ゆるふわ読書日記

徒然なるままに読んだ本を紹介していきます。
ゆるふわとは、ゆるゆるふわふわです。

品川哲彦『倫理学入門』

2021-12-29 13:34:57 | 
品川哲彦『倫理学入門』中公新書(2020)
なかなか見当たらないのが、倫理学の入門書である。そんな中、本書はかなりの読み応えと、内容の広範さを提供してくれる。倫理と法・政治・経済・宗教との関連に始まり、社会契約論、義務倫理学、功利主義、共感理論、徳倫理学と、これまでの歴史的な理論を振り返る。戦争倫理学、生命倫理学、環境倫理学の各論まで話は語られている。SF仕立ての「星界からの客人との対話」は本書の白眉である。
思想史と各論の紹介のバランスの取れた一冊。
「倫理的判断は現実を伝えるのでなく、現実を創り出そうとする判断だからである。(p.8)」
「善と正の違いは何か。権利と義務の関係とはーー。本書は、倫理学の基礎からはじめて、法、政治、経済、宗教と倫理を関連づけながらその意義を再考する。アリストテレスやカントらによる5つの主要理論を平易に概説。さらに、グローバル経済、戦争、移民、安楽死、環境破壊、人工知能など現代社会の直面する難題について倫理学の観点から考察する。社会契約論や功利主義にかんする10の図解と26名の思想家のコラム付き。(本書カバーより)」

今道友信『アリストテレス』

2021-12-11 16:52:59 | 
今道友信(1922-2012)『アリストテレス』講談社学術文庫(2004)
アリストテレスを専門とする碩学によるアリストテレス入門書である。専門的な内容も多く、アリストテレスを研究する人の読みにも耐えうる著書である。「「万学の祖」と呼ばれるごとく、彼は人間界、自然界から神に至るまで、森羅万象の悉くを知の対象とし、精緻な思想を展開した。彼の生涯やその学問がわが国へ受容される過程等を、碩学が情熱と蘊蓄を傾けて綴るアリストテレス入門。(本書カバーより)」
上滑ることの全く無い、著者の堅実で誠実な語りが、地道に続いていく500ページであった。アリストテレスというと『ニコマコス倫理学』がやはり個人的にはお気に入りである。


サピア『言語』

2021-11-29 20:26:42 | 
エドワード・サピア(1884-1939)『言語』(1921)
「サピアは、アメリカおよびカナダのインディアン諸語の共時的・通時的研究に膨大な業績を残し、また、インド・ヨーロッパ語、セム諸語、シナ・チベット語など、多数の言語に通じた天才的な言語学者であった。(解説p.419)」
個人的に、ひとの思考様式はその言語習慣によって規定されるとする、サピア-ウォーフの仮説を支持したいのですが、後年のチョムスキーの影響もあろうし理論は変遷しているようである。
本書は、論文を除いてサピアの生前に出版された唯一の書籍である。術語は避けられているし、専門的な記号はいっさい使用していない。また議論は英語の資料にもとづいている。それでも、言語という対象を包括的に取り扱い、その内容が普遍性を得る形にまで広くまた深く論じられているといえるのは確かではないだろうか。
「言語は、ひとえに、現実に使用されるかぎりで存在するーーつまり、話されたり聞かれたり、書かれたり読まれたりするかぎりにおいて存在する。言語に起こる重要な変化はすべて、まず最初は個人的変異として存在しなければならない。これは、完全に真である。しかし、だからといって、言語の一般的な偏流は、こういう変異のみをあますところなく記述的に研究すれば理解できる、ということには断じてならない。個人的変異そのものは、あてどもなく上げ潮につれて前後にゆらぐ海の波のように、でたらめな現象なのである。(p.266)」


レヴィ=ストロース『野生の思考』

2021-11-12 20:02:36 | 
クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)『野生の思考』(1962)
なんと美しい著書であろうか。コンパクトに書かれた一冊の中に、レヴィ=ストロースの知性の深みが炸裂するようである。20世紀の世界の学問の方向性を決定付ける、実証的な語りと詩情の結晶を見よ。カッシーラーの学問のさらに天空を往く印象である。レヴィ=ストロースの生涯に亘る仕事の序説といえるだろう。
この本に一貫しているのは、西洋文化全体の一般的偏見に対して、それらを否定する観点である。野生の思考を導入し、情報検索理論と同一平面上にその益を説くのである。多様性が求められる今世紀の認識のパラダイムにも、それは適合している。
「野生の思考を規定するものは、人類がもはやその後は絶えて経験したことのないほど激しい象徴意欲であり…(p.263)」
「現在わかっている限りでは、大きさとしては二千という数字が、いわば一つの能力の限界に対応しているように思われる。口頭伝承に基づく民族動物学や民族植物学では、記憶能力、定義能力の限界がそのあたりに位置するのであろう。この限界値が、情報理論の観点から見てなにか意味のある性質をもつものかどうかを知ることができれば面白いと思う。(p.184)」
「私は、マルクスがほんの少し素描をしただけのこの上部構造の理論の確立に貢献したいと思っている。(p.154)」
敬愛するレヴィ=ストロースの仕事を、私が論じることは、畏れ多い。愛すべきその仕事の数々を、今後、個人の楽しみのために取っておきたいのである。

伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』

2021-10-30 15:47:55 | 
伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』講談社学術文庫(2021)
フランスの詩人、文明批評家のポール・ヴァレリー(1871-1945)を取り上げた論考である。ヴァレリーについて、まとまった本になることは珍しく、本書はヴァレリーの思考や詩作を丹念に辿った本格的な研究である。非常に読みやすく丁寧に書かれている。
詩を書くこと、作品を創ること自体が、消費=生産者としての読者を巻き込んだ装置として考えられるというのがヴァレリーの思考である。本書も、装置としての作品の機能を発揮しているのではないだろうか。作品論、時間論、身体論と本書では語られている。
「「現在」は、ヴァレリーにとって時間を認識するための「形式」である。(p.151)」ここから「予期」や「隔離」という概念が重視されるものとして登場する。時間そのものというよりは、私たちの時間の感覚を対象としているようである。
身体論において、意識や思考といった精神的な働きも、機能や能力として扱われる。主観的な感覚を知覚の対象として考察し、生理学的な視点で身体をとらえた時、「詩ないし詩的な体験は、必ずしも言語的構築物としての狭義の詩である必要がなくなる。(p.266-267)」
ヴァレリーはやはり詩人である。美しい言葉が出てくると思ったら、独自の概念(例えば錯綜体)や定義がまた出てくるのである。それでも、旧来の生理学や今日の認知科学の知見とも通じていて、『カイエ』の諸々の記述の中にも古さを感じさせない。
「ヴァレリーの詩論の可能性は、まさにそれが詩論を超え出るところにある。(p.267)」