SSF 光夫天 ~ 詩と朗読と音楽と ~ 

◆ 言葉と音楽の『優しさ』の 散歩スケッチ ◆

「土地」 ~この眺めは、「ずっしりと重い大きな貴重な本」にも等しい~

2016-02-24 17:36:46 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
月から見た地球(昨年末、ニュースを見ながら、思わず映像を保存しました)


<一昨年の春の記録から>
【湧水】~安曇野を訪ねて~ 2014.5.26 
松本から、諏訪湖を経由し、富士見町高原のミュージアムへ訪問。
天候悪く「美ヶ原」を取りやめ、「安曇野」でゆっくりすることに。
北アルプスの山々には、まだ雪があり、「安曇野」の原風景を楽しみました。
(写真は、大王わさび農園)
安曇野のわさび田を流れる水は、すべて、この大王わさび農場のわさび畑の中から湧き出す北アルプスの雪解け水(伏流水)だそうです。



「土地」 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

人の世の転換が私をここへ導いた。

古い岩石の地の起伏と

めぐる昼夜の大いなる国、

自然がその親しさときびしさとで

こもごも生活を規正する国、

忍従のうちに形成される

みごとな収穫を見わたす国。


その慕わしい土地の眺めが 今

四方の空をかぎる山々の頂きから

もみじの森にかくれた谷川の河原まで、

時の試練にしっかりと堪えた

静かな大きな書物のように

私の前に大きく傾いてひらいている。


【自註】
山国の信州で、人は山の自然の強力な支配に従順であり、しかもそこから生活の知恵を生み出し、勤勉忍耐持久とを学び養う。

富士見高原でもそうだった。

そしてそれ故にこそ私は自分の住む土地と人々とを愛さずにいられなかった。

とは言えまだ新参者の私である。

見なければならない物、知らなければならない事がこれから先いくらでもある。

してみれば今このように眼前にしている広大な土地の眺めは、私にとってずっしりと重い大きな貴重な本にも等しい。

思えば心強くまた楽しいことである。


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私の住む大阪府豊中市(ウッスラ青空。季節の歩みは、足踏みしていますが、きれいな夕日でした。2016.2.24<朝・夕>撮影)


「夕日の歌」 ~遙かな春の予感~

2016-02-23 16:41:13 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
先日、春を感じる「夕日の写真」と北側に位置する「箕面の山」を撮りました。
この写真を見ながら、「夕日の歌」を読んでみました。



「夕日の歌」 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

夕日のひかりの最後の波が

いま高原の樅(もみ)の岸辺を洗っている。

周囲の山々にはするどい霜の予感がある。

厳粛な きよらかな

海抜一千二百メートル。

たそがれは宝石のような山かいの湖(うみ)の遠望。

エンガーデンのニイチェの事がおもわれる。


今夜はすべてに解体と結晶とが行われるだろう、

すべてに秋の死と冬への転生とがあるだろう。

そして いつか この私にも

薫風の岩かどか森の泉の片ほとりで

私のツァラトゥストラやオルフォイスに

出逢う春の日があるだろう。


【自註】
八ヶ岳の裾野の中でもかなり高い雀ノ森という残丘のような小山への遠足の帰りに、こうした夕日の眺めに出会った。

北西に遠く諏訪湖の水がきらきら光り、振り向けばすぐ頭の上に兜のような八の一峯阿弥陀岳が、まっこうから金紅色の落日を浴びてのしかかっていた。

低地の村里にはもうたそがれの色が漂っているが、霧ヶ峰、車山、守屋山などは、湖水を挟んでまだ明るく美しかった。

そしてこの寒く厳粛で男らしい光景に何となくニイチェの名が思い出され、この『ツァラトゥストラ』の作者の特に愛したスイスの山村エンガーディンの夕日の時が創造された。

と同時にギリシアの伝説上の歌い手で音楽の名手オルフォイスの事が、私のためにもやがて来るべき遙かな春の予感として脳裏をよこぎった。


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ニイチェ<Friedrich Wilhelm Nietzsche> (1844.10.15-1900.8.25)
ドイツ哲学者/リュッケン生まれ。ニイチェは、『ツァラトゥストラ』では、こう書いています。
『人間が復讐から開放されること、これが私にとって最高の希望の橋であり、長かった悪天候ののちにかかる虹である』

(ウィキペディアより引用)

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オルフォイス(Orpheus)ギリシア神話に登場する吟遊詩人。
冥府のオルペウス

(ウィキペディアより引用)
*オルペウス(冥府くだり↓が書かれています)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9



遙かな春の予感(2016年2月9日 西の空/大阪府豊中市)

「本国」 ~詩人の良心~

2016-02-22 13:00:56 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」

冬から春にかけて晴れた夜空を飾る美しい星座に、双子座と獅子座がある。
そのあいだに、朧(おぼろ)に光るプルセペ星団(Praesepe)がある。
このことを、この詩を読み、そして、調べ、初めて知りました。

【プルセペ星団(かに座)】<ウィキペディアより引用>




「本国」自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

私には ときどき 私の歌が

何処かほんとうに遠くからの

たよりではないかという気がする。


北の夏をきらきら溶ける氷のほとりで

苔のような貧しい草が

濃い紫の花から金の花粉をこぼす極北、

私の歌はそこに生まれて

海鳥の暗いさけびや 海岸の雪渓や

森閑と照る深夜の太陽と共に住むのか、


それとも空一面にそよかぜの満ちる

暗い春の夜な夜なを

天の双子と獅子のあいだに

あるとしもなく朧に光るペルセペの星団、

あの宇宙の銀の蜂の巣、

あそこが彼の本国かと。


【自註】
この詩も本質的には前の作品と同じ種類のものと言えよう。

誰からも離れて、おそらくは誰のとも違った現在の心境で、たった一人、ふと湧いたこんな思いを筆にするのが、はかない喜びでもあれば慰めでもあった。進んで交わる友は無くても、昔ながらの「詩と真実」の自然だけは私のために残っている。

出来た詩が自分でも佳い物のように思われる時、そこにはいつでも愛する自然がその本国として遠く横たわっているような気がするのだった。

第二聯に見られる「北」と「きらきら」、「氷」と「苔」、「海鳥」と「海岸」、「森閑」と「深夜」などのような類音は、半分は私の癖としてひとりでに、半分は意識的に出来たもの。

また「天の双子と獅子」は、両方共に冬から春にかけて晴れた夜空を飾る美しい星座の名である。


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*前の作品・・・終戦の翌年の春の或る夜の「告白」(2015-10-07掲載)



決意 「新らしい絃」

2016-01-05 12:56:47 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
新しい年のスタートにあたり、「新しい絃」を読み返してみました。


~1946年(今から70年前)の尾崎喜八の決意を示した自省の言葉~

戦時下のあのような極限状況のなかに自分がおかれたらどうなるか、
果たして後悔しないですむような生き方ができたろうか・・・



「新らしい絃」 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

森と山野と岩石との国に私は生きよう。

そこへ退いて私の絃(いと)を懸けなおし、

その国の荒い夜明けから完璧の夕べへと

広袤(こうぼう)をめぐるすべての音の

あたらしい秩序に私の歌をこころみるのだ。


なぜならば私はもう此処に

私を動かして歌わせる

顔も天空を持たないから。


歌はたましいの深い美しいおののきの調べだ。

それは愛と戦慄と自分の衝動への

抵抗なしには生まれない


私は逆立つ藪や吹雪の地平に立ち向かおう、

強い爽かな低音を風のように弾きぬこう。


だがもしも早春の光が煦々(くく)として

純な眼よりももっと純にかがやいたら、

私の弓がどの絃を

かろい翼のように打つだろうか。



【自註】

戦災で家を失った私は、妻を連れて一年間、親戚や友人の家から家へ転々と居を変えた。

どこでもみんな親切にしてくれたが、それでももう生れ故郷の東京に住む気はなく、
どこか遠く、純粋な自然に囲まれた土地へのあこがれがいよいよ募った。

ところがちょうどその時、或る未知の旧華族から、
長野県富士見高原の別荘の一と間を提供してもいいという好意に満ちた話が来た。
私の心は嬉しさにふるえ、思いはたちまちあの八ヶ岳の裾野へ飛んだ。
この詩はその喜びと期待から颯爽と泉のように噴き出したものである。

第二聯の「愛と戦慄と自分自身の衝動への抵抗なしには生れ得ない」は、
自分の作詞上の心の用意を音楽家のそれになぞらえて、今後は一字一句
たりとも興に任せて放漫には書くまいという決意を示した自省の言葉である。

ベートーヴェンに学ぶこと、それが詩人私の信条だった。

第四聯の「煦々として」は、「おだやかに柔らかく」という意味で使った。


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広袤(こうぼう):
「広」は東西の、「袤」は南北の長さの意、幅と長さ。広さ。面積。


冬の詩 「冬のこころ」

2016-01-03 19:31:18 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
あけましておめでとうございます。

年末年始12月27日(日)から1月3日(日)、この一週間の「冬の陽射し」がとても暖かく、
とりわけ「朝の陽ざし」を浴びると、「春」を感じさせてくれました。

元旦 今年も母と、静かな、穏やかな正月を過ごすことができたことに、感謝。




「冬のこころ」 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

ここにはしんとして立つ黄と灰色の木々がある。

その木立を透いて雪の連山が横たわり、

日のあたった枯草の丘のうえ

真珠いろに光る薄みどりの空が憩っている。

これらのものはすべて私に冬を語る、

世界の冬と 私自身の生の冬とを。


かつて私にとって春と夏だけが

生の充溢と愛や喜びの季節だった。


いま私はしずかに老いて、

遠い平野の水のように晴れ、

あらゆる日の花や雲や空の色を

むかえ映して孤独と愛とに澄んでいる。


世界は形象と比喩とにすぎない。

ひとえに豊かな智慧の愛で

あるがままのそれをいつくしむのだ。


枯葉を落とす灰色の木立 雪の山々

真珠みどりの北の空と

山裾に昼のけむりを上げる村々、

この風光を世界の冬の

無心な顔や美の訴えとして愛するのだ。


【自註】
この詩を書いた時私はもう五十歳も半ばを超えていた。
自然も冬だが私の人生もようやく冬で、心の眼に映る世界は
曾て絢爛から徐ろに枯淡なものへと移っていった。

そしてその枯淡の中から今までは気にも留めなかった美を見出して、
それを静かに慈しむことが自分の生の意義であるかのように思われてきた。

刻々と変化して止まないこの世の姿は結局各瞬間の映像にすぎず、
さまざまな事変や出来事もまた一つ一つの寓話にすぎないような気がして来た。

しかしそういう世界でも退いて静かにこれを眺めれば、人間箇々の短い生の縮図であって、
穏かにそれを受け入れ、理解し、時に憐み時に惜しみながら、決して捨てたり見限ったりしない事、
それが老年の豊かな知恵の愛だと私は信じた。

しかもその愛からまたどんな貴重な発見があるのかも知れないのである。
自然と人生との冬に託して告白した自分の心境。

それがすなわちこれだった。

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2016年1月3日 南の空(大阪府豊中市)