SSF 光夫天 ~ 詩と朗読と音楽と ~ 

◆ 言葉と音楽の『優しさ』の 散歩スケッチ ◆

秋の詩 「秋の流域」(我が娘、栄子に)

2015-09-28 16:35:11 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
写真は、我が家の、北東から北西にかけての”箕面の山”です。(大阪府箕面市)

空が青く 雲ひとつなく
そして、とても爽やかな、新しい風がながれています。

詩人 尾崎喜八が過ごした長野県諏訪郡 富士見町・・・

そうして美しいひろびろとした『秋の流域』の向こうには
同じ日本の空があり、秋があり、
そこで営まれている、それぞれのたくさんのたくさんの生活がある・・・
という、件(くだり)が、とても、に残ります。



秋の流域
(我が娘、栄子に)

二日の雨がなごりなく上がって、

けさは天地のあいだに新しい風がながれている。

暖かい道のうえの小石をごらん、

これは石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)というのだ。

こんな石にさえそれぞれ好もしい名がつけられ、

一つ一つが日に照らされ、風に吹かれて、

きょうの爽やかな、昔のような朝を、

何か優しい思い出にでも耽っているように

みんな薄青い涼しい影をやどしている。


葡萄畑のあいだから川が見えてきた。

風景の中に自然の水の見えて来るときの

深い心の喜びをお前がいつでもわすれないように!


だが銀の絲のもつれたように流れる川の両岸には、

平地といわず、丘といわず、

この土地の人々の頼もしい生活と

画のような耕作地とがひろがっている。


そうしてこの美しいひろびろとした流域の向こうには

同じ日本の空があり、秋があり、

其処で営まれているまた別のたくさんのたくさんの生活がある・・・・・・



詩集『高原詩抄』
詩集『二十年の歌』
詩集『残花抄』
詩集『歳月の歌』より



男声合唱組曲『秋の流域』作曲:多田武彦

Ⅰ.夏の最後の薔薇
Ⅱ.雲
Ⅲ.美ガ原熔岩台地
Ⅳ.追分哀歌
Ⅴ.隼
Ⅵ.秋の流域

【初演データ】
演奏団体:甲南大学グリークラブ・甲陵会合同
指揮者:稲津明克(第32代学生指揮者)
演奏年月日:1992(平成4)年12月23日
甲南大学グリークラブ第40回記念リサイタル(於 神戸文化会館大ホール)


皆様、心豊かな「秋」をお迎えください。(光夫天)

秋の詩 「美ガ原熔岩台地」

2015-09-27 18:27:55 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
(見出し写真は、昨年8月撮影)

学生時代に、男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から」に出会いました。

昨年(2014年8月)第17回富士見高原「詩のフォーラム」記念演奏会に
全国から同窓35名が集まり、40年の時を越え、再演に燃えました。

そして、その『拡がり』を求め、今年も「富士見町」に訪れ・・・

ただ、尾崎喜八が、出くわしたこの詩のような「風景」に、私は、未だに、接することができていません。
いつも、天候悪く、いつか、必ず出会えることを願いつつ・・・。

今は、ただ、「詩を読む」「詩を噛みしめる」「詩を味わう」ことをやってみたいので、
秋の詩「美ガ原熔岩台地」の詩から、「秋」の一つの風景を感じてみたいと思います。


美ガ原熔岩台地

登りついて不意にひらけた眼前の風景に

しばらくは世界の天井が抜けたかと思う。

やがて一歩を踏み込んで岩にまたがりながら、

この高さにおけるこの広がりの把握になおもくるしむ。


無制限な、おおどかな、荒っぽくて、新鮮な、

この風景の情緒はただ身にしみるように本源的で、

尋常の尺度にはまるで桁が外れている。


秋の雲の砲煙がどんどあげて、

空は青と白との眼もさめるだんだら。

物見石の準平原から和田峠のほうへ

一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った。

詩集『高原詩抄』
詩集『二十年の歌』
詩集『歳月の歌』より


男声合唱組曲『秋の流域』作曲:多田武彦

Ⅰ.夏の最後の薔薇
Ⅱ.雲
Ⅲ.美ガ原熔岩台地
Ⅳ.追分哀歌
Ⅴ.隼
Ⅵ.秋の流域

<メロス楽譜出版の男声合唱組曲『秋の流域』巻頭の多田武彦氏のことばより>
それまでの4年間、作曲活動を一時中断していた私は、1974年秋に再び筆を執り、初めて詩人尾崎喜八先生の詩に作曲した。男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から」である。「あたたかく、人間味溢れた清廉な先生の詩風」のおかげで、今も愛唱されている。

その後私は、尾崎先生の詩による合唱曲を四つ作曲している。中でも組曲「樅の樹の歌」の第三曲目「故地の花」の詩には深い感動を覚えた。先生が詩作のための旅行先から「伊吹麝香草」の豊かな芳香と共に、酷暑の東京で留守をあずかる愛妻へ送られた、心温まるメッセージであった。

1991年に甲南大学グリークラブから新曲の委嘱があった。
当時私は尾崎先生の秋の詩による組曲を練っていたので、これを完成し、組曲を「秋の流域」で結んだ。

「秋の流域」の副題には「わが娘、栄子に」とあった。栄子様の話によると、栄子様が小学生の頃から先生は栄子様を伴って、よく山野を逍遥された。その折には必ず自然の美しさや厳しさを教え、そこにある鉱物や動植物について解りやすく説明され、山麓や流域に住む多くの人々の生活の尊さを話されたそうだ。

「よく見ることによって理解し、理解することによって愛し、その愛から芸術を生む」という先生の語録を象徴する詩であった。
尾崎先生とは逆に、出不精の私が登山好きの娘に誘われて、美ヶ原に行ったとき「美しの塔」のレリーフの中に拝見した先生の著名な詩「美ガ原熔岩台地」を、この組曲の第三曲に掲げた。

また、先生がよく訪れられた中部信濃の由緒ある追分桝形地区でその地の哀愁を詩われ、これを詩人立原道造が参画していた「四季」に寄稿された「追分哀歌」を第四曲に配した。そして、他の3曲と合わせ6曲による組曲とし、組曲の標題を6曲目と同じく『秋の流域』とした。全体に尾崎喜八先生の人生哲学がしみじみと伝わってくるような作品となった。

【初演データ】
演奏団体:甲南大学グリークラブ・甲陵会合同
指揮者:稲津明克(第32代学生指揮者)
演奏年月日:1992(平成4)年12月23日
甲南大学グリークラブ第40回記念リサイタル(於 神戸文化会館大ホール)

秋の詩「田舎のモーツァルト」

2015-09-26 11:21:02 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
尾崎喜八 「自註 富士見高原詩集」以外の、「秋の詩」を取り上げます。
*見出し写真は、大王わさび農場の水車小屋(2014年5月撮影)


田舎のモーツァルト

中学の音楽室でピアノが鳴っている

生徒たちは、男も女も

両手を膝に、目をすえて、

きらめくような、流れるような、

音の造形に聴き入っている。

そとは秋晴れの安曇平(あずみだいら)

青い常念(じょうねん)と黄ばんだアカシア。

自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、

新任の若い女の先生が孜々(しし)として

モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。



【安曇野市立穂高東中学校】
信州安曇野穂高町穂高東中学校にこの詩を刻んだ碑がある。
尾崎喜八が詠んだこの詩は、この中学校での出来事だと言われている。
禄山美術館の裏、校門を入って左側の芝生の中に建立されている。

この「田舎のモーツァルト」初出は、
「文芸春秋」昭和三十八年十月号に次のように載っている。
初出では、8行詩であった。

田舎のモーツァルト
=====================
音楽室でピアノが鳴っている
生徒たちは両手を膝に、目をすえて、
流れるような、音の造形に聴き入っている。
そとは秋晴れの安曇平(あずみだいら)、
青い常念と黄ばんだアカシア。
自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
新任の若い女の先生が孜々(しし)として
モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。
=====================
*「尾崎喜八の詩による楽曲集」<発行者:牛尾 孝>より引用
(尾崎喜八研究会/寺澤俊司氏からの提供)



【男声合唱組曲『尾崎喜八の詩から・第二』】作曲:多田武彦

Ⅰ.雪消の頃
Ⅱ.郷愁
Ⅲ.盛夏の午後
Ⅳ.田舎のモーツァルト
Ⅴ.夕暮れの歌
Ⅵ.野辺山ノ原

=初演データ=
 演奏団体:神奈川大学フロイデコール
  指揮者:坂田真理子
   ソロ:千田 敬之
演奏年月日:1986(昭和61)年12月7日
     (於 東京都中央区立中央会館)

<メロス楽譜出版の男声合唱組曲『尾崎喜八の詩から・第二』巻頭の多田武彦氏のことば>
この組曲は、坂田真理子(本名・壽美)先生の、神奈川大学フロイデ・コール常任指揮者就任三十周年記念委嘱作品として1986年に作曲した。坂田先生は1945年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)を卒業後、1983年まで幾つかの高等学校に勤務、永年にわたり音楽教育の分野で多大の成果を収められた。その傍ら1961年から1990年の間、母校の東京芸術大学の講師に招かれ、多くの人材の輩出に尽力され、同時に日本の合唱界の発展にも寄与された。作曲を依頼されて、どの詩人を選ぼうかと考えていたとき、ふと思い付いたのが第四曲の「田舎のモーツァルト」である。詩人尾崎喜八先生の詩群の中にあって永年にわたって多くの愛読者に支持されてきたこの「田舎のモーツァルト」の中の「新任の若い女の先生が孜々としてモーツァルトのみごとなロンドを弾いている」のくだりで、戦後すぐに教鞭を取られた若かりし頃の坂田先生の姿をオーバーラップさせながら作曲してみた。尾崎先生の清廉な詩情のおかげで、作曲後13年以上の間、多くの合唱愛好者の方々によって歌われてきたが、評判のいいのはやはり、「田舎のモーツァルト」である。

秋の詩 「人のいない牧歌」

2015-09-20 13:36:14 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
日が暖かく、風もなく、爽やかな秋の一日でした。
画像は、大豆の莢がはじける「音」を”自然の生きる音”として感じたくて、
農林水産省HPより引用しました。

今日は、「人のいない牧歌」を取り上げます。
尾崎喜八が、富士見町から八ヶ岳に向かい、「中新田」の方へ行く、その時の心境を詠んだ詩です。


「人のいない牧歌」

秋が野山を照らしている。

暑かった日光が今は親しい。

十月の草の小みちを行きながら、

ふたたびの幸(さち)が私にある。


谷の下手(しもて)で遠い鷹の声がする。

近くの林で赤げらも鳴いている。

空気の乾燥に山畑の豆がたえずはじけて、

そのつぶてを受けた透明な

黄いろい豆の葉がはらはらと散る。


この冬ひとりで焚火をした窪地は

今は白い梅鉢草の群落だ。

そこの切株に大きな瑠璃色の天牛(かみきりむし)がいて、

からだよりも長い鬚を動かしながら、

一点の雲もないまっさおな空間を掃いている。


<自註 富士見高原詩集より>
【自註】==================
喜八自身が自分の詩に註釈を施し、
或はそれの出来たいわれを述べ、
又はそれに付随する心境めいたものを告白して、
読者の鑑賞や理解への一助とする試み。
======================
「人のいない牧歌」

もう一と月にすれば寒さがやって来る事を知りながら、
またそれだけに、こんなに日の光が暖かく、こんなに風も無く、
こんなに爽かに晴れた高原の秋の一日が本当に嬉しい。

何か貴重な賜物であるような気さえする。

私は森から緩やかな道を登って中新田のほうへ行く。
そして広い水田の多いその村を抜けてなおも八ヶ岳に近づくように登って行く。

するともう富士見の町やその向こうの幾つかの村落も遠く見おろすように低くなる。
私が好んでしばしば訪れるこの高みは山の畑で、多くは大豆が作られている。

其処の柔らかな草原に座って煙草を吸いながら日なたぼっこをしていると、
秋の真昼の底知れない静けさの中で時どき何かパチリと音がする。

気をつけて見ると畑の大豆の莢が裂けて実がはじけているのである。
なおも耳を澄ますとその音は方々でしている。
そしてはじけて飛んで豆粒が当ると黄色くなった豆の葉がはらはらと散るのである。

これは私にとっては実に初めての見ものだった。
こんな美しい事がひっそりと無人の境地で行われていようとは想像もしなかった。

しかも曾て自分のした焚火の跡の梅鉢草の花の白い群落と、
切株にとまって長い鬚を動かしているただ一匹のカミキリムシ。

これは正に一つの秋の自然の牧歌であって、なまじそれを味わっている
人間の存在などは無い方がいいくらいのものだった。


*この秋が、皆様にとって、豊かな秋となりますように。(光夫天)



*男声合唱曲集『八ヶ岳憧憬』Ⅳ「人のいない牧歌」 作曲:多田武彦
初演データ
演奏団体:紐育男声東京合唱団 指揮者:澤口雅昭
演奏年月日:2014(平成26)年3月15日(土)
紐育男声合唱団 第21回定期演奏会(於 一ツ橋ホール)


秋の詩 父を想う・・・「十一月」

2015-09-18 20:11:27 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
こんばんは。

還暦を過ぎた今、父(1919~2011)を想い、この詩・自註を詠むと「心が軽く」なるのです。

今日、取り上げる詩・自註を詠み、尾崎喜八の当時の心境に、大いに共感しています。


詩人:尾崎喜八の詩に、作曲家:多田武彦さんは、八つの楽曲を作曲しています。(2015年9月現在)

その七番目にあたる、男声合唱組曲『花咲ける孤独』の「十一月」を取り上げてみます。



~自註 富士見高原詩集より~

十一月

北のほう 湖から風を避けて、

ここ枯草の丘の裾べの

南の太陽が暖かい。

ぼんやりと雪の斜面を光らせて

うす青く なかば透明にかすんだ山々。

末はあかるい地平の空へ

まぎれて消える高原の

なんと豊かに 安らかに

絢爛寂びてよこたわっていることか。


もしも今わたしに父が生きていたら、

すでにほとんど白い頭を

わたしは父の肩へもたせるだろう。

老いたる父は老いた息子の手をとって、

この白髪 この刻まれた皺の故に

昔の不幸をすべて恕(ゆる)してくれるだろう。

するとわたしの心が軽くなり、

父よ 五十幾年のわたしの旅は

結局あなたへ帰る旅でしたということだろう。


しかし今 私の前では、

朽葉色をした一羽のつぐみが

湿めった地面を駆けながら餌をあさっている。

むこうでは煙のような落葉松林が

この秋の最後の金をこぼしている。

そして老と凋落とに美しい季節は

欲望もなく けばけばしい光もなく、

黄と紫と灰いろに枯れた山野に

ただうっすりと冬の霞を懸けている。



【自註 十一月】

富士見高原の自然の中に新らしい生を求めながら、しかし私はもう六十歳に近かった。

それで何かにつけて今は亡い父を思い出すことが多くなり、

その度に彼にとって必ずしも善い息子ではなかった若い頃の自分が悔やまれた。


今となってはもう間に合わないが、また事実としてそんな事の出来るわけも無いが、

せめて夢想の中ででも老父の腕に身をもたせて宥しを乞い、子供として甘えたかった。

そしてこの初冬の丘のように美しく寂び、悠々と老いて、

彼の一生あずかり知らなかった、それでも彼がほほえみうなずいてくれるような善い仕事を、

なおしばらくは許されるであろう命のうちに成しとげたいと思った。




*この秋が、皆様にとって、心豊かな秋となりますように・・・(光夫天)