OCTAVEBURG 外伝

ピアニスト羽石道代の書きたいことあれこれ。演奏会の予定は本編http://octaveburg.seesaa.net へ

なぜエレジーは書かれ なぜそれに胸を心打たれるのか

2024-11-11 | 日記

エレジー 哀歌 挽歌 死者を悼む音楽。
乱暴な言い方だが、名曲揃いだ。
タイトルがエレジーであったりそうでなかったりするが、最近そのような曲を取り組む機会が続き、触れる毎に発見と感動が止まらない。私は一音も作曲して表すことができないので、なぜ作曲家はエレジーを書くのか、書くに至るのか(考えるのも野暮ってもんだが)「書けないけど弾く私」として改めて1人で考えたり、友人と話したりしてきた。

まず。もう、この曲と出会って感じた心の震えを忘れない。フォーレのエレジー作品24。(ピアノで始める責任重め。)主和音が鳴り渡り、その瞬間から1小節間のうちに8回エコーのように繰り返されディミニエンド。チェロの旋律が2小節目から歌い出す時には背景に回り込んでいる。どんな前奏より効果的。シンプルだけど胸が打たれる。そう、心臓に直接ダメージが来る。
下降するラインがこんな悲しみを与えるなんて。音の高低が感情をこんなに表現するなんて。それを和音で支え続ける、痛み。
次の主題は優しい思い出か天国の響きだろうか。ピアノが高音域で主題を提示した後チェロがもう一度繰り返す。
そして激しい慟哭の後、天国の響きが風の中から聴こえるような、そして暗闇に閉じていく。
...泣かない人、います?

つぎ。先程述べた通り私は一音も作曲できないので、プーランクのオーボエソナタがプロコフィエフのオマージュであることに感謝している。プロコフィエフはプーランクの友人だった。私はプロコフィエフに青春時代の友人のような気持ちがあるので(実際会ったこともないけど)、私もこれでプロコフィエフに伝えられる!という勝手な都合の良い気持ちになっている。
第1楽章がエレジー。プーランク作品に時折あらわれる「遠い呼びかけ」(おーい...みたいな)が曲の世界観の扉を開ける、(すごいフレーズですね。)穏やかな暖かい世界。
これもやはり和音の連打の伴奏で、優しくポツポツと話し始める旋律は次第に雄弁に、ピアノの右手とゆったり対話を重ねていく。その対話は温かいようで逆に寂しさを深めるようで、最後の空虚な響きは心にぽっかり穴が空いたような気持ちになる。
第3楽章は古い時代の祈りの歌を借りて、死者に想いを伝える。
静かに震える背中。ああ、さようなら 友よ 君がいない事が今とても、孤独。

そしてエレジーと名乗りはしないが、これは同じ気持ちかも。
展覧会の絵。ムソルグスキー。
いやー難し過ぎて(色々)ソロでは一生弾かないと決めていたのに。正確にはソロではないけどほぼソロ。サクソフォンとピアノのアレンジ(編曲:長生淳氏)を取り組むことになってしまった。これまでにアンサンブルやオケ中チェレスタは経験させていただいていたが、まさか。

ムソルグスキーが画家のハルトマンの個展を見て、インスピレーションを受けて、という成り立ちであることは知っていたが、急死してしまった大事な友人へのエレジーと言っていいのではないか。特に、カタコンブの後のプロムナード 死者と共に死者の言葉で。(右手 高音でずっとトレモロという泣きたくなるようなテクニックも要求される)元気いっぱいだったプロムナードの旋律がすっかり肩を落として。暗い部屋ですすり泣いている。
あの時彼の具合が悪くなったのに(一緒にいた時に急にうずくまる出来事があったらしい、心臓発作の予兆)気がついてあげられなかったのは自分のせいだろうとか、ああもっと... でも苦しみが長くなかったのなら、いくつもの救いの方向に無理矢理転換させたくも所詮時計の針は戻せず、進めることは止められない現実を生きる「自分」が辛い。

何かに書いてあった(記憶で書きます)言葉で、これは私の気持ちをまとめてくれた言葉だから書かせてください。

「好きな人との別れは、本人との別れと同時に、一緒にいた自分、愛されていた自分という愛しい自分自身との決別になる。自己との別れだからこそ人は苦しむ」

そうか、愛されていた自分、愛していた自分、それまでも取り返せないのか。
そういう事だったのか。

エレジーってどうして書くのかな、の質問に、どうしようもない気持ちが溢れ出て衝動的にその行為になるのでは、という答えもあったけど、もちろんそのエネルギーがすごいのは想像できる。(作れる人の気持ちが想像しきれないのでアレですが)そうなんだと思うけど、きっと溢れるものというよりは
「これしか できない」
なのかなと。作ることしかできない。だから衝動的というより計算されてる。いまや伝えられない人に伝えたいから一番いい形にしたいという、意気込み、いや覚悟とでも呼ぶのがいいのか。

「これしか できない」
だから聴く人は強く共感するし、弾く人間は弾きたいと思うのだろう。弾く私たちも「これしか できない」からそれは分かる。だが本気で考えるとその曲たちのこの域に行くのは結構大変で、「こんなの できない...」も思ってしまう。
思いを膨らませて感動を高めて一緒に泣いてあげるみたいな時期も必要だけど、心がグリッとえぐられる喪失感に辿り着くのは、文字通りえぐって削ぎ取って減らないといけない気がする。息すら入れることができない 苦しい ああ ここしかない ってとこまでいけると分かる世界が見えるのかもと思っている。

生きてる時間が長くなれば出会いも別れも機会が増える。私もこの先曲に出会えばまた違う色で見えるだろう。
音楽は人生を教えてくれる。やっぱり人間がしてきたことだから。

伊藤洋夢サクソフォンリサイタル ピアノ:羽石道代
teket でチケットはご案内できます。
・東京公演 2024年11月13日(水)19:00-
五反田文化センター音楽ホール
https://teket.jp/10833/37139

・七ヶ浜公演 2024年12月7日(土)19:00-
七ヶ浜国際村ホール
https://teket.jp/10833/37177

写真はいただいた時になぜか「羨ましい ...」(双方において ボトルも花も)思ってしまった素晴らしいプレゼント。

2024年 明けましておめでとうございます

2024-01-16 | 日記

またしても、お久しぶりに...

年末から年始にかけて演奏する機会を(割と緊張を伴う)多数いただき、今がいつなのか少し分からないくらい集中した日々でした。
今年も素晴らしい機会が待っていますので、健康に気をつけて(この言葉は本気です)思い切り弾いていけるよう、過ごしたいと思います。
皆さんにたくさん聴いていたけますように。2024年もどうぞよろしくお願いいたします。

Deep Purple もはや参拝レベル

2023-05-31 | 日記
本当にブログはサボっていました。すみません。
Facebook、Instagram でも発信しておりますので、よろしければそちらにもおいでくださいませ。
Facebook に書いた記事が(自分的に)熱かったので、こちらにも掲載しようと思います。(# で名称を書いていて読みにくかったらすみません)
いやー、色々考えさせられたし、本当に有名寺社に参拝に行ったかのような神々しさ、終演後の清々しさでした。巨匠はどのジャンルを超えてもすごいものです。かっこいいなー

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#deeppurple #日本武道館 行きました!
私の大好きな方から急にお誘いいただき飛びついた。おお、まさかこんな日が来るとは。。
私にとってDeep purple はちょっと具合が悪い時はベスト盤を聴くと回復できるくらい影響のある存在です。もはやあの珠玉の名曲たちはクラシック(ベートーヴェンなど)と同じなのでは、長い歴史の中でメンバーの入れ替えもあったわけだし、絶対演奏される名曲はどんな感じになるのかと考えて行きましたが、
想像以上でした。
一言で言うと、全てが超一流。失礼を承知で言うと、うますぎる。素晴らしすぎる。カッコ良すぎる。こうなりたい。
以下、ただのファンとして書かせて。(長文)
#iangillan は普通に黄色いシャツにデニム(普段着?)というナチュラルさですが、もう歌うほどにどんどん声が出てきてメタリック・ハイトーンボイスのカリスマが溢れ出ちゃってて、もう、すごい。加えてタンバリンを叩きまくってるイアン・ギランの姿を生で拝めただけで、同じ時代に生きてることをホントに良かったと思わせてくれました。
#rogerglover のベースと #ianpaice のドラムの「支える」お仕事の巧みさよ。安定感と懐の深さよ。ペイスは最初から唯一変わらないメンバーなんだ...と思うと、数10年前から聴いてきたあのリズムが今目の前で生きてる...!ってすごくないですか。ああ、あなたがずっと名曲たちを生かし続けて来たんですね、と思うと尊敬が止まりません。 #spacetruckin でレーザビームを当てられまくってむしろ自身が発光しているかという姿がリアルに神でした。
そして、キーボード #donairey と #simonmcbride この2人のコンビネーションが、Deep purple の音楽を新しい輝きで満たしていた気がする。
もう、この2つの楽器のソロパート、皆さんももう完全に暗譜してるでしょ?これをこの2人は忠実に再現している。ここよ、まさにクラシック。誰が弾いても音の並びは一緒で曲の方向も決まっているけど、個性とは滲み出るものなんです。出ちゃってる、しかもいい方向に。だから往年のファンも文句ないのでは。(少なくとも私は)
彼らの胸の内は分かりませんが、クラシックプレイヤーと似た、曲に対する尊敬、それを全うする信念、もう手の内にある小慣れ感と余裕...など勝手に想像して胸アツでした。
さらには即興タイムも2人とも本領発揮ということで魅力が炸裂しておりました。
ステージ内での共有感(私の知る言葉では「室内楽」)、それを武道館全体に広げるエネルギー。どれだけ、何回、この曲をやって観客を熱狂させてきたんだろう。マクブライト以外のメンバーは70歳越えで、この長い時間、実際にずっとスポットライトを浴び続けている。彼らにとっての「日常」のレベルに純粋に憧れ、さらに勇気づけられるところもある。(いや...こんな事は絶対できないけど) 超ご長寿バンドなのに懐古主義ではなく現在進行形で「今の」バンドだと思わせてくれたことが、超一流ミュージシャン集団の成せる技。加えてもう巨匠だからいい力の抜け具合も感じたりして、それにも憧れちゃったな...。
(友だちじゃないんで真相は知らないけど。)
もう、こんなに考えさせられるコンサート、ある?!
1曲目に演奏してくれた #highwaystar を今後の支えにしていきます。この日を忘れないぜ!
ありがとうございました。

音楽の話でも ピアノ協奏曲のキモチ

2021-05-24 | 日記

黒い大きな馬に乗って街の中を移動している夢を見て、目が覚めた。心のどこかで馬で暮らす生活に憧れがあるくらい、馬は好きだ。ただ人に話すと車で暮らすより高いよ、と言われる...

それはさておき、大変遅ればせながら、ヒマなついでに映画「蜜蜂と遠雷」を観た。その当時、小説も読もうかなあと思いながら読まず、その後映画化された際には友達や後輩がピアノ指導や演奏などに関わっているのも知っていたし、映画の音楽を今をときめくピアニストを4人も使って本格的、こだわりの実写化に興味がありつつ、...先延ばしして観ておりました。内容の情報は予習せず、ひとまず黙って観ることに。
その映画の最初のシーンで黒い馬が駆けてくる。ということで、冒頭の馬の夢と重なってここに書きたい気持ちになったので書いてみます。(内容のことにはあまり触れません。)

私はソロでそんなに多くのコンクールを受けていたわけではないので大きなことは言えませんが、なんというか、ソワソワとゾワゾワが思い出されて最初変な気持ちになっていた。本番前の袖の様子なんてなかなかで、机に前の人の楽譜と手袋(あとホッカイロね)が置いてあったりして、おおおお、これこれ...みたいな。ドキドキするよねえ...

映画の中では新曲(即興を含むなんて面白いね)の様子と、本選の協奏曲のシーンが音楽としては楽しみどころ。本選の曲が、なになに、プロコフィエフの2番と3番と、バルトークの3番、ですって...!
この辺りで一気に ググッと「ピアノの世界」に自分が戻った気がした。
なぜなら、バルトークの3番は大学卒業の際、新人演奏会で藝大で弾かせてもらったから。そして、もう一度弾きたいなと思っているけどなかなか機会に恵まれない。そしてプロコフィエフの3番は、どハマりして聴きまくっていましたが、音を出すにはちょっと至らなかった。
いずれにせよ、懐かしー!
と思いながら、この2曲はあまりに聴きすぎて、バルトークも自分が弾いてからは全然触れずにそっとしまっておいたから、思いがけず聴いてしまって、その時の体験が一気に思い出された。(お話では一番個性派の子がバルトークを選んでいたのもちょっと気になるところ。)

バルトークの3番の協奏曲は、1番(これが私の協奏曲デビューです。当時の藝大オケの皆様本当にありがとうございました)、2番(本当は一番弾きたかったけど私には手が足りない)、のエグさに比べてびっくりするぐらいソフト。バルトークが奥様に「これを弾いて生きるんだよ...」という想いとともに遺されたものだから、一般ウケも狙える方向性で書かれたとか。とはいえ、バルトークの個性はしっかり際立っていて、自然の美しさ、空気の清さ、太陽の明るさ、尊い祈り、生命の讃歌。2楽章が潔くて特に心に残る。透明感を和声で構築して巨大な空間を作る感じが楽しかったな。

ピアノ協奏曲。そう、ピアニストにとって協奏曲って。かなり特別。
そうねえ ぶっちゃけ、やらなくてもいい、やる機会ない。やる時、練習はピアノ2台。人生で初めて「伴奏される」。
不思議なんですよね、ピアノソロは常に全部弾いているので、休みの間の居心地の悪さとか。笑 そしてオケパートの方が(ピアノで)弾くのが難しかったりするし。いいのかなあこれで...とかいう感じで触れる気がする。(そして終わる)
何せピアノは勉強する曲も多いのでソロの曲だけでもてんやわんや、協奏曲はやっぱりある程度本番を見据えたもの、コンクールのため、もしくはラッキーな場合はオーケストラと共演の機会を得て、ということなので、単純に勉強のため、と取り上げることすら無いかもしれません。ピアノ2台ってだけでも練習の環境も大変だしね。(相手を探すのも?)
だから憧れの曲をコッソリ自分で練習したりして、その日を待つ。(そして終わる )

さて。
時を同じくして、別の楽器の友達から「ピアノの協奏曲のレッスンってピアノパートしか注意されないの?あまりにオーケストラのパートを知らないで弾こうとする人が多い気がする」
また別の楽器の先生から「誰が言ってたかな...協奏曲ってさ、誰のためのものだと思う?オーケストラのものなんだって」

ははあ...なるほど。そう考えると色々考えが変わってきますね。どうかな、ピアニストの方々。どう思う?

自分がやった時はどうだったんだろう...まずステージに複数人で立つことすら少ないので、正直もう自分の中ではお祭り騒ぎっていうかあまりに日常と違う環境すぎてアタフタしてしまうところ、私がしっかりせねば...信じて弾かねば...と思ったことは覚えているけど。そして間近で等身大(?)で聴けるオーケストラは感動もので、リアルな音色をとても楽しんでいた、とは思う。...どうだったんだろう...。

今はもっと違うことができるんだろうか。

近年ご縁あって、ブラスの一員として弾くというお仕事をさせていただくのだが、何せピアノという楽器が長くて 笑 楽器は突っ込んで置いてあっても自分は誰よりも外に座っているので、中の音をキャッチしながらその一員として弾くのはまた難しい。ただ、協奏曲のあのど真ん中のポジションでオーケストラを聴いたら、また何か違うものが聞こえてくるんだろうか、今の自分には。

でも、オーケストラのためだろうがなんだろうが、あの素敵な曲たちをオーケストラと一緒に弾ける「協奏曲」の魅力は何者にも変え難い。オーケストラって素晴らしい生き物でいつもいいなって思ってるから、その一員としてまた音を出せる日がきたら幸せだな。私は結構ラッキーで何度かその機会をいただけたけど、ああでも、もう一度、バルトークの3番は、ちょっと弾いてみたいかもしれない。
あ、ヒンデミットの「4つの気質」も協奏曲ではないけど、大きい編成でやってみたいな(弦楽合奏ですよ...)
あ、それとまた「皇帝」もいい...

と、欲は尽きていないようです。私も人生にまだ未練あるなー

映画の中で、BGM的にリストのメフィストワルツが流れたのも懐かしかったな...ホロヴィッツの録音をどれだけ聞いただろうか。これももう長年聴いてなかったから衝撃を受けた。
久々にテクニックで「弾きまくる」のもピアノの魅力かも、と思い出しました。
確かに、こんな動き、指先を左右にに這い回らせる謎の動きは生活の中にないから、見てる人はびっくりするよな。そして音が波のように流れ出てくるんだから。
ピアノを弾く、を見る、というのも確かに単純に面白いかも。と、素直に思えました。

あと、映画では主人公たちの心の動きにも共感がありました。天才っぽさも、いるいるこういう人、みたいな感じでリアルだった気がします。それと同時に、当時、映画が公開され4人のCDが発売された頃(これも斬新だなと思っていました)、たまたま読んだ記事に、日本のピアノのコンクールを受ける人たちのある一面についてビシッと物申していて、そのピアニストの発言にも共感を持ちました。
人気が出たり、一生懸命取り組む方が増えるのはいいことですが、その物事の本質を見ようとせず安易に捉えてしまうと、勘違いしてしまうこともあるかもしれませんね。クラシックを勉強することも、ましてやコンクールも。
何事も本質はそう簡単には見抜けず、近づけないものです。それを助けてくれるのは、手っ取り早くはできません。幅広く勉強したり日常・非日常の様々な経験をすることが、後に自分の目を、耳を開かせてくれるでしょう。音楽に携わる者として何がゴール(はないから目標・目的)なのかを見失いたくない、見失わせたくないと思います。

とはいえ、協奏曲を実際オーケストラと弾くのは最高に素晴らしい経験だったかな。そんな素晴らしい機会が自分の人生にあったんだと、時には支えになるレベルで。
でもそれ以降、「暗譜してない...いやそれどころか譜読みもしてないのに、これからGPなんだけど...もうホールでオーケストラが音出しをしているんですけど...というのを客席で聞きながら まずい..本当にまずい...」という夢を見る、というのがかなり自分が追い込まれた時見る夢の定番となりました。
怖い。

写真はうちの黒い馬、ならぬ、うちの黒い犬、すず様。

音楽の話でも。 ソルフェージュってどうよ

2021-05-01 | 日記

ソルフェージュ。ひとくくりにされているこの言葉ですが。(アップした翌日ちょっと書き直しました)
私はレッスンに行き始めた時から興味深いと思っていた。また藝高に入学してからの授業は毎回刺激的でスリル満点、神のような鋭い感覚と深い知性で音楽の秘密を解き明かしてくれる「超人」の先生方を崇めていたので(笑)、卒業後、藝大のソルフェージュ科に誘っていただいた時は光栄で嬉しかったし、他の先生の陰で常にビクビクではありましたが、藝大生に授業をするのは緊張感も高く自分の感覚も研ぎ澄ませないといけないし、準備も毎回死ぬ思いでしていましたが本当に良い勉強をさせていただきました。(その時クラスにいた学生たちのその後の活躍も密かに嬉しく。)
そのご縁か、入試対策としてソルフェージュのレッスンを担当させてもらうことが多くあります。(ピアノの実技の出会いより確実に多く、それもな、と思いつつ)
その中でいつも思うことが多々あるのでちょっと書かせてもらおうかなと。あくまで私の胸のモヤモヤの独白でございます。

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音楽を習い始める、つまりそれは楽器(歌)の奏法の技術を教わることを目的に進んでいくと思います。
演奏がしたい!大好き!楽しい!上手くなってきた!など意欲的に進めていくと
発表会やコンクールなど人の前、広い場所で披露する機会が増えてきたりしてますますやる気が出てくる。
そのあたりで、この言葉が不意に登場する。
「ソルフェージュ」
そろそろ始めないと...とか、やってる?とか。

なに、この言葉。さらにレッスンとか、は?
という感じで始まることが多いのではないでしょうか。

演奏法を習い始めた環境によっては小さい頃から上手く混ぜ込みながらやっていたりすることもあると思いますが、「受験」という意識が芽生えたりするとセットで「ソルフェージュ」は登場します。それは簡単に言うと、入試にある「座学」。言うなら「基礎能力」読み書き算盤、理論、常識、音感トレーニング、などの言葉がいいでしょうか。
奏法が上達してきたのに、急に基礎や理論の話をされると戻らされたようでつまらなく思うのが人の常で「なんで」楽譜を読んで難しい曲とか「できてる」のに「今さら」?「必要か」?など、最初はなんでレッスンに来ているのかすら意味が分からないものです。

はい。もうこの段階でこの先の上達に差がついております。

「できてる」のは本当か?
私も演奏家としてソルフェージュの勉強(授業)を通して、最終的に、いや実は常に演奏に結びついていくことを実感しているので、その点を最初に生徒さんには確認するようにしています。
実技の先生からいつもどんな注意を受けてるの?と聞くと大半は「テンポが狂ってしまう」「リズム感が悪い」だからソルフェージュのレッスンに行けと言われた、ですって。
あらーつまり「できてなかった」じゃないのかな...
そこで拍のこと、拍子のこと、文化のこと、歴史のこと...となるのですが何せ感覚的な事だから分かってもらうことが本当に、大変。感覚は注意と意識によって鍛えられるために、その感覚をほぼ使っていない人には気がついてもらうことがまず難しい。聴音も演奏も拍の存在をいかに意識するかなんだよ...
4分音符って難しいよね!と言う超人の先生のお言葉を大事にしています。そして本当にそう思う。4分音符が連続する時、試されてますよ。

次。
「今さら」? 間に合えばいいのですが...
面倒くさがらずに初心に戻る勇気を持とうじゃないか。今さら、ではない。今でしょ。マジで。
神のお言葉。山折りになっている折り目のついた紙を平らにしたいと思ったら、逆(谷折り)に折りますよね。矯正するんです、これが必要なんです。
平らだと言っているのに、その折り目でふわっとなっている状態も気にならないことが、本当に、まずい。今の状態に気がつくと良いよね!

次。
「必要か」? 胸に、いや耳に聞いてごらん。己のではなく。
知らないよりは知った方が。できないよりはできた方が。ほぼ礼儀の域かもしれないと思っています。クラシックですもの。
先ほども述べたように、全ては演奏に結びつきます。というのは学ぶのも自分、演奏するのも自分ですから。ない能力・知識は身につけ、薄かった意識は高めるようにして、それを肉体(音符を読むという口も。さらには演奏に使う指とか)がより良く反応するように行動し、耳で判断してコントロールしていく総合力でやるもんだと考えてみませんか。

学ぶプロセスは単純に言って同じなので全ての学びと同じだと思います。ですので時々、(学校の)勉強はできなくても良いですよね...と確認されることがありますが、いやいや、考えてみたまえ。自分の能力ですので...できなくていい事あるかいな。(だからと言って私がすごい優秀かとかはきいてくれるな) 勉強って疑問や問題を見つけて解決して納得する、を繰り返して身につける、ってことだって知っていた方がいいかもしれませんよ...。
今までの生徒さんの様子を検証すると、勉強が得意な人はあっという間に知識を身につけて問題集を解きまくり、準備体制を整えてくれます。ここまでササっときてくれるといわゆる応用、楽譜を読む練習、耳の判断の訓練に時間を割くことができて、本当の意味での「ソルフェージュ」の勉強が進みます。音の高低の判断はまた難しい問題ですが、それもどうにかして聴こえる(判断する)方法を探すアイディアが出せるようです。

ハイ、ここです。

つまり、「なんで」「できてるのに」「今さら」「必要か」など、いらんプライド、もしくは面倒臭い事は嫌い、入試にあるだけ、など心(意識)を頑なに閉じている場合、一向に「理解」に進まず、ものすごく時間がかかります。そうすると本来のソルフェージュの勉強に進めず、ある程度覚える段階でもたつく、つまり入門のところで足踏みが続き、つまらない単なる座学と捉えるしかないかもしれません。

結論。
ソルフェージュの勉強(レッスン・授業の機会)は「音楽をやりたい!」と漠然と思った自分の気持ちを見直すチャンスに繋がります。
演奏をするという行為だけが(もしくはその行為ができる自分が)好きなのか、
それとも、
音楽の本質に近づいてみたい、と思うくらい音楽が好きなのか。

もちろん興味・能力には個人差があるので強制できませんが、音楽を学びたいなら同じ音楽のことだと大きく考えて、知りたい気持ちになりませんか?が率直な意見として伝えたいといつも思っています。いい世界に早くおいでよ、面白いのに。

後でソルフェージュって苦手(ないしは嫌い)だったなーとか言われると、ああ勿体無い、何を指してるのかな、その言葉って思ってしまう。もちろん、実技と別にレッスンが必要かどうかとか、ダブルで通うとか手間だとかなんとか思うだろうし...難しいところですが。実技の先生はそちらの技術を教えるだけで手一杯ですから、別の機会を設けて基礎能力(意識)の訓練をすることは、ある段階ではなかなか有効だと私は思います。
クラシックを演奏するのは音楽(楽譜)を立体化することかと思います。知識で読み解き、経験を重ねて使いこなしていく総合力が自分の表現を裏付けて支えてくれます。それが学びであって、聞き真似や肉体の達成感(速い、強い、高い、など)、思いつきだけで成り立っているわけではないのにな。楽譜の裏にある脈々と受け継がれてきた感覚は人から教わることしかできない、ここは楽譜だけでは知り得ないことなのでレッスンがある。そこでその感覚を磨くことが何より自分の音楽を育てるのにな。。
そこに迫っていくと文化、歴史なども含めてもっと学ぼうと思える気がします。

クラシック音楽を専門に学んでいくにつれ、自分の心を整理しなければならなかった点は、自分が異文化の人間であるという点でした。ソルフェージュの勉強をしていると、素の私では対処しきれない、新しい目線を持たなければいけない、新しい感覚を育てて違う世界に近づきたいと思えたし、答えではないけれど希望があったので、私には本当にいい機会でした。そして、自分が何者かを自覚することは異文化に対して尊敬の念を持つことにつながりました。それは私の財産の一つかも。

何事も 目が潰れず、耳が塞がれず、心が死なず。音楽と向かい合いながら自分が何者かを知り、問い続けること。
感覚を磨き続け、もう少し行きたいと思います。

*写真は美しい芍薬。このようにサーモンピンクだったのに数日後なぜかベージュの花に。2度楽しめました。