写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

新・「成仏の方法」ー超越的第三者の眼差し

2024年07月24日 | 成仏について

テーマが「成仏の方法」のこのブログは、71歳から書き始めました。
これをテーマにしたのは、書き始めの頃、70歳にもなると余命の10年を考えるより、その先の「死んだらどうなるのか」を真剣に考えた方が合理的なのでは、と思ったからですが、それから無為に10年が過ぎ、今は80歳になってしまいました。

死んだらどうなるのか?

まず、「人間死んだらどうなるのか」についてですが、これまで学び続けてきた知識から、次の五つに分類されるように思います。

1.死んだら転生して、未来の時代に生まれ変わる。(同じ土地に生まれ変われるかは不明。過去へは不可か?)

2.死んだら、極楽か天国、又は地獄に行く。(成仏の手前であり成仏ではない。)

3.永遠の命(不死)を得て、この世にとどまり続ける。(仙人、隠遁か?)

4.全てが廃塵に帰し、無になってしまう。

5.輪廻を脱して、成仏する。(即身成仏など、無辺無量を心と身で実現する)

の五つです。

これを希望の順に並べるとすれば

1.や 2.の「転生や地獄」は「苦」がそのまま続くことですし、「極楽や天国」は一時は満足ですが、すぐに成仏へのスッテプアップの欲が湧いてきます。

3.の「この世にとどまり続ける。」は、老いさらばえて生き続ける「苦」なので、やはり直ちに至高の安寧に達する「成仏」の道が一番良いのではと感じます。

そこでタイトルが「成仏の方法」になった訳です。

これはタイトルの言葉そのままに、身も心も共に成仏する方法を見つけ出し、心や身体に適合させることを目指すことになります。

しかし現代日本の死に近い老人達は、己れの行く末について、幸せへの旅立ちではなく終活と考えて、死では全てが廃塵に帰し無となると思っているようなのです。この無欲に私はずっと疑問を感じてきました。そこで「成仏の方法」について、歴史を調べると、仏教、道教には楽しい成仏の方法が詳しく書かれているので、それを、現代人に理解できる姿で伝えようと考えたのがブログ「成仏の方法」なのです。

臨死の体験。

先回のブログでは、コロナ肺炎に罹り死にかかった私の闘病記をお話しました。その経験から分かったことも含めこれからお話したいと思います。

コロナ肺炎では、臨死の体験をしました。

死の間際には、人生の記憶が走馬灯のように次々現れるという、あの体験です。
この走馬灯は、現れると直ぐに消えてしまい無記憶になるのですが、次に覚めた時は「ここは何処、私は誰」の自分を見失っている意識でした。
よく聞く、臨死を迎えると、三途の川を歩いて行くとか、眩い光に包まれるというような幻覚はありませんでした。軽く浅い脳死体験だったのかも知れません。
言語記憶がリッセットされたようで、簡単な名称(名前、場所名など)が口に出にくくなっていました。再学習すれば戻って来るので、簡単な記憶障害だと思う。

目覚めの初期は、見失っている自分にしきりに問い掛けている、つまり無いものに問い掛けるという不条理な体験でした。それ以上に奇妙なのは、この一連の状況と流れを冷静に外から見ている、第三の意識(現実意識を第一、無意識を二とすると)が存在することでした。

外からは、終末期のせん妄状態にある患者に見えていたようです。

シャワーのような走馬灯記憶が流れる中で、混乱する自己意識とは別に、外から第三者的に冷静に眺めている意識があるのです。これはクリヤーな明晰夢のような記憶で、それで今この文章を書けているのですが、これはどうゆうことなのでしょうか?。前からこの「成仏の方法」のお話しの中で書き続けてきた「超越的第三者の眼差し」に似たもののようなのです。

詳しくは、成仏の方法(11)を参照 

「超越的第三者の眼差し」

私が現実意識をほとんど失い(痛みも苦しみもない)、身体が死を迎える床に横たわっていても、「超越的第三者の眼差し」は、背後で常に冷静に私を見つめています。本当の死とは、この意識の眼差しが失せた時に訪れるものなのでしょうか。分かりません。

そして以前は、この「超越的第三者の眼差し」を言語思考の一部ではないかと考えていました。しかし臨死体験をした今、それに疑問を感じはじめています。 


では次に、過去に具体的に語られている成仏の方法について見てみましょう。

チベットの死者の書では、人は死ぬと49日間の死のバルドがありその2週目に、眩しい青い光が差し込んできます。それは恐怖を帯びていて、しかしその恐ろしさに逆らい耐えて、眩しい光に向かい意識を投げ出すと、輪廻の循環から脱しられ、成仏に向かうことが出来る。と書かれています。

これはチベット仏教の修行の一つで、それは、死の意識に似る夜の夢の中で、自在にその夢を操作するなどの訓練をして、死のバルドに備えた、シュミレーショントレーニングをします。恐れに意識を失わず、怯えず、眩しい青い光に勇気を持って向う、その「強い意識」の発見と強化の方法を教えています。

この訓練は、明晰夢を自在に見ることが出来るという方法も副次的に得られることになります。

この「強い意識」とは、「超越的第三者の眼差し」のことなのでしょうか。

これは、死んで体験してみなければ分かりません。

また、空海の成仏の方法である「即身成仏義」では、その意味通り言葉で理解する成仏の方法を教えています。

世の中の言葉で語られる経文は、全て成仏についてを教えているので、自分に合ったものを良き出会いで選べば良いのですが、その中でも空海との出会いは日本人には僥倖であり、経文、注釈の言葉で書かれた言語思考での理解だけではなく、東寺の仏像曼荼羅、高野山の伽藍曼荼羅、護摩祈祷、真言、綜藝種智院、声字実相義にある声(音)と字(書)等々による布教で、人間の様々な感覚を使う意識に様々訴える方法で成仏を教えてくれています。

そして言葉の方法である「即身成仏義」の中の次の注釈詩が成仏を具体的に語っています。

『六大無碍にして常に瑜伽六大無碍なり。
四種曼荼各々離れず。
三密加持して速疾に顕わる。
重々帝網なるを即身と名づく。』

と言っています。

この中の「瑜伽六大無碍、無碍、四種曼荼、三密加持、速疾」などの言葉の意味は、成仏が成就する「状態、状況、条件、方法、結果」などを表していています。

そして、空海はそれぞれの語句についての詳しい注釈をしていて、空海の言説の大凡を成す知識の集大成となっています。

膨大な語句なので、全てを理解することは不可能です。空海は言葉、言語、言語思考に格別のこだわりを持ち、それが持つ特殊な能力で成仏の全てを説明できると考えていたのかも知れません。しかし、言語思考を離れなければ叶わないとも言っています。

そして、それら全てが成就した状態を「重々帝網」と名付け、

さらに、『重々帝網なるを即身と名ずく』と言っています。

だから、重々帝網を理解すればいいという事になるのですが…

重々帝網とは、今日の言葉では、マトリックスと訳されるのでしょうが、「身も心もマトリックス」という理解は、ノロマな言葉思考だけでは届かず、別の意識の方法を借りなければならないようです。

ここまでは、心や意識の成仏についてお話しして来ました。しかし、身体の成仏も同時に求められます。

「三密加持」とは、身・口・意(体・言葉・心)を整え、「仏(観想)」と一体になり成就成仏する事を言います。究竟次第と生起次第の統合のことになりますが、ここには「口」の働きで計らう。が基本にあります。口は言葉ですから、意を理解表現することは得意ですが、身に対しては苦手です。空海と最澄の仲違いはどうもこの部分にあるようで、恵果から法を受け継ぐ空海は、「身の法」も受け継いで来ていて、これは言葉での説明で理解できるものではなく、しかし、最澄は言葉で求めたのではないかと思えるのです。

「身の法」による浄化について、インドのハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどは分かりやすいのですが、空海の場合、文字で書いてあるのに言語思考では殆ど理解ができません。言葉で分かっても身体で感受できなければ意味がありません。

ここでも別の意識を働かせなければならないようです。

このあたりの消息は、ブログ「成仏の方法(1)~(14)」をお読みください。

お読みください。と言いましたが、字数も多く知識が無ければ内容も分からず、途中で読む気が失せてしまうと思います。
この失せる理由は、説明が言葉(言語思考)で書かれているからです。

言葉は、不完全でノロマなツール。

言葉は、不完全でノロマな伝達・理解ツールです。このことを現代人は、理解も自覚もしていません。反対に、己の読解力の不足とも思っています

「言葉での理解が、現代人の理解の全てになっている」と、このブログではお話ししてきました。言語に寄らなければ社会的には伝わらないから、修羅万象を言語に翻訳し伝えることが習いになっているのですが、この方法が、有史以来人類を発展させて来たので、幼少から勉学の努力を続けてきたのに、まだ読解力が足りていないと思うせいで、言語のノロマ性を認めることが出来ないという事なのでしょうか。

流行りのAIも、プログラミング言語と名付けられているように言語思考をベースにしていますので、言語思考の発展形です。だから、言語思考のノロマ性が複雑化して行くだけで、ますます人類はこれまで以上に言語のノロマと不完全性に惑わされる事になって行きます。

詳しくは、成仏の方法(11)を参照

このAIについては、このブログで引き続き、言葉の代わりになる伝達手段の発見と創造?についてお話ししようと思っていましが、突然のコロナ肺炎の罹患で中断させられ、発見に至らず、この文章をノロマな言語で書いているこになっているのです。

幾つもある意識・思考。

人の意識や思考、知性には、言語思考をベースにする「ロゴス」と無意識をベースにする「レンマ」があると、中沢新一著「レンマ学」で知りましたが、仏教の知性から見ると「レンマ」だけではなく、他の意識や思考が幾つも、人には生まれつき備わっているのでは?、ともお話ししました。

詳しくは、成仏の方法(10)-2を参照…

しかしコロナ肺炎の罹患でも新しい発見がありました。それは、「超越的第三者の眼差し」とは、言語意識の一部なのか、それともロゴス、レンマなど、その他の意識群の一つなのか、それとも全く別の次元のものなのか? そして成仏の方法に関係があるのかどうか?、分かりませんが。この疑問です。

80歳になって、このような人生最大の疑問が生まれてきていて、その確証は死んでみなければ分からないというのでは、成仏を目指すどころか、輪廻で死を何度も繰り返し、必ず人間として転生し、思考と探究をしなければならないことになる。つまり、転生の後もノロマな言語思考に付き合わされるのを覚悟する。という事になるのですが、勘弁して欲しい。でもこれは何かの天啓と思えば良いのでしょうか。

 

 


成仏の方法(11)ー身体の意識・思考

2022年10月08日 | 成仏について

ロゴスとレンマの他に、人間の意識・思考には、何種類か違うものがあるのではないか?。先回は金剛曼荼羅図を例にこのお話しをしました。今回は三密の「身」、つまり「身体」が、それは「空」であると感得するのにはどうすればいいのか、のお話しをすることになります。

そのために未知の意識・思考を使うことがあるかも知れません。

でも何を使おうとも、言葉に翻訳してから、つまり言語思考に変換して語らなければ(ロゴス翻訳する)、「言葉での理解が理解の全てになっている現代人」には伝わらないので、今、どの意識・思考を使っているのか、ロゴスへの翻訳なのかロゴスそのものなのかはっきり明示しておかなければ、全ての知性がロゴスで可能になるとの誤解が生まれかねません。さてどうなるでしょうか、言葉の性能の範囲内で表現できるかどうか、説明が長くなるのではないか、不安になります。

前からお話ししているように、言葉や言語思考とは、ノロマであり、コミュニケーションツールとしてはローテクな意識・思考と思っています。また上手な文章が意味を正しく伝えてくれるなどとも思っていないので、これからややこしい文章になりますがが、そこは皆様に生来備わっている言語思考以外の意識・思考で類推していただく、つまり勘を働かせていただくことになろうかと思います。(わざと「てにをは」を違えたり、感覚的に意味が通れば省略したりなど、違和感を演出することがありますが、気付いたら、その時は自分はノロマな言語思考で思考していると感じてください。)

 

我々は、自身の身体を説明する場合、例えば、お腹が痛い時、無意識にそこに手を当てたりします。でも直ぐに言語思考(ロゴス)が発動し、昼の食事が悪かったかな?、など、言語の記憶の中から言葉を選び出し原因を探ろうとします。その間にも、その無意識は手でお腹を擦らせたままでいます。原因を脳の言語思考(ロゴス)で思考している間にも、その無意識は素早く意識し思考し、自動免疫機能なのか自己治癒力なのかホメオスタシス的なロゴスが感知できないものを働かせて、対処行動を始めています。ロゴスが気がつかないだけで、明らかに、ロゴスが考えている間に、別の意識・思考で身体が動いているのです。

 

その無意識(意識・思考)

ここからはこのような、無意識な身体行動であると科学がラベリングしている、その無意識(意識・思考)を分析の対象しようと思います。

東洋の思考では三密の「身」つまり身体を分析する場合、常に動いている身体を考えてきました。西洋流の静的に整理分類された解剖図を元とする医学の方法を採ってきませんでした。採らないというのではなく十分に参考にはするが、主にはしないという態度です。

そして中国やインド、チッベットなど、東洋の思考の全体に通じているのですが、動く身体には、「気(プラーナ)」が流れている。「気」によって動かされている。との思考があります。

西洋医学に対し「命」とは何か、と問うても明確な答えはありません。「死」を問うと、心臓が止まった。脳が止まった。だから死んだ。などと答えます。

東洋思考では、「気(プラーナ)」が「命(生)」を産み、「気」が止まれば死に向かうと考えます。

その「気」はどこから来るのか、どうしたら盛んになるのか、又、衰えるのか、それを「命(生)」の問題として、東洋思考は考えていることなります。

どうしたら人は健康で長く生きられるのかについて、西洋医学では、次々とやって来る死の原因を次々撲滅すれば生は長らえるとし、そのため病気が発生しないよう、健康診断など日頃より健康に気遣いすべきであるとだけで、あまり熱心ではありません。これは我々現代人が普通に教えられきた事ですが、でも、もっと積極的に長生きできる「命」を考えるとなると、東洋医学思考に頼る方が良いということになります。

東洋医学思考では、解剖図(レントゲン写真、CTI)や血液尿検査、生体検査、問診触診など、西洋医学の静的診察治療の方法では身体(病気)を考えません。中国のタオやインドのヨガなどの診察治療では、上記のお腹が痛い時、手でお腹を撫でる「その無意識」の身体感覚を用い、自らの身体細部の動きの状態とそこに働く「気(プラーナ)」の働きを感得しようとします。感得というのは、感覚知覚で身体知識を得ると同時に、「気の流れ」を覚えて記憶する、の二つを行うことになります。

現在ではさらに、西洋医学の静的診察治療の方法も取り入れ、ハイブリットな身体観を得ようとしています。

 

「存思」

タオの方法で、「存思」という考えがあります。

「存思」の考え方は、身体観や精神性として東洋の思想全体の根底にあります。

これの歴史的な意味や広がりをここで述べることは不可能なので、知識はGoogleの検索でご確認ください。

「存思」は、まず自己の身体を細かく知ことから始めて、人間全体の身体観と精神性を得る方法です。意識、認識、思考の考え方が西洋と東洋では違うように、身体観でも両者の方法は違っています。

「存思」が用いる意識・思考とは、お腹が痛い時、無意識が手でお腹をさすらせる、その意識と思考です。無意識とロゴスでは名付けられていますから、その動きは西洋医学(ロゴス)では解明が進んでおらず、言葉での説明は大変困難です。昔の中国やインド、チベットでロゴス翻訳されて書かれた文献、経典教義などは残っていますが、古語であり難解で、現代語訳でも理解するのは難しく、それなら今自分の身体にある「その無意識」を感得し、自分で言葉化する方が早いということになります。

そこでここでは、一般的な「その無意識」からの感覚知覚をもとに、「存思」を説明していきたいと思います。そのため、所々、言葉に馴染めずオカルトチックな部分が登場するかもしれませんが、ご容赦ください。

「存思の技法」の中身は、お腹が痛い時無意識が手でお腹をさすらせる、その意識・思考を、明確にさせ、自由に出現させ、使い、効果を高める方法を知るということになります。

お腹が痛い時、無意識に手でお腹をさする時、今お腹をさすっていると意識をすると、お腹と手のひらの間に、ちょっと熱を感じ、意識の交接が生まれます。その交接を何度も続けて行くと、手を離しても意識するだけで、手をお腹に当てたその部分に意識を発生させることが出来るようになります。そうなるまでには、脳のロゴス(言語意識)の方も痛みの探索を始めていて、「その無意識」や交接の身体記憶からの励起で言語記憶が呼び出され、医学記憶のフィードバックから、昼食が悪かったかな?などの推測が立ってきます。

東洋思考ではレンマだけでなくロゴス思考も十分に発達していて、西洋流の「ロゴスとレンマ」の二元論ではない、レンマが主導する異種の思考の組み立てがあって、別々の推論が立ってきます。この違いは、両者の文明の根本にあり(中沢新一著「レンマ学」は、この違いを論じている)、漢方薬と西洋薬のように東西の身体観と精神論、処方診断に分断と融和の歴史を生んできました。これは、大きなテーマですのであらためてお話しします。

 

「その自由意識」

こうして、お腹が痛い時、手でさする感覚を、手を使わなくても、自由に意識をお腹に向けることができようになったら、次に、身体の様々な部分、この場合ロゴスにも協力を仰ぎ、解剖図などで器官の形や色や位置を参考に、心臓と思ったら心臓に、足の親指の先端と思ったら、「その自由(無)意識」を直ぐにそこに行かせ、状態を探る態勢を維持するようににします。これに熟達すると、「その自由意識」と手のひらを使い、例えば心臓の部分にじっくり手を当て意識を働かせていると、意識が皮膚上から体の内部に降りてゆき、解剖図の心臓やYouTubeで見たドクドク動く心臓の形を想像すると、その形に意識が乗り移ったように感じられてきます。勿論、直に触れる訳ではありませんので、意識上に現れるだけで、超能力が身についた訳でありません。

こうして、順番に全身を巡り、体中の器官など全体を意識できるようになるには、長時間を要します。最低三年程はかかるでしょうか、内蔵器官だけでなく、骨、血管、内膜、終いには細胞の一個一個、分子原子の一個一個にまでもその自由意識を及ぼします。(死ぬまでにそうなりたいものです)

電子顕微鏡では、動いている細胞を捉えていますが、その状態にまで、例えば心臓の右心室の細胞レベルに意識をフォーカス出来れば、「その無意識」はその動きと一緒に動くことになります。

次に、自分自身がミクロン単位の小さな小人になると想像し、小人が「その自由意識」の中に入っていると想像します。その小人が、心臓や肺や胃、血管、リンパ管の中を巡り、小人の、つまり自分ということになりますが、小人(自分)の触覚や視覚、臭覚、味覚、聴覚(舐めたり、触ったり、嗅いだり、色を見たり、熱を感じたり、声を出したり)を使って、内蔵をはじめに、身体の隅々の部分を観察することを始めます。

小人はこれに習得すると、意識するだけで、その体の部分に小人が出現し、観察を始めます。これを続けると、小人による全身の器官の色や匂いや味覚や触感が伴った感覚的な身体図が出来上がり、身体記憶に収められます。脳の言語記憶に移せば移せますが、言語記憶では記憶容量不足なので、解剖図のような検索用のラベルの記憶のみになるでしょう。

このように身体のある部分に「手」と「その自由意識」を当てると、その部分が熱くなるのを感じる。これが「気(プラーナ)」です。

文字(ロゴス)で書かれたタオやヨガの解説書によると、「気」には、「外気」と呼ばれる宇宙の「気」と自分の中に生まれた時からある「内気」があると言われます。そして、最終的に両者は、同一のものであることが分かってくると言われています。

体内には、「気」が全身を廻る無数の経脈と支流の脈があります。人は生まれると、その脈を通じ全身に「元気(内気)」が流れはじめ、「命」が始まると言われます。

その「気」を操ったり強化したりして身体を変容させる(健康や長寿も変容の一部)技法が東洋にはあります。タオでは仙道、気功。密教(インド・チベット)ではヨガ・タントラ修行などがあります。

その方法を、タオで説明すると、「その自由意識」や「手のひら」を、下腹部に当てて、そこに「気」をためるように意識します(暖かくなってくる)。その「気」を会陰部から尾てい骨(ヨガでいうクンダリー)に送り、脊髄の骨中(督脈)を、腰、背中、首、脳中を抜け脳頭より抜け宇宙の「気」に合体させるようにします。反対に宇宙から頭中、体の中心(任脈)を通り、下腹(丹田)に宇宙の「気」を受け取る。など、宇宙世界と交接しながら気の循環をトレーニングします。

詳しくは、ヨガ、タオ、密教とも同じですから、自分に合ったものを参考にしてください。用心深くしないと身体を壊したり精神が壊れたりすることがありますからご注意ください。

そうならない方法は、初めから全てが「空」であると悟っていることが肝心です。

レンマ状態であればわかりますが、初めから悟っていなければ悟れないというのは、ロゴスからは矛盾しています。この場合ロゴス(言語思考)とはそれを表現できない、ノロマな意識・思考であると思ってください。

では、ノロマな意識・思考とは、どうゆうことでしょうか。もっと説明をします。

 

ノロマなロゴス

タオや仏教そしてインドなど東洋の思考の経典や教本を読んでいると、どうしても結末が気になって来ます。最終ページへの誘惑を抑え読み進め、漸く結末に達すると、

次のような記述に行き着きます。例えば、

・タオ(道教)では、「道(タオ)との合一」を言います。

 陰陽の二つの気を持つ身体・心を純陽化させ、道と合一します。

・密教(チベット密教)や後期密教(秘密集会タントラ)の場合では、

 「究竟次第」では、気をコントロールすることによって、心身を静め、活性化し、煩悩をなくしたりなど、身体技法による修行をします。=「存思」「その自由意思」「クンダリー」などの活用。

 「生起次第」では、自分を仏としてイメージし、仏の輪廻を観想し、仏の三身を得るなどの心の修行をします。=「レンマ思考」の活用。そして「究竟次第」と「生起次第」とを双入(合体)させ、悟り(最高の叡智)を得ます。

・古代インドのヴェーダの悟りでは

 梵我一如(ぼんがいちにょ)と言い、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であることを知り、悟りを得ます。

それぞれ詳しくは、google検索ください。

と、書かれています。

そして、この三者には共通する思考アルゴリズムがあります。それをまとめると

・「純陽化した身体」+「純陽化した心」=道(タオ)に合一させる。

・「究竟次第」+「生起次第」=悟り(最高の叡智)を得る。

・「梵(ブラフマン)」+「我(アートマン)」=梵我一如の悟りを得る。

など、ニ項を合体させて第三項を得る(1+2=3)という方法です。

この記述法がレンマの悟りを説明するロゴス翻訳の方法です。

3にあたるものは、レンマであれば一瞬にして直感でわかり、1と2と3の全体の詳細も分かります。身体感覚を認知する「ある自由意識」も直感的なので、レンマと似ています。レンマの仲間のようにも思えます。そうなら「ある自由意識」の「自由」もロゴス翻訳で説明できてもっと理解が進むかも知れません。

ここにはロゴス思考の特徴と限界が見えていますが、さらにロゴスを詳しく探ってみましょう。

ロゴスは、二項選択(分類)で、言葉(言語思考)により「存在」を現出させ、それをベースに思考します。…例えば、「明るい」存在があるから「暗い」存在がある…

(詳しくは、成仏の方法(10)をご覧下さい。)

そして現出した二項の存在、例えば「明るい」と「暗い」の内容は同時合わせて認識できますが、その二項に一項をプラスした三項、例えば「薄明るい」などを加えた三項全部の存在を、同時に認識把握することが少々苦手になります。第三項を意識した瞬間、一とニ項の認識を手放しがちになります。これは脳の能力と言うよりロゴス思考の限界なのですが、第三項目の存在の把握には、ほとんどの場合、前出の二項に関連付けて把握する方法を取ります。

1+2=3の数式に例えると、「3とは、1と2の要素を含む1+2である」と言うように、他の二項との関連を抜きにしては認識できない限界を持っています。

そのため例えば、

・1梵(ブラフマン)+2我(アートマン)=3梵我一如の悟りを得る。

では梵と我が一体(一如)になることは我(自分)には分かりますが、自分が一如になったと想像してしまうと、一瞬、前の我であった自分のことがよく分からなくなる。遡って説明が有っても、非現実になっていてロゴスレベルではよく分からないことになってしまいます。

次に応用編です。例えば、

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)

因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)

因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)

これについては、因+縁=物事=空(実体がない)に置き換えられますが

物事を認識してしまうと、それが生まれた契機である因と縁の認識が希薄になってきます。さらに物事=空となると、因と縁と物事と空の四つを同時に認識することが難しくなってきます。

この場合、「空」には因と縁のわずかな残存(習気)はあるのですが別の空間にワープしている感覚があります。因や縁とは煩悩ですから、煩悩を離れるのが成仏だとすると、「成仏」とはワープ(空)することなのかも知れません。曼荼羅図や極楽図などでロゴスはこれを説明したりしますが、でもこの図からはワープを感ずることはできません。

でも、レンマからは、こんな風にノロマなロゴスが見えているのです。

ロゴス(言葉)で説明するのは、本当に難しくややこしくて徒労を感じてくる。人には生まれながらに備わっている「レンマ」があるので、これで考えコミュニケーションすればいいのではと思えてくる。

しかしここで、もう一段深く考えたいと思います。

 

超越的な第三者の眼差し

空が別世界へのワープだとしても、その思考のワープを別次元で見届けている取り澄ました「超越的な第三者の眼差し」があることに、ロゴスの思考は薄々気づいている様に思えます。そんな態度がレンマには見えるのです。

(詳しくは、成仏の方法(10)をご覧下さい。)

この超越的第三者は、キリストの「神」や仏の「如来」をも上から目線で俯瞰していて、さらにその目線の上に立ち、続けてその上から眺めると言う、屋上屋を重ねて、部屋の中の象。の振る舞いで働いています。

現実意識では、これに次々と存在を発生させる二項選択(分類)が働き、さらにはレンマが無意識に現れたりして、ロゴスはこの流れをウロウロにしか把握できなくなっていて、これがノロマな意識・思考と呼ばれることになるのです。

二項選択(分類)と「超越的第三者の目線」の思考について、この二つはロゴス自身のものですので内容把握は辛うじて出来るのですが、三つ目のレンマが無意識に現れると、三つ同時の認識理解の苦手からロゴスの認識把握はいつも不確かで、ギリシャ以来西洋の宗教や哲学で、例えば、三位一体や純粋理性批判など、そのノロマゆえにいつも解かねばならない課題が本題の前に来ることになっています。

 

ロゴスは、言語で「存在」を現出させこれをベースに思考します。言葉は「存在(単位)」を時間軸に従って並べる「線型性」(S V O順など)で動き、さらに修辞法などで意味を創ります。

「超越的第三者の眼差し」とは、この線形性工程の監視役です。コンピュータ言語やAIのアルゴリズム構築の原型に当たります。

線形処理で動くコンピュータのCPUが高速化しシンギュラティを迎えます。同時にAIが脳のニューロン→シナプスの構造を真似てニューラルネットワーク→ディープランニングとして発展し、コンピュータ上に解決へのアルゴリズム(ソフト)を創ります。未来への進歩に期待が集まります。

この働きのベースには線形性+時間があります。ロゴスは当然そこに「超越的第三者の眼差し」を向けていて、入力から出力までの行程を見守り、さらに上位の結果が出るようにと促します。

これらはロゴス思考が発展し生まれる科学成果です。これによりノロマなロゴスの性能に進歩があるかも知れません。ロゴス翻訳の精度が上がり、「レンマ」や「ある自由意識」など他の意識・思考のことも上手く説明(翻訳)できるようになるかも知れません。音声入力の性能向上のようにです。

しかしロゴスは、自身の「超越的第三者とその眼差し」について、分析どころか存在にも気づいていない様子なのです。せっかくロゴスが努力をして「宇宙はビックバンに始まり膨張を続けている」と宇宙論は答えるようになったのに、ビッグバンの前は何。とか、宇宙膨張の果てはどこ。などと「超越的第三者の眼差し」は、その答えにチャチャを入れてきます。そんな疑問こそが科学進歩の源なのだ。などと強がりを言ったりしますが、「超越的第三者やその眼差し」の方が誤りであるかも知れないとは考えようともしないのです。

 

これまでの分析で、現実意識の「ロゴス」の他に「レンマ」の思考があり、そして身体に作用する「ある自由意識」もあることが分かってきました。

ロゴスとレンマが融合したアーラヤ識が現実意識の下にベースとしてあるのですが、そこに身体感覚の「ある自由意識」を加えるとどうなるのか。そしてロゴスの進歩であるAIや量子コンピュタと、この他の意識・思考がどう関係してゆくのかを次回は考えてみたいと思います。

 

おまけ-------

自分の身体には、60兆個の細胞があると言われます。そうするとそれを構成している分子原子の数の全体は幾つになるのでしょうか。

この場合、ロゴス(言語思考)では、無限とか♾とラベリングしてしまい、ラベリングが済めばそれ以上数えようとはせず記憶にも収めません。

しかし、身体の「その自由意志」で体内の既知の部分に小人(自分)が立つと、その場の活動記憶がふわっと表れてくるのです。これらを言葉で記憶するには膨大です。でも確かに記憶は存在しているので、明らかにロゴス的頭脳記憶ではない別の身体記憶装置が必要になってきます。

だから言語記憶は、これを内実のない「身体記憶」とか言う大まかな曖昧ラベルにして済ましてしまうのでしょうか。

近年医学では、様々な細胞から体内に100兆個もが放たれ流れるエクソソームというメッセージ物質が話題になっています。(詳しくはGoogle検索してください)

これらは、頭脳を介しない、細胞間や器官間のコミュニケーションであり、頭脳の指令とは違う別のメッセージとして働き、器官はそれに反応し独自の対処行動をします。

お腹が痛いとき無意識に手を当てるのは、胃の細胞から放たれるエクソソームの異常信号を感じ取り、脳を介さず、身体が思考して手と腕に伝えるからなのかもしれません。このことからエクソソームの発信元の細胞(器官)と受け手の細胞(器官)には、それぞれが状態を記憶し、自発的に発せられる意識・思考とを持ち、頭脳を介さず、常に働いていると考えられます。

体内細胞間には血管を通じ100兆個のエクソソームのメッセージが飛び交い、メッセージそれぞれが別の体内器官に特別な活動を促します。そして中枢器官と考えられている頭脳もそれぞれの結果を受け取ります。でも何しろ100兆個の内容ですから、ロゴス(言語思考)が主導する脳の能力では、その中の特別と脳が判断する結果のみをラベリング記憶にとどめて、多くは身体記憶に任せることになります。

しかし、自分が小人になったその自由意識には、無限や♾とラベリングする仕掛けがありません。しかし身体記憶の膨大な情報の中から必要な情報を瞬時に取り出す能力を持っています。続けようと思えばいつまでも続けられます。その間中、仕切りたがり屋のロゴスにもその結果が渡されていて、ロゴスはそれらから取捨選択をして、現実意識の思考や行動にもつなげていきます。

天の川銀河には2000~4000億個の恒星があると言われます。惑星などを加えれば1000兆個にもなり、その天の川銀河と同じ銀河が宇宙全体では数千億個(無尽蔵)あると言われます。

そして自分の身体には、60兆個の細胞があると言われます。それを構成している分子原子は幾つになるのでしょうか。宇宙も無限(無尽蔵)であるなら自分の身体も無限です。我々は、このような無限に囲まれています。

その無限を、ロゴスは無限や♾とラベリングし思考停止してしまいますが、レンマやその自由意識らは、ロゴスに止められない限り、無意識に静かにロゴスの邪魔をせず連続に意識・思考して無尽蔵を体験しています。

人は、無限を思考しようとすると始めに「レンマ」や「その自由意識」らが現れてきます。

阿弥陀如来や薬師如来など如来は無限無量の存在と言われています。それらを瞑想すると「レンマ」や「その自由意識」が自然に現れてきます。そしてその如来と同一になる事ことが、祈りの目的であり本質になります。

タオや仏教、インドの思考など東洋の思考では、外なる無限を如来、タオ、ブラフマンと名付け、その外なる無限と自己の内なる無限を融合させる。あるいは取り替える。合体させる。などの瞑想修業をします。

ロゴス(言語思考)のように時間軸に沿って事物の概念を存在化しそれを並べ続ければ無限に達するとする方法からは、そんな「レンマ」は単なる直感にすぎないと現実意識からは差別的ラベリングされてしまい、その境地を得るには、瞑想や坐禅、隠遁など面倒な方法を取らねばならないことになり、瓢箪鯰のような、又、カラカラ鳴る瓢箪のような五月蝿いことになてしまいます。

人間には、無限をいつまでも意識出来る別の意識がある。と、それに気付けばロゴスの現実意識から離れることができる。個体から液体や気体になる気分です。

つまりそんな意識で、自分の身体を考えるのが、東洋の思考の方法なのです。


成仏の方法(10)ー 中沢新一著「レンマ学」を読んで…(2) ー

2022年03月15日 | 成仏について

中沢新一著「レンマ学」を読んで…(2) 

前回からの続きです。

これからのお話しは、「レンマ」の側から眺めて、ロゴス(言葉・言語・言語思考)を分析したいと思います。

分析の公正を期すには、ロゴスとレンマ以外の第三の意識・知性があれば、その知性の判定で、ロゴス的には真に公正となるのですが、後でお話しする様に、仏教ではそれが可能になる道筋もあるようなのですが、とりあえず、今は「レンマ」の方法で「ロゴス」を分析していきたいと思います。

しかし当然、このブログは言葉なので、「レンマ」を「ロゴス」に翻訳して、言葉で伝える事になります。しかし、「レンマ」は、時間性を持たず、非線形ですから、筋道を立て論理を通す(線形)ことが苦手ですので、「ロゴス」の翻訳は、非論理的で難しい文章になることをご容赦ください。先に、中沢新一著「レンマ学」をお読みいただき「レンマ」の感覚をロゴス的に体得すればより理解が進むと思いますので、その方法もお試し下さい。

 

その方法をお話しします。

「アーラヤ織」が人間の意識の根底にあって、そこではロゴス的知性とレンマ的知性とが直交補構造で合成体をなしています。我々の日常は、ロゴス的知性を現実意識として使い、レンマ的知性を「無意識」と考えてきました。両者は直交補構造にありますので、ここではレンマで思考している合間に、直交して「点」で現れる時間性のあるロゴスに乗り移り、感覚に残るレンマの痕跡を言葉で記述し、終ると再びロゴス線上に現れる「点」のレンマに飛び乗るというような方法です。

これは、禅の坐禅の方法に似ています。仏教に共通のこの瞑想方法は、ひたすらに心を鎮めていると、不意にレンマが現れ、それに飛び移ると、瞑想の状態に入れます。修行とは、日常意識(ロゴス)を徹底的に排除してレンマ三昧の境地に入ることであり、その出入りの繰り返しを自在にしてこの身に実現するためには、坐禅、念仏、護摩などの修行があります。

空海の室戸岬の御厨人窟での修行で明星が口に飛び込んできたのを見て開眼した。など過激な瞑想修行の結果も語られています。

しかし、レンマが剥き出しのままに、ロゴスの日常生活を営むのは危険です。また、人はアーラヤ織の生き物ですからレンマのみで生きるのも不可能です。ロゴス的知性とレンマ的知性との合成体をなすアーラヤ識でバランスを学ぶ事をしなければなりません。

臨済録の普化やチベットの死者の書、ゾクチェンの虹の身体などがそのバランスの消息を伝えています。

 

レンマとロゴスはもともと合成体ですから分離は難しく、これらの修行は二つの完全分離が目的ではなく、あまりにもロゴス化してしまった現実意識にレンマの真の存在を気づかせるために、あえてレンマを剥き出しにして見せるためなのです。

 

そして幸いにも仏教ではそんな修行が成就するとやがて菩提心という意識が発露してきて、レンマとロゴスの調和ができるようになると教えてくれます。

 

また苦しく激しい修行や長い坐禅瞑想をしなくても、レンマを獲得する方法もあります。レンマは元々から自身に備わっているものだから、忘れていたものを簡単に思い出す様にすればレンマに入れるという教えもあります。

現実には、中沢新一著「レンマ学」を読み、ロゴスでレンマを理解する方法もあります。しかし、理解できたと思っても、一度ロゴスを離れ、レンマを体験し、さらにロゴスでもレンマでもないたぶん第三の立ち位置で、二つを俯瞰しながら学ぶことをしなければ、たぶんロゴスもレンマも理解することは出来ないのではと、ロゴスの意識は思ってもいるのです。

 

レンマを体感するには、つまり、意識をロゴスからレンマに切り替えるのには「存在」の意識を消さなければなりません。この「存在」の感覚が意識に現れると、ロゴスは独自のシステムで働きます。「事物を並べて整理する」がそれになります。「並べる」には前後のものを調べそれらの違いを明らかにしなければ並べられません。そこではロゴスの二項分類(選択)が自動的に働き、「存在」の意識が発生し、先と後に二つの「存在」を分類します。そしてそこには時間も発生します。レンマは、無時間性ですから、時間が発生すればその意識はレンマではなくなります。

 

「存在」は、必ず二項分類(選択)のシステムで発生します。

例えば、「明るい」という存在は「暗い」があって初めて「存在」が成立します。貴方がいて私がいます。貴方がいなくても、「その他大勢の人々」と「私」の二項分類(選択)で、私の「存在」が発現します。

人類が滅んで私一人になっても、「滅んだ人類」と「私」との二項分類(選択)で、私の「存在」が発現しています。でも「私」がいなくなったらどうなるのでしょうか。

お気づきのように、この話の中にはもう一つの眼差しが存在しています。全人類が絶滅してもその人類と私を同時に眺め認知している超越的な第三者の眼差しです。言語思考(ロゴス)は、二項分類(選択)で「存在」を発現させるのではなく、超越的な第三者を加えた、三項分類(選択)で「存在」を発現させているのです。

「神」と「人」の関係も同じです。超越的第三者の眼差しで「神」と「人」の存在を区別認知しています。しかし「神」は全知全能永遠普遍なので、超越的第三者とは「神」なのでは?。

この疑問で人は、彫刻の神像は見えても、真の「神」の存在は認識出来なくなってしまいます。

キリスト教では「人」は神になれませんから、認識を失った人は「神」を仰ぎ見る真の眼差しも失ってしまい、神への畏れが発生してしまうのです。これはロゴス(現実意識)が破綻する畏れでもあるのです

しかし仏教の場合、「成仏」が最終目的ですから、「人」は、「仏」(=全知全能永遠普遍の「神」)になることができます。しかし、自分が仏になってしまうと「私」と「仏」の二項分類(選択)の関係が消滅してしまいます。また、仏が神のように超越的第三者だとすると、ロゴス的には、さらに「仏」も「私」居なくなってしまい「超越的第三者」つまり「仏=超越的第三者」のみが残ることになります。これは極楽世界と言うことでしょうか。聖書のキリスト教では神への畏れでしたが、言葉(ロゴス)で書かれた仏典では、そうなってしまいます。

つまり、言葉(ロゴス)が表す「神」や「仏」の「存在」では、存在を指し示しているとしても、手に触れて直には感じられない抽象の何かであり、別の認識手段を用いなければ真実は実感出来ないことになるのです。

 

全く、レンマをロゴス(言葉)で説明すればするほど、困難の深みに入っていってしまいます。ここまで読んでこられた方は何人いるでしょうか。この艱難辛苦を避ける方法を書いてきた筈なのに困難に嵌るとは、言葉の魔物に捉えられてしまったようです。

 

でも仏教では、ロゴス、レンマの二つの意識・知性の他に未知の意識があると言っています。

未知と言っても、ロゴスが説明分類できないので未知のという事になるのですが、毎日毎時、我々自身が直接ビンビン感じている何かなのです。それについてをお話しします。

 

第三や第四の意識・知性

曼荼羅図には、二種類あります。

一つは大日如来を中心に放射ツリー状に描かれる「胎蔵界図」です。これは仏典(ロゴス)の記述をもとに、能力と作用の違いにより、仏達を二項分類(選択)でビジュアル化し現出させたものです。ロゴス中心の現実意識・知性で成り立つている今の我々の社会の有り様と変わりありません。

もう一つは、九つの升目に区切られた「金剛界図」です。上段の三つの升は、ロゴスとレンマが並存しているアーラヤ識状態を説明しています。しかし二段目、三段目になるとタイトルの説明や解釈は一応はあるのですが何が描いてあるのかが良く分かりません。制作者(画家)は、仏典の記述を読んではいるようなのですが、制作者自身もよく分からないで描いているようなのです。

金剛界曼荼羅図

説明や解説によるとレンマの事を描いているようなのですが、どうもそうではなく、この二段目、三段目は、ロゴスやレンマとは違う第三第四の別の意識・知性の存在を指し示しているように思えるのです。

ロゴスとレンマを区別して並べるだけではどうも仏教的ではない。と言っているようなのです。冒頭にお話しした「一つの頭脳には、二つの種類の意識・知性がある」ではなく「多くの種類の意識・知性がある」ということではないでしょうか。こう考えた方が、仏の永遠無限無量の意味が良く分かりこれまでの理解の障害が消えてしまうようなのです。これは量子論を借りて、対象を観測した時に初めて意識の種類が分かる。と言うような、人間には難しい智解が必要なのかも知れません。

ロゴスとレンマ、それらが合成しているアーラヤ識を「ロゴス」で説明する場合、行司役である身内のロゴス部屋所属の「超越的第三者」を持ち出さなくても、これら意識達(多分複数ある)を行司役にすればうまく説明が出来るのではないでしょうか。

どうも、人間の意識・知性(ロゴスと現実意識)は、三つのこと同時に考えることが限界で、三つ目もあやふやなのですが、四つを同時にとなると全く出来なくて、金剛界図の九つの升を同時に意識思考するなど全く不可能で、ここに描かれている新しい意識・知性に頼らなければ真の理解はできないと感じるのです。

そして、ロゴスの限界を超えてレンマへ、さらにその新しい意識・知性をも身近に感じる。これが成仏への早道のようにも思うのです。

そう考えると、成仏への道は外にあるのでなく身の内にある。という先達の教えは本当のようなのです。

次回はいよいよ、三密の「身」つまり「身体」と「空」の関係。さらに仏教的知性・意識と言われる「レンマ」との関係についてもお話ししたいと思います。

 


成仏の方法(10)ー 中沢新一著「レンマ学」を読んで…(1) ー

2022年03月02日 | 成仏について

中沢新一著「レンマ学」を読んで…(1)

 

「成仏」を思う時、このブログでは、これを意識し思考する「知性」が、それに適うものであるかどうなのかを、ずっと考えて来ました。

我々は、日々、雑事であれ、深刻な事柄であれ、家族や友人、恋人のことであれ、社会や政治、法律、科学、哲学、宗教であれ、全てのことを、頭脳の一つの知性・意識で考えていると思っています。そして他人も、同じ一つのスタイルで意識・思考をしていると思っていて、お互いのコミュニケーションや共感、同意も、当然にその同じ一つの機能から生まれると思っています。

これは、幼少の頃から家庭や社会の教育過程の中で、科学的常識として、「人には頭脳が一つあり、そこには一つの人間らしい固有の意識、思考、知性がある。」と教えられてきたからで、これが一般常識化し、疑うことなく皆が了解させられています。

 

しかし、中沢新一著「レンマ学」では、一つの頭脳には、二つの種類の意識・知性があると言っています。

それは、「レンマ」と「ロゴス」の二つの意識・知性です。

 
次の記述があります。

… 

レンマは、「ロゴス」と対比される。ロゴスはギリシャ哲学でもっとも重視された概念であり、語源的には「自分の前に集められた事物を並べて整理する」を意味している。思考がこのロゴスを実行に移すには言語によらなければならない。人類のあらゆる言語は統辞法に従うので、ロゴスによる事物の整理はとうぜん、時間軸に従って伸びていく「線型性」をその本質とすることになる。

これに対してレンマは非線形性や非因果律性を特徴としている。語源的には「事物を丸ごと把握する」である。ここからロゴスとは異なる直感的認識がレンマの特徴とされる。言語のように時間軸に沿って事物の概念を述べていくのとは異なって。全体を一気に掴み取るようなやり方で認識を行う。仏教はギリシャ的なロゴスではなく、このレンマ的な知性によって世界をとらえようとした。

中沢新一著「レンマ学」(14~15頁から)

= これは、当ブログでお話しをしてきた「粗雑な意識」とは「ロゴス」であり、「繊細な意識」とは「レンマ」のことと同じです。また「事物を並べて整理する」も言語思考の「二項分類(選択)」のことと同じで、分類し選択することで並べが可能になるので、それぞれ置き換えて読んで頂ければ、「レンマ学」と同じことをお話ししていることになります。

 

また次の記述、

そこでレンマ学が目指すこところはこうなる。いままでに人類の得たレンマ的知性の本質をめぐる最高の哲学的表現は、大乗仏教の縁起の論理によってもたらされた。だが残念なことにこれは長いこと発達を止めていた。それに代わって人類の知性は無意識のうちに、現代科学の領域でレンマ的知性の蘇りを図っている。

中沢新一著「レンマ学」(18~19頁から)

= ここでは、仏教的知性=レンマ的知性である。と言っていることになります。そうすると仏教の最終目的である「成仏」も、「レンマ」の知性で理解されることになってきます。

ギリシャ時代以降の歴史の展開で、西洋世界からそのシステムを取り入れた国々、つまり今日ではほとんど全世界で、ロゴス的知性は社会生活上の現実意識としてその主流になっています。しかし一方レンマ的知性は、西洋社会の常識として、表に現れる「意識」ではなく裏に隠れた「無意識」の領域に留められています。

 

 

また、

言語を産出する、アーラヤ織の内部構造は、ロゴス的知性とレンマ的知性との合成体をなしているが、二つの知性形態はじつは直交補構造をなしているということが、そこには示唆されている。

…中沢新一著「レンマ学」(157頁から)

= これは、ロゴス的知性とレンマ的知性の位置関係を述べています。「成仏の方法8」の中で、小津安二郎の映画「秋日和」でお話しした、鑑賞者の2つの意識、山を眺める=「無意識=繊細な意識」と、物語の進行=「現実意識=粗雑な意識」とが、直角に交わり点で接触していると説明した構造と同じになります。

 

 

また、

…純粋レンマ的知性には時間性が入り込んできていない。そのため、法界の諸事物は因果関係で結ばれることはなく、線形的な秩序も発生していない。… (157頁から)

= この記述の後に、同書では続けて、仏教の「華厳五教書章」により、「相即相入」「一即多、多即一」の華厳思考でレンマを詳しく説明しています。

 

このように中沢新一著「レンマ学」を読めば、レンマがわかり仏教の教えの知識も深まります。

 

また当ブログの内容も、「レンマ」と「繊細な意識」、「ロゴス」と「粗雑な意識」の言葉を置き換え読んでいただければ、同じことをお話ししていますので、もっと理解(ロゴスで理解)が進むものと思います。

 
 
この中沢新一著「レンマ学」は、文字で書かれています。他の諸々の哲学書、科学書、文学書、仏教経典などと同じく、これらbooksは、ロゴス(言語)で理解されることを意図しています。

つまりこれらは、ロゴス思考の側からレンマ眺めて、分析、解釈し、ロゴス(文字)に「翻訳」して伝えようとしていることになります。

一方仏教の場合、悟りとは何かを、レンマ的知性(仏教的知性)と思考で、日々理解すること強いています。出家修業では命懸けになったりするのですが、しかし、中沢新一著「レンマ学」を読む者には、命懸けのレンマ思考を強いたりはしません。反対に、ここの作業は「ロゴス翻訳」です。「ロゴス翻訳」とは、ロゴスとレンマの思考を重ね合わせて、ロゴスからはみ出ているレンマの部分は削ぎ落とし、足りない部分はロゴスで補足することで、ロゴス(言葉)でレンマが理解できるように、科学(ロゴス)がもつ安全安心思考で親切な導きをしています。

 
 
ロゴスの性能
 
この「ロゴス翻訳」の方法は、これまでもお話ししてきた、現代とは「言葉での理解が理解の全てになっている。」世界であることに準拠しています。これは「はじめに言葉ありき」《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章》の聖書信仰を通じ世界基準となり深化してきました。「聖書の言葉による思考」以外の思考は内に抑え込まれ、西洋世界では、ロゴス=言葉=現実意識=社会規範=生活規範=科学=法律=教育などの生活全般がロゴス上で処理され、すべての生活システムで「言葉(ロゴス)」が主になるコミュニケーション社会が出来上がってきました。またこれは聖書と一神教の兄弟であるコーランのイスラム世界ででも同じです。

 

仏教の経典も文字で書かれ、説法も言葉で話されますので、同じロゴス思考の状況が生まれています。レンマ理解が主となる仏教にも、ロゴスの論理やシステム色が色濃く反映されいます。

レンマ的知性(仏教的知性)とは、本来は仏教思考の入口の手段であるのに、今では、レンマで思考することが仏教の最終到達目標であるかのように誤釈までされていて、この現象は、今日ネットコミュニケーションを競って取り入れているように、仏典発刊の当時は、books(言葉思考とロゴス=books)が最先端のコミュニケーションツールであったからで、今日もネットリテラシー普及の喧伝をするのと同じく、内容がわからなくても読経を続ければ識字率が高まり仏教も普及すると考えたことと同じです。。

booksは当時のスマホです。そしてコンピュータは、プログラム言語と言われるように、言語思考(ロゴス思考)の拡張から生まれて来ているのですが、しかし今日ネットは、booksの機能をスピード、容量ともにはるかに超えしまい、ネット流の新しい言語思考によって、books流の古い言語思考の駆逐が急速に進んでいます。

そして、ネットの進歩であるAIやシンギラティ、5G、サイボーグなどの技術で、さらにこれからどんな新しい言語思考(ロゴス)が創られていくのか、ロゴスそのものを超えてしまうのかも知れません。しかし新しくなったといえども変わらず旧式のOSで動く言語思考では変化の見当もつかないので、今は、かえってコミュニケーションが不安で曖昧な時代なのかもしれません。

現在のロゴス思考の能力測定基準であるIQも、見直しが必要になってきているのではないでしょうか。それ以上に、途方もなく進歩してしまい、今の人間の頭脳能力では収納できず処理できず破綻してしまうか、あるいはそのために、肉体が突然変化を喚起して新しい人間に変異するか、改良するか、拡張するかそんな肉体の生まれ変わりを迫られることになるかも知れません。それは悟りに向かい、精神も肉体もあらゆる手段を用いて変異してゆこうとする仏教の修行の過程に似てくるのかも知れません。

 

しかし今はまだ、聖書やコーラン、仏教経典の理解も、古い言語思考のbooks(ロゴス)のその言葉での理解があって初めて機能する。これが人類のコンセンサスになっています。

このブログも、言葉(ロゴス)で綴られ、古い言語思考のbooksの言葉で理解することを強いています。

今は、「言葉での理解が理解の全てになっている。」ので、言葉でのみ理解することに誰も疑問は差し挟まず、幼児の会話に始まり大人世界でも、教育の強化で身につけた言語を使う理解のみを、われわれは当たり前のものとして営みを続けるています。

しかし、時々煩わしくなってきませんか。メールを書いたり電話したり、SNSで会話したり、ネットを読んだり、ビジネスをしたり、楽しみにTVや映画を見たり、小説を読んだり、難解な哲学書、法律書、契約書でなくても、簡単に書かれた言葉や文字を読むだけでも、読み終わらないと理解が完了しないその時の遅さに、イライラしたり、疲れて頭が重くなったりしませんか。

同じ人間が書いたものなのに、こんなにも苦痛をもたらし、言葉を読み終わらないと理解が得られないのろまなシステムなんて、本当に誰もが歓迎する優れた人間の機能なのでしょうか。こんな疑問が浮かんでくるのです。

 
 

言語化が「存在」を現出させる。

 

ロゴスには独特の認識方法があります。目や耳や鼻などの五感や皮膚感覚から受けた情報を、「存在」という媒体に変換してから考えるというシステムです。しかし五感や皮膚感覚が送受感して働くにはこの「存在」を必要としません。

道の角から不意に自転車が出てきても、無意識に瞬時に体を捻り避けます。言葉はいりません。その後体験を記憶するのに「横丁の角から出てきた赤い自転車に轢かれそうになったが右に避けた。小学生が乗っていた。」など、言葉にして「存在」化し言語化記憶にします。

後で友達に話す時は、主にその言葉の記憶を脳から引き出し話します。

体験・記憶には二つの種類があります。五感や皮膚感覚が働き、身体が咄嗟に動いて避けた。という言葉が伴わない「運動感覚記憶」と、上記の言葉で覚える「言語化記憶」です。

大まかには、この言語を伴わない筋肉が覚えている「運動感覚記憶」はレンマに、頭脳が覚えている「言語化記憶」はロゴスに分類できます。大まかにはとは、レンマの生態をロゴスが十分に捉えきれてはいないからです。

 

普段、我々の頭にふわっと浮かんできて言葉で説明できる「存在」と感じている事や物は、言葉が創り出した「概念」です。そしてこの「存在」がなければ、会話も生活も科学も社会も哲学も地球もそして「聖書」の神もありません。ロゴスが考える現実生活とは、こんな「存在」だらけでその「存在」を媒体にして認識思考するシステムで成り立っています。

 

では、我々の意識上にふわっと登場する「存在」とはどのようにして生まれてくるのでしょうか。

 

 

何も考えず静かに外を眺めている無意識で瞑想のようなひととき。突然「バサッ」。音に驚き、はっと顔を上げるその一瞬の意識の空白。目の前を音とともに横切る物体。意識をフォーカス、注視。それが羽音を上げ飛び去る「鳥」であると言語化認識する。鳥?。どんな鳥?脳の言語記憶アーカイブの中から、トンビ、若いトンビ、いつも上空を舞っていて、餌を見つけ舞い降りて来たのだ。と言葉の記憶を引き出して、納得する。

(詳しくは…成仏の方法(3)をご覧ください)

 

この一連の動作の中で、「鳥」と言語化認識しロゴスが発動した時に初めて、意識の空白が解かれて「鳥」の存在が発動します。

それまでは、感覚と意識がどんなに高速で働いていても意識に言葉による「存在」は、現れません。無意識状態(レンマ)です。

ロゴスが現われると、それは「ボンヤリしている私」「目の前に広がる見慣れた雨上がりの景色」「若いトンビ」「留守番をしている私」などであった。と、諸々言葉が表わされて、そこで初めて意識上に「存在」が発現しさらに記憶されていきます。

 

この時、言語思考化認識(ロゴス)は、独特の働きをしています。二項分類(選択)の方法です。

言語記憶には、予め「若いトンビ」と「普通のトンビ」の存在があって、その二つから一つを選択して、「若いトンビ」の「存在」を現出させます。見たことのない「何か」だったら、先ず、記憶の中の「存在」と認められているものの中から、それに似ている「様々なカラス」を取り出し、その鳥達と比較し「若いカラス」を選択して、存在を現出させるか、比較するものがないと「様々な鳥」と「見知らぬ鳥」分類で、「見知らぬ鳥」という存在を現出させます。

 

このように物や事は、ロゴスの中で、言葉でラベリングされ記憶され、初めて、知性が対象とする「存在」の姿を現します。

 

日常では、言語記憶へのアクセスが頻繁に行われるので、その方法は自動化され、意識しなくても次々と必要な「存在」は現れ続けるようになります。

しかしここでは言葉とは、月を指差す指であり、月そのものではありません。しかし、言葉(ラベリング)により、時間を止める抽象化が働き、意識は「月」の固有の「存在」を言葉の中に認めるのです。

意識がレンマにあれば、世界を認識、思考するのに「存在」を設定する必要はありません。

さらにレンマという言葉自身も、ロゴスで現出された(翻訳されてた)「存在」の一つであり、指差す指であり、レンマそのものではありません。

 

宇宙の物と事の全てを、全人類は、このような方法で、一つ一つ、存在化、歴史化をして、ラベリングされた知識として、頭脳中に又はbooksやコンピュータ、映像などの外部記録に言語化し記録してきました。そして、ロゴスが主導する現実生活の中では、言語思考が、記録(記憶)の中からこれら「存在」呼び出しあるいは新たな記録(記憶)を創りだし、日々の営みを続けています。

 

こうして科学も哲学も宗教も社会習慣慣習、法律など社会全体、世界全体がロゴスシステムで動くようになり、「存在」だらけの複雑な人間世界と言うクラウドが生まれています。そのクラウドを言語思考のOSで扱うのが今日のロゴス思考なのです。

ロゴスそのものである科学の進歩で生まれたハッセル望遠鏡の宇宙学では、今日も新星が発見され、ラベリングされ流通言語化され、目新しい「存在」が次々と発現しているのです。

 

この背後には、ロゴスと直交補構造にあるレンマの認識や知性も働いています。レンマに反応して動く感覚、肉体、思考、精神も当然にあります。レンマの記憶もあります。ロゴスに翻訳されて言語化される言語記憶もあります。これがレンマとロゴスが共存して働くアーラヤ識での有り様です。

これは、物理学で言えば、ビックバンで物質と反物質に対消失が発生、その対称性の破れで残った物質で出来た全宇宙の理解でもあるのです。

 

しかし、言語が発達していなかった縄文時代は、言語思考が全てを支配していなかった時代は、少し様子が違っていたかも知れません。

縄文時代が気になって仕方がないというのは、この縄文のレンマの記憶が、現代人の抑圧されたレンマ意識に働きかけるからなのかも知れません。

 

 

悩める心

では「言葉での理解が理解の全てになっている」今日で、ロゴスにとって、心とは、また、悩める心とは何でしょうか。

感情や無意識など心理状況は言葉にして表せるから、心は言葉でできている。とします。そこから患者が発する言葉を分析すれば患者の心も分析できるとします。こう考えて進化しているのが、今日の医学の精神分析でありカウンセリングです。言葉をたぐり心の治療を行います。心の中にある物や事を患者が言葉にして表せられれば、病状が分かり、治療の方法もわかる。と言う方法です。

これと同じ方法で分析できる言語(ロゴス)による科学的と言われる社会行動スタイルが、政治・経済・科学・法律など、我々が日々を営むその生活を律する基本思考とされていています。つまり、現実意識=ロゴスになるのです。

 

こののろまな言語思考をベースに、言語思考の拡張機能であるコンピュータの力を借りて、ようやくここまで進んできたロゴススタイルとは、本当に、優れた人間の唯一で最終の機能なのでしょうか。

そして、この状況を考える時、我々は、ロゴス思考でしか分析し考え解決する手段を持っていません。

このままロゴスをロゴス(言葉)自身で分析、批評するのは泥棒が泥棒を裁くと同じで、自己撞着に陥ることにはならないのでしょうか。

 

昨今ようやく、言葉を生業にする一部の文筆家から、薄々感じてはいたこの自己撞着についての発言を始めてきました。仏教はこの問題に、釈迦をはじめに、沈黙で答えてきました。「ロゴス」をツールにする哲学がこの問題に向き合うことはあるのでしょうか。これは論理上は不都合な事なので触らずにおこうとするのでしょうか。物理学では、量子論や対称性の破れ、量子のもつれ、ニュートリノ、超弦理論など、結果が「ロゴス」を逸脱することになるような研究が進んでいます。AIやクラウド、量子コンピュータなど高性能化が進み、「ロゴス」が手にする分析ツールも進歩し、これらの進歩方向は、明らかに「ロゴス」思考の限界を目指しているようなのです。

長くなりました。次回へ続く…

 
 
 
 
 
 
 
 

成仏の方法(9)

2018年04月12日 | 成仏について
成仏とは、変化です。
そこで成仏の方法とは、変化についてをお話しするこになります。

釈迦の教えで、変化とは、
「因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)」
です。
言葉は縁起で生まれますので、言葉の世界では「そしてそれは変化して止まない。」と表現することになります。(言葉は二項分類(対立)思考ですから、反対の「変化しない」も想定できますが、それで生ずる問題は後述します。)

そもそもこのブログの「成仏の方法」は、老年となり余命の10年、20年を考えるより、死んだらどうなるのかを考える方が合理的である。との思いからスタートしていて、死という変化が避けられないのなら、成仏へ、つまり仏に変化する方が良いのではないか。と思った所にあります。

一般に宗教とは、生きる悩みや苦しみに、救いや癒しを与えてくれるもの。あるいは死者を弔う儀式。と現代人の多くは理解しています。仏教から言えばそれらは方便で、仏教とは、苦に囚われた生を成仏へ導くこと、さらに全ての者や物を仏に変化させること(成仏)、を最終目的にしています。その方法には様々あり、様々な宗派となっていますが、それらは成仏に一歩手前の菩薩が言う「全ての人が成仏しなければ、私は仏にはならない。」の強い意志に支えられています。

言葉は縁起で生まれると言いましたが、言葉で成仏を理解しようとすると、縁起という概念を持ち出さざるを得ない。という、釈迦の工夫(方便)を感じてしまうのですが、すると言葉の二項分類(対立)の思考から、反対の「変化しない」も想定できますね。となって話が複雑になり、様々な問題が発生することになります。しかし釈迦は、ここでは沈黙を選びました。そのため、それ以降、膨大な経典が生まれ続け、その沈黙の意味を言葉で説明する事になるのですが、キリスト教イスラム教の一神教でも、同じ問題は発生するのですが、聖書とコーランの文字で書かれた経典にのみ真理があり、それ以外は正しい教えではないということにしてしまい、真理を言語思考のみで考えることを強いて(はじめに言葉ありき)、言語思考以外を封じてしまいました。

仏教の場合、釈迦の沈黙を考えるには、仏の身になって考えねばならず、そうすると成仏とは何かを考えることになるのですが、その前に、仏教では、それを思考する手段やツールの正体とは何なのかを考えることになりました。
科学の言葉である、意識、感覚、思考、心理、言葉、心、肉体、生物、物体、存在、宇宙、などなど、それらは一体何なのかについて、仏教は、現代の科学に劣らない議論論争で、深い考察を積み重ねて来ています。次はそれらについて見ていこうと思います。
しかしここで、二千余年を越えるこの論議論争主張の全歴史を語るのも大変なので、密教の方法である、「身・口・意」の三密の分類で分析したものが、現代の科学思考からみてもわかりやすいと思いますので、これでお話する事にします。

先ず、「身・口・意」の三密のうち「身」とは、身体のことですが、それについてお話しをします。

ここでいう身体とは、常に「変化してやまない」身体です。
身体というと医学の解剖図が浮かんで来ます。しかし解剖図は静止していますから、「変化してやまない」側からは、位置や形や色、働きなどの情報は、参考になっても、生きて動く身体の真の情報とは考えていません。そして、その分析を担当する意識思考の側も、同じく「変化してやまない」状態ですから、すべてが動きの中で、身体を考えなければなりません。
一方、科学思考は、変化の中で対象を様々に観察分析し、そして言語思考で抽象化することで、現象を静止させ(解剖図にして)、本質を探ろうとします。しかし、そんな静止した変化の残像からは本当の本質は捉えられない。と、「変化してやまない」側は考えるのです。
科学思考の分析は、言語思考をベースにしています。その特徴となる抽象化の作業は、「変化してやまない」対象と、同じくその対象に向かう連続する意識を、一旦停止させて考えます。しかし、それら変化は考え中でも続くので、科学では、その停止で得られた表装(残像)を、再度動かして変化を造り、運動という名の変化にするという、特異な分析方法をとります。停止も変化の一部と考えられますが、それにしても余りにもぎごちなく、変化を変化のまま、生で捉えることを苦手にしているような振る舞い方です。

青空の視界に不意に、飛ぶ鳥が現れて、あれはツバメだ。と言葉が脳裏に浮かんだ時、変化(運動)にずっと対応していた意識が一瞬中断され、ふたたび追従に意識が戻った時には、ツバメはかなり先に飛び去ているのを経験されたことがあると思います。
これは、量子論を読みながら理解しようとする時の経験に似ています。量子力学を理解するのが難しいのは、科学思考のベースとなる言語思考の能力の限界なのですが、もし、相対性理論の前に量子論が盛んになっていたら、もっと簡単に早く科学は進歩していたかも知れません。全体が変化の状態にあり、そのうえ同時に、さらに二つの異なる変化の現象を分析することを強いるような今日の科学の状況では、科学の生みの親であるのろまな言語思考は、さらには科学論文は文字で書かれ評価されもするので、二重の困難を変化の分析に招くことになり、理解と進歩の邪魔をしているように思ってしまいます。
私達は、日常的に、腕を曲げる、お腹が痛い、痒い、疲れた、気持ちが良い、などなど、身体を探ぐり感ずる意識を無意識に働かせています。コーヒーを飲むから腕を曲げようとか、疲れたからフゥーと声を出そう、などと言葉に出しては考えません。お腹が痛いと言葉にする前に意識はお腹に意識のセンサーを働かせていて、手をお腹の患部に当てさせています。
自身の身体への意識は、変化を停止させなくても、このように言語思考を用いなくとも、ストレートに意識できます。お互いに皆が、「変化してやまない」への、このような意識の行使の了解とコンセンサスがあれば、確実に、身体を意識し思考し分析していることになるのではないでしょうか。言葉は、その過程を記録する補助手段の位置にいて、変化の分析に極力関わらない方が良いのではと思います。

密教では、言語思考がベースの停止する意識を「粗雑な意識」、後者の持続し「変化してやまない」ストレートな意識を「繊細な意識」と言っています。「粗雑な意識」とは、社会生活に必要な現実意識ですが、とすると「繊細な意識」とは、現実意識ではない方の意識、つまり無意識ではないかの問があります。現代の科学で無意識とは、意識以外の不明な意識、言語思考では特定できない意識の全般、を言いますので、確かに無意識とは重なる部分が有りますが、しかし「繊細な意識」は、はっきり意識できて、特定できますので、科学が言う無意識とは異なります。
(現代科学と密教での意識の違いについては、次の「口」のページで、詳しくお話しします。)

仏教やヨガ、中国に発祥するタオ(道教)など、東洋思想では、「変化してやまない身体」を、分析の対象にします。そのため、分析のツールは、「繊細な意識」を主に用います。また記録と分類が得意な言語思考の「粗雑な意識」もサポートに用います。


仏教、道教(タオ)、ヨガなど、東洋思想で共通の考え方は、
生ける「変化して止まない」身体とは、「気」が流れている身体である。です。
生きるとは変化して止まない現象であり。それを支える「気」もまた流れる変化です。つまり生きた身体では、変化が常態ですから、変化をどう捉えるかが東洋思想の基本になってきます。
しかし、それを「粗雑な意識」の言語思考で考えるとなると、現象を抽象化し、意識思考を一旦停止させ、名称をつけ整理記憶する、ラベリングの方法を実行することになります。さらに、分析では「変化して止まない」とは反対の「停止」とともに、他者による客観的な実行も必要と考えていて、確かに変化の反対の停止は他者なので、その意味では正しいのですが、停止も変化の一部ではないか。とも考えられるので、言語思考がこれを他者であり客観的とするには少し無理があるように思います。

さらに「変化」を「停止」の状態にして考えるとは、何なのでしょうか。
抽象化で一旦停止させ「変化して止まない身体」を分析するとは、ゴルフの上達本のような記述になります。上達本に習い、身体の動きを真似て再現したとしても、クラブにボールが当たってくれるとは限らないのは、皆んな分かっています。科学の論文とそれを再現し検証する関係にもそれはよく似ています。さらに言語思考(粗雑な意識)がベースになっている我々の平凡な日常生活にも、大なり小なり、このもどかしさが日々纏わり付いています。
このようなのろまな言語思考(粗雑な意識)を身体の分析のツールにするべきかどうかを、仏教は先ず考えるのです。

「変化」を、「変化して止まない状態」で意識する「意識」が必要になってきます。
人間の意識は「変化して止まない身体」を意識することが出来ます。なぜなら「変化して止まない」という言葉で、経験の記憶を残しているからですが、しかし言語思考が直接それを行うとなると、もどかしさが付きまとうので、やはり言語思考以外の「意識」が意識したのだ。となる。そしてその意識により無意識に手をお腹の患部に当てるのだから、それは、「無意識」と同じポジションを与えられることになります。それら意識を総称して「繊細な意識」と呼ぶことにします。
さらに、分析を進めて行くと新たな意識が見つかるかも知れません。そうするとさっそく言語意識は、それにラベリングをして記録分類してくる。つまり科学研究の方法なのですが、しかしここでは、お分かりのように、それが目的にはなりません。
ゴルフの上達本を書いても、皆んながゴルフ上級者になる訳ではないように、この方法では「すべての人が成仏しなければ、私は成仏しない」の菩薩の誓願が叶わなくなるからです。

気(プラーナ)を、背中を走る気道(督脈)から、頭頂の泥丸(チャクラ)まで送り、クンダリーを達成し、さらに気を練り上げて陽の身体に変化させる。真我を得て解脱する。悟りを得て成仏する。などなど、ヨガ、タオ、仏教などの東洋の思想では、意識や呼吸法により「気」を動かせ高め、身体を究極に変容させるのを、目的としています。
この訓練には知識が必要ですが、しかし、このブログは、知識を提供する場ではありませんので、必要に応じて、Googleの検索で知識を探してみてください。
ここでお話ししているのは、全てが「変化して止まない」状態で(停止も変化の一部)、身体を感じ、考え、分析し、記録するにはどう対処したら良いかをお話ししているので、詳細マニュアルではありません。自分に相応しい方法が見つかれば、方法の知識は自然に向こうからやってきます。

こんな風にして身体を究極に変化させる目的は、成仏なのですが、成仏には、三密の他の口・意も「変化して止まない」状態で、究極のものに変化させなければなりません。今までお話しして来た方法、つまり言語思考にも納得してもらいながら共に進めるとなると、これは菩提心の方法になるのですが、まだまだ長い道のりになってきます。

道教やヨガの最終目的である不老不死は、「身・口・意」が究極を達成さえできれば、可能となるのではないか、と思いもするのですが、仏教では、最後になって、「身・口・意」も「変化して止まない」も「空」である。とお釈迦様が言われるので 、困ってしまうのです。「空」は、目的なのか手段なのか。

“因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)”
は、これまでお話ししてきた事ですが、次に、

“因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)”
と続くのです。

「変化して止まない」でいて「空」となると、のろまな言語思考「粗雑な意識」では対応できないことは、これまでのお話でよくお分かりと思いますが、では「繊細な意識」ではどうなのでしょうか。
そのために、次のお話で、口は、「変化して止まない」状態で どんな働きをするのか。を考える事にします。しかし、ここでもこの「空」が、ずっと頭の隅に残り続けます。

成仏の方法(8)

2017年02月12日 | 成仏について
今回は、「繊細な意識」を、更に深く広くしていくとどうなるのかの続きです。
ここまで来ると、言葉での説明がますます難しくなってきます。「繊細な意識」を「粗雑な意識」の言葉で翻訳し説明するので、それは呪文のようになり、音に響くばかりで意味が伝わらなくなってきます。

先回までは、成仏のために「身」は「空」である。と知る(変化させる)事でした。タオで言えば小周天、密教では、 究竟次第コースです。そして次は、自己を離れ、自己が全体に融合することを学ぶ大周天、生起次第コースになります。

頭頂の穴から「繊細な意識」の自己意識が外に出て、全体(外部)と交わる体験をします。

本来、「一即多、多即一、相即相入」の「対称性」状態である「繊細な意識」では、全体と部分との区別はないのですが、言葉の説明が「自己」と「外部(全体)」の二項分類(対立)を持ち出し、存在が発生するので、つまり「粗雑な意識」が支配する現実世界の言葉思考ルールになるので、「自己が外に出て全体と交わる」と表現することになります。

全体に交わるとは、自己が溶けて無くなる事なのですが、自己認識が無くなると同時に全体も無くなるので、そうすれば言葉も無くなり、煙のように、確かに在るのだが、何とも説明できない、或いはしないことになるのです。

このまま言葉で言語思考で続けていると、理解不能になるので、つまりが思考の道具が間違いなので、ますます表現が難解になって来ます。

「粗雑な意識」は、言語思考としての「現実意識」であり、「繊細な意識」は、「無意識」に近い。と言えます。現実では「粗雑な意識」と「繊細な意識」は、常にバイロジカルで働いていて、それは現実意識と無意識がペアで働いているのと同じです。

この状態で「繊細な意識」を十分に働かせなければなりません。

では「繊細な意識」とは、どんな実感なのでしょうか。
小津安二郎監督の映画でそれを実感することができます。小津作品は、そのストーリーが秀逸ですが、さらに独特の撮影技術も世界のクリエーターから尊敬を集めていて、多くの模倣がされています。でも 小津の意図を理解しての作品は少ないように思います。

映画「晩春」で、小津調は 完成したと言われます。
その技法の一つが、画面のつなぎに、静止画風のインサート画面を入れる方法です。そのインサートは、普通、次のストーリーへのサポートなのですが、小津の場合、例えば鰻屋の看板を大写しにしてインサートすれば、そのカタチや書体のデザインから、鰻屋が老舗か庶民的かなどの様子が伝わるので、店の説明を省くことができて、いきなり鰻重のお重を前に置く主人公の顔アップから次の画面が始められます。。この場合のインサートは、ストリーを追う意識の邪魔にはならず、言語思考で書かれた脚本を積極的にサポートする技法になります。
しかし、小津監督はもう一つの方法、ストーリーの順調な流れを敢えて止めるような、関係のない静止画を突然にインサートするのです。
例えば映画「秋日和」の終わり頃、原節子と司葉子の母娘が、娘の結婚が決まり思い出の旅行に伊香保温泉に出かける場面です。
伊香保温泉の茶屋で二人の会話の場面の前に、窓枠に映るもっこりした山の姿が静止画風にさりげなく短くインサートされます。二人テーブルで向かい合い、茹で小豆食べながら、原節子が「この茹で小豆こと一生忘れないわ」という台詞があり、顔が窓に向かってゆくと、同じ山の姿の静止画が、少し長くインサートされるのです。ストーリーとは関係ない画面がまた大写しで現れドキッとしますが、木々が山全体を覆い、山のカタチや木々のディテールを思わず追いかけ見ようとする意識が出て来ます。遠くから遊園地の賑わいが聞こえています。映画の流れを止めて、山のディテールをずっと眺めていたいのですが、場面は元の流れのストリーに戻り、二人の会話が続き、やむなく意識もそのストーリーを追うことに変化してしまいます。

この流れの中で、二つの意識を観客は覚えさせられます。
映画のストーリーを追い、横に流れる意識と、その流れを止め、山のディテールを追い、奥行きに向かうおうとする意識です。
ストーリーを追い、横に流れる意識は、我々が生活する中での現実意識と違いはありません。
意識の主人公は、言語意識と言語思考です。だから言葉のルールで書かれた脚本でビジュアル化された映画に共感できることになるのですが、一方、奥行きに向かうおうとする意識は、もし、映画の場面やストーリーが次に(横に)進まなければ、そのまま、山のディテールを好奇心が続くかぎりは見続けていたい、あるいは、見続けていられる意識です。
映画ではなくこれが現実生活となると、別段用事がない限り、山の姿やデイテールを、詳しく見続けられるのですが、興味が失せると、"ああ、これは山だ。"と意識が抽象化され、言語化され、存在化されて、映画の場面転換と同じく持続が中断され、無意識が現実意識に戻されてしまうのです。

このストーリーを追う現実意識を「粗雑な意識」と言い、無意識に見続けていたい意識、或いは見続けていられる意識を「繊細な意識」と言います。

例えば、言葉で「永遠無限」は、言葉は指差す指ですから、言葉の先には実態としての「永遠無限」がある筈なのですが、言語意識は、それを言葉で表せても実感することはできません。しかし「繊細な意識」では、永遠無限に見つめ続けることが可能なので、永遠に実行すれば「永遠無限」を実感できる事になります。つまりこの可能性の実感を抽象化し言語化したのが、「永遠無限」の言葉の内容なのであり、「粗雑な意識」から見た「繊細な意識」の存在感なのです。

「永遠無限全知全能なるもの」が「仏」ですから、「成仏」を実感するには「繊細な意識」を働かせなければなりません。

そして、「成仏の方法(3)」でお話しした、"何も考えず静かに外を眺めている瞑想のような時。突然の音に驚き、はっと顔を上げるその一瞬の意識の空白。" の一瞬の意識の空白が「繊細な意識」の最初の発動になります。


現実生活では、「粗雑な意識」は、現実意識として常に表に現れ意識全体を支配しようとします。一方「繊細な意識」は、裏に隠れ支配抑制され不意に現れたりする、無意識のような振舞いをします。その無意識(繊細な意識)を表に露わにし育てコントロールするのが、成仏への方法の一つになります。

「繊細な意識」とは何か。を確実に実感する方法の一つが、密教や禅宗などの厳しい修行になります。「繊細な意識」を際立たせるために、「粗雑な意識(現実意識)」を疲労の極限にまで追い込み機能不全にする方法をとります。僧堂での修行や野山での千日回峰行などは修行が進むと、「粗雑な意識」が弱まり、やがて無意識(繊細な意識)が現実意識をコントロールするようになります。「粗雑な意識」が弱まると社会意識が希薄になります。隠遁や出家など社会生活から隔離されていると安全ですが、このまま、現実生活に交わることは危険です。

この状態で表に現れるてくる「繊細な意識」の振る舞いやルールをよく知らなければなりません。修行の要点は、確かな実感を得るためには「粗雑な意識」が弱まっている間に、「繊細な意識」の性能を上げる修行をします。肉体と精神を修行で極限まで追い詰めると、その負荷に対応して肉体、感覚、意識の耐性と耐用量が増えます。他に、セックスで快楽を極限にまで高める経験は、感覚の感度と感度量が増し、密教の秘密集会タントラにある汚物にまみれ死体とともに墓場で修行する。などは感性の耐性が増します、トレーニングで筋肉が強く柔軟になり強靱になるのと原理は同じです。修行で「繊細な意識」がダイレクトに受け取る感覚強度が高くなると「繊細な意識」も強くなり確実な実感も生まれてきます。
この修行で、幻覚を見たり超能力が使えたと思ったりしますが、筋肉トレーニングで強くなるのと同じで、少し重いものを持ち上げられたからといって、簡単に筋肉男ハルクにまでなれる訳ではありません。

この「繊細な意識」の強化を突き詰めて行くと、途中で勝手な妄想が生まれても、結局は、全てが「空」であることがわかってきます。そのため修行の目的を「空を知る事」にしておかなければなりません。目標が「空」であるとは、「空」を予め知っていななければ到達できませんから、修行の最初に悟っていなければなりません。
「空」とは、因縁生起が原理です。物事全ては、縁起のルールで動いている、だから実体が無い。これが釈迦の悟りであり、これを「空」と言います。

「繊細な意識」の意識原理には、龍樹の「空」、華厳の「一即多、多即一・相即相入」、空海の「重重帝網」などがあります。これは「繊細な意識」が永遠無限全知全能を実感し理解ができて生まれてきた原理なので、現実生活を司る言語思考の「粗雑な意識」では、さっぱり理解ができません。更に現代では、繊細な意識どころか無意識すら、現実意識の裏に隠れた脇役と見なされ「無意識に手が出たので無罪」などの扱いで、科学的研究も十分に尽くされてはいません。

常に差し迫っている問題。死んだらどうなるのか?。では、現実意識は無くなってしまう。このことには予想がつきますが、無意識や繊細な意識はどうなのでしょうか。チベットの死者の書では、バルト(死んで来世に生き返る)の間は、それが唯一の意識になり、生き続けることになっていますが…。

そして、これからの時代は、AIやシンギュラリティへと進んで行きます。しかし、この二つの意識の間の非対称性をこのままにしておくと、発展への障害になる予感が浮かんできます。

この「成仏の方法」ブログでは、これまで「粗雑な意識(言語思考)」サイドから、「繊細な意識」を分析してきました。一部の仏典や論書にもこの立場に立つものがあり、社会に受け入れられやすいようにと、言語思考ルールの言葉で、成仏のへのツールである「繊細な意識」のことを分析しています。読み続けると、西洋の哲学書に劣らぬ難解さで徒労感が増します。そして最終的には、釈迦のように、沈黙するか、空海のように、言葉では表せない。とか言う風になってしまいます。

この隘路を避けるため、もう一つの道、反対に「繊細な意識」から「粗雑な意識」を語ることにしたいと思います。そしてこの道を、仏教では「菩提心」と言います。

次回は、この「菩提心」について、おはなししたいとおもいます。

成仏の方法(7)

2016年06月07日 | 成仏について
言語思考には思考ルールがあります。そのルールを外れて、考えたことを言葉で説明しようとすると、訳がわからなってくる。
第一義諦と世俗諦を説くナーガールジュナ(龍樹)や、存在と意識を説く唯識論を、読み進むと複雑怪奇でやがて徒労がやって来ることから、それは、わかっていた事なのですが、やはり、このブログも読み返してみると、書いた本人にも難解で鬱陶しいものになってしまいました。つまり、釈迦の沈黙が一番正しいと分かるのですが、それでも釈迦には口を開いて欲しいのです。でも、人間の理解ツールが言語にとどまっている限りは、釈迦は沈黙を続けなければならないようにも思います。
稲垣足穂が言うように、十字路交差点の電車道に九十度の方向から同時に二台の電車が来たとします。でも交差点で一瞬に、お互いをすり抜け、二台の電車は、架線ポールから青い火花を散らし、走り去って行った。という風には、言語思考では解決できないのです。有様を言葉は表現できているのにです。

綴る言葉の論理の辻褄が合わなくなっても良いというのであれば、先に進めるのですが、それは、言葉と言葉の間に、読者の勝手な、独創的な、又は、常識的な論理を挟み込むことを期待することになるのですが、それで私は論理を通す難解な筋立てを放棄できる事になるのです。

今回は、そんな難しいけれど実は、頭をめぐらしてしまえば単純なお話しをする事になると思います。

あれこれ言う前に、今回は、この方法をトライしてみようと思います。

成仏するためには、「身」も「口」も「意」も全て「空」でなければならない。
なかでも「身」の「空」が一番、難しそうだ。

「身」の「空」を実現するために、瞑想や修行と呼ばれるトレーニングが何千年もの間、数多く考案されて来ました。成就が難しい故か、手段が目的になってしまい、それから先には進めなくなってしまうものも多く存在しています。

密教やヨガ、タオには、肉体を「空」に導く修行が沢山あります。密教には、先に「身」の「空」を成就させ、それをテコに「意」と「口」を「空」に導く方法(密教の究竟次第)。先に「意」の「空」を成就させ、「身」の「空」の成就を容易にする方法(生起次第)があります。
そして成就した二つ(生起次第と究竟次第)を合体させると成仏への道が開きます。

自己の内なる三密と外なる仏(宇宙)の三密を、相応合体させ、成仏を得る「三密加持」も同じ方法です。
タオの、陰の気を排除し身体を真火で練り上げ純陽化し、真我を得て、不老不死になる方法もあります。

「身」と「意」と「口」の三密は、一つのものを三つの方向から眺めたものなので、三つは一緒。一つを語っていてもいつの間にか他を語っているようにと、相即相入で境がありません。ですから、言葉での説明も行ったり来たり、三つのものを同時に考えたりと、論理を破り、言葉のルールを逸脱し、言語思考を越え、さらに人間の認識能力からはみ出す理解を強いることになります。ですから「身」のことを語っていてもいつの間にか「意」を語っているという風になってしまいます。

密教、ヨガ、タオに共通するのは、身体を巡る「気」と「気」をコントロールする呼吸法です。
色と音と光が呼吸法を助けます。

エネルギーの流れと量を「身」の感覚センサーが感じ、「口」がその意識をフォーカスしコントロールします。

言葉が表す「気」は、エネルギーを指差す指先(言葉)であって、エネルギーそのものではありません。
これを量子論で言えば、「気」と言葉で表わされた時は、粒子であり、言語思考(粗雑な意識)で捉えられますが、身体を流れる「生な気」は、流体(波動)であり「繊細な意識」でしか捉える事ができません。そのため、「口」がエネルギーにフォーカスして「気」を動かすには「繊細な意識」を使います。しかし、「口」がエネルギーへのフォーカスを言語化し、存在の輪郭を露わにしてしまうと(気→粒子化)、ダイナミックな運動性が消え失せてしまい、コントロールが難しくなります。
前に、存在について、「意」は、本来、融通無碍で制限がなく、「意」の対称性が「口」により破られ、存在が意識に発生するとお話ししましたが。これと同じようにエネルギーは、つまり「気」は、本来、融通無碍で制限がなく、対称性にあると考えられます。

先ず自分にどんなエネルギーが有るのか、作り出せるのか、その量と強度を確かめなければなりません。

「意」の意思で「身」がエネルギーを生み、「口」が、エネルギーに意識をフォーカスし流れをコントロールします。

怒り、嫉み、恐れ、セックスは大きなエネルギーを発生させます。さらに、外部から、人、動物、植物、大地、山、川、風、雷、地球、太陽、月、星など、あらゆる自然現象からもエネルギーを取り入れる方法があります。

取り入れる前に必要な事は、自分の肉体がそれらのエネルギーを受け入れられる剛性耐性と容量があるかどうかの確認。そのキャパシティを高める努力と方法。そして、エネルギーコントロールの修得です。

怒り、嫉み、恐れ、セックスなど、体内で発生するエネルギーは、出来るだけ体外に漏らさぬ事が肝要です。怒り嫉み怖れのエネルギーは自己を痛める悪いエネルギーですから、体内で良いエネルギーに変化させる方法が必要になります。出来ればこのようなエネルギーは摂らない方が良く、憤怒尊や静寂尊への瞑想は、悪いエネルギーを浄化する方法の一つです。また、布教で善行を説くのは、この防止の為でもあります。

セックスのエネルギーは、想念次第で良いエネルギーにも悪いエネルギーにもなります。両性相和し快楽を高めそれぞれに発生するエネルギーを、お互いが協力して二つの肉体の間に循環させ外に漏らさないようにする事が肝要です。快楽を高めることと快楽に引かれ多くを漏らすことは別です。多くを漏らせば、健康を害します。
更に、快楽を極限まで高めることで自分の肉体のエネルギーの耐性と容量を知り、身体が覚えると、さらにその上の強度に臨むことができます。ここでは強力なエネルギーが得られるとともに、外部からのエネルギーを取り込む時、効率を高める要領が学べます。

エネルギーは、「身」を「空」にする為の原動力です。自分のエネルギーのことをよく知りコントロールする事が、一番重要です。セックスの方法は比較的安全ですが、トレーニングに、怒りや嫉み、恐れのエネルギーを使う事は危険です。

エネルギーは常に社会との関係を生じさせます。怒りは犯罪や戦争を生み、嫉みはイジメや復讐を生み、悲しみは自傷を生み、セックスは家族関係と倫理を生み、それぞれが連なって社会の因習、習慣、規範、法律を生んでいきます。

仏教の成仏は、エネルギーを扱います。扱いを間違うことがあります。ほとんどの場合間違います。そこで宗教の戒律は、そこから生まれる障害を防止する役割を担っています。

「気」とは、常に動いて止まないエネルギーに意識をフォーカスさせる「口」の働きのメタファーです。「気」とは、エネルギーそのものであると同時に、流れや強度をコントロールするものでもあります。

前述の言語思考をベースにする「粗い意識」と、対称性をベースにする「繊細な意識」の連動連結がクリアな修行の進行を生みます。しかし、最後まで「粗い意識」と「繊細な意識」の混同と、そこから生まれる矛盾が、有史以来、全ての東洋思想の根底に溜まり続けています。あたかも意識の煩悩と呼べる程にです。

「意」を悩ませるこの問題は、結局、両者ともに「空」だと知ることで終わるのですが、さてその先は…。

「気」により、身体の全能化を目指しますが、やがて全能にはなれない身体の限界を知る事になります。身体の全能化が成仏であるとすると、解決方法は「身」の「空」で終わりではなく、「意」にある事が分かってきます。

道教(タオ)では、「気」には陰と陽があり、「陽の気」で身体を練り上げ、身体の純陽化を目標にします。そして、純陽化した身体を太陽の光に溶け合わせてしまうというように、仏教の「空」の方法論に近くなってきます。

ヨガは古代インドに始まります。ヨガの修行の中心は身体の鍛錬と思われていますが、それは手段で、こころの作用を止滅させ、真我を本来の状態にとどめることを目標にしています。この、こころを「粗い意識」。真我を「繊細な意識」に置き換えると、仏教の方法と同じです。

「気」の考え方、開発の手順について。タオ、密教、ヨガの三者は共に同じです。影響し合ったとはいえ、場所を違え個別発生したものがたまたま同じだったとは考えにくく、それぞれの祖先である原始宗教にまで遡る多神教の基本原理のようにも思います。

クンダリーニの開発など、「気」開発の基本メソッドは、タオ、密教、ヨガの中から、自分の感覚にあったものを選べば良く、それぞれの良いとこ取りをするなど、囚われを少なくした方が良いようです。

クンダリーニの開発は、通過点てす。例えば、タオでは、全身の純陽化を目指しますので、全身の細胞一つ一つにまで、「気」を巡らす必要があります。前述の小さな小人になり、全身の細胞の探索と認識をしておけば、ヨガの方法でクンダリーニの開発をし、「気」が頭頂に達すれば、ここで小人の学習が役立ち、たちどころに全身の細胞一つ一つにまで「気」が巡って滞りがありません。これは、タオの存思の方法の根本原理です。

インドの後期密教やチベット密教からは、身体が「空」に変化する為に必要なエネルギーについて、その発生と方法、量と強度、さらに、エネルギーを受け止める身体の反応と耐性について学べます。

エネルギーには、良いものと悪いものがあります。「意」は、それを十分に知らなければなりません。世俗の倫理や論理で正しいものが、必ずしも良いエネルギーであるとは限りません。例えば愛は、執着や嫉みを生み、一人殺せば殺人。一万人殺せば英雄。や、平和と戦争の二元論は、怒りと悲しみを生みます。

怒り、嫉み、恐れ、セックスからは、想像を超えるエネルギーが発生します。如来になるには、それそれが最大パワーをいちどきに発する程のエネルギーが必要になります。

チベット仏教や秘密集会タントラにある過激な表現。例えば、男女の和合と怒りを結合させた父母尊と憤怒尊。糞と尿と精液と経血と人肉で如来を供養する女陰に住まう菩薩。妬みのエネルギーを浄化する静寂尊。などは、実際にこのエネルギーの発生と浄化を実行する「身」や「口」に向け、「意」が最大限の過激表現で不退転の決意を述べたものです。

日本の密教にも、過酷な千日回峰行などがあります。

では、過酷な修行は、生理的に何をもたらすのでしょうか。
瞑想や修行による、身体への意識の集中や過激な負荷は、肉体と頭脳に刺激を与えます。それにより「身」と「意」が変化します。脳の可塑性がようやく科学では認知され始めていますが、肉体への刺激で、筋肉、骨格、内臓が変化強化されるように、瞑想による脳への意識の集中刺激は、生理的レベルで脳の細胞を変化させ、身体への意識の集中刺激は、身体の細胞や構造その機能をも変化させます。

身体には「免疫機能」や、体温や鼓動を一定に保つ「ホメオスタシス」などの機能があります。
この機能を解除するかスルーすることができなければ、瞑想や修行は、精々スポーツトレーニングで、筋肉が強くなったとか、俊敏さが増したとか、記憶力が良くなったか程度の効果に止まります。

密教やヨガでは、薄着で雪の上に寝る。つまり、体温を自由にコントロールする。心臓の鼓動を遅くしたり止めたりする。呼吸や肉体の代謝機能を低下させ仮死状態にする。などの修行があります。
これらは、「免疫機能」や「ホメオスタシス」の機能をスルーする事で達成されますが、
これら全ての修行は、身体は「空」。であることを実感するために行われます。

そしてこの「空」は、この修行の目的になるだけでなく、実行のメソッドにも組み込まれています。
「空」が組み込まれたメソッドとはなんでしょう。
ここでは「意」が全体を主導します。前述の釈迦の教え。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)

を、実行する事が、目的でもありメソッドになります。

その方法について、お話しします。
「空」とは、物事には実体が無い。ことであり、変化して止まない「因」と「縁」で生まれてきます。言語思考は「意」の対称性を破り「存在」という「実体がある」を創り出しますから、「空」を扱う思考ツールとしては不適切です。
一方「繊細な意識」は、対称性に止まり、永遠無限全知全能な情報にアクセスが可能な思考ツールですから、「空」の認識理解には適しています。
最終的には「繊細な意識」も「空」により実体が無いとされ、資格を失う事になるかも知れませんが(所知障?)、それよりも、今は言葉を使っているので、どうしても言語の「粗雑な意識」を贔屓にしてしまい、対称性ベースの「繊細な意識」との混同とそこから生まれる矛盾が、思考を妨げ、論理を濁らせてしまいます。

「繊細な意識」は、純粋状態なら一即多、多即一、相即相入ですから、部分を考えていても全体を、全体を考えていても部分を考えている事になります。
つまり、言語思考の記憶では、言語記憶アーカイブの大脳皮質記憶装置が必要でしたが、「一即多、多即一、相即相入」状態の「繊細な意識」では、過去現在未来の情報の全てを、部分と全体とが共に担うので、記憶という概念が必要ない事になります。事実、例の小人にになって体内を巡る「繊細な意識」では、既視感があり、新しい体験は既視感にどんどん組み込まれ学習されていきます。その意識を「口」がフォーカスし言語化はできるのですが、面倒で、「繊細な意識」の既視感の方が早く鮮明で具体的な「記憶?」の様に感じてしまいます。

身体には、外部からの攻撃に対応する「免疫機能」や、体温や鼓動を正常に維持しようとする「ホメオスタシス」など、制限機能が備わっています。身体を変化させる修行の成就には、この制限機能をスルーする必要があります。

では、その機能制限と「繊細な意識」のと関係はどうなのでしょうか。

新しい神経生理学に「オートポイエンス」という考え方があります。

「神経システム内で活動が起こされる時、外界は引き金の役割しかはたしていない」です。
従来の考え方では、生物の進化を例にとると、外界の刺激により遺伝子はダイレクトに突然変異させられ、次代にその変化が遺伝継承されるという、いわゆるダーウインの進化論が一般的でした。

しかし、「精神はそれ自身が創造したものの創造物である」です。
外部のメカニズムに関係なく、自身のメカニズムで、みずからの構成要素を創り続け、統一体としての閉鎖系を創り出し、境界の自己決定をする。

「オートポイエーシスのシステムは入力と出力を持たない」
外部とのエネルギーのやり取りが組織構成を決定するものではない。もし、外部から何らかの介入が生じた場合、それは単にシステム自体の損傷を意味するだけである。つまり、外界からの刺激に順応し、遺伝子が変化するのではなく、自己の都合で遺伝子は変化する。とするそんな進化論になる。これを「入力と出力を持たない」と表現しました。

この「入力と出力を持たない」という、呪文に似た言葉は、「色即是空、空即是色」に似ています。言語思考的には、論理破綻していますが、この二つは言語思考を機能不全にして、背後をうかがおうとする方法になります。

言語思考の二項分類(対立)で、「意」の対称性が破れ、超越的第三者の下、「外部(環境)」と「内部(自己)」という二つの「存在」が意識に創出されると、そこでやりとりされるエネルギーは、「入力と出力」の言葉で説明せざるを得なくなり、これは言語思考の科学的説明になります。一方、言語思考を機能不全にして透明で見ると、「存在」が意識に創出されることがない対称性が見えて来て、そこでは、例えば空海の「重重帝網」状態では、意識を媒体に、部分と全体の間を、エネルギーは行き交っているのですが、「存在」として意識に現れていないので、言語思考からは、それは入力と出力を持たない現象のように見えるのです。

これは、瞑想や座禅で生ずる活動を説明しています。
外部からみると、瞑想や座禅は、静かに息を潜めエネルギーを発しないように見えます。事実「入力と出力」と表現されるような明らさまエネルギーを抑え、静かに瞑想や座禅をすることが修行であると説明されています。

しかし、成仏は、「身」「口」「意」の「仏」への変化を求めますので、エネルギーを潜めていては、変化はいつまでもやっては来ません。
前述の小人になって、体内を巡る探索は、目的の部位に意識を集中すると、そこに熱が発生し、エネルギーのやりとりを「繊細な意識」で実感できます。そこに「口」が意識をフォーカスし、現象を言語化すれば、エネルギーが入力出力していると「粗い意識」は理解することはできます。でもそれは理解にとどまります。「繊細な意識」なら、わざわざ存在という言葉を創出しなくても、全体が瞬時に実感で分かるという感じです。

ここまでくるとお分かりのように、「繊細な意識」を使えば、「免疫機能」も「ホメオスタシス」もコントロールできる事がわかります。
コントロールというより、スルーするという方法です。
「免疫機能」や「ホメオスタシス」の身体の制御機能はそのままに、別ルートを取るような、あるいは、制御機能に気付かれず、ニュートリノのように自由にすり抜けてしまうような方法です。

薄着で雪の上に寝る。つまり、体温を自由にコントロールする方法は、密教では、トゥムモと呼ばれます。呼吸を使い丹田に「気」を集めると、下腹部が熱く熱を帯びてきます。その熱を尾てい骨のクンダリニーに送り、督脈を通し、各部のチャクラを温めながら、頂点の泥丸まで送りここでしばし温浴します。続けて、その「気」を眉間、喉を通じ、任脈で丹田まで降ろします。「気」は喉より上に行くと、清涼になりますが、再び胸まで降りてくると、上昇時より熱くなっているのがわかります。その循環を繰り返します、その循環の途中何回かを、丹田に降ろした「気」を反対に帯脈で胸まで上げ、頭頂から降りてくる「気」と胸で混ぜ合わせると、「気」は陽化が高まり真火となり、さらに丹田まで降ろし温浴します。これは小周天と言われまが、これに前述の小人で体内を巡る探索に熟達していれば、丹田の「熱い気」が体の全体に、沁みるように広がり、風呂上がりの体のように、全体がポカポカ暖かくなって来ます。意識しなくても、この循環を体が自動的に行えるようになれば、持続して、濡れた肌着が乾く程に、身体全体の熱を高める事ができます。熟達すれば薄着で雪の上に寝ることが可能になります。

大まかに方法を書きましたが、作業をオペレートしている「繊細な意識」は、その間旺盛な情報力を発揮し、質や量が違う様々な情報、気づきを、遮るものなくもたらし、さらにそれをフィードバックして、オートポイエーシス的な自己創作をするというように、目的実現のための、言葉では書ききれない様々な工夫を生み、マニアルを学ばなくても、この体験から自然に全てを学ぶことが出来ようになります。

感覚器官や意識は、普通それが所属する個体の個性により、取得する情報も個性化されるのですが、「繊細な意識」の気づきと流れる質と量が、個体の個性量を越え、個性を凌駕すると、大楽と言われる恍惚の状態がやってきます。怒りや嫉み、快楽が、脳の細胞のニューロンとシナプスを変化させ、同時に身体の細胞や機能を変化させるように、大楽の恍惚感は、身体と頭脳を純に変化させます。大楽の場合、「繊細な意識」が純な場合にしか発生しませんので、麻薬にような中毒性はありません。正しく行えば、宗教が自己暗示や妄想と言われる原因になることもありません。純でければ「空」ではなく、不純な結果を招くので、思い込みの大楽と分かります。「意」は常に「空」なることを意識していなければなりません。

しかしこの動きは、自己内では、言語思考の「粗雑な意識」と対称性の「繊細な意識」。両者、お互いに了解はできているのですが、社会(世俗)は言語思考で構成されているので、他人の「粗雑な意識」にとって他者の「繊細な意識」は、それに衝動とか妄想とかラベリングする、不穏な動きに他なりません。

世俗との摩擦を避け瞑想修行に集中するため、出家とか隠遁とかになるのは、数々の摩擦の歴史を経て、当然の帰結のように思います。

しかし、今日では、「オートポイエーシス」の考え方のように、「繊細な意識」の存在を、「粗雑な意識」でどう捉え表現してゆくか、つまり、科学と宗教の融合という視点で、考えられ始めています。

これまでお話ししてきた「成仏への道」は、対称性の性質を持つ「繊細な意識」の発見と強化でしたが、一方、「繊細な意識」から「粗雑な意識」への働き掛けもあります。それは「菩提心」と言われ、仏教の教えの大きな柱の一つになっています。


ここまで分析を進めてくると、如来に変化する「成仏の道」(出家修行)とは、様々な制限や個性(特殊)をスルーしてゆく道程であるなら、「繊細な意識」は、今のところ最良の思考ツールであると考えられます。

今回は、長くなってしまいました。次回は、「繊細な意識」を、更に深く高くするとどうなるのかを続けて行きたいと思います。

成仏の方法(6)

2016年05月10日 | 成仏について
「身」つまり身体と「成仏」とはどんな関係にあるのでしょうか。
輪廻転生や即身成仏で、肉体はどうなるのだろうか?。
輪廻転生で、人は死ぬと、死から49日の中陰の間に、次の女性の子宮に入り転生するか、成仏して仏になれと言われます。するとその中陰の間は、魂や霊体のような身体が無いものになるだろうか。
即身成仏では、生身の肉体が生きている間に、生物学的身体を持つ如来に変質するのだろうか。
これらの疑問が、「成仏」という教えに首を傾げざるをえない原因であるかと思います。

先回もお話ししたように、科学とは、対称性の真空の世界から、ビッグバンの何度かの対生成、対消滅を経て、反物質が消え物質だらけの存在になった世界、そしてその世界の全物質と存在、つまりそれら物事の消息を、分析研究している言語思考であると言いました。
その反物質が消えて物質だらけの存在になった世界で、魂や霊体とは、つまりそれは、万人の感覚器官には、もちろん科学的観測機器にも捉えられないので、観念的想像ではないのか?。
即身成仏で仏に変化した肉体は、今まで確認されたことがないので、科学的対象にならないのではないか。だからそれらは、物質などではなく、存在していないのではないか。
宗教とはそんな怪しげなものを扱う、精神世界だけのお話ではないのか。もしや科学の可能性として考えるなら、まだ十分研究が進んでいない反物質か、かっては物質だったが対称性に戻ってしまったものなど。つまりそれらを研究する学説や科学的観測機器が開発されていない、未知の存在物などではないかと…。
事実、科学、特に素粒子論や宇宙論、中でも量子論の進歩が、これまで仏教が説いてきた存在論と似たことを言いだして来ているので、仏教の教えを、科学の理論で説明できることが多くなっています。当ブログでも、対称性の破れ、対生成、対消滅などの科学の理論を借りて説明していますが、気をつけなければならないのは、言葉の中に言葉の意味を求めることです。「言葉の理解が理解の全てになっている」現代では、特にそれが強く。言葉は、月を指差す指先であり、本当の月では無いことを忘れがちになっています。なぜそうなったかは、これまでお話ししてきましたが、でも肝心の「言葉の理解ではない理解」とは何か。をお話ししなければ、それも単なる空論ということになってしまいます。

成仏の方法(4)で、言語思考以外の意識思考理解には、無意識、対称性の思考などがあり、例えば「気づき」「深い瞑想」「自己犠牲の祈り」「アハ体験」「以心伝心」「セレンディピティ」「シンクロニシティ」「神話の思考」「野生の思考」などの思考行為は、砂糖が溶ける時間を待つことなくスピーディーで、遮るものなく直ぐ「意」のものになり、二項分類(対立)などに囚われることもなく自由に、「意」本来の能力を表します。と言いました。
「意」も「口」も「身」も、本来、融通無碍で制限がなく透明で対称性の状態なのですが、何故そうなのか?、この状態では、能力もエネルギーも存在も、全知全能無限永遠の存在である「仏」と同じ能力の可能性を秘めている。と、思われるからなのです。
言葉は月を指差す指先なので、言葉の中に意味を求めても、言葉以上の意味は存在してはいません。言葉は「全知全能無限永遠」と表現はするけれど、言葉に求めても言葉からは、「全知全能無限永遠」の理解は得られないのです。

ここは、「身」についてお話ししているので、本来、融通無碍で制限がなく、透明で対称性の状態とは何か。そしてそれを実現する方法は何か。は、「身」によって、お話しすることにします。
先ず、「身」とは何かを考えてみます。分析には、理解ツールの選択が肝心とお話ししてきました。また、言葉での理解は言葉の範囲を超えては不可能である。この認識は、言葉の理解でも合意できると思いますので、この先、理解ツールを言葉で説明するのが難しくなることが予想されます、そこで論理の飛躍や破綻があっても、言葉での理解を超えた理解で補っていただくことに期待する事になると思います。
ここで、注意をして欲しいのは、「意」にも「口」にも「身」にも、言葉を越えた意識や認識の能力があるということです。、何しろ、本来は、融通無碍で制限がなく透明で対称性の状態ですから、言語思考を離れた立場で客観的に分析できて、それが出来ないとなれば、人は、生まれながらに言葉理解の無間地獄に囚われていて、言葉がいう如来などにはなれないということになるからです。

では、「身」の分析認識ツールの吟味から始めたいと思います。
お腹が痛い時、無意識に痛いと認識してその部分に手を当てたりします。しばらくして「お腹」「痛い」の言葉が意識に浮かぶのですが、浮かぶまでの間は無意識が働き、その間の認識は感触も意味も位置も時間も無意識流に分かっています。お腹が痛いという物事には、無意識と言語意識の二つの認識理解が交互に関係しているのです。現代では、「口」による意識へのフォーカスが、直ぐに、言葉の二項分類(対立)での理解(言語思考)に繋がってしまい、社会生活ではそれが多くを占めますので、お腹が痛いは、言葉での「お腹が」痛いのみを認識し、その前に無意識の痛いがあったことを忘れてしまいがちになっています。

そしてここでは、言葉での理解を超えた理解認識を得るために、その無意識の痛いを認識する能力について考えていきたいと思います。

「身」とは何かを言う前に、身体の隅々まで、知らなければなりません。肉体は一番身近にある物体であるのに、我々は多くを知りません。例えば、足親指の先の小さな細胞一つ一つを意識認識をしているでしょうか。心臓の弁が動くのを感じるでしょうか。脳の細胞の一つ一つが、どんな機能を働かせているのか分かるでしょうか。自分の外部にある自動車の構造やコンピュータ回路、その部品の一つ一つの構造や動き働きなどには、学んだり調べ組み立てたり、夢中であるのに、自分の体の骨や臓器、筋肉、神経、循環している血液、細胞の一つ一つ、生命がそれらを動き出させている様子など、日々、生きた意識で認識をしているでしょうか。せいぜいが、肉体の解剖図、骨の構造図、神経のネットワーク図で、個人的にはレントゲンやCTIの画像で、内臓の形、そこには血液が流れていて、脳の自律神経で心臓が動き血液を循環させている。脳は脳脊髄神経で筋肉を働かせ身体を操っている。などなど、本で読んだ、つまり言葉で与えられた静的な医学の知識レベルで認識しているように思います。
しかし、本当は、「身」の感覚は、刻々と「センサー」を働かせていて、肉体の情報を得ています。急にお腹が痛くなった時などは、言葉で「痛い」を認識するので、その感覚センサーの存在を意識はできるのですが、普通は言葉の意識の裏に隠れて(隠されて)、無意識とラベリングされて、感覚センサーは無意識下で動いています。
そこで、この感覚センサーを意識的に働かせることができれば、自分の肉体の細胞の一つ一つまでも隈なく意識し認識できることになるのではと考えられます。

自分が小さな小さな細胞レベルの小人になって、身体中を巡ると思ってください。思うというより感じてください。体内を通り(血管や骨髄、神経の中を通ってもいい)足の親指の先に小人が到達したら、辺りを見回し、小人の感覚センサーで一つ一つの細胞がどうなっているのか、小人の目で見て触り感じてみてください。小人はつまり自分ですから、自分の感覚で感じることができます。心臓の中に入って、血液の流れを感じたり、弁の動きを見たり感じたり、弁そのものに入り込んで、一緒に動いてみてください。手塚治虫の漫画にあるように、小人になって体内に逃げ込んだ犯人を捜すように、また観光旅行の気分で、全身隈なく、できれば細胞レベルまで、見て感じてください。今日は親指、明日は腎臓とろっ骨というように、毎日続けると、各部にその都度様々な体験が待っていて、さらに続けると感覚のセンサーも慣れてきて、楽しみに変わり、やがて右足の親指を感じただけで、親指全体の細胞レベルの構造や動きと働きが瞬時に繊細に把握できるようになってきます。何日も何日も、例えば就寝のベットで眠りに入る一時を使うなど、根気よく続け、肉体の7、8割作業が進むと、やがて身体の部分部分と全体とが常に連帯し呼応する、前述の、空海の「重々帝網」のようなネットワークとして感じられるようになります。さらに全身に及び熟達すると、肉体の各部の働きと連携、その滞り、全身の様子が瞬時に理解できて、病気のシグナルなどもわかる様になってきます。
感覚センサーには、前に眺めた箇所でも、調べれば調べるだけその都度新しい情報が与えられてきて、限りなく情報の贈与を受けている感じになり飽くことがありません。無限に続きます。永遠無限とは、こんな感じなのかもしれません。
これは無意識の感覚センサーを意識的に動かす方法なのですが、ここでは「口」の意識へのフォーカスも働いていて、そのフォーカスが「言葉」を意識すると、言語アーカイブから対応する言葉が取り出され、対応が無い場合、新しい言葉や言葉の組み合わせが創られ、言語記憶アーカイブに記憶されていきます。
言語思考は、科学的解剖の成果から、情報を認識しビジュアル化し、肉体の解剖図、骨の構造図、神経のネットワーク図などで外部記憶として残しています。これは言語記憶アーカイブによる成果ですが、それを探求し推進する初期段階では、感覚センサーや意識をフォーカスする力が寄与しています。
そのため、肉体の解剖図から、心臓の構造を思い浮かべ、小人の感覚センサーに重ねて、心臓の中を探求する方法が、効果を高めます。それは無意識で動いていた感覚センサーが意識化されることにはなるのですが、それでただちに感覚センサーが対象を離れ言語化される訳ではありません。
感覚センサーの意識と言語の意識は、全く別物です。言語は、物事の全てをラベリングし言語化しようとしますが、感覚センサーの情報量は、常に言語思考を越えていて、言語ですべてをコピーできる訳ではありません。抽象化が行われます。言語は、月を指差す指である。と言われる所以です。
そしてさらに感覚センサーで一度体験し、言語記憶アーカイブにそれが記憶されたので、体験の総ては言葉に全部記憶された。と考えるのが「言葉での理解が理解の全てになっている現代」の特徴なのです。

ここで、整理をしてみます。
「身」の感覚センサーが働き、意識が始まる。「口」がその意識をフォーカス。言語化されれば「意」の対称性が破れ、言語思考により「存在」が発生する。一方、言語化せず、意識をフォーカスしたまま、感覚センサーを働かせば、「意」も「身」も「口」も対称性を維持したまま感覚センサーから続けて際限なく情報を得ることができる。つまり「言葉の理解ではない理解」とは、「繊細な意識」という事になります。

密教では、前者の言語思考による意識認識を「粗雑な意識」。後者の対称性を維持したままの意識認識を「繊細な意識」と区別しています。
現実では、両者ともに必要な意識なので、「粗雑な意識」と「繊細な意識」は交互に現れ、お互いがお互いを利用するバイロジックな状態にあります。
仏教で「悟り」と言われる状態は、日頃意識されることが少ない「繊細な意識」に、長くとどまり、深化させ、永遠無限全知全能を感じられる程に、つまり成仏を実感できる状態にとどまり続けることを言います。
密教の教えとは、その「繊細な意識」の説明、分析、進化について学び、実践することに他なりません。ですから、言葉で書かれた仏典は、読むと言語思考する事になるのですが、内容は言語思考意識ではなく「繊細な意識」を知り学ぶ事になり、読み進むと、理解の端から理解のツールである言語思考を切り捨てていかなければならない、奇妙なそして命の生存としては心細い状態になってしまうのです。継続には余程の自覚が求められます。
ここまでくると漸く、入口の門にさしかかった思いがします。しかし実際は、この先厳しい修行を、例えば何遍も輪廻転生を繰り返し言語思考を捨て去る修行をしたとしても、上手くいかないと言うのが現実で、上手く行く方法を求めて、さらに万巻の経典が表されるという事になります。

次回からは、言葉を綴って行くと、その言語の理解の端からその言語の思考を切り捨てて行く事になるのですが、釈迦は、これら因縁で生じたものは、実体がない、「空」であると言っているので、そんな心細い話にならないのではないか。それとも釈迦が、言葉では表せないと言うような、もっと厳しい事になるのか。言葉であるブログでは表せないことになるかも知れません。

成仏の方法(5)

2016年03月14日 | 成仏について
直感や以心伝心に優る能力が言葉にもあると良いのですが、最近では、コンピュータのプログラミング言語で能力が拡張され優れたものになってはいるのですが、それで返って言葉の能力不足が、皮肉にも分かるようになってきて、この今日的問題もお話ししたいのですが、多分、成仏のお話を続けると、これも分かるようになると思っています。

「意」についてお話しします。
釈迦の教えを、要約し言葉で表すと、次のようになります。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)
そしてこれらは同時に存在し、常に動き続けています。

この教えを「意」「口」「身」で理解し実践、徹底すれば、成仏できることになります。しかし言葉の理解だけでこれを徹底出来れば良いのですが、それは不可能です。知能指数が高くても、つまり言語思考的に長けていても不可能です。
「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明である。とお話ししてきました。「意」の対称性が「口」により破られ、存在が意識に発生すると言いました。言葉の二項分類(対立)思考が超越的第三者を必要としていて、それが存在に客観性を付与している(意識していてもいなくても存在は客観的に存在している)とも言いました。そうすると「意」の融通無碍で制限がなく透明な状態とは、対称性の状態という事になり、対称性の意味をGoogleで調べれば「意」とは何かが分かることになってきます。この手順は学習と言われ、我々の日常の理解活動で正しいということになります。
でも、対称性や融通無碍、無制限、透明のなどの言葉は、言葉での理解を容易にするため、素粒子の働きの説明を借りて選んだ言葉に過ぎません。言葉の意味を別の言葉の中から探そうと努力しても多分発見できないと思います。書物や言語記憶アーカイブにある言葉から意味を探し求めて、一生を費やす人も多くいます。魚釣りをするのと同じで、探し求めるには、先ず、道具の吟味選択から始めなければなりません。
「意」から見て「口」や「身」は、日常では道具の立場になることが多くあります。「意」は、仏の、因縁縁起、諸行無常、空などの教えをしっかり得心保持し、「口」や「身」にも同様であることを徹底させなければなりません。同様というのは「口」や「身」も本来は融通無碍で制限がないのですが、そのため、身の丈に勝る能力を持っていて、自発的に自身や他の融通無碍で無制限で透明な対称性を破ってしまう性質を持っているからです。このブログでは、仏教の教え「人間は仏になれる。成仏できる。」を前提にお話ししているので、仏の全知全能の力が人間にも備わっていて(そのはず)、もしそれがなければ叶わないことになるので、この隠れた力を発見するか、身につくトレーニングを実践するにはどうしたら良いかを考えるのが、常識からは妄想のようですが、仏教が古来から続けてきた成仏の方法という事なのです。そのためには「意」は、道具として「口」や「身」を使うことを学ばなければなりません。前述からの「口」による言葉の働きや成果を否定するのではなく、道具としての能力と限界を知り、有用に活用することを考えなければなりません。
その中でも、現代で物事の存在を分析し理解する能力に長けているのは科学です。科学は言語思考をベースに、「口」の能力である言葉のルールが開発した、最高の分析理解ツールであり、成仏の実現にも十分活用できます。しなければなりません。

ビッグバンの何度かの対生成、対消滅を経て、反物質が消えて物質だらけの存在になった世界が、「縁」により我々が生まれ出てきた世界です。そしてその世界の全物質と存在、つまり物事の消息を、今、分析研究しているのが科学であると言えます。仏教の例で言うと、曼荼羅の「胎蔵界」が、その物質だらけの我々が生きる世界の物事の消息やルールを説明しています。一方、「金剛界」は9個の世界を表しています。(胎蔵界もその中の一つ)、「縁」によって我々が生まれ出なかった別の世界、科学で言えば、反物質の世界、あるいはブラックホールの先の世界、又は、5次元、6次元などのような、未知の世界を表しています。
「胎蔵界」は如来を頂点とするツリー構造のネットワークをしています。あたかも如来が全てに超越的第三者であるかの様で、「口」による存在の出現が超越的第三者を必要としていることと符合しています。(これが今生のルールである)
つまり、仏教では、我々が住むこの宇宙も、一つの特殊世界であると考えています。
成仏とは、つまり、今の宇宙と比べちょっとマシな世界に行くことなのかも知れませんが、その世界の有り様について、華厳思考や大日金剛思考が、日本では空海が教えてくれています。

即身成仏義で、「重重帝網なるを即身と名づく 無礙」の「重重帝網」がそれになります。
一即多、多即一。相即相入。マトリックス。などの言葉がその部分的作用を表しています。
最近流行のビックデータもその状態の一側面を説明しています。一般にビッグデータとは、例えばマーケティングデーターとして、ある集団の顧客性向を知るために用いられますが、本来は集団の行動様式を知る目的ではなく、集団の個人一人一人の行動が集団全体にどんな影響を及ぼすか、例えば電車を降り出口に向かう乗客の流れの中で、一人が転んだとします。すると、集団の流れが変わる。この個人の影響を測定するために開発されたものなのです。集団の動向は、必ず一個人が発生源であるからです。集団が右に動くから集団の中の一個人が右に動くのではなく、個々人が右に動くから集団が右に動くのです。これが示すことは、一即多、多即一。です。個人の行動を調べれば集団の行動が分かる仕組みです。個人の情報が瞬時に他の個々人に伝わり、個々人の情報が瞬時に他の個々人に伝わる、相即相入。の状態です。また、個々人それぞれが鏡の球体をしていて、個々人それぞれの鏡に集団全体の情報が等しく写り込んでいる、貴方は私、私は貴方のネットワークであるような、マトリックス。の状態です。そしてこれらは同時に起きていて、動きを止めません。さらにこの現象は、個々人を、社会に、物質に、物事に、その他全てのものに置き換えても成立しています。
ここでは超越的第三者は存在せず、必要とあらば誰もが超越的第三者になれます。だから我々一人一人が如来に、成仏ができる世界であり、その状態を今生のルール、ツリー構造を導く言語思考で描き表したものが「胎蔵界」の曼荼羅なのです。
空海はこれを「重重帝網」と表現し『重重帝網なるを即身と名づく』と、即身成仏の道を説いています。
我々が、物質として存在として、人間として、社会として国家として宗教として、あるいは会社として家族として普通に考えていることが、実は唯一無二ではなく、変化が可能な、ある特殊な状態であると知らなければなりません。科学も唯一無二と信じてこの世界の物事の分析から始まりましたが、素粒子理論やスーパーストリングス理論で多次元を取り入れたり、ブラックホールの先を考えたり、ビックバン以前を考え始めると、科学も我々が住むこの宇宙は、一つの特殊な世界であると認識せざるを得なくなってきています。

我々の思考の限界を一つお話しします。
紙に、鉛筆で一本の線を引きます。2次元の表現です。それを、紙から引き剥がすと、紐になります。3次元の表現です。ここまでは言語脳である左脳が働きます。脳内に意識を向ければ左脳が少し熱くなっているのが分かります。次に、3次元の紐を次の4次元さらに5次元になるとどうなるかを考えることになるのですが、左脳は、この思考方法ではもう理解も表現にも役に立たなくなっていることが分かると思います。
もう一つ、素粒子論で素粒子は粒子と波動の二つの性質を持ちます。それは観測者の意識によって、と量子論は言いますが、科学ではもちろん量子論でも、時間と空間の全てを見渡す超越的第三者が、客観として観測者を超え存在しますので、超越的第三者から、粒子と波動以外の別の性質の第三のものあるのでは?。の質問が成り立つて来ます。否、その可能性の検証も含め粒子と波動の2つになったのだ。と言われたとしても、超越的第三者にはまた次の新しい超越的第三者が現れるので、質問が尽きないことになります。
この状況を回避するには、5シグマの確率(99.9999%正しい)の検証があれば、超越的第三者の意見は、聞かないことにしようと合議するか、或いはまた、超越的第三者が登場しない思考方法を見つけようということになります。後者は、人類が皆、超越的第三者つまり如来になれるとする、仏教の方法になってきます。
多分、現在ある脳の能力では理解は不可能なのです。理解ツールの選択を科学は間違えているのです。例えば、釈迦の三十二相にある、頭頂が髻のように膨らむ「頂髻相」のように、脳が新しい機能能力を身につけ、パラダイムシフトを考えるなどで…。これが道具の吟味選択から始めなければならないと言う理由になります。
と、ここまで、世界、存在、人間、物質、物事の有り様をお話ししてきましたが、しかし釈迦は続けて、これら因縁で生じたものは、実体がない、「空」であると言うのです。どうしたらいいのでしょうか。悲観的に捉え、もう何も考えられなくなった。とするか、楽観的に、何でも考えられ、豊かで自由になった。と捉えるか。私は楽観的なのでこうしてブログを書いている次第です。
次回は、「意」の道具としての「身」について、お話ししたいと思います。

成仏の方法(4)

2016年02月12日 | 成仏について
これまで、長々と言葉の言語思考のツールとしての限界と欠陥をお話しして来ましたが、では、それに変わるツールや思考方法が見つかったかどうか、しかしそれを言葉で説明するとなると、また難しさが二乗してしまう事になるので、何か表現のブレークスルーが必要になるのですが、それもまた長くなりそうで、今はとりあえず、分かり難くても言葉での説明を完結まで進めてみたいと思います。

先回は、「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明なのですが、「身」の視覚などの感覚器官が感じ、「口」がその意識にフォーカス、「意」の対称性が破られ(フォーカスしなければ対称性は破れない)、「口」は注視した情報をもとに、言語記憶アーカイブから「言葉」を選び出し、物事の輪郭と存在を「意」と「身」に向け発現させる。つまり、対称性が破れると「特定の物事」と「それ以外の全物事」の二項分類(対立)で、存在が成立してくる。とお話ししました。
さらにもう一つの存在認知、有と無、明と暗などの言葉の二項分類(対立)による存在の出現があります。「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明なのですが、日常、目覚めて活動している場合、「意」の意識や「身」の感覚は常に動いていて、その活動刺激で「口による意識のフォーカス」も活発に働き、「意」の対称性は常に破られている状態になっています。
対称性が破られている状態では、「意」や「身」の活動要請で、「口」は言語アーカイブから言葉を自動的に選択し、話し、読み、聞く、あるいは沈黙を「身」に命じます。しかし言葉記憶アーカイブにある言葉は、アプリオリに存在を認知されているので、一つ一つに意識をフォーカスし存在を出現させる手順をとることもなく語句を綴ることができます。しかし、話の間の特定の刺激、例えば「明るい」の存在を意識すると、「口」は直ちにフォーカスを発動させ、言語記憶アーカイブと交信し、「暗い」との二項分類(対立)で、「意」にその特定の物事の存在「明るい」を発現、「意」や「身」に存在意識を与えます。

以上は、日常の意識や思考、感情の動きを、「意」「口」「身」の分類に当てはめ、一般に使われる論理方法で分析したものです。しかしこの方法には、次に説明する「口」の「常に超越ポジションを確保し、客観を暗黙に自称する。」の働きが深く関わっています。

二項分類(対立)で互いの存在を保証し合う、前述の「特定の物事」と「それ以外の全物事」の関係。つまり「明るい」と「暗い」の関係。それは「暗い」がなければ「明るい」が、「明るい」がなければ「暗い」が存在しない関係ですが、それが実行されるには「明るい」と「暗い」を同時に認知し判定する者(視点)が論理的には必要になってきます。それは誰なのでしょうか。二項分類(対立)を実行成立させている「口」つまり「私」なのでしょうか。それとも、超越的な第三者(客観を自称する)なのでしょうか。つまり、二項分類(対立)思考は二項ではなく、私又は超越的な第三者を含めた三項分類(対立)のシステムなのです。
まとめると、われわれが日常何気に話す言葉、その言葉の先の物事の存在保証には、その物事と、二項分類(対立)される物事、そしてその二項を認知判定する第三者、その三項分類(対立)が、常に存在することになります。

日常の意識や思考行動で、朝、目覚めの時、窓の朝日の「明るい」に意識をフォーカス。私自らが超越的ポジションで物事の存在の二項分類(対立)を判定することもあるのですが、日中になるとそれが頻繁に繰返されるので、「意」や「身」の意思や感覚の強い要請が無くても、「口」は意識のフォーカスを自動的に働かせてしまい、あわせて言語記憶アーカイブも自動運転になり、無意識の領域では、あたかも超越的な第三者が、自動的に判定を下している感覚を覚えてしまいます。言葉による物事の存在が環境に量産されると、そこから客観という概念が生まれて来ます。高じるとそれを行うのは神の御心である。と言ったりするようになります。このような物事の存在を量産する「言葉」の発生は、10万年前とも3万5千年前ともと言われていますが、約2千年前ごろの有史には、言葉で書かれたもののみを真実とする聖書やコーランの神が、こうして「言葉」とともに生まれてきました。

砂漠で一神教は始まったと言われますが、砂漠では、青空と砂、大気や砂の匂い、自分の体臭などの認知がほとんどで、言葉にできる物事の存在が少なく、そこからフォーカス意識の希薄。欠けている物事の存在への渇望。特に命をつなぐ水や食料への渇望、日常的にそれら渇望が続くと、自分の命をはじめ今目の前にある物事が、がかけがえのない存在であると感じるようになる。やがてそれは無意識の領域に、超越的な第三者を現わす。つまり神が、それら全部を創り、われわれに与えてくださっていると思うようになる。さらにその意識は、水や食料に限らず、目にふれるオアシスの緑、空気の存在、昼と夜、砂の感触など、砂漠のすべての自然に及び、その物事すべての存在を保証する超越的な神が、日常的に運命的に、われわれの中に頻繁に出現することになります。多くの人によるこの経験や消息は、キリストの生誕やムハンマドの教えとして凝縮昇華され、言葉で聖書やコーランが表わされ、さらに経験の共鳴が人々の信仰を集め、複雑化する社会との交わりでさらに強化され、教えは絶対的な言葉として、心のよりどころになってきました。

しかしこれは、仏教でも同じなのでは?。空海が、声字実相義の冒頭で、「如来の説法は必ず文字による。」あるいは又「明教の興りは声字にあらされば成ぜず。」と述べています。しかし一方、成仏の真理について、釈迦は沈黙し、空海は言葉では表現できない。とも言っています。
説法(言葉)で弟子に教えを伝えた釈迦、成仏の教えを墨文字で書き綴った空海、言葉や言語思考のことを仏教はどう考えていたのでしょうか。
キリスト教やイスラム教での聖書やコーランは、不可侵で絶対的な教えであり、命の救済の目的になるのですが、仏典では、釈迦が発した言葉であっても、空海が書き記した言葉であっても、成仏に至るための解説、つまり手段の表現になります。人類は有史以来、延べ何千億、何兆人が生まれてきたのでしょうか、人それぞれに成仏の方法がありますから、その成仏を目指す人々にあわせ、万巻の仏典がこれまでもこれからも出現するのが仏教の方法なのです。
仏教では、自らが成仏して仏(如来)になることが目的ですから、超越的な第三者で、全部を与えてくれる神のような存在は存在しません。でも如来や菩薩はそのような超越的な唯一の第三者(神)なのではないのか?の疑問があるかと思います。しかしそうだとすると、成仏とは、一人一人がそれぞれ無量無限の存在(創造主にもなり得る)になることですから、神が唯一の絶対的創造主であることに反してしまいます。仏教では、釈迦の前にも何人もの如来がいて、五十六億七千万年後には弥勒如来が出現するという予言まであるので、仏が唯一の超越的な第三者であるとする説明が成り立たちません。

「口」による「意識をフォーカスさせ、対称性を破り、言葉の二項分類(対立)で物事の存在と輪郭を発現させる。そしてそれには、超越的な第三者の判定と認知が必要になる。」この基本の働きは、一神教でも仏教でも変わりません。
しかし、一神教では、そこから生まれた超越的な第三者を、救済の神として敬い、仏教では、二項分類(対立)で発現する存在や、言葉の必要から生まれた超越的な第三者などは、全てに実体がなく「空」であり、克服しなければならない煩悩であるとします。

ますます、成仏とは何かが分からなくなってきました。
成仏への道とは、転生輪廻を繰り返し、その間の修行努力で悟りに近づき、菩薩となり、遂には成仏に至る。と言われます。この道について、ここでは成仏を観念的心情的に考えるのではなく、まだ実感が得られていない「輪廻転生」を始めに、まずイメージを成熟化し具体化する作業から、成仏に近づいていきたいと思います。

例えば、水は水蒸気になったり氷になったりしますが、輪廻(生死)とは、そのような循環のようなものではないかと考えてみます。

もし自分が水だとして、水蒸気に気化したら、水蒸気は元の水であったことを覚えているかどうか。
また冷えて水に戻っても、水蒸気であったことや前の前は水であったことも覚えているかどうか。水も水蒸気も氷もお互いが何者であるのかが分からない。同類であることも分からない。
氷に変化すれば南極なら何万年も生きられて、つまり不老不死ということになるかもしれない。しかし、成仏すれば、仏は全知全能ですから超越的な第三者にもなれ、全てが分かることになる。しかし、超高温になると水もプラズマとなってしまい、人間の仏では、存在も確定できなくなってくるのでは。人の死と生をめぐる輪廻転生はこの様に想像できます。

ここでの問題は、人間は、前世ましてや前々世のことなど覚えてはいないと初めから思っていることです。超越的な第三者がいれば、それが分かり論理的に考えられるかもしれないと思っていることなのです。
つまり輪廻を理解するには、「輪廻」という現世言葉の表現でスタートする言語思考の方法ではなく、別の思考方法が必要になることがわかります。

釈迦の「前世のことを知るには現在を知ればいい。来世のことを知るには現在を知ればいい」の因縁生起や、「すべては実体がなく「空」である」に別の思考へのヒントがある様に思います。

ここまでやはり、難しいことを長々と綴ることになりました。
釈迦は沈黙を選び、空海は言葉では表せない。と言っていながら、引き続き言葉で説明を続けていて、そうすると、同じことの繰り返しで長くなることは、釈迦も空海も龍樹も想像できていたことだと思うのですが…。
次回は、言葉の説明では展開が苦しくなる「口」働きの説明を離れ、「意」や「身」についてお話ししたいと思います。

成仏の方法(3)

2016年01月06日 | 成仏について
「成仏」を分析し理解するには、言葉つまり言語思考では、限界があるのではと考えています。でも、このブログは、言葉を綴っていますし、そうなるとナーガールジュナ(龍樹)のように、説明は饒舌で長いものになるかと思います。私は、18歳以来、言葉で仏教経典と戦ってきて、でも結局何も覚えておらず、記憶はGoogleを頼る有様で、著作権が有るのやらないのやら、カット&ペーストを頼りに言葉でブログを続けて行きたいと思います。そのため生硬な難しい言葉が出て来ると思いまが、でもなるべく説明を少なくシンプルにしたいので、語句や意味の詳細は第三の記憶であるGoogleの検索でお願いしたいと思います。

密教では、「成仏」の秘密を、身(身体)・口(語)・意(心)の三つの観点から、それぞれの働きで分析しています。しかしその三つは、一つのものを三つの方向から眺めたものなので、三つは一緒。一つを語っていてもいつの間にか他を語っているようにと、相即相入で境がありません。ですから、言葉での説明も行ったり来たり、三つのものを同時に考えたりと、論理を破り、言葉のルールを逸脱し、言語思考を越え、さらに人間の認識能力からはみ出す理解を強いることになります。
空海の三密に限らずインドやチベットの密教、タオ、ヨガの教えは、このような未踏の理解と認識そして身体の酷使にわれわれを誘います、そのため、それを可能にする人間の認識能力や身体能力を飛躍的に強化するカリキュラムが教えには組み込まれています。

先ず、「意(心)」からお話しします。
「意」の中心をなすものは、釈迦の教え、言葉では真理という事になります。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)

言葉で表すと、このような長さになりますが、これら教えは、やはり一つのものを別々の観点から眺めたもので、すべて同時に存在し、変化して止まないのです。この長さの文字を読む理解の特徴は、その文脈を読み終えるまで、つまり砂糖が溶けるのを待つ間は、心は変化を止め、次に動くまで空白が生ずる事です。その間にも現象は動きを止めず、心臓も動き続けているというのにです。
ですから「意」が気を付けなければならないのは、動き続けていることを忘れない事です。停止とは、同じ状態の刹那が幾つもその時間つながって出来ている。と考える教えもありますが、何故停止するかは「口」の特徴なのですが、それは後述するとして、それぞれに語られている、因縁、縁起、諸行無常、空などを、常に動いている「意」で統一的に認識するとは、それはどういう説明になるのでしょうか。
素粒子物理学も最後の重力を仲間に組み入れ統一理論を目論む段階に入り、重力を含め、強い力、弱い力、電磁気力の四つの力が、同時に働くとすると、今までの思考方法つまり言語の説明では、量子論の説明と同じようにぎごちなくなることが予想されます。しかし、仏教の統一的説明には方法があります。それは因縁、縁起、諸行無常、空などの考えを、深く心に留めることから始めます。
「身」から見ると、密教で心は、心臓にあるとしますので、心に留めるとは、心の意識を頭脳内から胸のチャクラ(心臓)に下ろすことになり、そこでは心臓が常に動いているので、動き続けていること(諸行無常)の意識を、無意識の側に受け渡すことができて頭脳意識の負担が軽くなります。座禅をしたり瞑想する時と同じで、能力に限りがある脳意識の負担を軽くするのがブレークスルーの要点です。つまり、「意」だけでなくて「口」も「身」も、いろいろ工夫をして気づき、総てが。同時に。因縁により起こり。実体がなく空であり。変化して止まない。と自然に感得得心できるようにすることが修行という事になります。

本来「意」は、融通無碍で制限がなく透明です。瞑想とは、「意」がこうである事に気づき、そこに留まり続けることを言います。そうすると言語の個性的で不自由な二項分類(対立)思考に囚われることは無いのですが、「言葉での理解が理解の全て」と言葉の発生以来、われわれは長年思わされ続けて来ているので、「意」本来の十分な能力を発揮できなくなっています。
言語思考以外の思考意識には、無意識、対称性の思考などがあります。例えば「気づき」「深い瞑想」「自己犠牲の祈り」「アハ体験」「以心伝心」「セレンディピティ」「シンクロニシティ」「神話の思考」「野生の思考」などの思考行為は、砂糖が溶ける時間を待つことなくスピーディーで、遮るものなく直ぐに「意」のものになり、二項分類(対立)などに囚われることもなく自由に、「意」本来の能力を表します。

ここまで来ると「意」を進める前に、「口」の働きをお話しした方が、全体が見えてくると思いますので、「口」についてお話しします。

「口」の働きは次に分類されます。

1)対称性を破り物事の存在を発現させる=感覚器官の感覚に意識をフォーカスさせる。
2)言葉の機能と言語思考
=ラベル貼り(記号化=指先の喩え)、言語記憶アーカイブ。意味を選択抽出。
=言語思考は二項分類(対立)、理解には文字を読む聴く時間が必要(砂糖が溶けるを待つ)
=音(声)の効果、言葉の発声、真言の発声(身と連動)
3)常に超越ポジションを確保し、客観を暗黙に自称する。(常に上から目線)
4)エネルギーの流れと量を意識し特定する=声、真言でコントロールする=身で感知し、意によりコントロールする

以上の特徴が「口」の機能であり、言葉がその中心にあります。

「口」の説明の前に「意識」について、誤解を避けるため、神経科学や心理学との違いをお話ししておきます。
「口」「身」「意」の関係は、華厳経に言う相即相入、互いに対立せず、瞬時にとけあって自在な関係にありますから、意識は、「口」が意識すれば「口」が、「意」が意識すれば「意」が、「身」が意識すれば「身」が、発することになるのですが、相即相入で瞬時にお互いが入り込むので、身口意の三者いずれが発したか定かではなくなります。
神経科学や心理学では、心(意)は何処に所属するのかが問題になっています。密教で「意」は心臓にあるとしますが、唯脳論では、脳が意識を発するので、心はたぶん脳に所属する。としています。でもその前にそもそも心というものがが存在するのか?を含め定かになっていません。
この不確実は、瞬時に起こる相即相入のせいと思われますが、一方、「身」「口」「意」の観点からは、三者それぞれに意識を発するという説明になり、神経科学や心理学とは異なります。

「口」の説明に戻ります。
「意」は、本来は融通無碍で制限がなく透明です。その本来の状態とは、何も考えず静かに外を眺めている瞑想のような時。あるいはまた、突然の音に驚き、はっと顔を上げるその一瞬の意識の空白。目の前を音とともに横切る物体。意識をフォーカス。注視。それが羽音を上げ飛び去る「鳥」であると言語化認識します。鳥?。どんな鳥かと言語記憶アーカイブの中から、トンビ、若いトンビ、いつも上空を舞っていて、餌を見つけ舞い降りて来たのだ。と意味の記憶を引き出して、納得する。
この一連の動作の中に、「口」の働きがあります。はじめの音と物体に驚き感じるのは、聴覚と視覚の「身」の働きですが、意識をフォーカスし「意」の穏やかな対称性を破り、「羽音」「鳥」というの言葉を選択、認識するのは「口」の働きです。言語記憶アーカイブの中から「羽音」「鳥」という言語ラベルを選び出し、目の前に広がる「景色の全存在」から「鳥の存在」を言葉として分離させ浮かび上がらせる、この「景色の全存在」と「鳥」を二項分類(対立)するのが「口」の働きです。一般には有と無、明と暗などが二項分類(対立)なのですが、この様に、意識に物事の輪郭と存在を発現させるのが、本来の「口」の働きです。

まとめると「口」の働きとは、「身」の感覚器官が感じ、「口」が意識をフォーカス。「意」の対称性を破り、注視した情報により、言語記憶アーカイブの中から「言葉(鳥、羽音)」を選び出し、「意」に対し物事の輪郭と存在を発現させます。「口」の働きで、言葉がラベルされなければ、「意」には、はっきり堅固に「物事の存在」としては認知されません。それは「意」が物事として認識するものには、ほとんど言葉がラベルされていて、ラベルされると直ぐに、記憶として言語アーカイブに収納されます。そして、今選び出されて来た「羽音」「鳥」の言葉も同じような方法で、以前にアーカイブされていたものなのです。
記憶には、言葉にはならない身体的記憶、心の記憶などもありますが、そのほとんどは、色、匂い、音、そして周辺記憶、例えば環境、時間などの印象と共に何かしらの言葉にされ、言語記憶アーカイブ化されてしまいます。その中でも生存の危険を防ぐ役目の記憶は生存本能として、「身」「意」により、無意識の記憶領域に切り離されますが、その他は徐々に忘れるかして、記憶のストックは非野生化して行くことになります。

一神教では、神と人間の二項分類(対立)で理解されますが、成仏するとは人間が仏に成ることですから、仏と人の二項分類(対立)が解消されることになります。「成仏」には、言葉での解明を不可能にする構造がある事を意味します。ここにも、釈迦が沈黙した理由。空海が言葉では表現できない。と言った理由があります。

前に(成仏の方法1)でお話しした、キリスト教では、なぜ「魂」が設定されるのかの疑問ですが、人間が死んで存在が無くなってしまうと、言語思考のキリスト教では、人間と神という二項分類(対立)が成立しなくなるので、人間の変化形として「魂」を設定せざるを得なくなるからです。
仏教においても、「成仏」を言葉で語ろうとすると、言葉での二項分類(対立)の思考を維持しなければならないので、霊、魂、霊魂などの、人間の変化形を設定せざるを得ない事情があります。

また素粒子物理学においては、物質と反物質が常にペアで存在する対称性の世界(真空)つまり、ビッグバン寸前の世界では、物質は対生成と対消滅を頻繁に繰り返していると言われます(量子のゆらぎ・真空のゆらぎ)。ある時、対生成で、対称性が破れ物質が反物質に比べ数的優位になると、同数の反物質と物質は強烈なエネルギーを発し対消滅で消えますが、数的優位で残った物質のみが爆発的に増殖します。そしてわれわれの物質だけの膨張宇宙が生まれた。と、これが今日の科学の宇宙論になっています。
対称性の破れで、物質が存在として生起させられるところは、ビックバンと「口」の働きは同じで、仏教で言う「色」ならびに受想行識など、言葉で表せるもののすべてが、仏教の世界では存在と定義されることになります。

「口」による「意」の対称性の破れで、「鳥」の存在は「鳥以外の全存在」との二項対立(分類)で存在が保証されることになりますが、それはあたかも相対性の破れやビックバンで、物質とともに言語と言語思考も生まれてきたかのようなのです。
しかしこれでは、存在(物質、色、言語)の発生前に「意」や「口」や「身」があることになるのですが、釈迦の教えは、それらの発生は、因縁、縁起(因縁生起)と説明しています。
「意や口や身や物質や存在や言葉の存在」は、前からあったものではなく、説明の必要に迫られ?(因)て、「口、意、身、言葉」など(縁)が、「意も口も物質も存在も言葉も言語思考も」生んだ(果)とします。そしてそれら全部は実体がなく「空」と、説明しています。
しかしこれは、言語思考的には論理破綻しています。しかし要点は、論理破綻にあるのではなく、普通には物事を意識するとその物事は存在することになるのですが、意識していても言葉の先の実体(存在)は、有る無いに関わらず「空」だ。というところにあります。仏典にはこの様な説明が多いのですが、これには何十年間も悩まされ続け、今も変わらず、それでも懲りず、私は「意」で、どう理解し、「口(言葉)」や「身」でどう表現すればいいのか苦闘しています。
量子論、相対性理論、超弦理論、唯識論、色即是空 空即是色など、これらが頭脳を悩ませるのは、頭脳が言語思考で考え説明しその範囲から出ないことに原因があるのではないでしょうか。思考ツールである言葉、言語思考に限界があるのか、もしかして欠陥か、それともその二つなのかもしれない。
そして釈迦の教えはその欠陥を、欠陥である言葉で説明しているので、言語理解が二乗して複雑になっているのではないか。そろそろわれわれの思考ツールの事を、つまり観測機器の性能を見直すべきなのではないでしょうか。つまり言葉で理解できれば「成仏」できる訳ではないということのようなのです…。

どうもまた、言葉の限界が先を阻んでいるようですが、次回もしばらく、厄介な言葉での分析説明におつき合いを願えればと思います。
物事には実体が無い、でも物事の存在を否定している訳ではない「空」と、物事の存在を生み、実体があると何故か思ってしまう「口」の関係が問題のようなのですが、その前に「口」のもう一つの働き、存在に客観性を付与する超越的思考を分析すればこの難解を理解できるかもしれない。次回は一神教を生むことになる言葉の別の機能をお話ししたいと思います。




成仏の方法(2)

2015年12月10日 | 成仏について
「成仏」とは自分が仏になることです。キリスト教で人は神になれませんが、仏教の最終目的は、われわれ皆が仏になることです。経典、仏像、仏画などに「仏」は描かれていますが、それは単にイメージのお手本であり、われわれ自らが努力をして、自身の「仏」を創らなければなりません。そのために仏教では、仏とは何か。仏になる方法。さらに、仏にならなければならない理由。を教えてくれます。

では、「仏」とは、何なのでしょうか。
それを明らかにする前に、先ず、われわれの認識や方法が、「仏」を思考し理解できる能力なのかどうかを検討しなければなりません。
寺院の須弥壇上に並ぶ仏像に、「仏」の姿を見ることができます。「如来」「菩薩」「明王」「天」の4種類の仏像があります。その中でも最上位の「如来」が、成仏しようとするわれわれの最終目標になります。その仏像には、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などの名称があり、仏教経典の中では、それぞれの特徴が詳しく語られていて、そして仏像は、この書かれた特徴を元に、想像力で3Dビジュアル化し創られたものです。だからこれは、仏師が実際に「如来」の姿を直に見て観察し彫り上げたものではありません。つまりこのことは、仏師がビジュアルな想像力を加えたにしても、その想像力の源が仏典であれば、仏像は、言語情報そのものを表現していて、ビジュアル情報ではあっても、仏典の言葉による理解をサポートする小説の挿絵のような役目を担っていることになります。
また「如来」以外の「菩薩」「明王」「天」の仏像は、時、場所、人、事柄、現象、環境に応じて、われわれに見えるように現れる「如来」の変化身であると言われます。例えば十一面千手観音菩薩像には、千本を象徴する42本の腕があり、宝鏡、武器、用具など、観音菩薩の力を表す道具を持ち、十一面の顔は、笑い、怒り、悲しみ、慈悲などの表情を表しています。これら造作は、如来の「無量無限」の能力を、その当時の、精一杯の創造力と技術で表現したもので、今日の千手観音では、腕にスマホ、マシンガン、原爆、飛行機、自動車、ロケット、インターネット、冷凍食品などを持つことになります。さらに、この如来の「無量無限」の表現は広範囲にわたり、仏典、仏画、仏具、寺院、さらには時の権力者による町などの環境の構築、国の創出にまで広く及んでいます。
しかし、自分自身の「仏」を創るために、これだけ沢山に、言語思考で如来の「無量無限」、つまり「全知全能永遠無限」を表現したとしても、また何百年何千年をかけスケールを大きくしたとしても、「仏」は、つまり「全知全能永遠無限」は、表現し尽くせないであろう。と、言語思考は初めから密かに思っているようなのです。これがわれわれの創造力、つまり言語思考から生まれるものの限界である。言語思考というツールの限界である。と、どういう訳か、自身は思ってしまっている所があるのです。
文字である「全知全能永遠無限」は、月を指差す指にあたりますから、指の先に月が実在するように、「全知全能永遠無限」も、その指の先に実在するはずなのにです。
そして、密教の修行による成仏は、仏(本尊)の「全知全能永遠無限」を瞑想し感得し、同時に自分自身が「全知全能永遠無限」であることも瞑想感得して、その両者を同一に合わせることで「成仏」を実現する方法です。つまり、「全知全能永遠無限」は手に入れることができて、手に入れることができなければ、「成仏」が実現出来ないということになるのです。
現代では「言葉での理解が理解の全て」になってしまっているわれわれの思考。つまり、言葉の発生以来何千年も続けて進歩してきた言語での理解と説明で、本当にこれからもそれが可能なものなのでしょうか。
それはまだまだ言葉の想像力が足りていないからなのでは?。では何故、釈迦は沈黙を選び、禅では不立文字、空海は言葉では表現できないと言っているのでしょうか?。

大乗仏教中観派の祖、ナーガールジュナ(龍樹)は、果敢に言葉で「仏」を分析し語っています。

「ナーガールジュナの中論」

何であれ依存的に生じたものは
止むことなく生ずることなく
滅することなく永続することなく
来ることなく去ることなく
区別されることなく
独自の性質がなく
概念的構築から解放されていること
そう教えてくださった最善の師である釈迦にひれ伏して感謝します。

と、言葉による想像力は、こんなにも饒舌でなければ生まれて来ないものなのでしょうか。
果たしてナーガールジュナは、すべてを語り尽くせたのでしょうか。

どうも「言葉での理解が理解の全てになっている」言語思考で「仏」を考えることを、見直さなければならない時代に来ているのではないでしょうか。
こんなお話をするのは、すべての文字で書かれた仏典を、敵に回す行為なのですが、どうも釈迦の沈黙を理解したいと思うと、言葉での理解、つまり言語思考では限界を感じてしまうのです。

では、どんな方法があるのでしょうか。いろいろ考えてみたいと思います。
仏教、道教など、ヨガなど東洋の宗教では、心。身。口(言葉)。を詳しく調べ分析し得心するのが、「仏」になる修行になっています。
これを手掛かりに、進めたいと思います。

本尊の観想や曼荼羅の観想による修行は、主に「心」を、ヨガや道教の方法は、主に「身」を、真言や念仏声明は、主に「口(言葉)」を、分析し考え得心を得ようとしています。しかし、心。身体。口。は一つのものを三つの方向から眺めたものなので、三つは一緒。一つを語っていてもいつの間にか他を語っているようにと、境がありません。
東洋の宗教ではこのような方法で真理が説かれ、今日でも真理の実践が続けられています。
そして、言葉は月を指差す指先であり、月そのものではありません。言葉の想像力は、時に言葉と言葉をつなぎ合わせ「全能の月」などとしますが、その指先に「全能の月」などはなく、無駄な努力をすることになります。このことに十分注意して、次はその中でも、日本人にわかりやすい、空海が説く三密加持や、インドやチベットの密教、ヨガ、タオ(道教)、そして科学の言葉で説明を続けたいと思います。

成仏の方法(1)

2015年11月20日 | 成仏について
70を過ぎると、余命の10余年より、「死んだらどうなるのか」を考える方が合理的である。と、前にお話ししました。それで続けて、「死んだらどうなるのか」を考えて来ましたが、そこで分かった事をお話ししたいと思います。

科学を信ずる人や無神論者は、死ぬと肉体が無くなる。だから死んだら無になってしまう。と考えています。死ぬと何もかもが無になる。とは、科学は研究を尽くし、本当は結論を出してはいないのにです。研究の怠慢で暗黙知のようになっているだけなのです。果たしてこれで良いのでしょうか。たぶん、無神論者は全部イコール科学信者ではないので、無神論者の方はこの暗黙知をぜひ考えてみてほしい。

キリスト教、イスラム教などの一神教は、死んだら神の審判により、「魂」に永遠の命を授けられるか地獄に堕ちるかのどちらかになります。どちらも聖書やコーランの教えを守るか守らないかが、判定の基準になりますが、聖書やコーランは、文字で書かれた言語思考そのものですから、同じ言語内の思考から発生する戒律、倫理、知識、社会の法律、規範、習慣などとつながっていて、社会生活と親和性が強く、今日我々が生きる社会での了解、つまり「言葉での理解が理解の全てになっている」ことと深くつながっています。つまり言語思考的正しさが、現世でも、死んでからでも求め続けられるのが一神教世界と言えます。一神教は何故言語思考を選んだのか?。一神教が選んだと言うより、言語思考が一神教を選んだのかも知れません。
また、言語内思考では「魂」の存在が設定されます。それがなければ二項分類(対立)の言語思考では、神と人間との区別がつかない事になるからです。(理由は後述します)

仏教、道教(タオ)、ヨガなどの東洋の宗教は、人間死んだら生まれ変わる輪廻転生の考えがあります。死んだら49日のバルト(中陰)を経て、何処かの女性の子宮に入り新生児として生まれ変わるという考え方です。キリスト教のように死ぬと「魂」に変化すると言うのではなく、肉体は初めから「縁」によって与えられたいわば借り物感覚ですから、借主は死んでも借主であり、輪廻転生は、生から切り離され後戻りできない死の過程などではなく、すべてが一連の現実的出来事のように進みます。今日「言葉での理解が理解の全てになっている」我々の感覚からは、死ぬと「魂」に変化しその魂が女性の子宮に入る。と説明された方が分かりやすく、現実、チベットの死者の書ではそれに近い感覚で書かれているので誤解するのですが、このブログと同様、死者の書も、言語思考で展開されていますから、説明は言語内思考のルールに従わざるを得ないのです。
つまり「変化」という概念が、言語思考のそれとは違っていて、でも、その説明を、東洋の宗教は、教典や説教などの言語でしなければならないところに矛盾があるのです。で、それは何かと問はれ、釈迦は沈黙を選び、禅では不立文字、空海は言葉では表現できないと言い、親鸞はただ念仏を唱えれば良いと説明しています。

また仏教では、死後の変化に、他に「成仏(解脱)」と言う方法があります。
輪廻とは、苦しみを伴う煩悩が生まれ変わってもなお残り、輪廻転生を続けている限り、生はその苦しみと煩悩から抜け出せない事を言います。そして、その終わりのない苦しみから抜け出す方法が解脱、つまり「成仏」なのです。
仏とは、永遠に苦とは無縁の存在ですから、輪廻のサイクルを断ち(解脱)、成仏すること。つまり自分が仏様になれば、苦しみから抜け出せる事になります。
さらに、死を契機にしなくても、即身成仏という生きながら成仏する方法もあります。生きながら仏に変化するとは?。我々人間は、蛹から成虫に変化する昆虫のような生き物ではないはずで、つまりここでも、変化の概念が言語思考とは違っています。言葉で表すと即身成仏と表現せざるを得ないのです。

また仏教には、往生する。つまり、死ぬと極楽か地獄に行くという考えがありますが、これも輪廻転生の一段階で極楽か地獄に行くということで、極楽は限りなく解脱に近づくだけで、キリストの神は天国にいても、その極楽に、仏は住んではいません。

もう一つ、不老不死という考え方があります。不死であれば死んだらどうなるかなど、考えなくもいい事になります。主に道教などが、不老不死を言いますが、生があれば死があって当然という概念は、言語思考の二項分類(対立)そのものであり、やはり「変化」の概念が違っていて、不老不死とは、それは昼の現実が夜の夢に続くような変化感なのです。また、成仏と不老不死が目指すものに大きな違いはなく、成就後に眺めてみたい風景の違い程度のように思います。

このように、古今東西、死んだらどうなるかを調べてみると、世界には他にも別のものがるかも知れませんが、次に分類できると思います。

1)死んだら無になる。
2)死んだら「魂」になり、天国か地獄に行く。
3)死んだら輪廻で生まれ変わる。
4)死んだら解脱し仏になる。
5)生きながら即身成仏する。
6)死なないで不老不死になる。

(1)の死んだら無になる。は、無になるのですから、去りゆく今生のために足跡を残す努力はあっても、死後の行き先の為には、努力をしないことになります。そして、他の分類は、すべて死に行く先のより良き境遇を求め様々な努力をする事になります。

「死んだら無になる」は、最終選択としてどうしようもない場合には残すとしても、「死んだら解脱し仏になる」「生きながら即身成仏する」「不老不死」のいずれかは、本当に実現したいものです。 その為には、成仏とは何か。不老不死とは何か。を次回は考える事になります。