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「祈り」について、観察、分析、検証の科学的研究を、私は見たことがないので、言語思考の客観性を保証するサンプルは、どうしても宗教的「祈り」からの例になってしまい、今日の科学と宗教の対立から、そうすればオカルティックに思われてしまう危険があります。
また「祈り」は宗教行為だから、科学では判断して欲しくない。という宗教サイドからの意見や、また、夜、寝しなの床で手を合わせる「祈り」に似た経験が、子供を大人にしたはずなのに、「祈り」の話をするだけで、ある種のアレルギーを感じる人が多いのも、また「祈り」の社会的側面です。このように多くの相違、誤解が「祈り」にはあります。しかし、多くの誤解が生まれることを承知で、まず最初に宗教の「祈り」を例に、お話しを進めたいと思います。
仏教のなかで、最も過激な「祈り」は、菩薩の「誓願」です。
「私は、人々が等しく、苦しみを離れ幸福(仏)になることを願い活動している。私の誓願は、全人類が成仏しなければ、私は成仏しない。」です。
言語思考で言えば「菩薩の誓願」のラベリングで、理解を済ますことも出来ます。しかし「祈り」のパワーを知って貰うためにも、もう少し詳しく見てみます。
全人類の「苦しみと幸福」というのですから、一億人いれば、一億個の「苦しみと幸福」があり、その総てを感得し、理解し、対処することを意味します。一生の寿命の間では達成不可能ですから、何度も輪廻で人間に生まれ変わり、努力を続けるということになります。一方、科学では信じられないことでしょうが、その誓願を成就させるために、一億個の「苦しみと幸福」を瞬時に感得できる能力が、人間には初めから備わっていて、その能力を開発するメソッドがある。と言うのです。菩薩や如来はその能力を身につけた者である。とも言うのです。科学的には、アンドロメダ星雲にロケットを打ち上げるような話ですが、確かに、人間は次々に生まれてくるので、出生率を上回るスピードで対処する能力がなければ、総ての人類を幸福にすることは、永遠に不可能な話でもあります。つまり「誓願・祈り」のパワーが人間をここまでパワーアップするということですから、アンドロメダ星雲にロケットを打ち上げたいと思っている科学者は、是非解明を進めてみてください。アンドロメダ星雲にロケットが到着したことを、誰がどんな方法で確認するのか?。の答えが分かってくると思います。このように現代の科学は、100年前と比べ、菩薩の「誓願」の科学的解明に取り掛かる用意、その理念的な成熟に、もう少しで到達するのではと思うのですが…。
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では、社会生活レベルで行われる「祈り」には、何があるでしょうか。
「祈り」とは、自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生しようとする行為である。と言いました。
今日、社会生活レベルで、自己解体の覚悟と再生を迫る事柄というと、環境問題があります。また身近に解体再生という現象を社会体験できるのは、議員選挙です。議員選挙は議会ですが、環境問題は地球環境の解体と再生ですから、「願い」と「祈り」程の差があるように思います。しかし、政治体制の解体再生には、革命や戦争などの手段で行われ、「祈り」に匹敵するエネルギーを必要とする場合もありますので「祈り」レベルとも言えます。
また、社会生活レベルの「祈り」は、宗教と同じく利他主義と関係します。議員活動?も環境問題も、自分の為に、と同時に、多くの人々を利することでもあります。この両者には、各自の自由な欲望の発露が、いずれ程良い社会のバランスを生む。という自由主義的論議に、閉塞と行き詰まりを感じ、その解決に利他主義を持ち込もうとする動きがあります。もともと仏教で利他とは、解脱と同じ最終目的ですから、当たり前の行為なのですが、菩薩の利他とは、「人々が等しく、苦しみを離れ幸福(仏)になることを願い活動する。」ことですから、貧しい人への経済的施しや、人権擁護を助けたりなどは、その行為が、煩悩の輪廻から人類を救うことにつがれば仏教的利他と言えますが、一般的利他の認識とかなり隔たりがあると思います。環境問題は、この観点から見ると、一般的利他の認識より、菩薩の「誓願」の決意と「祈り」のエネルギーを必要とする行為に近いのではと思います。何故なら、本当に地球環境が壊れ、月に移住しなければならない事態になったら、「祈り」なんかでは、足りないことにもなるからです。
科学が、地球環境問題を提起したのなら、だからその解決を純粋に科学だけで行おうと言うのなら、しかし、社会、政治、経済、人の心の問題も包括しているのなら、科学は現有のツールだけでは、とても問題の解決はできないと思います。「祈り」は解体と再生を実現するパワーです。仏教はそのパワーを原動力に、成仏を実現しようとします。科学にも、希望のパワーである「祈り」を、環境の解体と再生のために使う、つまり「賭」に出る局面が、近い将来必ず来ると思うのですが。
野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ