Luiz Bonfá
ルイス・ボンファ
ブラジル人ギタリスト。歌手。作曲家。1922年生まれ。
ルイス・ボンファの名前を知らなくても、映画「黒いオルフェ」の主題歌
「カーニバルの朝」は世界的に有名な曲で, ラテン音楽好きでなくても
一度は聞いたことがあるほどお馴染みの曲だ。ルイス・ボンファの名前を
世界に知らしめた曲だ。ボンファのファにアクセントがある。
このひとの音楽についてはたくさんの方が書かれているので、細かいこと
はそちらを見て頂くとして、音楽の演奏者というものは時代時代の流れの
中で、音楽はもちろんのこと人との出会いや関わりがその後の方向性に
関わってくるケースが多いが、ルイス・ボンファの音楽キャリアにはそんな
にずれることのない彼なりの統一性があったようにも思えるね。
ブラジルですてに知られていたがアメリカ滞在中に録音された数々のレ
コードや、ブラジルに帰国してからの録音にはジャズの影響があったり
あるいは逆にブラジルの色合いの濃い録音もあるけれども、ルイス・
ボンファのギター音楽の世界は、根幹を構成する部分が変わることなく
鮮やかな緑の葉が次々と出て来る大木のようで、枯れることのない魔法
の木とでもいうところか。ギターの音色は素直で人間味を反映してるよう
にも聞こえるけどね。なにより笑うと柔和な目が良い。
'60年初頭のお馴染みのスタン・ゲッツやトム・ジョビンとの録音、1962年の
カーネギーホールへの出演、カテリーナ・バレンテやペリー・コモ・ショーで
ルイス・ボンファが弾きペリー・コモが「カーニバルの朝」を歌っている。
また人気女性歌手であったメアリー・マーチンとも共演していて多彩で幅広い
活動を見せている。60年代のほとんどは海外やNYでの生活で10年以上にわた
るが年に数か月はブラジルに戻っていたようだ。
ビンテージカーのコレクションが好きだったようでリオの西側にある高級住宅地
バハダティジューカにある彼の屋敷には、シルバーのポンティアックのグランプ
リなど自慢の車があったと言う。アメリカからもって来たのだろうかね。
赤のポンティアックのグランプリスーパーチャージャー3800cc ならハワイ島で
借りたことがあるがボンファと時代が違うもの。レンタカーでは自慢にすらなら
ないよ。
彼の名から取ったルイス・ボンファ通りがある。
余談だがメアリー・マーチンを見出したのは、あのコール・ポーターで彼女の
歌の才能を見抜き抜擢したことから彼女はブロードウェイのミュージカルスター
の階段を上がって行く。コール・ポーターは当時から名の知れた作曲家であり作
詞家でもあり力のあるプロモーターでもあった。日本でもコール・ポーターの作
曲した歌はかなり知られているし映画音楽の作曲も多い。歌曲王とか言う表現は
今は何だか可笑しい。
ルイス・ボンファの1957年の「サンボレロ」にもコール・ポーターの
「Night And Day」が録音されている。この歌はコール・ポーター役でケーリー
・グラントが主演、メアリー・マーチンも本人役で出演している。1946年に
映画化された。映画音楽もたくさん残しているが何と言っても有名なのは「ビギン
・ザ・ビギン」だろう。ジャズでスタンダード化されシナトラを初めとして実に
たくさんの歌手が歌っているしフリオ・イグレシア版でも大ヒットした。
日本に来た際にも歌っていたね。前よりずいぶんあか抜けた印象だった。
この歌はそもそもは西インド諸島のひとつ、フランス領のマルティニーク島
のリズムであるビギンを元に作曲されたというが、少し洗練されすぎている
感じがしないでもない。あの辺りならもう少しアフリカっぽい味のリズムが
残ってそうだが。リファインしすぎたかな。優雅な旋律だもの。言わばコール・
ポーター風のビギンですね。ビギンをビギンするというタイトルも語呂合わ
せで、下手をすると安っぽくなるけどそうは聞こえないものね。
Beguineのスペルはフランス語だけどフランス支配以前は何と呼んでいたのだ
ろうか。
そうそう、コール・ポーターには「帰ってくれたら嬉しいわ」という名曲も
あった。もともとは映画の挿入歌で、戦争に行った男が心を寄せる女を思
う気持ちを歌ったものでヘレン・メリルの歌で有名だ。
You’d be so nice to come home to が原題で「帰って~」の題は大橋巨泉がつ
けたらしく、後になってあれは誤訳で「あなたの待つ家に帰っていけたら幸せ」
が正しい訳であったと本人が言っていた、と娘さんの大橋美加さんがどこかに
書いていたっけな。
誤訳であろうと何であろうと名曲は名曲だからね。文法の解釈で揉めたりしたら
それこそヘレン・メリルが本当に溜め息つきそうだ。
ヘレン・メリルと言うと何故か沢たまきを思い出す。若い人には分からないだろ
うけどジャズシンガーで後に議員になった。「さらばジャマイカ」が懐かしい。
この頃の世代の歌手はアメリカ軍のキャンプ廻りをした人が多いよ。
キャンプと言ってもテントを張っているわけではなく、日本のあちこちにある
アメリカ軍の基地のことで、たいていは娯楽施設がありショーのためのステージ
があった。そこでバンドで入り歌を歌う。当時はやはりジャズが多かったね。
ベラフォンテのカリプソで「バナナボート」で大当たりを取っていたからか、
この歌もヒットした。ジャマイカあたりの読み人知らずや作曲家不明の地元の
歌を元にして新規に歌を作って当たったときは要注意で、カルメンを作曲した
ことで知られているビゼーは自曲に取り入れたハバネラが、実はセバスティアン
・イラディエルが作曲した曲であることを後で知り、模したものであることを
直ぐに認めている。だけどこう言う話しは昔はありそうだよね。
いちいち確認してはいられないもの。ましてや日本で言えば明治初期の頃の話し
だものね。またまた話しがズレた。
60年代の後半くらいまでは横浜の山下公園の前にアメリカの軍人や軍属専用
のゼブラクラブと言うのがあって昼間は食事、夜はステージになるのだけれど
アメリカ人の軍人の友人に良く連れてもらったものだ。
確か一時期だけど大橋巨泉の事務所が関内だか桜木町だかにあったようなことを
聞いたことがある。
ヘレン・メリルとナイトクラブで思い出したが、ヘレン・メリルは赤坂にあった
ニューラテンクオーターに出演している。ここはサミーデイブスJrとかナット
キングコールとか大物をゲストで呼ぶ超一流のナイトクラブで、客層も政治家、
から野球選手、歌手に芸能人とハイクラスが客筋だった。とにかく広いフロアー
だったね。トイレに行くと中で金ボタンに白い上着を着た専任の初老の係員が
客のスーツにブラシをかけてくれる。高級な化粧品がおいてあった。無論チップを
はずむ。ホステスさん達も超一流だからこちらも身だしなみをキチンとするのは
礼儀だった。ゴージャスと言う言葉が相応しい一流の社交場だった。懐かしい。
それと、歩いてすぐのナイトクラブ、コパカバーナにも良く通った。回数から
行けばコパの方が多いかも知れない。二階席もありこちらも高級だった。
赤坂が良い時代だった頃だね。昭和は良い時代だった。
赤坂近くにも米軍の山王ホテルがありここも行ったことがあるが、現在は
引っ越しをして広尾の近くのニュー山王ホテルとなっている。米軍関係者専用
です。一度だけ行ったことがあるな。本物のドルコインが出て来るスロット
マシーンがあった。横田基地から遊びに来たアメリカ人の友人が案内してくれ
た。ルイス・ボンファの話しからすごいずれちゃった。
ルイス・ボンファは妻である歌手のマリア・トレ-ドと共にアルバムも出して
いる。彼女はミナス・ジェライスの出身だ。声が良いね。スタン・ゲッツの
大ヒットになった"Jazz Samba"の続編とも言える"Jazz Samba Uncore"に
もルイス・ボンファとマリア・トレードが参加している。チャーリー・バード
よりルイス・ボンファのギターの方を好みとするひともいるが、チャーリー・
バードのあの指の動きの速さは表現の言葉が見つからない。
アメリカ政府事業で南米への音楽親善訪問から帰国したチャーリー・バードが
トム・ジョビンらの音源を持ち帰ったのはどこかに書いたが、これらをレコード
化するのに力を貸したのは当時のヴァーヴレコードの辣腕音楽プロデューサーだった
クリード・テーラーだ。実際にブラジルまで行きトム・ジョビンの家に滞在したり
ブラジルの他のミュージシャンにも会っている。アメリカのジャズ界にボサノバと
言う新ジャンルを導入したクリード・テーラーの功績は大きい。この時期の
チャーリー・バードやスタン・ゲッツ、トム・ジョビンやルイス・ボンファの
売り出しにはクリード・テイラーが大きく関わっている。ジャズとボサノバの
クロスオーバーを狙ったクリード・テーラーの狙いは当たりボサノバはビッグ
ビジネスとなった。(追記:クリード・テーラーは2022年8月22日 93歳で
亡くなりました)
ルイス・ボンファより他の話の多いこと。話題は飛ぶしダラダラした文章が長く
なる。いつものことだから仕方がないね。昔良く聞いていた曲を忘れてしまう。
最近は覚えているより忘れて行くスピードが速くなって来たから何でも書いてお
かないと記憶が継続しなくなった。明日認知症になっちゃうかも知れないしね。
この人は品の良い顔をしている。知性もあり教養も高そうに見える。
人当たりも良さそうな感じ。描くのに雰囲気出すの難しいんだよ。晩年は
頭が大分薄くなってしまったから似てなくてもまだマシかな。
ルイス・ボンファ
ブラジル人ギタリスト。歌手。作曲家。1922年生まれ。
ルイス・ボンファの名前を知らなくても、映画「黒いオルフェ」の主題歌
「カーニバルの朝」は世界的に有名な曲で, ラテン音楽好きでなくても
一度は聞いたことがあるほどお馴染みの曲だ。ルイス・ボンファの名前を
世界に知らしめた曲だ。ボンファのファにアクセントがある。
このひとの音楽についてはたくさんの方が書かれているので、細かいこと
はそちらを見て頂くとして、音楽の演奏者というものは時代時代の流れの
中で、音楽はもちろんのこと人との出会いや関わりがその後の方向性に
関わってくるケースが多いが、ルイス・ボンファの音楽キャリアにはそんな
にずれることのない彼なりの統一性があったようにも思えるね。
ブラジルですてに知られていたがアメリカ滞在中に録音された数々のレ
コードや、ブラジルに帰国してからの録音にはジャズの影響があったり
あるいは逆にブラジルの色合いの濃い録音もあるけれども、ルイス・
ボンファのギター音楽の世界は、根幹を構成する部分が変わることなく
鮮やかな緑の葉が次々と出て来る大木のようで、枯れることのない魔法
の木とでもいうところか。ギターの音色は素直で人間味を反映してるよう
にも聞こえるけどね。なにより笑うと柔和な目が良い。
'60年初頭のお馴染みのスタン・ゲッツやトム・ジョビンとの録音、1962年の
カーネギーホールへの出演、カテリーナ・バレンテやペリー・コモ・ショーで
ルイス・ボンファが弾きペリー・コモが「カーニバルの朝」を歌っている。
また人気女性歌手であったメアリー・マーチンとも共演していて多彩で幅広い
活動を見せている。60年代のほとんどは海外やNYでの生活で10年以上にわた
るが年に数か月はブラジルに戻っていたようだ。
ビンテージカーのコレクションが好きだったようでリオの西側にある高級住宅地
バハダティジューカにある彼の屋敷には、シルバーのポンティアックのグランプ
リなど自慢の車があったと言う。アメリカからもって来たのだろうかね。
赤のポンティアックのグランプリスーパーチャージャー3800cc ならハワイ島で
借りたことがあるがボンファと時代が違うもの。レンタカーでは自慢にすらなら
ないよ。
彼の名から取ったルイス・ボンファ通りがある。
余談だがメアリー・マーチンを見出したのは、あのコール・ポーターで彼女の
歌の才能を見抜き抜擢したことから彼女はブロードウェイのミュージカルスター
の階段を上がって行く。コール・ポーターは当時から名の知れた作曲家であり作
詞家でもあり力のあるプロモーターでもあった。日本でもコール・ポーターの作
曲した歌はかなり知られているし映画音楽の作曲も多い。歌曲王とか言う表現は
今は何だか可笑しい。
ルイス・ボンファの1957年の「サンボレロ」にもコール・ポーターの
「Night And Day」が録音されている。この歌はコール・ポーター役でケーリー
・グラントが主演、メアリー・マーチンも本人役で出演している。1946年に
映画化された。映画音楽もたくさん残しているが何と言っても有名なのは「ビギン
・ザ・ビギン」だろう。ジャズでスタンダード化されシナトラを初めとして実に
たくさんの歌手が歌っているしフリオ・イグレシア版でも大ヒットした。
日本に来た際にも歌っていたね。前よりずいぶんあか抜けた印象だった。
この歌はそもそもは西インド諸島のひとつ、フランス領のマルティニーク島
のリズムであるビギンを元に作曲されたというが、少し洗練されすぎている
感じがしないでもない。あの辺りならもう少しアフリカっぽい味のリズムが
残ってそうだが。リファインしすぎたかな。優雅な旋律だもの。言わばコール・
ポーター風のビギンですね。ビギンをビギンするというタイトルも語呂合わ
せで、下手をすると安っぽくなるけどそうは聞こえないものね。
Beguineのスペルはフランス語だけどフランス支配以前は何と呼んでいたのだ
ろうか。
そうそう、コール・ポーターには「帰ってくれたら嬉しいわ」という名曲も
あった。もともとは映画の挿入歌で、戦争に行った男が心を寄せる女を思
う気持ちを歌ったものでヘレン・メリルの歌で有名だ。
You’d be so nice to come home to が原題で「帰って~」の題は大橋巨泉がつ
けたらしく、後になってあれは誤訳で「あなたの待つ家に帰っていけたら幸せ」
が正しい訳であったと本人が言っていた、と娘さんの大橋美加さんがどこかに
書いていたっけな。
誤訳であろうと何であろうと名曲は名曲だからね。文法の解釈で揉めたりしたら
それこそヘレン・メリルが本当に溜め息つきそうだ。
ヘレン・メリルと言うと何故か沢たまきを思い出す。若い人には分からないだろ
うけどジャズシンガーで後に議員になった。「さらばジャマイカ」が懐かしい。
この頃の世代の歌手はアメリカ軍のキャンプ廻りをした人が多いよ。
キャンプと言ってもテントを張っているわけではなく、日本のあちこちにある
アメリカ軍の基地のことで、たいていは娯楽施設がありショーのためのステージ
があった。そこでバンドで入り歌を歌う。当時はやはりジャズが多かったね。
ベラフォンテのカリプソで「バナナボート」で大当たりを取っていたからか、
この歌もヒットした。ジャマイカあたりの読み人知らずや作曲家不明の地元の
歌を元にして新規に歌を作って当たったときは要注意で、カルメンを作曲した
ことで知られているビゼーは自曲に取り入れたハバネラが、実はセバスティアン
・イラディエルが作曲した曲であることを後で知り、模したものであることを
直ぐに認めている。だけどこう言う話しは昔はありそうだよね。
いちいち確認してはいられないもの。ましてや日本で言えば明治初期の頃の話し
だものね。またまた話しがズレた。
60年代の後半くらいまでは横浜の山下公園の前にアメリカの軍人や軍属専用
のゼブラクラブと言うのがあって昼間は食事、夜はステージになるのだけれど
アメリカ人の軍人の友人に良く連れてもらったものだ。
確か一時期だけど大橋巨泉の事務所が関内だか桜木町だかにあったようなことを
聞いたことがある。
ヘレン・メリルとナイトクラブで思い出したが、ヘレン・メリルは赤坂にあった
ニューラテンクオーターに出演している。ここはサミーデイブスJrとかナット
キングコールとか大物をゲストで呼ぶ超一流のナイトクラブで、客層も政治家、
から野球選手、歌手に芸能人とハイクラスが客筋だった。とにかく広いフロアー
だったね。トイレに行くと中で金ボタンに白い上着を着た専任の初老の係員が
客のスーツにブラシをかけてくれる。高級な化粧品がおいてあった。無論チップを
はずむ。ホステスさん達も超一流だからこちらも身だしなみをキチンとするのは
礼儀だった。ゴージャスと言う言葉が相応しい一流の社交場だった。懐かしい。
それと、歩いてすぐのナイトクラブ、コパカバーナにも良く通った。回数から
行けばコパの方が多いかも知れない。二階席もありこちらも高級だった。
赤坂が良い時代だった頃だね。昭和は良い時代だった。
赤坂近くにも米軍の山王ホテルがありここも行ったことがあるが、現在は
引っ越しをして広尾の近くのニュー山王ホテルとなっている。米軍関係者専用
です。一度だけ行ったことがあるな。本物のドルコインが出て来るスロット
マシーンがあった。横田基地から遊びに来たアメリカ人の友人が案内してくれ
た。ルイス・ボンファの話しからすごいずれちゃった。
ルイス・ボンファは妻である歌手のマリア・トレ-ドと共にアルバムも出して
いる。彼女はミナス・ジェライスの出身だ。声が良いね。スタン・ゲッツの
大ヒットになった"Jazz Samba"の続編とも言える"Jazz Samba Uncore"に
もルイス・ボンファとマリア・トレードが参加している。チャーリー・バード
よりルイス・ボンファのギターの方を好みとするひともいるが、チャーリー・
バードのあの指の動きの速さは表現の言葉が見つからない。
アメリカ政府事業で南米への音楽親善訪問から帰国したチャーリー・バードが
トム・ジョビンらの音源を持ち帰ったのはどこかに書いたが、これらをレコード
化するのに力を貸したのは当時のヴァーヴレコードの辣腕音楽プロデューサーだった
クリード・テーラーだ。実際にブラジルまで行きトム・ジョビンの家に滞在したり
ブラジルの他のミュージシャンにも会っている。アメリカのジャズ界にボサノバと
言う新ジャンルを導入したクリード・テーラーの功績は大きい。この時期の
チャーリー・バードやスタン・ゲッツ、トム・ジョビンやルイス・ボンファの
売り出しにはクリード・テイラーが大きく関わっている。ジャズとボサノバの
クロスオーバーを狙ったクリード・テーラーの狙いは当たりボサノバはビッグ
ビジネスとなった。(追記:クリード・テーラーは2022年8月22日 93歳で
亡くなりました)
ルイス・ボンファより他の話の多いこと。話題は飛ぶしダラダラした文章が長く
なる。いつものことだから仕方がないね。昔良く聞いていた曲を忘れてしまう。
最近は覚えているより忘れて行くスピードが速くなって来たから何でも書いてお
かないと記憶が継続しなくなった。明日認知症になっちゃうかも知れないしね。
この人は品の良い顔をしている。知性もあり教養も高そうに見える。
人当たりも良さそうな感じ。描くのに雰囲気出すの難しいんだよ。晩年は
頭が大分薄くなってしまったから似てなくてもまだマシかな。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます