なぜ、わたしは奇跡講座なのか? northern bearの独白
蓮(はす)と鶏(とり) 金子みすゞ
泥の中から
蓮が咲く
それをするのは
蓮じゃない
卵の中から
鶏が出る
それをするのは
鶏じゃない
それに私は
気がついた
それも私の
せいじゃない。
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この詩を読んで、誰のせいか?と問いかけ、神様とするのは簡単だが、私たちは「神様」という言葉が何を象徴し、どのように我々の現実に関わってくるかは、ちっともわかっていない。
いつまで経っても不安なことがあり、嫌なことがあり、恐れがある。 宗教を信じたり、スピリチュアルのことを知ろうと思ったのも、それを知れば、少しは楽になるかもしれないと思ったからだ。
今までいろんなことを試みた。 カトリックには連祷という祈り方がある。 司祭と会衆が交互に「主よ憐みたまえ」「キリスト、憐みたまえ」などの定型句を唱えるのだが、私はこれを自分の普通の生活に取り入れて何度もやったが、ダメだった。
この言葉を唱えるごとに、自分の今の現状、悲惨な現状が自分の無能さがダメ押しされ、刻印されていくのだ。そして頭のどこかで、「祈って、事態が良くなるわけないよな。 神は、アラジンに出てくるランプの魔人、ジーニーじゃないからね。」と繰り返し繰り返し呟いているのに気が付く。 神に裏切られたくないエゴがそこにいる。
本当の真の信仰があれば、つまり神を信じ切っていれば、望みは叶えられると言われた。ということは今まで何度もうまくいかなかったのは、自分の信仰が足りないからだと、納得させられた。 物凄い罪悪感。
同じようなことはスピリチュアルにもある。 あの有名な「引き寄せの法則」だ。
いろんな「引き寄せの法則」本を買って読んだが、これもうまくいかない。 「引き寄せの法則」本には輝かしい人生の成功例が並んでいる。 たぶんそれは出版しているくらいだから、嘘ではないのだろう。 しかし1000人が試みて、一人でも成功者が現れれば、その成功者が「私はこれで年収3000万円を超えるようになった。」と書いてもおかしくない。 多額納税者の成功本が飛ぶように売れるのは、何の不思議もないし、執筆者も嘘を書いているわけではないだろう。 そしてそれを真似ようとして、うまくいかなかった自分は、きっと自分のやり方の何かが間違っていたり、努力が足りないに違いないと思った。 これも罪悪感。
そこで今度は、この世での成功が得られないのであれば、精神的なスピリチュアルで成功できないかと思った。 お金や名誉とは関係がないところで、絶対的な至福感を持ち続けられないだろうかと思った。 これもこの社会では夥しい数の本と、自己実現者、自称覚醒者がいて、私は悟りましたとイメージするような落ち着きと至福の笑みをたたえて生徒を募っている。 有料だけど、個人セッションに参加すれば、あなたもわたしのようになれるよと誘っている。 構造は資産運営セミナーと大差ない。 大差ないどころかセミナーの方がまだ実質的だ。
「ワクワクして生きましょう!」とか、「自分とかないから。」とか「〇月までにこれをしないと目覚めのゲートが閉まりますよ」などと言う文句に、それこそ引き寄せられている人はいっぱいいるだろう。
ネオアドヴァイタが「傷つく人はいないし、何も起きていない」、「ただそれが現れているだけで私には何の責任もない」、「そもそも自由意志はない。自由意志を持つ分離した自分が無いのだから」と言って、それで我々が気が楽になる時、その言葉の源泉となったラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジらの深い真意が伝わっているとは思えない。 バクティ(ヒンドゥー教における最高神への絶対的帰依や信愛)が無ければ、恐ろしいことになる。
また、第3の眼が開くか、光が見えるとか、オーラが見えるとか、クンダリーニが覚醒したとか言われるが、ブッダはすでに2500年も前に、6年間の厳しい苦行の後、通りかかった娘に乳かゆを与えられ、このようなフィジカルな修行をやめ、今の仏教を築いた。 最近では右脳を優先すればいいというような還元主義も出てきている。 こういうのは、スピリチュアル的唯物主義と言われるのだそうだ。 これらは、形があるため、実行できるかはともかく理解しやすく、受け入れやすい。 しかしこれらは本質ではないと今では思う。 イエスは弟子たちにこんなことは何も言わなかった。奇跡講座が言うところの、原因と結果をはき違えている。
そうそう。 ここで、やっと奇跡講座が出てきた。 私はやっと奇跡講座に出会ったのだ。 誤解しないでほしいのは、キリスト教の祈りも、黙想も、ミサも、仏教の坐禅も唯識論も、空海の秘密曼荼羅十住心論も、親鸞の浄土真宗も、ヴェーダンダも、アドヴァイタも、ネオアドヴァイタも、ヨーガも、何の問題もないのだ。どれも素晴らしいのだが、みんな地上から数メートル離れたところからハシゴがかかっている。 簡単に登れないように手が届かないところからハシゴが始まっている。 どれも上に登ることができるハシゴだし、登れることができた妙好人のような人が現れるが、それはほんの僅かだ。
禅の話にこんなものがある。
「 ある夜 薬山和尚が山に登った。 突然雲と霧が開けて、月が顔を出した。 思わず薬山和尚はハハハと大声で笑った。 笑い声は10キロ遠くからも聞くことができた。 昨晩、突然笑い声が聞こえてきたけれど、どこから伝わったんだろう。 それは昨日の夜、 我々の 先生が山の上で笑った声ですよと弟子が言った。」
この解説にはこう書いてある。「薬山は時間と空間を超越した絶対無の世界から完全なる無心にて呵々大笑したのであって、万物と一体となり切ったのである。」
我々はこれを拝聴し、わかったような顔をするが、実はなにもわかっていない。 この解説者もどこかで聞いた言葉を並べただけなようだ。 それでこの人に問いただすと「不立文字」と言ってつっぱねられるのが関の山だ。 これは何も禅だけの話ではない。親鸞は、一般大衆に仏教を伝えるべく比叡山を飛び出したが、親鸞は阿弥陀仏の目には見えない救いの光が自分に届いていることがわかったとき、浄土への往生が確定すると言ったとされる。 南無阿弥陀仏は阿弥陀仏への感謝の表現になる。 比叡山の行よりはずっと易しいように思われるが、「眼には見えない救いの光が自分に届いている」ことがわかるというのは、どれほど難しいことか。 ところで、眼には見えない光ってなんだ?!
これが 私が言うところの 地上から数メートル離れたところからハシゴがかかっているという意味だ。 我々はお寺に行って、聖堂に行って、パワースポットに行って、数十人の聴衆に囲まれて立派なソファーに坐ったいかにもグルらしい人の話を聞いて、それなりの雰囲気を味わうことができる。 しかしそれはいわばアロマセラピーを受けに行くようなものだ。 ストレス解消にはなるだろうが、家に帰れば、職場に帰れば何も変わらない。我々は自分でハシゴを登ろうとせず、地べたから数ミリも離れない。 なぜなら何と言っても、この地べたが自分の生活の全てだからだ。
でもこの中で、例外が一つあった。 グルもいなければ、聖堂もない。教義もなければ、 ヒエラルキーも、儀式もない。 それらは、みな方便であって、形であり、想念である。それは様々に変化、多様化する。しかし、想念は源を離れない。源は一つであり、奇跡講座ではその源に集中する。 学習者はみな、教師でもある。 そして特筆すべきなのは、ハシゴが地面にピタッと付いているということだ。 そんなハシゴは私にとっては奇跡講座だけだったのだ。 そしてこのハシゴは凡々たる、鈍い、弱い、幼い私のために、一段一段が細かく作られている。 だから最初は何のことかさっぱりわからないままハシゴを登っていっても、ある時期を過ぎると、量子論的飛躍とでもいうような、理解が突然訪れる。 しかし必ず自分で登っていかなければならない。 だからハシゴなのであって、誰かグルのような人がいて、その人の真似をしたり、引き揚げてもらうことはできない。 その点、奇跡講座はちゃんと自分自身で登っていけるようなカリキュラムになっている。 奇跡講座には、覚醒したとか、悟りを得たとかいう人はいない。 なぜなら、覚醒をしたり、悟りを得たような分離した個人は存在しないし、そもそも悟りを自分で成し遂げたかのように思いあがる者のもいない。みな兄弟であり、自分は彼であり、彼は自分なのだ。
奇跡講座は宗教でもなく、スピリチュアルでもない自習用カリキュラムだ。
「レッスン1 この部屋の中に、見えているものには、何の意味もない」なんていう訳のわからない文章から始まるものは他にあるだろうか。
奇跡講座は最初にこう言う。 「ただ次のことだけを覚えていなさい。 あなたはこれらの概念を信じる必要もなければ受け入れる必要もなく、歓迎する必要さえもない。あなたが断固として抵抗するような概念もあるかもしれない。 こうしたことは一切何の問題にもならないし、その効力を減じることない。」
こんなことを最初に書いているものが他にあるだろうか? これを書いた人は、どれだけ、我々の心理を知っている人だろう。 我々の弱さを、幼さを隅々までわかっている人だろう。 この著者は我々にこの本の掲げる概念を信じてほしいなんて、これっぽっちも思わず、我々の実質的な何ものにも妨害されない幸福を願っている。 「悟り」なんていう言葉を一切出さずに、このカリキュラムの作者は、最終的にラマナ・マハルシやイエス・キリストまで我々を導いてくれる、とんでもない心理学者だ。
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ところで冒頭に述べた私の不安、トラブル、恐れ、嫌悪は、この奇跡講座なるものに出会ったことによって、実質的な光が指してきたような気がしている。 それは下記の言葉に示される。 ワプニック先生は、この言葉を家中どこにでも目に付くところに貼っておきなさいと勧める。
「赦しは静かに、何もせず、ただ見つめ、待ち、判断しない。」
"Forgiveness is still and quietly does nothing.
It merely looks, and waits, and judges not."
W.Ⅱ.1.4-5
一方赦しはじっと静かにしていて何もしない。 実相のどの側面も害することはせず、自らが好む外観へと捻じ曲げようともしない。ただ見て待つのみであり判断はしない。 赦そうとしないものは価値判断をせずにはいられない。 赦すことができずにいる自分を正当化してしまうからである。 しかし自分自身を赦そうとするものは必ずありのままの真理を歓迎することを学ぶことになる。
だからあなたは何もせずにいなさい。そして何をなすべきかは聖霊による赦しを通して教えてもらいなさい。 聖霊はあなたの導き手、救済者、保護者であり、強い希望を抱き、あなたが最後には成功を収めると確信している。 聖霊はすでにあなたを赦している。それが神から聖霊に与えられた機能だからである。 今度はあなたが聖霊の働きを共有し、聖霊が救ったものを赦さなければならない。 聖霊は彼の無罪性を見ており、神の子である彼を讃えている。
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例えば、今朝、こんなことがあった。 昨晩の大雪で青空駐車している私の車のタイヤが滑って発車しなくなった。 一昨年度のスタックの記憶がよみがえった。 その時、は近所の人が親切に助けてくれたのだが、私は慌てて牽引ワイヤーを外すのを忘れて車を移動させてしまった。 それでその人の車を引っ張ってしまい、ぶつけてしまった。 まったくの私のミスだった。 もう大騒ぎになったのだ。 後悔先に立たず。
今朝は、シャベルで雪を取り除いて、何とか出発することができたのだが、用事をしている間、頭の中は帰ってからちゃんと自分の家の駐車スペースにスタックせずに入れることができるかどうか心配でいっぱいになった。 恐れにも序列はない。 自分の生命にかかわるようなことも、このような些細なことも恐れには変わらない。
こんな心配はしょっちゅう起こることだ。 そして、結局それらは時間が解決する。 今度も、駐車スペースに車を入れる前に、念入りに雪かきをした。 一昨年度の私の大ミスの記憶がなければ、大したことのない話なのだ。
つまり、帰る前はスタックするかどうかの心配と恐れがあり、無事問題解決しても、今度は取り越し苦労に終わった自分の心配性に嫌気がさしたはずなのだ。
しかし今回は、上記の「赦しは静かに、何もせず、ただ見つめ、待ち、判断しない。」をゆっくり噛みしめるようにフレーズを二度ずつ念じ続けた。 そしてある変化があることに気が付いた。 この時、私は恐れに一切抵抗していないことに気が付いた。 「神様 助けて!」というのも、「主よ、憐みたまえ」というのも、「南無阿弥陀仏」と唱えるのも、その真意を取り違えると、現状に抵抗することを意味するようになる。 現状が嫌だから、受け入れがたいから祈るのだ。 ところが今回は静かに、何もしないで、ただ見つめ、待って判断しないのであり、全くの無抵抗になっている。 恐れがあったら恐れがあるまま。ただそれを静かに見つめるだけ。 聖霊に助けを求めるのではなく、聖霊やイエスといっしょにこの世を見ている。
これは我慢するのとも違う。 忍耐するのでもない。 テキストにあるように、その恐れ、心配に力を与えないのだ。燃料を足さないのだ。現実のものにさせないのだ。
聖母マリアは懐胎を告げられたときに、天使に、ルカによる福音書1章38節で「お言葉どおり、この身に成りますように」と述べた。 これは「み旨のままに」という意味だった。 でも、マリアは婚前に、子供を授かってしまったわけで、当時としてはとんでもない騒ぎになる。 マリアはヨセフと婚約していた。けれども彼女はヨセフの子ではない子どもを身ごもったわけで、それはユダヤの律法では“姦淫”と見なされ、ヨセフがマリアを訴えれば、石打の刑にされることもあった。 刑を免れても、ヨセフから縁を切られるならば、彼女はふしだらな女ということになり、母子家庭になる。
そんな恐れと不安がマリアにあったのだが、そんな時に「み旨のままに」と応えた。 それは静かに、何もしないで、ただ見つめ、待って判断しなかったからこそ言えた言葉じゃないだろうか。 そしてそこに聖霊(ここでは天使)への信頼がある。
だから、この「静かに……」という言葉はそのまま「み旨のままに」ということなのだ。
イエスもゲッセマネの園で「み旨のままに」と応えた。
イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」ヨハネによる福音書 5章6節~7節
「み旨のままに」という言葉の意味は救いを受け入れる(奇跡講座で言うところの贖罪を受け入れる)ことへの合意なのだと思う。 この合意なしには救いが始まらない。 上の文章で、イエスがこの足なえの人に聞く。「良くなりたいか」と。 当たり前じゃないか。 良くなりたいからここで25年も必死に耐えているんじゃないか! ここはどこだと思っているんだ! そう、我々は思うだろう。 それでもイエスは彼に合意を求めた。 奇跡講座で言う小さなため息*のことだ。
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*T.26.Ⅶ.10:1-2
完璧にして完全な救済が求めるのは、真実が真実であることを望むささやかな願望であり、存在しないものを喜んで看過しようとするささやかな意欲であり、死や荒廃が支配するかに見えるこの世界よりも天国を好む気持ちを物語る小さなため息だけである。 それに喜んで答えて、被造物があなたの中に浮かび上がり、あなたに見える世界が完全にして、完璧な天国に置き換えられるだろう。
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「み旨のままに」と言った瞬間に、聖霊が流れ込むのだと思う。 それまでは、いかに聖霊といえども、我々の拒絶を尊重する。 その時、不安も恐れも、そのまま変質するのだろう。 不安が不安のまま、恐れが恐れのまま、その荷が軽くなるのだろう。そしてそれらは消えていく。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)
奇跡講座の凄いところは、聖書に書かれているイエスを完璧に理解し、イエスの死後、神学や、政治や国家によって都合よく捻じ曲げられたものから、再びイエスの真意を取り戻したところにある。
因みにビートルズの最後のシングル『Let It Be』はこの聖母マリアの「み旨のままに」を示唆している。 この歌詞に出てくる「Mother Mary」は、マッカートニーの亡き母メアリーのことだが、キリスト教的な文脈においては、これを「聖母マリア」と解釈することもできる。 なぜなら聖母マリアは同じことを言ったから。
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
僕が苦難の時
聖母マリアが現れ
知恵を授けてくれる
「あるがままを受け入れなさい」と
And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom
Let it be
暗闇の中にいる時
彼女は目の前に立ち
知恵を授けてくれる
「あるがままを受け入れなさい」と
Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be
あるがままを あるがままに
全てを受け容れるのです
それは知恵のささやき
「あるがままを受け入れなさい」
And when the broken-hearted people
Living in the world agree
There will be an answer
Let it be
世界中に住んでいる
心を痛めた人々が同意するとき
答えはそこにあるだろう
「あるがままを受け入れなさい」
For though they may be parted there is
Still a chance that they will see
There will be an answer
Let it be
離れ離れだとしても
再会のチャンスはまだある
答えはそこにあるだろう
「あるがままを受け入れなさい」
Let it be, let it be
Let it be, let it be
Yeah, there will be an answer
Let it be
あるがままを あるがままに
全てを受け容れるのです
そうさ 答えはそこにあるだろう
「あるがままを受け入れなさい」
Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be
あるがままを あるがままに
全てを受け容れるのです
それは知恵のささやき
「あるがままを受け入れなさい」
And when the night is cloudy
There is still a light that shines on me
Shine until tomorrow
Let it be
曇りの夜も
僕を照らす明かりはまだある
夜明けまで輝く
「あるがままを受け入れなさい」
I wake up to the sound of music
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
音楽が聴こえて目を覚ますと
聖母マリアが現れ
知恵を授けてくれる
「あるがままを受け入れなさい」と