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このブログでは、用語や文献の解説、背景説明、理論武装など、読んで分かりやすくなる、また面白くなる方法を極力省いてきました。つまり出来るだけ簡潔に結論だけを並べ、後は紙背を想像してもらう方法なのですが、言葉で綴ると難しい、場所と時間の設定を、野町和嘉の「写真」から始めたことで、言語思考の呪縛から僅かながら逃れられ、頭の中に納得の新経路が通じたような、理解の新しいスタイルが生まれたように思います。「写真の能力」です。
万巻の書を読み、博覧強記で文字を綴り、その文章を読む快感は、文字が生まれ、何千年もの間、人間が楽しんできた古典的エンターテーメントなのですが、それにより、人間が本来有している能力の幅や深みが限定され、限定されることにより依存が生まれ、しかし、代わりに安定が手に入り、現代を迎えているのですが、しかし、その言語思考の屋上屋を重ねたエンターテイメントだけでは、人間の「不足と欲望」を満たせなくなって来た。というのが、人類の思考の現状なのです。
そして、最新科学では、その楽しみ・快感・満足を脳のどの部分が感得し、その感得を伝達する神経細胞(ニューロン)と媒介する脳内物質とは何か、の特定にまで解明が進んでいます。「心」つまり言語思考が生んだ「認識」。のカラクリの解明が進み、言語思考に変わる?、次のエンターテイメント開催の準備が着々と始まっています。
次に、以上のような方法で、希望のパワーになる「祈り」について、お話しして行きたいと思います。
その前に、「祈り」とは、…永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為であり、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもある。…と先回、筆が滑ったかもしれない言語思考で定義して、取りあえず進めることにします。
始めに、何故人間は、自己を解体して、新しい能力を身につけたい。と願うのか。つまり「祈る」のか。です。
この問題に明快な回答と手段、結果を呈示しているのは「釈迦」です。
苦しみから逃れたい、幸福になりたいが、人間の本来の願望です。その願望を成就するための真理です。
始めに、苦とは何か。苦は何から生まれるか。どうしたら苦を無くすることが出来るか。そして、その解消方法を示しました。
以来、約2000年、その実践に、多くの人々の叡智が加えられ、宗教というジャンルの中で仏教が今日まで続いてきました。
その中で最も実践的な密教は、身・口・意の観点から、その実現プログラムを創出してきました。「口」は言語思考のことですから、仏教のメソッドは言語思考と言うことが出来ます。しかし、「不立文字」とか「教外別伝」とか、「色即是空、空即是色」とか、言語思考で思考していながら、それを止めろという無茶苦茶を言い、そのかわりに、ヨガ、曼荼羅などで、「身」、つまり人間の身体に本来は具わっているが、言語思考の乱用により見えなくなっている、能力を呼び起こし、様々な能力を獲得する。そしてそこから獲得した成果を元に、瞑想、座禅などで、「意」つまり、コントロールセンターとしての心を制御するというカリキュラムを呈示しています。


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そして、その実践の原動力を「祈り」から発生させようというのです。つまり、上手く行くかどうか分からないが、自己を解体する「賭」に出て、自身の身を焼がし「祈る」。そこまでしなければ、本当の幸福は手に入りませんよ。というのが仏教に限らず、宗教全体の主張であると思います。
宗教の「祈り」とは、このようにパワフルな行為です。総ての人間に具わった「超能力」である。と言えるかも知れません。しかし、チベットの「五体投地」巡礼や山伏の千日回峰修行などの「祈り」の実践をしたからといって、必ず手に入る「超能力」では無いことも確かです。「賭」と表現したように、人間皆、死んだ先は分からない。と同じ次元にあります。
仏教に限らず、科学でも、日常生活でも、苦しみから逃れたい、幸福になりたい、は共通です。
科学の目指すものが、宗教と同じ「幸福」であり、科学は、自己解体や再生を人に迫ったりしない、つまり、人や人生に安全?であるのが本性ですので、「祈」らなくても、幸福が実現できれば良いのですが…。歴史的には、科学より先に宗教が、「幸福」の実現には、自己を解体し再生する「賭」に出なければならないと言っています。そこで、これまでは宗教に任せてきた、「心」とは何かの問題を、科学が解明を始めようとしている今、やはり「祈り」が必要になってくるのでしょうか。
野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ