OCTAVEBURG 外伝

ピアニスト羽石道代の書きたいことあれこれ。演奏会の予定は本編http://octaveburg.seesaa.net へ

いっぷく亭つれづれ 其の1

2017-02-15 | 日記
いっぷく亭が2017年3月末で閉店する方向で動いています。最後に思い出して少し書いておこうかなと思います。
それまでは月・火定休 昼のみ(14:30頃まで)営業となります。

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この19年と半年くらい
「どちらのご出身ですか?」
「宇都宮です」
「あっ、じゃあ餃子ですねー」
「実家餃子屋なんですよー」
「えー!中華屋さんですか?
「いえいえ、ラーメン屋で餃子もやってるんですよ...」
にどれくらい助けられてきたか。
結局話はこれで盛り上がって別れる頃にはピアノを弾いていることは忘れられていたりした。初対面の方にイマイチ気の利かない対応をしてしまう自分としては、このような話題に救われてきたものだった。そういう意味でも両親にはお世話になってきたわけだ。

昔から羽石家は商売の家で、同じ場所で洋品店を営んでいた。父で3代目。「やっぱり子供の頃はおやつはラーメンですか?」と言われたりするが、そういうわけではないのだ。マダム向けのお洋服を仕入れて販売していた。母は裁縫が得意だからお直しなんかもしていたが、そのおかげで私は一切お裁縫ができないというオマケつき。

私が高校終わりか大学に入った頃、それまでとあるラーメン屋さんで修行させてもらっていた父が独立して店を始める話になった。最初は洋品店は残して別の場所でラーメン店を、という話もあったが結局家を立て直して始める方向でまとまった。何度も家族会議があって親戚一同に挨拶もかねたラーメン試食会を開いたりした。

ここで言うのもなんだが
当時私はラーメンが嫌いだった。

といっても、外で食べたことなんてない。母には悪いが「家庭のラーメン」がとても嫌いで、栄養バランスを考えて作られた茹でられた野菜の山と、スーパーの生ラーメンのラードのにおいが苦手すぎて小学校高学年頃にはもう「ラーメン食べません宣言」をして母に勝手にしろとキレられラーメンの日は一人でうどんを茹でて食べていた。
だからラーメン屋になる話になってもあまり興味がなかったのだが、試食会の前に父が

「お前が今まで食べていたのはラーメンではない。これが本当のラーメンだから」

と言われて(ますます母には悪いが)食べてみたら、美味しいと思った。
今と変わらず澄んだキレイなキラキラしたスープで、1口目はちょっと薄いかな?でも2口目はあっウマイな、食べる終わる頃には満足、という「いっぷく亭 黄金バランススープ」(今考えました)。今でもそんなに他のラーメンは食べないが、うちのラーメンは食べたいなあと思って、食べると美味しいなあと思う。本当の成長期にこれで育ったわけではないが、やっぱりこれが私の「家の味」なのかもしれない。

そして1999年8月、いっぷく亭はオープンした。友達は海外に夏期講習に行くなんて聞こえてもきたが、私は兄弟と入れ替わり立ち替わりピアノも弾かずに店を手伝った。もちろんバイト代はないが私の貴重な「音楽ではないバイト」経験。その後もエプロンをつけて店に立ったりしたが愛想がないのは相変わらずだったので看板娘にはならず。笑それにしてもオープンからたくさんのお客さんが来てくれて、嬉しかった。
生き生き忙しく働いている父は楽しそうだった。元から働き者の母ではあるが、ラーメン屋のおばちゃんになって頑張る母もえらいなと思っていた。
改めて数えてみればちょうど今の人生の半分は「ラーメン屋の娘」で生きているらしい。どおりで馴染んできたわけだ。
其の2では愛すべき味のことを書きたいと思います。つづく。

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