聖霊の働きを経験する全ての人がいのちを受け取ることができるわけではないし、この流れの中にある全ての人がいのちを受けることができるわけでもない。いのちは、全ての人によって共有される共有財産ではないし、性質の根本的変革は、全ての人によって容易に達成されるものではない。神の働きへの従順さは、触ることができ、実現できるものでなければいけない。表面的な従順さでは、神の承認は受けられない。また、あなたが自らの性質の根本的変革を求めることなしに神の言葉の表面だけに単に従うのでは、神の心は喜ばない。神への従属と神の働きへの従順さは、一つであり同じものだ。神にのみ従属し、神の働きに対してそうしないのなら、従順であるとはいえない、また、真に従順でなく、外見的にこびへつらうのももちろん同様である。神に真に従うものは、神の働きから何かを得ることができ、神の性質と働きの理解を達成することができる。そのような人だけが、真に神に従順である。そのような人は、新しい働きから新しい認識を獲得でき、その同じ新しい働きから新しい変化を経験できる。そのような人だけが、神の承認を得られる。このような人だけが、完全にされた人であり、彼の性質の根本的な変革を経験してきている。神に承認される者は、彼の言葉や働きだけでなく神に対しても喜んで従順である者である。そのような人こそ義の中にある。このような人こそ真に神を望み、求めている。そして、自らの神への信仰をただ話すだけで、実際には神を呪うものは、自らの本性を隠すものである。彼らは悪意に満ち、人間の中で最も不誠実な者どもである。このような悪党は、いつか、その汚い仮面を剥ぎ取られることになるだろう。それが今日、為されている働きではなかろうか。不道徳なものはいつまで経っても不道徳であり、罰が下る日を逃れられない。善良なものは、いつも善良であり、働きが終わった頃にどちらも明らかにされるだろう。不道徳な者は誰一人として、義であるとは思われず、義なる者は、一人として不道徳とは思われないだろう。わたしは誰かを間違って非難される立場に追いやろうとしただろうか。