ノーやん日記パート2

蕪村ノートから「母」のこと

 晴れのち灰色の雲が北の空から(写真上の2枚=上六甲山系の雲、下箕面山系の雲)。ちゃっぷい、ちゃっぷい。雪が来るのかな。新型コロナはきのう、26県で322人が新規感染。上から順に東京38人、神奈川・沖縄29人、北海道・大阪22人、群馬16人、京都14人、兵庫12人、栃木・石川・福岡10人。豊中ゼロ。

 せんちゅうに用事があったので遠回りだがあさ、千里東町の「千里こぼれび通り」を通る。長谷池に鴨がいない(写真)。なんでかな。人はテニスコートでいい汗かいている。小道のフラワーポットは正月待ちの顔(写真)。せんちゅうのスーパーでフグヒレと500ml.安酒を買って帰る。お昼は、きつねうどん・シメジと白ネギプラス。

 きのう、蕪村忌のことちょこっと書いたあとにいろいろ思い出した。愚老は蕪村ノートを書いてたんや。大学ノート3冊に。日付を見ると07,2~16,2とある。ということは14年前から9年間蕪村を追いかけていたことになる。そのなかにきのう書いたぼくの謎ーなんで生家に帰ろうとしなかったかーのこともあった。

 「蕪村全集九巻」を読んで、「蕪村ノート3」に▽幼年の頃(寅=幼名)は(淀川の)毛馬堤を遊び場としていた▽(寅は)幼児から画を好み享保10年(1725)頃池田の画家・桃田伊信と親しくしていた▽享保13年(1728)頃母が死去か?▽享保末年(1736)頃から俳諧に打ち込む▽享保末年(同上)までに生家没落か?とメモっている。

 「蕪村ノート1」には、大谷晃一さんの「与謝蕪村」(河出書房新社1996)では謎とされている蕪村の出生が大胆に断定されていた▽父は当主谷吉兵衛、母は京都与謝郡・加悦谷弥左衛門の娘げん。母げんは「蕪村」13歳のとき31歳で急逝。母げんの3回忌があけて15歳で元服、幼名寅を信章に改名…。

 推測するしかないが、母も居ず生家没落とあっては、帰りたくとも帰れなかったということか。それだけにやるせない郷愁の思いが「春風馬堤曲」に結実したのかもしれない。そう読み解くと萩原朔太郎の「彼の魂の哀切なノスタルジア、亡き母のふところに夢を結んだ、子守歌の」「侘しく悲しいオルゴールの郷愁だった」(郷愁の詩人与謝蕪村)という表現がわが身に沁みてくる。涙こらえて

誰も居ぬ古池に立つ師走かな 昇龍子

 

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