ゆるふわ読書日記

徒然なるままに読んだ本を紹介していきます。
ゆるふわとは、ゆるゆるふわふわです。

伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』

2021-10-30 15:47:55 | 
伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』講談社学術文庫(2021)
フランスの詩人、文明批評家のポール・ヴァレリー(1871-1945)を取り上げた論考である。ヴァレリーについて、まとまった本になることは珍しく、本書はヴァレリーの思考や詩作を丹念に辿った本格的な研究である。非常に読みやすく丁寧に書かれている。
詩を書くこと、作品を創ること自体が、消費=生産者としての読者を巻き込んだ装置として考えられるというのがヴァレリーの思考である。本書も、装置としての作品の機能を発揮しているのではないだろうか。作品論、時間論、身体論と本書では語られている。
「「現在」は、ヴァレリーにとって時間を認識するための「形式」である。(p.151)」ここから「予期」や「隔離」という概念が重視されるものとして登場する。時間そのものというよりは、私たちの時間の感覚を対象としているようである。
身体論において、意識や思考といった精神的な働きも、機能や能力として扱われる。主観的な感覚を知覚の対象として考察し、生理学的な視点で身体をとらえた時、「詩ないし詩的な体験は、必ずしも言語的構築物としての狭義の詩である必要がなくなる。(p.266-267)」
ヴァレリーはやはり詩人である。美しい言葉が出てくると思ったら、独自の概念(例えば錯綜体)や定義がまた出てくるのである。それでも、旧来の生理学や今日の認知科学の知見とも通じていて、『カイエ』の諸々の記述の中にも古さを感じさせない。
「ヴァレリーの詩論の可能性は、まさにそれが詩論を超え出るところにある。(p.267)」


河合隼雄『ユング心理学と仏教』

2021-10-16 14:39:48 | 
河合隼雄(1928-2007)『ユング心理学と仏教』岩波現代文庫(2010)
アメリカでの講演の内容が基となっている。河合隼雄の臨床心理家としての経験が語られ、仏教の考えからヒントを得て臨床に生かされる過程が描かれる。末木文美士の解説にもあるように、専門家からすると物足りないであろうが、その理屈は魅力的であり、あくまで臨床心理家としての観点からの理解である。
河合隼雄は、視点が広くまた絶えず柔軟である。「そこで、われわれとしては、人間を全体として理解するための新しい科学が必要だと考えます。(p.202)」という提案は、興味深いものである。仏教(華厳)の「縁起」の考えなどを考慮に入れることで、それは成されるのだろうが、あくまで可能性としてとしか触れられてはいない。しかし、クライアントの訴えは禅の公案のようなもの、などの一連の記述やその姿勢に一々共感させられるのである。

カッシーラー『自由と形式』(1)

2021-10-02 14:29:16 | 
エルンスト・カッシーラー(1874-1945)『自由と形式』(1916)。
大著です。短時間で全て読み通すには、余りにボリュームがあり、中身が充実している。今回読んだのは、第3章「批判的観念論の体系における自由理念」までである。本書は、ドイツの宗教と哲学と文学と政治思想という広範囲な領域において、ルター以降ヘーゲルまでのドイツ精神の歴史的展開を叙述したものである。カッシーラーは、20世紀哲学界の巨人の一人と称するのにふさわしいが、新カント学派の一人と数え上げられて、案外知られていないようである。『シンボル形式の哲学』、『実体概念と関数概念』、『認識問題』などの大著だけでなく、大小様々な著作を書き遺したというのが、個人的な印象である。本書もカッシーラーらしく、丹念で精密な書きっぷりである。第3章まではカントまでの記述であり、ルター、ライプニッツ、レッシング、ハーマン、ヘルダー、などなどが出てきて、豪華絢爛である。次章よりゲーテ、シラーと続く。20世紀前半の著書によく見られる全体的な俯瞰図を明らかにしようとする意欲的な作風である。第一次世界大戦中のドイツの混乱に対して、ドイツ精神とは何ぞやという見取図を示そうとした意図が感じられるだけでなく、ブームやプロパガンダに毒されない、冷徹で透徹した哲学的な探求を、カッシーラーの一連の著作から我々は学ぶ事が出来る。