昨日22日は、上関原発埋立工事に抗議活動をした祝島島民2名とカヤック隊2名の方が、中国電力によって訴えられている、いわゆる『スラップ訴訟』(恫喝訴訟)の公判が、山口地方裁判所でありました。
広島から貸切バスで、カヤック隊の岡田和樹さんと共に、詩人のアーサー・ビナードさんや多くの方が来られました。
また弁護士さんが、約6名(福岡や神戸から来られてました)こられ、このスラップ訴訟が、全国的に注目されていることが判りました。
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日本には、スラップ防止法が無いため、このような訴訟が堂々とまかり通っていることが判りました。
(スラップ防止法があるのは、アメリカ、オーストラリアなどです。)
多くの人に、このような理不尽な訴訟があることを知らせ、日本にもスラップ防止法を作る必要があることを痛感しました。
この訴訟は、5年間も続いており、被告として訴えられた4名の方の精神的、経済的な負担は、かなり多くなっています。
*参考
「知ってください、スラップ訴訟(中国電力いやがらせそしょう)」のパンフレット
http://touminnokai.main.jp/doc/slap.pdf
今回は、詩人のアーサービナードさんも傍聴に参加され、報告会や県庁前抗議アピールでスピーチをされました。
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ビナードさんのお話の概略
「今、中国電力を支えているのは、ここに集まっている上関原発に反対している皆さんです!もし上関原発が出来たら、中電はとても大きな負債を抱えることになります。中電は、こんなにも中電を愛してやまない皆さんに、感謝しなければならないと思います(笑)また中電は、このスラップ訴訟を起こしたことで、ならず者企業、悪へ転落しようとしている。それから救う方法はただ一つ、上関原発を皆さんの力で建てさせないことです!!今はヒロシマで例えるなら、1945年の8月6日の前日の、8月5日です。まだ原爆は投下されていない。まだ原発はつくられていない。今なら、みんなで力を合わせて止められます!!
このスラップ訴訟のことを多くの人に知ってもらうために、今日ここに来られた人が家に戻って5人の人に伝えましょう。そしたら次回の公判では、抽選の札も足らなくなって、裁判所の人も、てんやわんやの大騒ぎになることでしょう(笑)次回の公判にも、僕はまた来たいと思います!」
「中電の株の9%を持っている山口県は、もっと中電に注文を付けるべきです!命を守ろうとしている人たちを苦しめないで、早く決着をつけるように、促すべき!!」
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次回は、来年1月27日(火)にあります。
今回は、広島から来られた人が多く、山口県勢が比較的少なかったのは、とても残念でした。次回は、山口県のみなさん、宇部のみなさん、もっと多く人数で傍聴に参加しましょう。
*参考
意見陳述書 2014年10月22日 岡田和樹
僕たち被告とされている4人をはじめ、上関原子力発電所建設計画当初から30年以上にわたって建設に反対してきた地元の人々や全国から駆けつけた多くの人は、中国電力が訴えているような過激で違法な妨害行為は行っていません。
原子力発電所からは、必ず膨大な放射性汚染物質が排出されます。
放射のは生命に直接危害を及ぼすものです。すべての生き物には、生きていくための基盤である大地・空気・水などの自然環境が必要であり、そこが放射能によって汚染されることは、生存する権利が奪われることです。何億年とかけて自然や生命が受け継いできた遺伝子を放射能は一瞬で破壊します。さらには、汚染された遺伝子や地域は、時間をかけても元に戻すことはできません。原子力発電所には、僕たちにとって利益でも夢のエネルギーでもなく、共存することができない放射能を強制的に背負わせる負の遺産です。生まれ育ったふるさとで、健康に幸せに生きていくためには、原子力発電所に反対するほか道はありませんでした。僕たちは一貫して、命やふるさと、自然や財産を守って生きていくため、平穏な非暴力の抗議行動を行ってきました。
日本の原子力発電所は、世界に誇る技術によって、仮に事故が起きても多重の防護で放射能を封じ込め、安全であると言われてきました。しかし、安全のはずだった福島第一原発は事故を起こし収束の見通しも立たず、今なお高濃度の放射線汚染物質が排出され、世界中に広がり続けています。甚大な被害と想定外の事故が起きている以上、原子力発電所のあり方を根本的に見直さなければなりません。広島原爆から福島事故に至るまでどれほど多くの核犠牲者が出たのでしょうか。原子力の危険性に目をつぶり、なお建設や再稼働をすることは再び過ちを繰り返すことになります。
僕は、中国電力の一消費者として、これまでの数ある不祥事と隠蔽体質の中国電力を信頼することはできません。
2010年には中国電力が運転してきた島根原子力発電所で聞きの超過使用が500ヶ所以上、点検の誤記載と記載漏れが1150ヶ所以上あったと報告されました。緊急炉心冷却システム用のモーターなど最高度の信頼性を確保する必要がある機器52件の点検漏れと10年以上の超過使用も含まれていたと言われています。故意にも匹敵するほどの人の命に関わる重大な過失です。全国初の点検不備により原子炉は停止され、経済産業省からは保守点検ランク全国最低評価1を付けられ、この問題だけとってみても、中国電力が原子炉を安全に運転できる事業者ではないことは明らかです。また、放射性物質の処分計画や地元の避難計画も定めていない中で、原子力発電所建設を進める姿勢は、無責任そのものです。
上関原子力発電所建設においては、これまでにも莫大なお金を地元に配り、選挙においては不正転入を行い、現地では反対する人に暴力をも働いてきました。計画は最初から原発建設ありきで、民主主義とは程遠いものでした。地元理解もないまま工事は進み、僕たちはやむを得ず、現地で抗議をするほかありませんでした。
しかし、平穏克非暴力の抗議行動に対して、中国電力側は強硬な作業を次第にエスカレートさせていきました。
海上に浮かぶ一人乗りの小さなカヤックに体当たりするように、大きな作業船を何度も急接近させ荒波を立てて脅したり、クレーン台船の周りで停止し抗議する漁船やカヤックの頭上で、1トン以上ある大きなコンクリートブロックを旋回させたり、日の出前には着工しないとしていた工事を次々と行い、真っ暗な海上で航行灯を点けて停泊し、抗議していた祝島の漁船を、真横から巨大なクレーン台船で押しよけて航行するなど、一歩間違えば死傷者が出るくらい危険な行為を行ってきました。僕たちは、自分たちの安全を確保するためにやむを得ず、ワイヤーに捕まって強引に進む工事に抗議しました。しかし中国電力は、「安全第一」としつつ、ワイヤーに掴まって抗議する男性を大型クレーンで吊り上げるというさらなる危険な行為をしました。
そのあり得ない状況に強い憤りを持ち、僕もクレーンのワイヤーに掴まりました。直後、作業員4人により、ワイヤーからふりほどかれて、作業船に引きずり上げられた上に、甲板に押し倒されました。そして、3人がかりで首や手足を羽交い絞めにされました。その間も、目の前の作業は止まることなく続行され、首や腹部を絞め続けられていたため意識が朦朧とし、緊急搬送され5日間入院することになりました。中国電力は、僕たちの行動が過激で違法な妨害行為と主張していますが、中国電力自らが危険を招いて惹き起こしたものに他なりません。
僕は瀬戸内海の沿岸で生まれ育ちました。
このふるさとである瀬戸内海が大好きで、離れることができず、現在は自立して三原市小泉町で農業をしています。豊かな自然環境や先祖が辛苦して切り開いてきた土地を守り、何千年とかけて実り得た野菜の種子や、生きるための文化や叡智を大切に受け継ぎたいと思っています。日々海や山、川の自然から恵みを受けて暮らしています。先祖が代々繰り返してきた、自然と共にある地域に根ざした生き方こそが、将来にわたり持続可能で幸せな暮らしであると改めて実感しています。僕は、大切な命とふるさとを守ります。それを脅かす原子力発電所を絶対に許すわけにはいかないのです。
この裁判が始まって間もなく5年が経過します。
地元広島をはじめ、全国各地のたくさんの方に支えられていますが、裁判の先行きも見通せないまま、時間的にも金銭的にも拘束されて生活に多大な影響を受けています。また、僕たち個人からすると大きな権力を持つ中国電力という公益企業により訴えられているということは、想像していた以上に精神的に大きな負担となっています。僕たちは自分たちが訴えられていることに納得がいきません。そもそも、命や生活を守ろうとした行動が、一企業の利益に対する妨害行為にすり替えられていることは、とても悲しいことです。
なぜ、中国電力は原子力発電所建設の大前提である住民からの理解を得ようとはせずに、抗議する意見を押さえ込むような争いをはじめたのでしょうか。まずは、建設工事を凍結し、裁判を取り下げ、会社と発電所の不祥事や隠蔽体質を改善し、信頼を回復することからはじめるべきではないでしょうか。僕たちは、一消費者として、中国電力に対し、命や生活、自然環境を大切にして、放射能によって苦しめられてきた広島にとって誇れる企業であってほしいと切に願います。
(み)