ。
突入の際はスタン・グレネード(特殊音響閃光弾)が使用される。
SATは
89式小銃(5,56mm×45)、
H&K MP5機関拳銃(サブ・マシンガン、9mm×19)、
H&K USP拳銃(9mm×19)
豊和工業M1500ライフル(7,62mm×51)、
などを使用、テロリストを無力化する。
特殊急襲部隊SATは1977年10月に発足した。
1977年9月、日本航空ダグラスDC-8機が日本赤軍にハイジャックされた。
福田赳夫首相は日本赤軍テロリストに屈服し、超法規的措置により囚人である日本赤軍や連合赤軍、東アジア反日武装戦線のテロリストを釈放した。
さらに身代金600万ドル(約16億円)まで支払い、テロリストを野に放ったことで世界から批判されたことに対する反省から生まれた。
諸外国からは「テロリストまで輸出する」と非難されてしまっていた。
一方で1977年10月にルフトハンザ・ボーイング737機がPFLP(パレスチナ解放人民戦線)にハイジャックされた。
犯人のPFLPテロリストは、ヨーロッパ各国に収監されている西ドイツ赤軍派(RAF)とPFLPのメンバーの釈放、身代金900万ドル(約24億円)を要求した。
こうしたPFLPテロリストの要求に対し、西ドイツ政府は拒否を決断した。
パイロットを殺害したテロリストが陣取るソマリア・モガディシオ空港に指揮を執る総務長官と、対テロ特殊部隊である内務省国境警備隊第9部隊(GSG-9、現・連邦警察庁GSG-9)を派遣する。
イギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)の支援のもと、スタン・グレネードを使用、H&K MP5機関拳銃で犯人の無力化に成功、3人を射殺、1人を逮捕した。
日本の警察庁首脳は事態を重視、西ドイツに幹部を派遣、GSG-9設立の経緯と運用を調査した。
GSG-9は1972年のミュンヘン・オリンピックでイラク・バグダッドを拠点とするパレスチナ・ゲリラ「黒い9月」によるイスラエル選手団人質、殺害事件の反省から発足した。
当時の西ドイツでは、基本法(憲法)により、北大西洋条約機構域外に連邦軍を派遣できなかったことから、全世界に隊員を派遣できる国境警備隊に対テロ特殊部隊を設立することになった。
このことは憲法なども政治的制約により、自衛隊の運用が厳しく制限されている日本において、非常に参考になった。
GSG-9は、
イギリスSAS(特殊空挺部隊)に
国境警備隊のヴェーゲナー中佐を派遣、対テロ戦闘のノウハウを学んだ。
1977年10月末、
警察庁は警視庁警備部第6機動隊に極秘裏に「第7中隊」(「特科中隊」)を編成、
機動隊を中心に優秀な警察官60人を選定し、対テロ特殊部隊を編成した。
また、1977年12月には
大阪府警察警備部第2機動隊に「零中隊」を編成、警視庁と同様に優秀な人員40人を選抜し対テロ特殊部隊を編成した。
これら対テロ特殊部隊は、GSG-9、SASなどから対テロ作戦を学び、徐々に実力をつけていった。
1979年1月26日、
猟銃で武装した30歳の男、梅川昭美が大阪市住吉区にある三菱銀行北畠支店を襲撃、
銀行員2人を射殺、
駆けつけた阿倍野署警ら係長警部補と住吉署警ら課巡査の2人も射殺、
さらに第2方面機動警ら隊員に発砲、負傷させた。
さらに人質に猟奇的、残忍な危害を加え、香川県から連れて来た母親の説得も聞かなかった。
大阪府警察警備部(三井一正警備部長)は機動隊とともに、
「特別狙撃隊」と偽装して、対テロ特殊部隊「零中隊」を派遣する。
新田勇刑事部長と坂本房敏刑事部捜査第一課長の進言で、
吉田六郎大阪府警察本部長が強攻突入と犯人射殺を決断する。
1月28日午前8時に第2機動隊の松原和彦警部指揮の下、
「特別狙撃隊」32人を投入、犯人・梅川昭美を射殺した。
その後、「第7中隊」「零中隊」は、
SAP(SPECIAL ARMED POLICE)
と称され東京国際空港空港(羽田)や大阪国際空港(伊丹)で、日本航空、全日本空輸、東亜国内航空と協力しハイジャック対処訓練を繰り返し、ハイジャック対処では世界有数の力を持つにいたった。
また、訪日した外国の要人や、日本政府の閣僚の警護などにも投入され、実績を積んでいった。
1995年、札幌近郊・新千歳空港で心神喪失状態の東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)行員が全日空ボーイング747機をハイジャックした。
北海道警察機動隊、銃器対策部隊とともに、
警視庁SAPが派遣された。
報道においては、特殊梯子による突入が喧伝された。
特殊梯子による突入が衆人の目にさらされたことによって、対テロ特殊部隊の存在が明らかになった。
このことから、
警察庁は対テロ特殊部隊の存在を正式に認め、
特殊急襲部隊SAT
と名づけた。
さらにSATは、
神奈川県警察、千葉県警察、北海道警察、福岡県警察、愛知県警察
の5県警察にもそれぞれ20人ずつで設立した。
特殊急襲部隊SATはハイジャックなどのテロリズム対処とともに、非正規戦、ゲリラ・コマンド対処においても重要な役割を果たす。
治安出動、防衛出動が発動されるまでには時間を要すると思われ、自衛隊の出動は困難と思われる。
また、治安出動、防衛出動が発令され自衛隊が出動するにいたっても、
重要防護施設警備、要人警護、テロ対策、ゲリラ・コマンド対処など任務はあまりにも多すぎ、自衛隊の人員だけでは不足する。そういう事態に対し、警察の特殊急襲部隊SAT、銃器対策部隊、機動隊、自動車警ら隊、機動捜査隊はフル動員される。
1996年予算において、
SAT訓練費10億円を要求した警察庁であったが、
大蔵省はそれを不要として認めなかった。
しかし、同年12月に、ペルーの日本大使公邸占拠・人質事件発生するにいたって、
大蔵省もテロリズムの危険を認めざる得なくなり、予算は通ることになった。
また、ペルー日本大使公邸占拠・人質事件に特殊急襲部隊SATを派遣すべきとの声が与党内からあがった。
内閣法制局は憲法で禁止されている「海外での武力行使」に相当すると特殊急襲部隊SATのペルー派遣を否定した。
特殊急襲部隊SATのペルー派遣は断念された。