54センチ。一回かけてバラした後に来た。
今はビルだらけになってしまったが、昭和30年代の半ば江東区の東雲
(しののめ)のあたりはまだ開けていなくてセスナが飛ぶ飛行場とゴルフ
場があるだけの埋立地だった。たしか11号と10号埋め立て地ではなか
ったかと記憶にある。民家などないところで筏だけが浮いていた。東雲
都橋行きというバスが走っていた。今だと有明テニスの森あたりだろうか。
海に近いので夏になると、8軒くらいの掘っ立て小屋が飛行場に向かう
道路の両側に建ち、ハゼを釣りに来るひとのために餌のゴカイやら軽食を
提供していた。秋になると撤収してしまうから、もっぱらハゼ釣りのひとの
ためにあるような簡易な建物だった。東雲といえばゴルフかハゼ釣りだった。
ゴルフ場と飛行場は昭和56年頃までにはなくなってしまったが、このハゼ
の餌を売る商売はその後も何年かは続いていたかと思う。
一番手前の左側の餌屋が小川さんというひとがやっていて、夏休みには
家族総出で商いをしていた。たしか月島に住んでいたはずだ。女手は焼き
そばやラーメンなど簡単な食事を担当し男のほうは餌や釣り道具を売って
いた。
この小川さんの息子が僕の同じ高校の一級上で当時へら鮒釣りに夢中だ
ったが、夏になると昼はハゼ釣りやら夜は鰻が釣れるやらで毎日東雲の
親のところまで遊びに来ていた。
いつだったかへらのハコ(釣堀)で彼とバッタリ会って以来、急速に打ち解け
て会うといつも相模湖のナイターとかどこそこのハコとか釣りの話ばかりだっ
た。へらの例会で一緒だったこともある。
それでよく東雲にハゼを釣りに行っては小川さんのところに寄らせてもらった。
飛行場を越えたちょいと横あたりにハゼのポイントがたくさんあって立ち込み
で良くハゼが釣れた。一度二人で立ち込みでハゼを釣っていた時にスナメリ
を見たことがあった。イルカの一種だが、良く見かけるのだと彼は言っていた
がスナメリを見たのは後にも先にもこの時だけだった。
それから40年くらいして、赤坂のTBS前の老舗の煎餅屋さんの荒店長と東
京の昔話をしていたら、荒さんは若いときに小川さんで餌売りのアルバイトを
していたというのでビックリしたことがある。この店長は東京生まれでこの間
まで自民党の代議士だった笹川と同期生だったが、残念ながら2年前に他
界された。昔の赤坂と東雲の話をもっとしたかったのに。
話題はかわって、1974年頃だったか千駄ヶ谷にあった釣り彦に良く通って
いた。この店はフライが主だったがルアーもおいてあって当時の数少ないショ
ップのひとつだった。後になって知ったことだが、麻布十番にあった十番温泉
の平岡君がよく釣り彦に通っていたのだと言っていた。フライにのめりこんで
いたのだそうだ。何回か彼と飲む機会があってどこかで釣りの話になった。
その時に、そういえば昔フライをやっていたんだ、という話になり、釣り彦には
良く通ったのだ、と話してくれた。これにもちょっとびっくりさせられた。随分と
フライロッドを買ったらしく今でも持っていると言っていた。
今となっては十番温泉も釣り彦もなくなってしまっている。釣り彦は後になって
ウォルトンと名を変えたが間もなく閉めてしまった。パイオニアとしての役目は
充分果たしただろう。
ロンドンから買ってきてもらった2本のハーディのフライロッドは現在も所有
している。このとき2台のフライリールとバイスもついでに買って来てもらった。
ラインだけは京橋のつるやで買い求めた。コートランドだったかサイエンティ
フックアングラーだったか覚えていないが、ラインだけなので大した出費に
ならなかった。フライフィシングは持ち物が少なくて身軽で良い。竿にバックに
ブーツくらいあれば充分だ。それに比べるとルアーは荷物が多い。
1970年の半ばくらいまでは、フライもルアーも黎明期で皆同じようなスタ
イルだったような気がする。キャップにサングラス、ベストを着てブーツか
ウエーダーで手にはルアーロッドかフライロッド。持ち物だけが違って似たり
よったりの姿だった。これは売り手のほうが初めにはっきりした方向性を出せ
なかったからだ。フライフィッシングをやって見せるほどの卓越した技術が
まだ多く存在していなかったといっても良い。売るほうが困っていた。そのせ
いかどこの輸入業者も似たようなものを売っていた。外国からプロを呼んじゃ
うのが一番てっとり早かったのかも知れない。
フライウエアなどは、英国に倣いネクタイにボックスのホームスパンのツイー
ドジャッケット、ドニゴールハットやニーブーツといういでたちが最適、など
と勧める始末だった。今じゃこんな格好をするひとはいないだろう。だけど、
何でもモノの始まりはこんなものだ。判らないで手探りでやっている頃が一
番面白い。細分化がはじまるとつまらなくなる。
書こうと思っていたこととずれて来たので、この辺でまた昔の写真でも。
いくら探しても他の釣りの写真が見当たらない。家を新築したときに押入れ
の奥にでもしまい込んだか。そういえばヘラ浮きはどこ行った?
1979年8月。精進湖だったか?
芦ノ湖。1980年4月。一日ブラウンを狙っては空振りばかり。
ルアーのそばまで来るが帰ってしまうの繰り返し。あきらめかけた
夕方にようやく手にしたブラウンだった。GFC38。
三本杉でずっとやっていたんだけど駄目で深良水門で食って来た。
危うくデコるところだった。この時使用したフェンウィックのGFC38は
何十年も友人に貸したまま。もう戻らないだろう。
今はビルだらけになってしまったが、昭和30年代の半ば江東区の東雲
(しののめ)のあたりはまだ開けていなくてセスナが飛ぶ飛行場とゴルフ
場があるだけの埋立地だった。たしか11号と10号埋め立て地ではなか
ったかと記憶にある。民家などないところで筏だけが浮いていた。東雲
都橋行きというバスが走っていた。今だと有明テニスの森あたりだろうか。
海に近いので夏になると、8軒くらいの掘っ立て小屋が飛行場に向かう
道路の両側に建ち、ハゼを釣りに来るひとのために餌のゴカイやら軽食を
提供していた。秋になると撤収してしまうから、もっぱらハゼ釣りのひとの
ためにあるような簡易な建物だった。東雲といえばゴルフかハゼ釣りだった。
ゴルフ場と飛行場は昭和56年頃までにはなくなってしまったが、このハゼ
の餌を売る商売はその後も何年かは続いていたかと思う。
一番手前の左側の餌屋が小川さんというひとがやっていて、夏休みには
家族総出で商いをしていた。たしか月島に住んでいたはずだ。女手は焼き
そばやラーメンなど簡単な食事を担当し男のほうは餌や釣り道具を売って
いた。
この小川さんの息子が僕の同じ高校の一級上で当時へら鮒釣りに夢中だ
ったが、夏になると昼はハゼ釣りやら夜は鰻が釣れるやらで毎日東雲の
親のところまで遊びに来ていた。
いつだったかへらのハコ(釣堀)で彼とバッタリ会って以来、急速に打ち解け
て会うといつも相模湖のナイターとかどこそこのハコとか釣りの話ばかりだっ
た。へらの例会で一緒だったこともある。
それでよく東雲にハゼを釣りに行っては小川さんのところに寄らせてもらった。
飛行場を越えたちょいと横あたりにハゼのポイントがたくさんあって立ち込み
で良くハゼが釣れた。一度二人で立ち込みでハゼを釣っていた時にスナメリ
を見たことがあった。イルカの一種だが、良く見かけるのだと彼は言っていた
がスナメリを見たのは後にも先にもこの時だけだった。
それから40年くらいして、赤坂のTBS前の老舗の煎餅屋さんの荒店長と東
京の昔話をしていたら、荒さんは若いときに小川さんで餌売りのアルバイトを
していたというのでビックリしたことがある。この店長は東京生まれでこの間
まで自民党の代議士だった笹川と同期生だったが、残念ながら2年前に他
界された。昔の赤坂と東雲の話をもっとしたかったのに。
話題はかわって、1974年頃だったか千駄ヶ谷にあった釣り彦に良く通って
いた。この店はフライが主だったがルアーもおいてあって当時の数少ないショ
ップのひとつだった。後になって知ったことだが、麻布十番にあった十番温泉
の平岡君がよく釣り彦に通っていたのだと言っていた。フライにのめりこんで
いたのだそうだ。何回か彼と飲む機会があってどこかで釣りの話になった。
その時に、そういえば昔フライをやっていたんだ、という話になり、釣り彦には
良く通ったのだ、と話してくれた。これにもちょっとびっくりさせられた。随分と
フライロッドを買ったらしく今でも持っていると言っていた。
今となっては十番温泉も釣り彦もなくなってしまっている。釣り彦は後になって
ウォルトンと名を変えたが間もなく閉めてしまった。パイオニアとしての役目は
充分果たしただろう。
ロンドンから買ってきてもらった2本のハーディのフライロッドは現在も所有
している。このとき2台のフライリールとバイスもついでに買って来てもらった。
ラインだけは京橋のつるやで買い求めた。コートランドだったかサイエンティ
フックアングラーだったか覚えていないが、ラインだけなので大した出費に
ならなかった。フライフィシングは持ち物が少なくて身軽で良い。竿にバックに
ブーツくらいあれば充分だ。それに比べるとルアーは荷物が多い。
1970年の半ばくらいまでは、フライもルアーも黎明期で皆同じようなスタ
イルだったような気がする。キャップにサングラス、ベストを着てブーツか
ウエーダーで手にはルアーロッドかフライロッド。持ち物だけが違って似たり
よったりの姿だった。これは売り手のほうが初めにはっきりした方向性を出せ
なかったからだ。フライフィッシングをやって見せるほどの卓越した技術が
まだ多く存在していなかったといっても良い。売るほうが困っていた。そのせ
いかどこの輸入業者も似たようなものを売っていた。外国からプロを呼んじゃ
うのが一番てっとり早かったのかも知れない。
フライウエアなどは、英国に倣いネクタイにボックスのホームスパンのツイー
ドジャッケット、ドニゴールハットやニーブーツといういでたちが最適、など
と勧める始末だった。今じゃこんな格好をするひとはいないだろう。だけど、
何でもモノの始まりはこんなものだ。判らないで手探りでやっている頃が一
番面白い。細分化がはじまるとつまらなくなる。
書こうと思っていたこととずれて来たので、この辺でまた昔の写真でも。
いくら探しても他の釣りの写真が見当たらない。家を新築したときに押入れ
の奥にでもしまい込んだか。そういえばヘラ浮きはどこ行った?
1979年8月。精進湖だったか?
芦ノ湖。1980年4月。一日ブラウンを狙っては空振りばかり。
ルアーのそばまで来るが帰ってしまうの繰り返し。あきらめかけた
夕方にようやく手にしたブラウンだった。GFC38。
三本杉でずっとやっていたんだけど駄目で深良水門で食って来た。
危うくデコるところだった。この時使用したフェンウィックのGFC38は
何十年も友人に貸したまま。もう戻らないだろう。
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