SSF 光夫天 ~ 詩と朗読と音楽と ~ 

◆ 言葉と音楽の『優しさ』の 散歩スケッチ ◆

冬の詩 「足あと」

2015-12-20 12:04:51 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
快晴!雲一つない青空!(南の空<大阪府豊中市わが家>見出し写真

北の空<大掃除日和の、これまた、雲一つない青空!>




「足あと」 ~ 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

けさは、森から野へつづく雪の上に、

堅い水晶を刻んだような

一羽の雉(キジ)の足あとを見つけた。

それで私の心が急にあかるくなった。


雪と氷の此の高原の寒い夜あけに

あの雉という華麗な 強い 大きな鳥が

ほのぼのと赤らんで来る地平のほうへと

野生の 孤独の 威厳にみちた

歩みをはこぶその姿を私はおもった。

それを想像するだけで

もう私の今日という日が平凡ではなくなった。

なにか抜群なものと結びついた気がした。

鑿(のみ)で切りつけたような半透明な足あとが

雪のうすれた流れのふちで

いくつもいくつも重なっていた。

雉は去年の落葉の沈んでいる此の高原の

一月の青い冷たい水を飲んだにちがいない、

金属のような光をはなつ

藍いろの頭と 緑の首と

あざやかな赤い顔とを静かに上げて、

冬が裸にしたはしばみの藪かげで、

なみなみと。


それならばいよいよすばらしい。

私の心には氷雨の時を時ならぬ花が咲いた。

一望の白くさびしい雪の曠野で、

私の生きる人生が

豊かな 優しい おごそかなものに思われた。



【自註】
新しく降った雪の上にはいろいろな動物の足跡がついている。

それを捜して歩いてカメラに収めたり、ノートへスケッチしたりするのは冬の楽しみの一つだった。

その中で兎や野鼠のははっきりした特徴があってすぐわかるが、マヒワだのホオジロだの、アオジだのノジコだののような小さい鳥達のものになると、私などにはもう種類の見分けがつかない。

しかしこういう連中のはいかにもこまかで、綺麗で、愛らしい。

ところがキジのは違う。ニワトリのに似ているが、ニワトリがこんな高原の積雪の中へ一人で遊びに来るはずは元より無く、キジの姿ならばこの森でもよく見かけるし、あの「ケーン、ケーン」という鋭い叫びも時どき聴くから万が一にも間違いはない。

いつも孤独で、華麗で、男らしいキジという鳥の足跡を、朝まだ早い水辺の雪の上に発見したのだから、その姿を想像しながら私の感動は静かだが深かった。


キジのつがい


雉(キジ)の足跡のようだ。



冬の詩 「朝のひかり」

2015-12-19 12:13:41 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
空気は冷たくとも 陽射しに ホッ!(大阪府豊中市)


『ああ 冬の赤貧のためにいよいよ広く神々しい朝々の空が大河のように青く流れる。』(尾崎喜八)



「朝のひかり」 ~ 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より ~

朝々の白い霜のうえに

人に知られぬ貧しい者らの

夜明けのいとなみを物語るような

ちいさい足あとを見出す土地に私は生きる。


はだしの雉(キジ)は富まないし、

旅のつぐみはあのように瘠せて赤貧だ。

それに見よ、けさもまた

山の伐採地からあの小娘がおりて来る。

貧しさのおさない王女のように、

拾いあつめた枯枝を背に

霜を踏んでよろめいて来る。


私は彼等とそのひそやかな生をわかつ。

少女も 鳥も、

悲しげな彼等は遠くまじめで、

近づけばしんそこは快活で、

ひろびろと撒きちらされた真実を

枝としては軽くつかみ、

枝としてはこまかくついばむ。


冱寒(ごかん)の地にも遠い春のように咲きながら、

孤独に 純に

みずからをちりばめる彼等の上を、

ああ 冬の赤貧のためにいよいよ広く神々しい

朝々の空が大河のように青く流れる。


【自註】
氷点下十度を測る毎朝の霜を踏んで私のする日課の散歩。

その厚い真白な霜の上には必ず何か小さい獣か野鳥の足跡がついている。

彼らは私よりもずっと早く起きて、自分たちの生きてゆくために、食うために、この高原の道や畑を歩いたのだ。

そしてこの小娘の可憐な足跡にしてもそうである。

幼い彼女の朝の日課は私のするような散歩ではなく、親から命じられた枯枝集めの労働なのだ。

それを憐み悲しむな、私の心よ!

むしろ彼らを讃美するがいい。

そして彼らのために、彼らと共に、霜の荒野の教会で歌うコラール(衆讃歌)を書くがいい!




キジ (雉・雉子)

キジ (雉・雉子) - キジ目キジ科の鳥。日本の国鳥に定められている。(ウィキペディアより)

つぐみ




<コラール(衆讃歌)>
コラール(独:Choral)は、もともとルター派教会にて全会衆によって歌われるための賛美歌である。
現代では、これらの賛美歌の典型的な形式や、類似した性格をもつ作品をも含めて呼ぶことが多い。

概要:
コラールの旋律は多くの場合単純で、歌うのが容易である。
これはもともと、専門の合唱団ではなく、教会に集まった会衆の人々が歌うものとして考えられていたからである。
一般に韻を踏んだ詞を持ち、有節形式(同じ旋律に歌詞の違う節をあてて繰り返す形式)で書かれている。
歌詞の各連のなかでは、ほとんどのコラールがドイツのバール形式としても知られる、A-A-Bの旋律パターンをとっている。(ウィキペディアより)

冬の詩 「冬のはじめ」

2015-12-18 12:22:09 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
ヒエヒエ感、満載。
今日の北の空(箕面市方面の空)

いよいよ冬の始まり。



「冬のはじめ」 ~ 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より ~

黄ばんだものが黄いろくなり

赤いものが紫にまで深まって

日ごと木の葉のからからと散りつづく秋の林に、

私のしずかな仕事の昼と

きつつきの孤独のいとなみとが

世の中からいよいよ遠く

いよいよひろびろと淳朴になる。


大きなむなしさの中に明るく努めて、

探求の重くちいさい鎚をひびかせ、

つねに傾聴の心をひそめながら、

他の地平線にはあこがれず、

おおかたはこの西風と遠い南の太陽に、

十月の木々のひろがりを生きている。


【自註】
私はわずらわしくて利己的で醜い事の多い都会を後にここへ来た。
高原のここには自由と孤高の精神を歓んで迎える雄大な天地があった。

仕事も毎日規則的に出来、本も読め、好きな自然観察も無限に豊かな材料を前に思うがままだった。

妻と二人、新婚の頃を思い出して少しばかり畑仕事もやった。
昔ほどではないが鶏も飼い、花も作った。閑雅の中にも充実した日々。

これ以上の生活はとうてい考えられなかった。

広大な森の中、家のすぐ近くのコメツガの大木に、一羽のアカゲラが巣を造っていて、
それが毎日コツコツと音を立てては金槌のような嘴(くちばし)で穴を掘っていた。

私はこの美しいキツツキの勤勉な仕事ぶりと、孤高を持した雄々しい生活の姿に深く心を動かされた。
それ故この詩の第二聯では、私とこのアカゲラとがもはや分かちがたいものになっている。


アカゲラ(赤啄木鳥)

アカゲラ (赤啄木鳥、Dendrocopos major)は、キツツキ目キツツキ科アカゲラ属に分類される鳥類。日本では北海道に亜種エゾアカゲラが、本州、四国に亜種アカゲラが留鳥として周年生息する。四国での生息数はきわめて少ない。九州以南には分布しない。亜種ハシブトアカゲラはアジア大陸北部・樺太に生息し、春秋の渡りの時期に日本海の離島で観察されることがある。過去に山口県見島(1978年3月)、石川県舳倉島で観察された。(ウィキペディアより)

コメツガ

コメツガ(米栂、学名:Tsuga diversifolia)は、マツ科ツガ属の常緑針葉樹。日本の固有種。(ウィキペディアより)





「存在」 私は今、ここに在る!しかし、しかし・・・

2015-12-16 09:47:50 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
八ヶ岳


昨年夏(2014年8月)『第17回富士見高原 詩のフォーラム』第二部記念公演の男声合唱メンバーとして、演奏させていただいた。会場は、富士見町高原のミュージアム(長野県諏訪郡富士見町)である。JR中央線「富士見駅」から徒歩3分の場所にある。



学生時代にこの組曲を初演したことから、40年ぶりに、詩人:尾崎喜八ゆかりの地で、同窓35名が全国から集まり、演奏することになった。演奏した組曲は、男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から」作詞:尾崎喜八 作曲:多田武彦。この組曲の「存在」が、40年の時を超え、「富士見町での出逢い」に繋がり、音楽を通じて得ることができた様々な「経験」を今もさせていただいている。感謝。



「存在」 ~ 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より ~

しばしば私は立ちどまらなければならなかった。

事物からの隔たりをたしかめるように。

その隔たりを充填する

なんと幾億万空気分子の濃い渦巻き。


きのうはこの高原の各所にあがる野火の煙をながめ、

きょうは落葉の林にかすかな小鳥を聴いている。

十日都会の消息を知らず、

雲のむらがる山野の起伏と

枯草を縫うあおい小径(こみち)と

隔絶になって谷間をくだる稀な列車と・・・・・・


ああ たがいに清くわかれ生きて

遠くその本性と運命とに強まってこそ

常にその最も固有の美をあらわす事物の姿。

こうして私は孤独に徹し、

この世のすべての形象に

おのずからなる照応の美を褒め たたえる。


【自註】
もうここでは私は富士見に来ている。別荘のありかは長野県諏訪郡富士見町、中央線の富士見駅から北々西へ徒歩で約十五分のところである。終戦の翌年の秋十月、山も原野も森も耕地も、すべてが彼らの在るべき場所に広々と静かに横たわって、見渡すかぎり混乱もなければ紛糾もない。あるのはそれぞれの形象のまぎれもない存在感と、互いの個性の照らし合いの美だけである。それは新たに生きることを願いとする私の理想の世界だった。

「たがいに清くわかれ生きて、遠くその本性と運命とに強まってこそ」の一句には、これもまた東京を去って岩手県花巻の田舎に一人住んでいる高村光太郎へのたよりの意味も含まれている。



晩秋初冬の詩 「短日」

2015-12-14 11:36:16 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
穏やかな空で、週がスタート。

千里中央方面の空は、東南東の方角で、
この時期、太陽がこの辺りから、昇って来る。(大阪府豊中市)

もうすぐ『冬至』

正午の太陽の高さが最も低くなる・・・



「短日」 ~ 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より ~

枯葉のような旅の田鷸(タシギ)が

ちいさい群れになって

丘のあいだの冬の田圃におりている。

こんな日には風景一帯に

真珠いろの寒い光がぼんやり射し、

どこからともなく野火の煙がにおって来る。

こんな日には又よく銃の音がひびいて

田圃の田鷸を電光形に飛び立たせる。

そして思わぬ処から 旋風の渦のように

舞い上がる花鶏(アトリ)の大群がある。


【自註】
日の短かい高原の冬の田圃に、この季節にだけ見られるタシギとアトリの下りているのを書いた。タシギは春と秋とに日本を通る旅鳥で、アトリは十月頃から渡って来て五月には姿を消す冬鳥である。いずれも翼の力が強くてその飛び方はすこぶる速い。しかしそれぞれ大小の群れになってひっそりと餌をあさっている彼らを、荒寥とした冬景色の中で見出すのは思ひもかけぬ喜びである。俳人ならばこんな風景をどう詠むだろうか。




田鷸(タシギ)

シギ科の鳥。全長27センチくらい、茶褐色で斑紋があり、くちばしはまっすぐで長い。日本では旅鳥か冬鳥で、水田や湿地・河原などでみられる。《季 秋》(デジタル大辞泉の解説より)

花鶏(アトリ)

アトリ(獦子鳥、花鶏、学名:Fringilla montifringilla)は、鳥綱スズメ目アトリ科アトリ属に分類される鳥類の一種。ユーラシア大陸北部の亜寒帯で繁殖し、冬季は北アフリカ、ヨーロッパから中央アジア、中国、朝鮮半島に渡りをおこない越冬する。日本には冬鳥として秋にシベリア方面から渡来する。主に日本海より山形県、富山県等に飛来し、それから各地に散らばる。渡来する個体数は年による変化が大きい。(ウキペディアより)