わたしの父信二郎は、ひたすらに平らで、蒲の原が広がる、果てしのない潟、新潟平野の新潟市蒲原町で、1931年8月8日に生まれた。間家の次男坊である。祖父の名は松四郎。祖父の兄弟は松雄、松太郎、松五郎、とみんな名前に松がついている。砂浜には松林が広がる新潟の風景が眼に浮かぶ。
古代蒲原では、アガノ川とシナノ川の二つの大河がメスとオスの二頭の竜のようにうねり、荒れ狂い、まじりあい、まぐりあい、大洪水のたびに、町も村も家々もすべてを洗い流してきた。人々はそのたびに集落ごと移住して、またゼロからあたらしく簡素な家を建て直して、いちから生活をともに始めていった。共同体とは、土地や所有ではなく、人と人とのつながりであったのだろう。そんな風土の蒲原では、気持ちが開かれていて、ヨソモノをも歓迎して、いつも何か、新しいことをはじめることができる、自由な空気に満ちていただろう。
祖父松四郎は父が幼いころに亡くなったのでわたしは会ったことはないが、新潟市で洋食店ピーア軒をやっていた祖伯父松太郎さんには毎年お正月に会っていた。背が高くパリッとしたスーツで胸を張り、ほほ骨の高いニコニコ笑っていた顔を覚えている。耳も大きく、立派な人なんだなあと思っていた。きっと祖父松四郎もそんな容姿だったのかもしれない。
父信二郎のはなしでは、生前祖父松四郎は家にはおらず、製材関係の出稼ぎに出ていたという。材木が腹にあたり、死亡したという。労災だ。
祖母の名はテイ。実家の青木家は現在に至るまで新潟市蒲原町で米屋を営んでいる。祖母テイは父が20代の後半に、がんで亡くなった。
父信二郎はテイのことを、手先の器用な賢い人だったといつも言っていた。「ミコが賢いのは、おばあちゃんに似ているからだよ」とわたしをほめかわいがってくれた。
わたしは写真のなかのテイおばあちゃんの顔しか知らないけれど、微笑んでいて、やさしい人という印象をもっていた。父の言葉を信じ、祖母とわたしは似ていると思い、私自身も賢い人になると、将来を信じていた。幼いわたしは広告の裏に着飾った女の人の絵を描いては父に見せにいった。父はいつも「じょうずだねぇー」とほめてくれた。
若いテイと若い松四郎は結婚をし、男の子を授かり一松となづけたが、その赤ん坊は死んでしまった。
若い二人はそれから二人の男の赤ん坊に恵まれ、「松」を名前につける代わりに、「信」を男の子たちの名前につけた。
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