写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

永遠のモナ・リザ-3

2007年10月08日 | 「無限・永遠」
「モナ・リザ」には、空間とマチエールに「無限・永遠」が表現されている。と、先回までお話ししてきました。今回は、モナ・リザには、「輪郭線」が描かれていないことをお話ししながら、それが「無限・永遠」と、どんなつながりがあるのか考えてみます。

「モナ・リザ」を見ていると、日本には「浮世絵」があり、その中でも特に、喜多川歌麿の美人画や、東洲斎写楽の大首絵を思い出します。この二つには大きな違いがあります。「浮世絵」は「輪郭線」で人物を描きますが、「モナ・リザ」にはその「輪郭線」がありません。



私は、中学生の頃、図工の授業で石膏デッサンを習ったとき、木炭で顔の「輪郭線」を描くことが、どうしても出来ませんでした。現実のビーナスの石膏像には、輪郭線なんか無いのに、線を描かなければならない理不尽を感じました。それまでは絵が上手と褒められ、好きだったのに、いっぺんに嫌いになりました。当ブログの初回、「始めに」のなかで、「言葉」に敵意を感じ、決して主役を演じさせてはならない。と思ったと同じように、絵画の「輪郭線」にも、敵意を感じてしまいました。
後年、この「言葉」と「輪郭線」その存在理由が理解できて、わだかまりが解けたのは、漸く40歳近くになってからでした。
それまでの年月、わだかまりが抵抗して、文字を綴ることも絵を描くことも、苦痛でした。そして言葉も輪郭線もいらない、「写真」だけが、楽しみでした。

では、モナ・リザの顔には「輪郭線」が無いことを考えてみましょう。

先回お話ししたように、「モナ・リザ」の顔の肌合い(マチエール)には、レオナルド・ダ・ビンチの「無限・永遠」が塗り重ねられています。そしてそれは、絵具を何層も塗り重ねマチエールを創ってゆく、血のにじむような努力などではなく、永遠に続けていたい快楽の長い時間なのですから、レオナルドには、表現を「輪郭線」で簡単に済ましてしまうなど、勿体なくて、出来なかったはずなのです。この行為を永遠に続けたいがために「スフマート」と呼ばれる、時間がかかる、ぼかし技法を編み出したのかも知れません。つまり、薄いベールがかかったように見える「スフマート」は、永遠に未完成を前提にしていることになります。

モナ・リザの表面の絵具を剥いでいけば、下書きとして線画のデッサンが現れ、顔の輪郭線が現われるかも知れません。だから、輪郭線があると言えばあるのですが、しかしそれは、まだ「モナ・リザ」という名称ではありません。
一方、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵では、「輪郭線」がなければ、歌麿、写楽の絵では無くなってしまいます。
浮世絵の原画では、一筆書きの「輪郭線」で顔が描かれます。レオナルド・ダ・ビンチが何度も何度も筆を走らせ塗り重ねたのとは、全く正反対です。
でも、その正反対の二つから、感動を受けるのは、何故なのでしょうか?
「モナ・リザ」を鑑賞する場合は、彼女の表情に惹かれます。さらに、皮膚の柔らかさ、きめ細かさなど、顔の肌合いがどうなっているのだろうかと、現実の生きた女性を目の前にしている鑑賞を我々はしてしまいます。レオナルドは、一筆一筆、絵具を何層も塗り重ねマチエールを創ってゆく、つまり「無限・永遠」の要素を一つ一つ、絵具で描き続けているので、鑑賞者がそのような鑑賞態度を取ることは想定できます。そう仕向ける仕掛けが、他にも「モナ・リザ」には沢山ありますが、つまり「モナ・リザ」の鑑賞とは、恋人や妻の顔、むしろ電車にたまたま乗り合わせた見知らぬ美人を、まじまじと見つめることと、あまり違いはありません。

一方、歌麿の美人画は、「輪郭線」で描かれているだけで、肌合いのマチエールはありませんから、同じく、まじまじと見つめるにしても、「モナ・リザ」の鑑賞とは違ってきます。
それは、「輪郭線」で浮かぶ美人のイメージに触発され、それに似た「記憶の美人」を求めて、鑑賞者は、頭脳や心の中を「旅」するということになります。
江戸時代の「プロマイド」として町民の娯楽であった浮世絵から、時を越え現代人にも感動が生まれるとすれば、「記憶の美人」を求める「旅」が、昔人も現代人も人間であれば等しく共有できる「DNAの記憶」へと誘われ、普遍的な魅力を感じてしまう、そんな能力が、浮世絵にはあるということになります。
そしてまた、この感動が生まれるためには、頭脳や心に積み重ねられている人間の「記憶」とは、「無限・永遠」のものであるということになります。
さらに、この「無限」感覚も、綴る言葉の間からこぼれてしまうものなので、「言語思考」ではなくて、「無限・永遠」を認識する感覚器官で感受しなければ、感動も生まれないことにもなります。

まとめると、「モナ・リザ」の鑑賞とは、人間外部の物体に向かう「無限・永遠」の探求とすれば、浮世絵の鑑賞とは、人間内部に向かう「無限の記憶」の探求になります。

また「モナ・リザ」には、人間内部への探求も用意されてあります。「モナ・リザの永遠の微笑」と呼ばれる、「表情」です。
人間には、幼児が描く拙い絵の「輪郭線」にも、それを顔と認識した瞬間に、頭脳や心の中から「似た顔の記憶」を探し出してしまう習性があります。つまり、「言語思考」が「顔」とラベリングして思考停止を命ずるまでは、微笑、つまり表情であれば総て「無限・永遠」ということなのです。だから、やさしい表情の絵にはやさしくなれるのです。

また、初めから「言語思考」に基づき、「イコン」として制作される絵画があります。「イコン」は、描かれたイメージ、例えばキリスト像に触発され、それに似た「記憶」を求めて、鑑賞者は、頭脳や心の中を「旅」するということになります。「記憶」には予め、キリストや神のイメージがインプットされていますから、「旅」はそのイメージに行き着きます。良きイメージを多く記憶していればそれだけ、感動が深くなります。つまり「幸福な人はより幸福になれる」。またその逆説である「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」の期待がそこにはあります。

では「モナ・リザの永遠の微笑」や「歌麿の美人画」は、「イコン」なのでしょうか。
「言語思考」や「科学思考」で、この二つを考えると、確かに「イコン」になってしまいます。これまでの多くの研究は、「イコン」とは言っていなくても、結論は「言語思考」で語られるのでそうなってしまうのです。しかし、ダビンチも歌麿も「イコン」を描いてはいません。
空海が「言語思考」を用いて、「言語思考」からの脱出を考えたように、「言語思考」である「イコン」の手法を用いて、視覚の認識としての「絵画」を描いているのです。
そして、その視覚とは、「無限」「有限」と言葉で表現される外にはみ出てあるものなのです。

これまで「真実は無限にあり」そして「無限・永遠」とは何かを考えてきましたが、次回は、「無限」「有限」の外にあるものを考えて見たいと思います。