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ラテントピック一語一絵 その44

2024-12-01 08:20:55 | ラテントピック・一語一絵
 
Agustín Castellón Sabicas
1912-1990

サビーカス

フラメンコギターのレジェンド


町の中に牛を放つお祭りで有名なパンプローナの
出身。ロマの血を引く。

子供の頃からギターの天才と言われた。父親が買い
与えたギターは17ぺセータだったが、よもや後に
スペインのフラメンコギターを代表する存在に昇り
つめるとは思わなかっただろう。当時は蓄音機が60
ペセータ前後で平均的月収の半分ぐらいの値段だっ
たからそれほど高いギターではなかったはずだ。
朝から晩までギターを弾いて過ごすような子供時代
だった。ある時パンプローナの祭りで歌の上手い
軍人のギター伴奏が出来る人間がいなくて、サビー
カス少年が駆り出されて絶賛を浴びたのがきっかけ
となり子供ながらもギターの天才とその存在を知ら
れるようになった。7歳にして早やサビキッスモの
片鱗を示している。

後にスペイン内戦で中南米に逃れ1939年にはアルゼン
チンやメキシコでの演奏旅行で成功をおさめ、9月に
キューバでカルメン・アマーヤらと共に短編映画El
Embrujo del Fandangoを撮りその年の暮れには
メキシコのベラクルスに着いている。おそらくキューバ
からユカタン半島を回り航路でメキシコに入ったと
思われる。ギタリストのサビーカスの父親やカルメン・
アマーヤの家族らも一緒だった。サビーカスらは在
ハバナのメキシコ領事部で1939年12月28日から
半年間有効のメキシコ滞在の許可を受けているし、
父親も同様の半年間有効のメキシコ滞在の外国人
登録をしている。 

その頃の日本は1940年から1941年に日独伊三国同盟
を結び、ハワイの真珠湾攻撃をした時代だった。

サビーカスは1955年から5年間メキシコに住みその後
ニューヨークに移り住み多くの録音を残している。
1967年にスペインに戻るが1990年にニューヨークに
て死去した。

サビーカスはカルメン・アマーヤと共にアメリカ生活
が長かった。日本にも二回来ている。

確か1973年が二度目の来日だと記憶しているが、その
前年の1972年に、僕はスペインのグラナダのアルバイ
シンで行われたCante Jondoの50周年記念祭でゲスト
で来たサビーカスのギター演奏を見たし運良く話しも
出来た。

もうサビーカスも初老の域に入りかけていたが、集まっ
た聴衆を満足させるには充分すぎるギター演奏だった。
アンドレス・セゴビアも一緒だった。この大マエストロ
のセゴビアは来日は4回あり何と昭和4年が初来日! 
遥か大昔に聞こえる。暫く話しをさせてもらい握手も
したが、柔らかな肉太な手のひらだったな。後になり
ユパンキに会った時に握手した際にも同じような印象
を受けた。フラメンコとフォルクローレの大御所は右
手と左手の違いこそあれどちらも暖かい手だった。

実はこの50周年記念のコンクルソが開催された年に、
日本のフラメンコギターのパイオニア的存在の勝田
保世氏はスペインに滞在してたらしい。グラナダに
は2ヵ月遅れて入ってこのカンテホンドのコンクルソ
には間に合うことは無かったようだ。面識は無いが
もし二か月早くグラナダに来ていればお会いできた
かも知れない。タラレバになってしまうが、勝田保世
氏がギター演奏をして、河上鈴子さんのステージの
バックを務められた際の話しなど伺いたかった。

また話しがそれるが、ボサノバで名前を売ったスタン・
ゲッツと組んだギタリストのチャーリー・バードは
若い時にイタリアでこのセゴビアからギターのレッス
ンを受けている。

このConcurso de Cante Jondo は1922年に詩人
のガルシア・ロルカや作曲家のマヌエル・デ・ファジァ
の呼びかけで始まったもので、本来のカンテホンドを
再認識するためのコンクルソで、1972年は節目の50
周年記念だった。1922年以降はスペイン内戦やら世界
大戦やらでその後開催されずしばらく中断されていた。
1922年にはRamón Montoya が出ている。この人は、
親日家で何度も来日しているCarlos Montoyaの叔父
さんにあたる伝説のフラメンコギタリストだが、これが
後にグラナダ出身のManuel Canoに影響を与えその息子
もフラメンコギターを継ぎやがては茨城県筑波山に近い
ギター文化館に繋がって行くのかと思うと不思議な縁を 
感じたりもするよ。

サビーカスらがスペイン内戦を逃れニューヨークに行っ
た頃はイタリアからのアメリカ移民もピークになっていた
し、またキューバのミュージシャンも現地で仕事があった
時期で、音楽マーケットは豊かだった。サビーカスはアメ
リカ的なショーやビジネスのノウハウを身につけてのスペ
イン帰国に繋がることになる。

クラシックであれジャズであれ音楽と言うのは時代で
変わって行くものだけど、サビーカスのギターが好きな
世代はある程度上の年配者のような気もするね。
彼はアメリカに長くいたせいもあるのかも知れないけれ
どステージやコンサート系とでも言うフラメンコギタリ
ストの印象もする。

カンテのサポーティング・ロールだったギターが独立
してそれだけで主役級のままコンサートが出来る役割が
確立して来たことも否定は出来ないけども、ブラジルの
伴奏楽器であるパンデイロが演奏のサブ的存在だったの
が、後に独立したポジティブな位置を与えられていく
プロセスに似てる。例えは悪いかも知れないけどね。

フラメンコギターの歴史の中にそう言う違いがあっても
不思議ではないよ。それでもカンテがあってこそのトー
ケなんだろうと感じるときもあるね。まあ時代とか演奏
場所にもよるけど。

ハワイの伝統的なダンスのフラにも白人好みのショー的
要素の強い現代フラのアウアナと自然の神に対する古典
フラのカヒコがあるが、その成立と今までの変化を見る
とフラメンコの歴史のプロセスと共通するような動きが
見られるのは興味深い。いつの時代にも反対派と擁護派
はいるものだ。

遠いカフェカンタンテの時代のプリミティブな純粋性を
保ちながらも、内戦によりスペイン本国での演奏活動が
低くなり、止む無くフランスや南米やアメリカでのステ
ージ音楽にフラメンコの更なる方向性を求めて現代フラ
メンコの芸術性を高めて行くことになる。

そうだよね、三味線でも歌舞伎の長唄と流しで歩く新内
とでは趣きが全く違うし、浄瑠璃の語り物の伴奏となる
と創り出す世界が全く違って聞こえる。カンテに対する
トーケは義太夫の三味線のような位置付けと言ったら半
分くらい当たっているかな。三味線の大薩摩はフラメン
コギターのラスゲアードを連想させる。

話しが随分ズレちゃったが、ズレついでに今やポピュラ
ーになったカホン・フラメンコがあるが、あれもパコ・
デ・ルシアがペルーに行った際に、現地のカイトロ・ソ
トから譲り受けたもので、パコ・デ・ルシアはそれ以降、
自分のステージに取り入れたのがやがて広まって行った。
カホンは今やペルーの国家文化遺産だ。カイトロ・ソト
は同じペルーの女性歌手チャブーカ・グランダのバック
を長く務めている。"La Flor de la Canera"は彼女の
代表的なヒット曲でラ米諸国では広く知られている。
フラメンコもアフリカの匂いが入っているがペルーも
クリオージョワルツにその要素が漂う。ついでながら
"Alma,corazón y vida"も名曲で心を揺さぶる。

フラメンコに関することならかつては故濱田滋郎さんだっ
たが、高場さんや谷川さんとかラテン音楽解説の大御所は
皆さん亡くなられてしまったし、僕はあまり詳しくはない
ので大昔の「中南米音楽」でも引っ張り
出してみるか。

今や濱田さんもManuel Canoも次の世代が活躍する
時代となっている。記憶も薄くなるよね。思い出せないもの。
もたもたすると僕らの世代も終わりに近いよ。

どうもいけないな。長々と余談ばかりになってしまってもっと
簡潔にしよう。絵はまあまあ上手く描けたかな。サビーカスは
大きな眼鏡をかけたりしているからどの顔にするか悩むよ。

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