次回の市民学習会は、ノンフィクションライターの山秋真さんを迎えてお話会を開きます。
◎12月19日(金)
『原発をつくらせない人々~祝島から未来へ~』(岩波新書)の著者
山秋 真(ヤマアキシン)さんを迎えて
~女性が動けば世の中が変わる~
山秋 真さん プロフィール
神奈川県出身。ノンフィクションライター。
1992年から石川県珠洲市へ通いはじめる。
1993年、日本大学芸術学部卒業。以降、原発計画にゆれる珠洲と、計画に関連する裁判の傍聴に通う。
2003年の計画凍結後、社会学者の上野千鶴子氏の東大大学院ゼミへ通う(05‐09年)。
現在は、上関町祝島へ通い、取材を続けている。
著書に『ためされた地方自治―原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠玉市民の13年』(桂書房)があり、同書で平和・協同ジャーナリスト基金荒井なみ子賞(2007年)、松井やよりジャーナリスト賞を(2008年)受賞
時間:19時~20時半
場所:宇部緑橋教会(宇部市役所裏)
参加費:300円
※また20日(土)も、山陽小野田市と宇部市の2か所で、山秋真さんと語る会があります。
ご都合のよろしい方に、ご参加ください。
◎12月20日 (土) 午前10時~12時 山陽小野田市 セメント住吉社宅「龍遊館」 エンパワメントやまぐち
◎12月20日 (土) 午後1時半~3時半 宇部市 コープやまぐち あい愛館 びわ茶で読書会
いずれも参加費300円です。
問合せ:080-6331-0960(安藤)
ご興味のある方、是非、参加してください。
30 年間、原発をつくらせない西瀬戸内海、祝島の人びと。海と山を慈しみ、
伝統・文化、祭りを大切にする日常や、交通の要所としての歴史を綴りな がら、
週1回の女中心のデモなど、政府や電力会社の政策に抗いつづけた日々を、多様
な肉声とともに描く渾身のルポ。未来への変革を構想し、実 践する勇気とヒン
トを与えてくれる本です。
12月7日に行われた『平和フェスタ』(健文会主催)は、盛況の内に終えることが出来ました。
どうもありがとうございました。
そこで行われたミニ講演会で、印象的なものがありましたので、ご紹介します。
12月7日(日)宇部で開催された宇部平和フェスタ
山口県避難移住者の会 代表 浅野容子さん
「福島から避難して、今、山口で思うこと」
ある日突然、自分の居場所・ふるさとを無くし、彷徨うことがどんなことか?経験しないとわからないとはいえ、体験者の声ほど想像力を高めるものはありません。静かな口調でも心に伝わる言葉に耳を傾け共に歩みましょう。
穏やかな暮らしを夢見て
2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故により、福島県から山口県に避難してきて、3年3か月になります。
転勤族だった私たち夫婦は、子どもたちや孫たちがいつでも帰ってこられるふるさとを求めて千葉県から福島県双葉郡葛尾村に移住しました。
福島第一原発から32㎞の地点です。
小さな自給生活を目指して畑を耕し、庭先で鶏を飼う、穏やかな日々の暮らし。美しい阿武隈山系に囲まれた人口1500人余りの小さな村が、私たち家族の故郷になるはずでした。
2011年 原発事故がおきて
2011年3月11日午後2時46分。突然、携帯電話の緊急地震警報が鳴りはじめ強い揺れが襲ってきました。
幸い自宅建物は無事で電気も通じていましたが、一晩中強い余震が続き、眠れないまま朝を迎えました。
翌12日午後には電話とネットがつながらなくなり、テレビでは福島第一原発が爆発したというニュースが流れました。
その後の政府発表で原発から20キロ圏内は屋内退避とされました。
村に水道はなく、我が家の飲料水は山の沢水を浅井戸から汲みあげていますし、家は木造です。
チェルノブイリ原発事故の放射能汚染の記憶があったので、いつまで屋内退避が続けられるのか不安でした。
しかも、テレビで発表される政府見解は曖昧な内容でこれはまずいことになっているのではないかと直感し、とりあえずの荷物だけを車に積んで郡山に向かいました。
市内の避難所にたどり着いた私たちを待ち受けていたのは、緊迫した雰囲気の中で行なわれたガイガーカウンターによるスクリーニング検査でした。除染が必要だといわれ別の場所へ移されたご家族もいました。
原発が実は大変な状況になっていたことを肌で感じると同時に、国民に対して安全だと放送していた政府に対し不信感と怒りを覚えました。
その夜から3日間、郡山市内の高校の体育館で過ごしました。
「原発は安全だと言われて信じていたのに…」という声もあちこちから聞こえてきました。地元の双葉町のメインストリートには「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語が長年掲げられていたのですから無理もありません。
2011年6月 山口県へ
3月14日の3号機爆発のニュースは体育館内に一台しかないラジオで聞きました。
他に情報源もなく不安が募るばかりでした。娘とようやく電話がつながり、在日米人は原発から80㎞以上退避するように通達がでていることを知りましたが(郡山市は原発から60㎞)、市内にはガソリンの在庫がなく留まるしかありませんでした。
その後、次女のいる静岡県、その後郡山市内で二度引越し、退職を決めた夫も後任が決まるまでは動けずにいましたが、6月末に私の実家のある山口県に避難してきました。
被災者向けに用意された県営住宅に住むことになりましたが、福島で少しずつ広がってきた周囲の方々とのつながりもすべて失われ、福島の自然豊かな山間部とはまったく違う環境でまた一からやり直さなければならないしんどさ、夫婦二人だけの年金生活とはいえ生活の場を失い今後の生活再建をどうしたらよいのかという不安、引っ越して一年のあいだは重苦しい毎日でした。
原発事故の情報をインターネットで探る日々が続きましたが、広い青空、緑濃いあぶくまの山々、懐かしく思い出す村の風景のすべてが色をなくした灰色一色のように思えました。原発の状況や政府、福島県、東京電力の姿勢、対応、どれを見ても、もう311以前の状態には戻れない、福島には戻れないという決断しかありませんでした。それからは、ここで新しくやり直そうと気持ちを切り替え、県内の空き家バンクを頼りに落ち着ける場所を探し阿武町に落ち着きました。
2012年 山口県避難移住者の会を立ち上げる
2012年秋に山口県に避難移住してきた方々と山口県避難移住者の会というグループを立ち上げました。福島から萩へ避難してきたご夫婦が孤立感を覚え、東京の娘さんのところへ越してゆくという新聞記事を読んだこともきっかけでした。
生活を奪われ、以前の暮らしを今も取り戻せないでいる避難者は、福島県だけで十数万人、そのほかに行政が把握し切れていない東日本各地からの自主避難の方々も含めると相当な数に上ります。
メーリングリストに登録しているメンバーの大半は福島県ではなく東京、群馬、神奈川など東日本各地から避難してこられています。
ご家族も含めると70名近くになります。皆さんもご存知の通り、放射性物質の飛散は福島県境で止まることはありません。宮城県、岩手県、そして広く東日本各地に放射性物質が降下しました。
縁もゆかりもない土地に母親と子どもだけで避難された方、いちいち産地を確かめて安全な食材を探さなければならないストレス、家族やご自身に鼻血など健康被害がでて避難を決めた方、職探し、家探し、家族の分断、数々の困難を覚悟し子どもを守るため、自分の身を守るために避難された方々の選択は間違ってはいない、それぞれの選択は尊重されなければならない、辛い思いをしているのはあなただけではない、ここにも避難してきた仲間がいるよと伝えたかったのです。
福島じゃないのになんで関東から避難してきたのかと言われたり、原発避難だということを周囲に話せなかったり、それぞれが深い心の傷を負っています。
これまで月一回の交流会のほかにアースデイなどへの参加などの活動をしてきました。
これからは県内の保養プログラムを実施しているグループとも連携して、福島だけでなく東日本各地から山口県への避難移住を後押ししていきたい、原発事故は収束していないこと、避難者の存在を行政や周囲の方々へ訴えていきたいと思います。