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全能神―主イエスの再臨

全能神の裁きを経験する証し「神の愛の実相とは」

2018-07-10 00:11:26 | 全能神の裁きを経験する証し

41.神の愛の実相とは

黑龙江省绥化市 思秋


 「あなたは、自分がわたしに対して常に忠実であり、わたしを愛しているにもかかわらず、病の苦痛や生活上の束縛、友人や親戚に見捨てられること等の人生における不幸を受けたとしたら、わたしに対するあなたの忠誠や愛は依然として継続するであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より』)という神の聖句を目にする度に、私は特に不幸せな気分になります。みじめな気持ちになり、「神様、あなたに忠実で、あなたを愛する人達がなぜそのような不幸な目に合うのですか?」と心の中で不満を口にしてしまいます。結果として、私は、聖霊によって遣われた者の「神の人々に対する最後の要求は愛情のこもった、誠実なものである」という言葉の意味の理解に困っています。

つい最近なのですが、私が一緒に仕事をしていた姉妹が甲状腺機能亢進症に罹ってしまい、次第に彼女は一日に6食も取らなくてはならない状態に陥ってしまったのです。彼女は病気のストレスからどんどん弱くなり、憂うつの中、病弱に、疲労に耐えながら毎日の生活を送っていました。彼女の体は、彼女の本分を尽くしたいという希望通りには動かなくなり、病状も増々悪化していったのです。なぜこんな事が起っているのか、私には理解できませんでした。この姉妹は、自分の本分を尽くすことに専念できるようにと、家族から離れ、待遇の良かった高収入の仕事を辞めただけでなく、非常に忠実でもありました。彼女ほど自分を捧げた人が、どうしてこんな病魔に襲われるようなことになってしまうのでしょうか?…自分の気持ちを外には出しませんでしたが、私の心は動揺し、誰かがこの事を口にする度に、私は冷静さを失ってしまうほどでした。

それから間もなく、私の姉妹と私はそれぞれ別の業務に着手したのですが、私は決して彼女のことを忘れませんでした。ある日、私はリーダーに彼女がどうしているのかを聞いてみると、リーダーはこう言いました: 「最初彼女はとても否定的で、神の働きを受け入れることを拒んでいたのですが、後に、彼女は意識的に自分の状態を調整し、自分の病気に苦しむ中で神の意図を求めようと努力していました。彼女は神の御言葉を通して自分自身を知り始め、真の意味で信仰を得ることができていなかったと気付いていましたよ。彼女の信仰には依然として『交流』しようとする要素や、神に対する信仰を通して神の祝福を頂こうという希望が残っていたのです。彼女はまた、自分自身の中に存在した反抗要素も多く見出していました。彼女が自分自身のこういった所に気が付いたとたん、健康状態も劇的に改善していました。彼女は日々回復していますよ。食事も1日3食にまで減り、状態はかなり良くなっています。自分が滞在しているホストファミリー宅で兄弟姉妹達がそれぞれの状態を調整する手助けまでしていますよ…」この良い知らせを聞いて、私は本当に驚きました。私は病気の苦痛が彼女の決意をすり減らし、彼女をひどく苦しめるだろうと思っていたからです。病気に悩まされていた彼女の将来はどんどん暗くなっていくだろうとまで思っていました。この先、生きて行けなくなるかも知れないとまで感じていたのです。しかし今日、彼女の現状を知った私はショックを受けました。彼女は神への信仰を失っていないだけでなく、病気が精錬されたことを通して神の働きを理解し、自分自身の堕落にも気付いたのです。彼女は経験から学び、自分の生活においても改善を遂げていたのです。この病気は、神の真の愛、そして神によるお救いの実相を現しているのではないでしょうか?

その後、私はある人のフェローシップでこの聖句を読みました。「第5節。『あなたは、自分がわたしに対して常に忠実であり、わたしを愛しているにもかかわらず、病の苦痛や生活上の束縛、友人や親戚に見捨てられること等の人生における不幸を受けたとしたら、わたしに対するあなたの忠誠や愛は依然として継続するであろうか。』(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より』)神の働きは人々の観念と一致していないのです。神は全ての時代を通して、人々をお救いになるためにこの原則に従ってお働きになったのです。この神の働きを経験した人は皆この事実を認識するのです。人々は神に対して忠実であり、愛情に満ちています。そして今度は神がその人達に対し愛をお与えになるのです…私達が本当に神に対して愛情を抱き、神に対し本当に忠実であれば、どの様な不幸であっても、それは神の愛の現れということになるのです。私達は、神の御心を真の意味で理解できているならば、神に対してより忠実になるべきであり、最後まで神をもっと愛するべきなのです。試練に直面する中で神の御心を見出すことができず、神を誤解したり、神を裏切るようなことがあれば、神の働きを全く認識できていないということになります。神を愛し、神に対し忠実であったとしても、私達の中には依然として裏切りの要素が存在しています。これについて討論する人はいないでしょう。神は人を清めて救うことができるように、その人を精錬しようとされるのです」。(『キリストの言葉の記録』の「神の人々に対する最後の要求は愛情のこもった、誠実なものである」より)。私はフェローシップの聖句を読んで初めて私はいつも肉に縛られた思考の観点からのみ神の働きを判断していたことに気が付いたのでした。私は、神の愛は寛大な恵みの賜物、そして肉の喜びと安心感を保証していただけるものだと勘違いしていたのです。苦しむことが神からの祝福の一形態であるなどとは考えたこともありませんでした。私は、私の姉妹の経験を知り、苦しみの精錬は神の愛の真の現れであるということを初めて認識することができたのです。神はある状況を作り出し、神の人々に対して不幸をお与えになるのです。それが肉体的な苦痛であろうが、金銭的な苦難であろうが、その他のいずれの苦難であろうが、それは悪意からではなく、神の愛情こもった優しさなのです。人の堕落や欠点を修正するため、神はありとあらゆる状況を作り出し、人を精錬する努力をされるのです。神はこの苦難を通して人を清められ、人の中に変化を起こされ、人に命を与えられるのです。人の肉は精錬の過程を通して、驚くほどの苦難を乗り越える必要があり、それを不幸であったり、対応が困難であると感じることがあっても、それは神が、その人が自分自身を知ることができるように、その人の不純な性情をすべて取り払えるように、その人が神とより普通の関係を築けるようにすることで、心の中に神に対する愛情を少しずつでも深めていけるようにと、お働きになられているのです。このような恩恵はのんびりとした生活していたのでは受けることはできません。人は自分の受けた試練から得た教訓を身に付け、それまで歩んできた道を振り返った時に初めて、神の裁きと刑罰、および懲罰と訓練には神の無限の愛情が行き渡っていたのだと理解することができるのです。神の愛は単に養うためであったり、情け深いということだけではありません。それは肉体的な利益を授けるということ以外にも、精錬、懲罰そして訓練における苦しみを与えることでもあるのです。

神様、私の不合理で誤った物の考え方を是正するため、私を取り巻く環境の側面全てを通してお働きくださったことに感謝いたします。そして、あなたの愛が私達の観念と一致しない時でも、そのお示しは、常に私達を進歩させ、お救いになることに焦点を当てていただいているということも解りました。あなたの愛情こもった働きには、あなたの御心の重大なご苦労と、言葉では言い尽くせないほどの知恵が常に吹き込まれているのですね。私はまた、以前あなたについてほんの僅かも理解できておらず、あなたの愛はよく様々な状況の中に隠されているということを理解していなかったことにも気が付きました。神様、私は、あなたが私達と共有される愛に敬意を表し、あなたをたたえ、感謝の気持ちを捧げます。私も将来このような愛を受けられるようになりたいと思います。私が万一このような愛を受けられる時には、あなたの愛を感じ、証することができるように、どれだけ厳しい苦難でも受け止めることを誓います。