タックルボックス、要するに釣り道具箱。散財の果て。
この頃もの覚えが悪くなった。というよりは正確に言えば昔のことを
思い出せなくなってきた。今のうちに書き溜めておかなきゃ。
たまには釣りのことを。
明治生まれの父親や近くに住む叔父さんの影響で子供の頃から釣りが
好きだった。父親は深川の東大工町というところの生まれだがこの町名
はとうにない。もっとも深川も昔は深川区だった。
真鮒釣りからヘラぶな釣り、手頃なところでハゼ釣り、乗り合いの五目
釣りに投げ釣りと何でもやった。
我が家の裏手にある小名木川は戦前は綺麗でポンポン船が通い、母親の
同級生はこれに乗り女学校へ通って来ていたと、生前の母親が良く話し
ていた。小名木川も随分と綺麗だったようだ。
父親もここから小船に乗り朝一番でボラを釣りに出かけ朝食からボラの
刺身を食べたものだと良く聞かされた。当時は水が綺麗でちっともボラが
臭くなかったと言っていた。因みにボラならヘソが一番美味い。4,5個
を串に刺して軽く塩を振り焼いて食べるとシコシコして美味しい。ただし
一匹に一個しかない。
家には寒ボラをギャングで釣るときの専用の竿があった。また青ギス用
の竿もあった。脚立で釣るのだが今はもう夢の世界だ。ハゼ竿に至っては
高級品の竹竿が結構あった。銘が入っていたがもう覚えていない。手バネ
まであった。小唄も都都逸もやり江戸前の釣りも嗜む明治生まれの下町
人間の父親は趣味が粋だった。
東西線の通る前の江戸川区や浦安などまだまだ畑や池や沼があって小鮒
や鯉などがあちこちにいた。親戚の叔母さんが葛西に住んでいたので旧
葛西橋を渡り釣りがてら良く寄ってご飯をご馳走になった。当時の葛西は
まだ田園地帯のようなところで畑が多く肥溜めもあった。今は信じられない
だろうが全くの田舎だったのだ。葛西海水浴場という看板が土手の先に
出ていて、そこでいとこと一緒に泳いだものだ。
行徳に至っては野池がいっぱいあり見渡す限りの野原だった。海に面し宮内
庁の新浜御猟場があり、その近くに松で囲まれた自転車で回るほどの大きな
釣堀があった。ここまで来るともう海がそばで潮の匂いが漂よい広々として
いて気持ちが良かった。丸浜養魚場といった。昭和30年代の後半のことだ。
360度のパノラマで湿地やら干潟やら魚と野鳥の天国だった。
丸浜養魚場は、ダンゴえさの吸い込みで5,6本の投竿を並べ後は浮きを眺
めて夏などは松の木の下で横になっているというのんびりとした釣りだった。
半ば大きな池のようなところで潮も入り大型のボラもいた。食べるのは無理
だろう。
そのまた近くに、大きな池が4つありその回りを細流(ホソ)が囲む釣堀が
あった。こちらはもっぱらヘラの釣堀で通称田所の池といった。ヘラはあまり
濃くなかったが野趣に溢れていて静かで鳥の声しか聞こえなかった。雷魚
や草魚、大きな真鮒に鯉もいた。
この辺りは広大な干潟で見渡す限りの大パノラマの沼地だった。ガンが飛来
していた。今は誰も信じないだろう。44年前に埋め立てられた。
4つの池は浅く真ん中にボサが入り、丈五以上の竿でないと真ん中に届かな
かった。入漁料もすごく安かったような気がする。回りの細流にもヘラは
いたが大きなレンギョもいて道糸を鳴らしながらぶっちぎられたものだった。
高いへら竿は使わずグラスロッドばっかり使った。NFTかエビスのグラスの
へら竿を改造して使用していた。
今井のあたりはまだトロリーバスが走っていた時代だった。
バスのターミナルの前に東条釣具店があり、行徳近辺の釣り情報は海の魚で
あれ内側の淡水系の魚であれ、新鮮な情報をもっていて良く立ち寄っては
釣り情報を聞いた。今考えればよく自転車で行ったもんだ。赤虫とキジを
木の餌箱に入れ9尺と二間の真鮒竿を自転車にくくりつけて通っていたが
今はもうこんな体力はない。
高校生活も終わりやがて大学受験に追われ釣りに行く暇がなくなり、大学に
入ったらそのまま四年間はろくに釣りに行かなかった。
本格的に釣りに復帰したのは社会人になってからだが、海外にいた1971年
から72年は釣りはしていない。
1973,4年の頃だろう。当時流行り始めていたルアーとフライにのめりこんだ。
まともな情報がなく洋書屋へ行って当時の輸入釣り雑誌から知識だけは得る
ことが出来たがまだまだ少数派の釣りだった。こんなんで本当に釣れるのかと
さえ聞くひとさえいたものだ。
釣り道具ももっぱら輸入品しか売っていなくて高価だった。国産でもあるには
あったがまだまだ少なくて充分なラインアップではなかった。
だから輸入メーカーは啓蒙に必死で海外からチャンドラーやジョニーローガンやら
アン何とかいう女流のフライキャスターを呼んでフライキャスティングのデモを
やって見せた。むろんハーディも来日している。また各地で講習会を開催し結構
これは人気を上げるのに役立ったようだ。
当時フライやルアーを扱う店は千駄ヶ谷の釣り彦か京橋のつるやだった。
もっぱらこの二店で欲しいものを買い求めていた。あとは渋谷の三水だった。
つるやはフライを始める前はへら竿を扱う店で有名だった。つるやオリジナル
のへらの道具も多く、通っていた高校に近かったので学校帰りに良く寄った
ものだ。紀州の有名なへら竿がずらっと並んでいて垂涎モノだった。足繁く
通ったが生意気な高校生に買えるものは多くはなかった。
当時のへら研では浅草と銀座のへら研が有名だった。他に東京支部もたくさん
ありへら釣りのピークの頃ではなかっただろうか。佐原のメリーハウスの
関沢潤一郎さんも元気の頃だったし横利根銀座なんて言われていた頃だ。
小暮三郎さんも、たしかこのお名前だった、川の釣りで良く知られていた。
父親と一緒に良く佐原向地一帯に釣りに出かけたものだ。父親は年を取って
からへらばかりやっていた。手軽だったのだろう
これは父親が釣ったへらの魚拓。初老の域だった。敬意を示そう。
へら竿では有名だったつるやが後年ハーディを扱うようになったのには
ちょっと驚いたものだ。時代の流れなのか180度の転換に思えた。高価な
へら竿には溜息をついていたものだったが、フライになっても英国の老舗の
ハーディのフライロッドの値段が高くてまたここでも溜息をつかされた。
僕の会社で使っていた香港の代理店がドッドウェルで、つるやでこの名前を発
見した時は何だか変な気分がしたことがあった。同じ名前だったからかも知れ
ないがひょっとすると記憶違いかも知れない。
ハーデイのフライロッドやりールについては、いとこにロンドンから直接買って
きて貰った。ただしグラスロッドだが。
当時カーボンロッドもあるにはあったがまだ出たばかりでもの凄く高価だった。
そのうちルアーも始めた。初めに買ったのはガルシアの2121番という所謂
ウルトラライトの竿にミッチェルの308という当時の定番セットだ。
キャッチアンドリリースといううたい文句で「釣り」が「フィッシング」になって
いく時代の始まりだった。当時アブは高かったが、ディプロマットの組み合わせ
でアブのリールもセットで売っていたので思いきって買ったこともあった。
給料をずいぶんつぎ込んだものだが、そのうちアメリカから直接買うように
なった。発売されたばかりのアブリール2500Cとかルアーやラインなんかも
太巻きで取り寄せたものだ。バスプロショップスが出来たばかりの頃で、その
前はもっぱらCABELA'Sで買い求めていた。
当時へらぶなの日研には米地南嶺さんや鈴木魚心さんがおられたが、米地
さんは発足してまだ歴史の浅いJLAAのほうにも顔を出しておられた。以前
からフライやルアーには造詣が深かった。あの頃会長は金子さんかそれとも
ドクターの小原さんだったか?フライのほうが小原さんだったかな。
鈴木魚心さんにいたっては後年フライフィッシングの本まで出されたのは
ちょっと驚かされた。イギリス式のフライフィシングだったような記憶がある。
フェンウイックの竿を結構使った。芦ノ湖で初めてバスを釣ったのもフェンウイック
の6フィートにラッキー13のルアーだった。これは良く覚えているが何年のこと
だか記憶がない。芦ノ湖で船外機の免許が不必要のころだったから相当前だ。
法的にまだ不必要だったのか、芦ノ湖だけ免許が要らなかったのかは良く覚えて
いない。後年になり暫定処置として座学の講習会が開かれそれだけでボート免許
がもらえたような記憶がある。過渡期だったのかも知れない。
当時もっぱら通っていたのは湖尻の岡本ボートだった。日本テレビ系で大橋巨泉
の11PMという深夜の番組で釣りコーナーがあった。たしか金曜だったか、毎週
釣りの服部名人が登場するのだが一度芦ノ湖のブラックバス釣りが放映された
ことがあった。これに岡本のよっちゃんがちらっと登場したのを覚えている。
後で芦ノ湖に行った時にこの話しをしたら笑っていた。
話はそれるが、同番組でハワイのマーリンを釣る特集があって、ハワイ島のコナ
沖が出てきた。当時のホットスポットで500キロを越える超大物が釣れるので
世界中から釣り人が集まるところで有名だった。ビルフィッシュのトーナメント
では国際的に名が知られている。1000ポンドを越えるグランダーを求める
ボートでコナはいっぱいになる。かつて日本チームも優勝したことがあるのだ。
コナの夕陽は実に綺麗で海に太陽が落ちて行く。ずっと見ていても飽きないくらい
感動的だ。
後年になりこのハワイ島に5回も行く事になるのだから人生は判らない。それも
バス釣りを通じて知り合った友人が、すでにハワイ島の土地を所有していたのを
後で知ったりする。公務員だからリタイヤしたら嫁さんとハワイ島に行くのだろうか。
早期退職でもして体力のあるうちに人生を謳歌したほうが良い。ボケないうちに。
去年の秋もハワイ島に出かけたが何度行ってもハワイ島は良いところだと思う。
話ばかり長くなった。この辺で写真も。
1979年の8月の芦ノ湖。スミスのFO60。
1986年。スピンスティック。河口湖。「スーパーストライカー」のロッド。
Aprilのスペルを間違えている。小さい字が見えねェ。
1982年7月。山中湖。ナイルズマスターって名前だったか、このルアーは。
芦ノ湖でクレージークローラで大ナマズを釣った写真が見当たらない。75年
あたりか。フェンウイックのFC60でファーストキャストにいきなり出た。どこかに
紛失したようだ。またGFC38でブラウンをトップウォーターで釣った写真が
あるが、何とルアーはへドンのヘッドハンターミノーだった。
1978年11月。伊豆の一碧湖。ゼブコのサンダウナー。バスが痩せている。
この頃もの覚えが悪くなった。というよりは正確に言えば昔のことを
思い出せなくなってきた。今のうちに書き溜めておかなきゃ。
たまには釣りのことを。
明治生まれの父親や近くに住む叔父さんの影響で子供の頃から釣りが
好きだった。父親は深川の東大工町というところの生まれだがこの町名
はとうにない。もっとも深川も昔は深川区だった。
真鮒釣りからヘラぶな釣り、手頃なところでハゼ釣り、乗り合いの五目
釣りに投げ釣りと何でもやった。
我が家の裏手にある小名木川は戦前は綺麗でポンポン船が通い、母親の
同級生はこれに乗り女学校へ通って来ていたと、生前の母親が良く話し
ていた。小名木川も随分と綺麗だったようだ。
父親もここから小船に乗り朝一番でボラを釣りに出かけ朝食からボラの
刺身を食べたものだと良く聞かされた。当時は水が綺麗でちっともボラが
臭くなかったと言っていた。因みにボラならヘソが一番美味い。4,5個
を串に刺して軽く塩を振り焼いて食べるとシコシコして美味しい。ただし
一匹に一個しかない。
家には寒ボラをギャングで釣るときの専用の竿があった。また青ギス用
の竿もあった。脚立で釣るのだが今はもう夢の世界だ。ハゼ竿に至っては
高級品の竹竿が結構あった。銘が入っていたがもう覚えていない。手バネ
まであった。小唄も都都逸もやり江戸前の釣りも嗜む明治生まれの下町
人間の父親は趣味が粋だった。
東西線の通る前の江戸川区や浦安などまだまだ畑や池や沼があって小鮒
や鯉などがあちこちにいた。親戚の叔母さんが葛西に住んでいたので旧
葛西橋を渡り釣りがてら良く寄ってご飯をご馳走になった。当時の葛西は
まだ田園地帯のようなところで畑が多く肥溜めもあった。今は信じられない
だろうが全くの田舎だったのだ。葛西海水浴場という看板が土手の先に
出ていて、そこでいとこと一緒に泳いだものだ。
行徳に至っては野池がいっぱいあり見渡す限りの野原だった。海に面し宮内
庁の新浜御猟場があり、その近くに松で囲まれた自転車で回るほどの大きな
釣堀があった。ここまで来るともう海がそばで潮の匂いが漂よい広々として
いて気持ちが良かった。丸浜養魚場といった。昭和30年代の後半のことだ。
360度のパノラマで湿地やら干潟やら魚と野鳥の天国だった。
丸浜養魚場は、ダンゴえさの吸い込みで5,6本の投竿を並べ後は浮きを眺
めて夏などは松の木の下で横になっているというのんびりとした釣りだった。
半ば大きな池のようなところで潮も入り大型のボラもいた。食べるのは無理
だろう。
そのまた近くに、大きな池が4つありその回りを細流(ホソ)が囲む釣堀が
あった。こちらはもっぱらヘラの釣堀で通称田所の池といった。ヘラはあまり
濃くなかったが野趣に溢れていて静かで鳥の声しか聞こえなかった。雷魚
や草魚、大きな真鮒に鯉もいた。
この辺りは広大な干潟で見渡す限りの大パノラマの沼地だった。ガンが飛来
していた。今は誰も信じないだろう。44年前に埋め立てられた。
4つの池は浅く真ん中にボサが入り、丈五以上の竿でないと真ん中に届かな
かった。入漁料もすごく安かったような気がする。回りの細流にもヘラは
いたが大きなレンギョもいて道糸を鳴らしながらぶっちぎられたものだった。
高いへら竿は使わずグラスロッドばっかり使った。NFTかエビスのグラスの
へら竿を改造して使用していた。
今井のあたりはまだトロリーバスが走っていた時代だった。
バスのターミナルの前に東条釣具店があり、行徳近辺の釣り情報は海の魚で
あれ内側の淡水系の魚であれ、新鮮な情報をもっていて良く立ち寄っては
釣り情報を聞いた。今考えればよく自転車で行ったもんだ。赤虫とキジを
木の餌箱に入れ9尺と二間の真鮒竿を自転車にくくりつけて通っていたが
今はもうこんな体力はない。
高校生活も終わりやがて大学受験に追われ釣りに行く暇がなくなり、大学に
入ったらそのまま四年間はろくに釣りに行かなかった。
本格的に釣りに復帰したのは社会人になってからだが、海外にいた1971年
から72年は釣りはしていない。
1973,4年の頃だろう。当時流行り始めていたルアーとフライにのめりこんだ。
まともな情報がなく洋書屋へ行って当時の輸入釣り雑誌から知識だけは得る
ことが出来たがまだまだ少数派の釣りだった。こんなんで本当に釣れるのかと
さえ聞くひとさえいたものだ。
釣り道具ももっぱら輸入品しか売っていなくて高価だった。国産でもあるには
あったがまだまだ少なくて充分なラインアップではなかった。
だから輸入メーカーは啓蒙に必死で海外からチャンドラーやジョニーローガンやら
アン何とかいう女流のフライキャスターを呼んでフライキャスティングのデモを
やって見せた。むろんハーディも来日している。また各地で講習会を開催し結構
これは人気を上げるのに役立ったようだ。
当時フライやルアーを扱う店は千駄ヶ谷の釣り彦か京橋のつるやだった。
もっぱらこの二店で欲しいものを買い求めていた。あとは渋谷の三水だった。
つるやはフライを始める前はへら竿を扱う店で有名だった。つるやオリジナル
のへらの道具も多く、通っていた高校に近かったので学校帰りに良く寄った
ものだ。紀州の有名なへら竿がずらっと並んでいて垂涎モノだった。足繁く
通ったが生意気な高校生に買えるものは多くはなかった。
当時のへら研では浅草と銀座のへら研が有名だった。他に東京支部もたくさん
ありへら釣りのピークの頃ではなかっただろうか。佐原のメリーハウスの
関沢潤一郎さんも元気の頃だったし横利根銀座なんて言われていた頃だ。
小暮三郎さんも、たしかこのお名前だった、川の釣りで良く知られていた。
父親と一緒に良く佐原向地一帯に釣りに出かけたものだ。父親は年を取って
からへらばかりやっていた。手軽だったのだろう
これは父親が釣ったへらの魚拓。初老の域だった。敬意を示そう。
へら竿では有名だったつるやが後年ハーディを扱うようになったのには
ちょっと驚いたものだ。時代の流れなのか180度の転換に思えた。高価な
へら竿には溜息をついていたものだったが、フライになっても英国の老舗の
ハーディのフライロッドの値段が高くてまたここでも溜息をつかされた。
僕の会社で使っていた香港の代理店がドッドウェルで、つるやでこの名前を発
見した時は何だか変な気分がしたことがあった。同じ名前だったからかも知れ
ないがひょっとすると記憶違いかも知れない。
ハーデイのフライロッドやりールについては、いとこにロンドンから直接買って
きて貰った。ただしグラスロッドだが。
当時カーボンロッドもあるにはあったがまだ出たばかりでもの凄く高価だった。
そのうちルアーも始めた。初めに買ったのはガルシアの2121番という所謂
ウルトラライトの竿にミッチェルの308という当時の定番セットだ。
キャッチアンドリリースといううたい文句で「釣り」が「フィッシング」になって
いく時代の始まりだった。当時アブは高かったが、ディプロマットの組み合わせ
でアブのリールもセットで売っていたので思いきって買ったこともあった。
給料をずいぶんつぎ込んだものだが、そのうちアメリカから直接買うように
なった。発売されたばかりのアブリール2500Cとかルアーやラインなんかも
太巻きで取り寄せたものだ。バスプロショップスが出来たばかりの頃で、その
前はもっぱらCABELA'Sで買い求めていた。
当時へらぶなの日研には米地南嶺さんや鈴木魚心さんがおられたが、米地
さんは発足してまだ歴史の浅いJLAAのほうにも顔を出しておられた。以前
からフライやルアーには造詣が深かった。あの頃会長は金子さんかそれとも
ドクターの小原さんだったか?フライのほうが小原さんだったかな。
鈴木魚心さんにいたっては後年フライフィッシングの本まで出されたのは
ちょっと驚かされた。イギリス式のフライフィシングだったような記憶がある。
フェンウイックの竿を結構使った。芦ノ湖で初めてバスを釣ったのもフェンウイック
の6フィートにラッキー13のルアーだった。これは良く覚えているが何年のこと
だか記憶がない。芦ノ湖で船外機の免許が不必要のころだったから相当前だ。
法的にまだ不必要だったのか、芦ノ湖だけ免許が要らなかったのかは良く覚えて
いない。後年になり暫定処置として座学の講習会が開かれそれだけでボート免許
がもらえたような記憶がある。過渡期だったのかも知れない。
当時もっぱら通っていたのは湖尻の岡本ボートだった。日本テレビ系で大橋巨泉
の11PMという深夜の番組で釣りコーナーがあった。たしか金曜だったか、毎週
釣りの服部名人が登場するのだが一度芦ノ湖のブラックバス釣りが放映された
ことがあった。これに岡本のよっちゃんがちらっと登場したのを覚えている。
後で芦ノ湖に行った時にこの話しをしたら笑っていた。
話はそれるが、同番組でハワイのマーリンを釣る特集があって、ハワイ島のコナ
沖が出てきた。当時のホットスポットで500キロを越える超大物が釣れるので
世界中から釣り人が集まるところで有名だった。ビルフィッシュのトーナメント
では国際的に名が知られている。1000ポンドを越えるグランダーを求める
ボートでコナはいっぱいになる。かつて日本チームも優勝したことがあるのだ。
コナの夕陽は実に綺麗で海に太陽が落ちて行く。ずっと見ていても飽きないくらい
感動的だ。
後年になりこのハワイ島に5回も行く事になるのだから人生は判らない。それも
バス釣りを通じて知り合った友人が、すでにハワイ島の土地を所有していたのを
後で知ったりする。公務員だからリタイヤしたら嫁さんとハワイ島に行くのだろうか。
早期退職でもして体力のあるうちに人生を謳歌したほうが良い。ボケないうちに。
去年の秋もハワイ島に出かけたが何度行ってもハワイ島は良いところだと思う。
話ばかり長くなった。この辺で写真も。
1979年の8月の芦ノ湖。スミスのFO60。
1986年。スピンスティック。河口湖。「スーパーストライカー」のロッド。
Aprilのスペルを間違えている。小さい字が見えねェ。
1982年7月。山中湖。ナイルズマスターって名前だったか、このルアーは。
芦ノ湖でクレージークローラで大ナマズを釣った写真が見当たらない。75年
あたりか。フェンウイックのFC60でファーストキャストにいきなり出た。どこかに
紛失したようだ。またGFC38でブラウンをトップウォーターで釣った写真が
あるが、何とルアーはへドンのヘッドハンターミノーだった。
1978年11月。伊豆の一碧湖。ゼブコのサンダウナー。バスが痩せている。
おそらく、関沢さんの最後の友達ではなかっただろうか。
私は釣りをしませんので弟子にはなれませんでした。関沢さんの誘いで、大戸川や八軒川にお供しました。
釣るそばで思い出を語ってくれました。
雨情、法勝のこと、懐かしいです。残念ながら、佐原では関沢さんの評価は低いです。
我が家には関沢さんの釣りの本がサイン入りで何冊かあります。
青ギスの脚立釣りも懐かしいですね。
思い出の釣りをどんどん書いてください。
顧問もされていたんじゃないでしょうか。
一番初めに手にした佐原のマブナ釣りの
本が関沢氏の本でした。
手元にある昭和44年の「日本へら鮒釣
研究会会員名簿」には特別会員として
名を連ねておられますし、指定旅館として
メリーハウスも登録されてますね。
僕自身は野田奈川や新利根川あたりの
思い出が強いんです・・・
一生懸命思い出して昔のことを書くように
します。ご期待に添えると良いのですが・・