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絵本の楽屋   by 夏野いばら

「フレデリック  ちょっとかわったのねずみのはなし」                      レオ・レオニ:作 谷川俊太郎:訳 好学社                     

フレデリックのしたこと

もう、ン十年前になるが、私の大学時代。文学のゼミで、担当教授がこんな問いを持ち出した。「文学は、飢えた子の前で何ができるのか?」 

これはかつて、あのサルトルが発した問いで、多くの文学者を刺激し、各国の文壇に論争を巻き起こしたそうだ。 
「で? 君たちは、どう答える?」 
白髪の教授は、薄笑いを浮かべながら、私たちの顔を舐めるように見ていた。

教授は、戦中生まれだった。今にして思えば、彼は、のほほんとブンガク専攻している私たちに苛立っていたのだろう。戦後の高度成長期以降しか知らず、「飢え」なんて想像しようともせず、文学の持つ力について考えたこともない私たちに。そして確かに、その問いに答えられる学生はいなかった。

大学を卒業して、数年後、私はこの絵本に出会った。驚愕した。

確かに文学は、「パン」にはなれない。文学は、空腹を満たすことはできない。しかし、それと同じくらいに必要なものであり、特にパンが簡単には手に入らない危機の時にこそ、生き延びるために絶対に必要なものとなる― この真理を、あの問いの答えを、絵本「フレデリック」は、いともあざやかに見せてくれた。しかも、幼い子どもにもわかる「絵語り」で。

ー文学は、飢えた子の前で何ができるのか?
答えは「フレデリックがしたことができる」だ。
あるいは、レオ・レオニが、『フレデリック』という絵本をもってしたことが、できる。

しかし思えば、遡ること約二千年前、イエス様は、すでにこう言われていたのだった。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、と(旧約聖書に)書いてある*」(マタイによる福音書4章4節)

ユダヤ人のレオ・レオニが、この言葉を知らなかったはずはない、とも思う。
それを言うなら、サルトルも、当然知っていたはずだが(笑)。

私たちには、いつもパンが必要だ。そして、誰かが語ってくれる善い言葉=神の言葉も。両方、いつも、必要なのだ。

*イエス・キリストはここで、旧約聖書の申命記8章3節を引用された。



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