早いもので、8月も今日で終わり。
大牟田市内の小中学校では昨日、始業式が行われた。
例年は9月から2学期に入るが、今年は9月1日が日曜日ということもあってか、2日ほど前倒しされている。
この時期に最も多くなるのが、こどもの自死。
長い休みから、再び学校生活に戻らなければならないことを苦にして、自らの生命を絶ってしまうこどもが増えるのは、悲しいことである。死を選択するくらいなら、学校には行かなくてもよい、という空気が少しずつ広がってきてはいるけれど、将来のことを考えると、学校に行かなくてもよい、という声だけを素直に聞くこともできないジレンマもある。
私も、小学生の頃は、8月31日が憂鬱で仕方がなかった。
ただ、学校が始まる、というだけではない。2学期が始まるということは、運動会の練習が始まるということでもある。運動神経が鈍い私にとって、運動会は嫌いな行事のひとつであり、練習も苦痛でしかなかった。現在でも、こどもの頃に運動会が大好きだった人とは決して相容れないという、妙な自信がある。
それでも、登校拒否という言葉はあっても、不登校という言葉が無かったあの頃、学校に行かないという選択肢をとることは、まず考えられなかった。また、私の場合は父親がPTA会長をしていたこともあり、登校拒否などという、教師からみれば問題行動でしかない手段をとることはできなかった。毎朝のように猛烈な吐き気に襲われつつも、自分を誤魔化しながら通い続けた。
その結果、どうなったか。それを考えると、登校を渋るこどもに対して、学校へは行くべきだ、などと促すことは、少なくとも私にはできない。
学校へ行くか行かないかは、自分で決めればいい。
自分の意思とは逆の選択肢を周りに押し付けられ、それに従い、結果的にうまく行かなかったとしても、押し付けてきた連中は誰も責任をとらない、ということを、身をもって思い知らされた。そんな私がアドバイスをすることがあるとしたら、ただ、それだけ。
大牟田市内の小中学校では昨日、始業式が行われた。
例年は9月から2学期に入るが、今年は9月1日が日曜日ということもあってか、2日ほど前倒しされている。
この時期に最も多くなるのが、こどもの自死。
長い休みから、再び学校生活に戻らなければならないことを苦にして、自らの生命を絶ってしまうこどもが増えるのは、悲しいことである。死を選択するくらいなら、学校には行かなくてもよい、という空気が少しずつ広がってきてはいるけれど、将来のことを考えると、学校に行かなくてもよい、という声だけを素直に聞くこともできないジレンマもある。
私も、小学生の頃は、8月31日が憂鬱で仕方がなかった。
ただ、学校が始まる、というだけではない。2学期が始まるということは、運動会の練習が始まるということでもある。運動神経が鈍い私にとって、運動会は嫌いな行事のひとつであり、練習も苦痛でしかなかった。現在でも、こどもの頃に運動会が大好きだった人とは決して相容れないという、妙な自信がある。
それでも、登校拒否という言葉はあっても、不登校という言葉が無かったあの頃、学校に行かないという選択肢をとることは、まず考えられなかった。また、私の場合は父親がPTA会長をしていたこともあり、登校拒否などという、教師からみれば問題行動でしかない手段をとることはできなかった。毎朝のように猛烈な吐き気に襲われつつも、自分を誤魔化しながら通い続けた。
その結果、どうなったか。それを考えると、登校を渋るこどもに対して、学校へは行くべきだ、などと促すことは、少なくとも私にはできない。
学校へ行くか行かないかは、自分で決めればいい。
自分の意思とは逆の選択肢を周りに押し付けられ、それに従い、結果的にうまく行かなかったとしても、押し付けてきた連中は誰も責任をとらない、ということを、身をもって思い知らされた。そんな私がアドバイスをすることがあるとしたら、ただ、それだけ。