写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

成仏の方法(5)

2016年03月14日 | 成仏について
直感や以心伝心に優る能力が言葉にもあると良いのですが、最近では、コンピュータのプログラミング言語で能力が拡張され優れたものになってはいるのですが、それで返って言葉の能力不足が、皮肉にも分かるようになってきて、この今日的問題もお話ししたいのですが、多分、成仏のお話を続けると、これも分かるようになると思っています。

「意」についてお話しします。
釈迦の教えを、要約し言葉で表すと、次のようになります。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)
そしてこれらは同時に存在し、常に動き続けています。

この教えを「意」「口」「身」で理解し実践、徹底すれば、成仏できることになります。しかし言葉の理解だけでこれを徹底出来れば良いのですが、それは不可能です。知能指数が高くても、つまり言語思考的に長けていても不可能です。
「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明である。とお話ししてきました。「意」の対称性が「口」により破られ、存在が意識に発生すると言いました。言葉の二項分類(対立)思考が超越的第三者を必要としていて、それが存在に客観性を付与している(意識していてもいなくても存在は客観的に存在している)とも言いました。そうすると「意」の融通無碍で制限がなく透明な状態とは、対称性の状態という事になり、対称性の意味をGoogleで調べれば「意」とは何かが分かることになってきます。この手順は学習と言われ、我々の日常の理解活動で正しいということになります。
でも、対称性や融通無碍、無制限、透明のなどの言葉は、言葉での理解を容易にするため、素粒子の働きの説明を借りて選んだ言葉に過ぎません。言葉の意味を別の言葉の中から探そうと努力しても多分発見できないと思います。書物や言語記憶アーカイブにある言葉から意味を探し求めて、一生を費やす人も多くいます。魚釣りをするのと同じで、探し求めるには、先ず、道具の吟味選択から始めなければなりません。
「意」から見て「口」や「身」は、日常では道具の立場になることが多くあります。「意」は、仏の、因縁縁起、諸行無常、空などの教えをしっかり得心保持し、「口」や「身」にも同様であることを徹底させなければなりません。同様というのは「口」や「身」も本来は融通無碍で制限がないのですが、そのため、身の丈に勝る能力を持っていて、自発的に自身や他の融通無碍で無制限で透明な対称性を破ってしまう性質を持っているからです。このブログでは、仏教の教え「人間は仏になれる。成仏できる。」を前提にお話ししているので、仏の全知全能の力が人間にも備わっていて(そのはず)、もしそれがなければ叶わないことになるので、この隠れた力を発見するか、身につくトレーニングを実践するにはどうしたら良いかを考えるのが、常識からは妄想のようですが、仏教が古来から続けてきた成仏の方法という事なのです。そのためには「意」は、道具として「口」や「身」を使うことを学ばなければなりません。前述からの「口」による言葉の働きや成果を否定するのではなく、道具としての能力と限界を知り、有用に活用することを考えなければなりません。
その中でも、現代で物事の存在を分析し理解する能力に長けているのは科学です。科学は言語思考をベースに、「口」の能力である言葉のルールが開発した、最高の分析理解ツールであり、成仏の実現にも十分活用できます。しなければなりません。

ビッグバンの何度かの対生成、対消滅を経て、反物質が消えて物質だらけの存在になった世界が、「縁」により我々が生まれ出てきた世界です。そしてその世界の全物質と存在、つまり物事の消息を、今、分析研究しているのが科学であると言えます。仏教の例で言うと、曼荼羅の「胎蔵界」が、その物質だらけの我々が生きる世界の物事の消息やルールを説明しています。一方、「金剛界」は9個の世界を表しています。(胎蔵界もその中の一つ)、「縁」によって我々が生まれ出なかった別の世界、科学で言えば、反物質の世界、あるいはブラックホールの先の世界、又は、5次元、6次元などのような、未知の世界を表しています。
「胎蔵界」は如来を頂点とするツリー構造のネットワークをしています。あたかも如来が全てに超越的第三者であるかの様で、「口」による存在の出現が超越的第三者を必要としていることと符合しています。(これが今生のルールである)
つまり、仏教では、我々が住むこの宇宙も、一つの特殊世界であると考えています。
成仏とは、つまり、今の宇宙と比べちょっとマシな世界に行くことなのかも知れませんが、その世界の有り様について、華厳思考や大日金剛思考が、日本では空海が教えてくれています。

即身成仏義で、「重重帝網なるを即身と名づく 無礙」の「重重帝網」がそれになります。
一即多、多即一。相即相入。マトリックス。などの言葉がその部分的作用を表しています。
最近流行のビックデータもその状態の一側面を説明しています。一般にビッグデータとは、例えばマーケティングデーターとして、ある集団の顧客性向を知るために用いられますが、本来は集団の行動様式を知る目的ではなく、集団の個人一人一人の行動が集団全体にどんな影響を及ぼすか、例えば電車を降り出口に向かう乗客の流れの中で、一人が転んだとします。すると、集団の流れが変わる。この個人の影響を測定するために開発されたものなのです。集団の動向は、必ず一個人が発生源であるからです。集団が右に動くから集団の中の一個人が右に動くのではなく、個々人が右に動くから集団が右に動くのです。これが示すことは、一即多、多即一。です。個人の行動を調べれば集団の行動が分かる仕組みです。個人の情報が瞬時に他の個々人に伝わり、個々人の情報が瞬時に他の個々人に伝わる、相即相入。の状態です。また、個々人それぞれが鏡の球体をしていて、個々人それぞれの鏡に集団全体の情報が等しく写り込んでいる、貴方は私、私は貴方のネットワークであるような、マトリックス。の状態です。そしてこれらは同時に起きていて、動きを止めません。さらにこの現象は、個々人を、社会に、物質に、物事に、その他全てのものに置き換えても成立しています。
ここでは超越的第三者は存在せず、必要とあらば誰もが超越的第三者になれます。だから我々一人一人が如来に、成仏ができる世界であり、その状態を今生のルール、ツリー構造を導く言語思考で描き表したものが「胎蔵界」の曼荼羅なのです。
空海はこれを「重重帝網」と表現し『重重帝網なるを即身と名づく』と、即身成仏の道を説いています。
我々が、物質として存在として、人間として、社会として国家として宗教として、あるいは会社として家族として普通に考えていることが、実は唯一無二ではなく、変化が可能な、ある特殊な状態であると知らなければなりません。科学も唯一無二と信じてこの世界の物事の分析から始まりましたが、素粒子理論やスーパーストリングス理論で多次元を取り入れたり、ブラックホールの先を考えたり、ビックバン以前を考え始めると、科学も我々が住むこの宇宙は、一つの特殊な世界であると認識せざるを得なくなってきています。

我々の思考の限界を一つお話しします。
紙に、鉛筆で一本の線を引きます。2次元の表現です。それを、紙から引き剥がすと、紐になります。3次元の表現です。ここまでは言語脳である左脳が働きます。脳内に意識を向ければ左脳が少し熱くなっているのが分かります。次に、3次元の紐を次の4次元さらに5次元になるとどうなるかを考えることになるのですが、左脳は、この思考方法ではもう理解も表現にも役に立たなくなっていることが分かると思います。
もう一つ、素粒子論で素粒子は粒子と波動の二つの性質を持ちます。それは観測者の意識によって、と量子論は言いますが、科学ではもちろん量子論でも、時間と空間の全てを見渡す超越的第三者が、客観として観測者を超え存在しますので、超越的第三者から、粒子と波動以外の別の性質の第三のものあるのでは?。の質問が成り立つて来ます。否、その可能性の検証も含め粒子と波動の2つになったのだ。と言われたとしても、超越的第三者にはまた次の新しい超越的第三者が現れるので、質問が尽きないことになります。
この状況を回避するには、5シグマの確率(99.9999%正しい)の検証があれば、超越的第三者の意見は、聞かないことにしようと合議するか、或いはまた、超越的第三者が登場しない思考方法を見つけようということになります。後者は、人類が皆、超越的第三者つまり如来になれるとする、仏教の方法になってきます。
多分、現在ある脳の能力では理解は不可能なのです。理解ツールの選択を科学は間違えているのです。例えば、釈迦の三十二相にある、頭頂が髻のように膨らむ「頂髻相」のように、脳が新しい機能能力を身につけ、パラダイムシフトを考えるなどで…。これが道具の吟味選択から始めなければならないと言う理由になります。
と、ここまで、世界、存在、人間、物質、物事の有り様をお話ししてきましたが、しかし釈迦は続けて、これら因縁で生じたものは、実体がない、「空」であると言うのです。どうしたらいいのでしょうか。悲観的に捉え、もう何も考えられなくなった。とするか、楽観的に、何でも考えられ、豊かで自由になった。と捉えるか。私は楽観的なのでこうしてブログを書いている次第です。
次回は、「意」の道具としての「身」について、お話ししたいと思います。