ロゴスとレンマの他に、人間の意識・思考には、何種類か違うものがあるのではないか?。先回は金剛曼荼羅図を例にこのお話しをしました。今回は三密の「身」、つまり「身体」が、それは「空」であると感得するのにはどうすればいいのか、のお話しをすることになります。
そのために未知の意識・思考を使うことがあるかも知れません。
でも何を使おうとも、言葉に翻訳してから、つまり言語思考に変換して語らなければ(ロゴス翻訳する)、「言葉での理解が理解の全てになっている現代人」には伝わらないので、今、どの意識・思考を使っているのか、ロゴスへの翻訳なのかロゴスそのものなのかはっきり明示しておかなければ、全ての知性がロゴスで可能になるとの誤解が生まれかねません。さてどうなるでしょうか、言葉の性能の範囲内で表現できるかどうか、説明が長くなるのではないか、不安になります。
前からお話ししているように、言葉や言語思考とは、ノロマであり、コミュニケーションツールとしてはローテクな意識・思考と思っています。また上手な文章が意味を正しく伝えてくれるなどとも思っていないので、これからややこしい文章になりますがが、そこは皆様に生来備わっている言語思考以外の意識・思考で類推していただく、つまり勘を働かせていただくことになろうかと思います。(わざと「てにをは」を違えたり、感覚的に意味が通れば省略したりなど、違和感を演出することがありますが、気付いたら、その時は自分はノロマな言語思考で思考していると感じてください。)
我々は、自身の身体を説明する場合、例えば、お腹が痛い時、無意識にそこに手を当てたりします。でも直ぐに言語思考(ロゴス)が発動し、昼の食事が悪かったかな?、など、言語の記憶の中から言葉を選び出し原因を探ろうとします。その間にも、その無意識は手でお腹を擦らせたままでいます。原因を脳の言語思考(ロゴス)で思考している間にも、その無意識は素早く意識し思考し、自動免疫機能なのか自己治癒力なのかホメオスタシス的なロゴスが感知できないものを働かせて、対処行動を始めています。ロゴスが気がつかないだけで、明らかに、ロゴスが考えている間に、別の意識・思考で身体が動いているのです。
その無意識(意識・思考)
ここからはこのような、無意識な身体行動であると科学がラベリングしている、その無意識(意識・思考)を分析の対象しようと思います。
東洋の思考では三密の「身」つまり身体を分析する場合、常に動いている身体を考えてきました。西洋流の静的に整理分類された解剖図を元とする医学の方法を採ってきませんでした。採らないというのではなく十分に参考にはするが、主にはしないという態度です。
そして中国やインド、チッベットなど、東洋の思考の全体に通じているのですが、動く身体には、「気(プラーナ)」が流れている。「気」によって動かされている。との思考があります。
西洋医学に対し「命」とは何か、と問うても明確な答えはありません。「死」を問うと、心臓が止まった。脳が止まった。だから死んだ。などと答えます。
東洋思考では、「気(プラーナ)」が「命(生)」を産み、「気」が止まれば死に向かうと考えます。
その「気」はどこから来るのか、どうしたら盛んになるのか、又、衰えるのか、それを「命(生)」の問題として、東洋思考は考えていることなります。
どうしたら人は健康で長く生きられるのかについて、西洋医学では、次々とやって来る死の原因を次々撲滅すれば生は長らえるとし、そのため病気が発生しないよう、健康診断など日頃より健康に気遣いすべきであるとだけで、あまり熱心ではありません。これは我々現代人が普通に教えられきた事ですが、でも、もっと積極的に長生きできる「命」を考えるとなると、東洋医学思考に頼る方が良いということになります。
東洋医学思考では、解剖図(レントゲン写真、CTI)や血液尿検査、生体検査、問診触診など、西洋医学の静的診察治療の方法では身体(病気)を考えません。中国のタオやインドのヨガなどの診察治療では、上記のお腹が痛い時、手でお腹を撫でる「その無意識」の身体感覚を用い、自らの身体細部の動きの状態とそこに働く「気(プラーナ)」の働きを感得しようとします。感得というのは、感覚知覚で身体知識を得ると同時に、「気の流れ」を覚えて記憶する、の二つを行うことになります。
現在ではさらに、西洋医学の静的診察治療の方法も取り入れ、ハイブリットな身体観を得ようとしています。
「存思」
タオの方法で、「存思」という考えがあります。
「存思」の考え方は、身体観や精神性として東洋の思想全体の根底にあります。
これの歴史的な意味や広がりをここで述べることは不可能なので、知識はGoogleの検索でご確認ください。
「存思」は、まず自己の身体を細かく知ことから始めて、人間全体の身体観と精神性を得る方法です。意識、認識、思考の考え方が西洋と東洋では違うように、身体観でも両者の方法は違っています。
「存思」が用いる意識・思考とは、お腹が痛い時、無意識が手でお腹をさすらせる、その意識と思考です。無意識とロゴスでは名付けられていますから、その動きは西洋医学(ロゴス)では解明が進んでおらず、言葉での説明は大変困難です。昔の中国やインド、チベットでロゴス翻訳されて書かれた文献、経典教義などは残っていますが、古語であり難解で、現代語訳でも理解するのは難しく、それなら今自分の身体にある「その無意識」を感得し、自分で言葉化する方が早いということになります。
そこでここでは、一般的な「その無意識」からの感覚知覚をもとに、「存思」を説明していきたいと思います。そのため、所々、言葉に馴染めずオカルトチックな部分が登場するかもしれませんが、ご容赦ください。
「存思の技法」の中身は、お腹が痛い時無意識が手でお腹をさすらせる、その意識・思考を、明確にさせ、自由に出現させ、使い、効果を高める方法を知るということになります。
お腹が痛い時、無意識に手でお腹をさする時、今お腹をさすっていると意識をすると、お腹と手のひらの間に、ちょっと熱を感じ、意識の交接が生まれます。その交接を何度も続けて行くと、手を離しても意識するだけで、手をお腹に当てたその部分に意識を発生させることが出来るようになります。そうなるまでには、脳のロゴス(言語意識)の方も痛みの探索を始めていて、「その無意識」や交接の身体記憶からの励起で言語記憶が呼び出され、医学記憶のフィードバックから、昼食が悪かったかな?などの推測が立ってきます。
東洋思考ではレンマだけでなくロゴス思考も十分に発達していて、西洋流の「ロゴスとレンマ」の二元論ではない、レンマが主導する異種の思考の組み立てがあって、別々の推論が立ってきます。この違いは、両者の文明の根本にあり(中沢新一著「レンマ学」は、この違いを論じている)、漢方薬と西洋薬のように東西の身体観と精神論、処方診断に分断と融和の歴史を生んできました。これは、大きなテーマですのであらためてお話しします。
「その自由意識」
こうして、お腹が痛い時、手でさする感覚を、手を使わなくても、自由に意識をお腹に向けることができようになったら、次に、身体の様々な部分、この場合ロゴスにも協力を仰ぎ、解剖図などで器官の形や色や位置を参考に、心臓と思ったら心臓に、足の親指の先端と思ったら、「その自由(無)意識」を直ぐにそこに行かせ、状態を探る態勢を維持するようににします。これに熟達すると、「その自由意識」と手のひらを使い、例えば心臓の部分にじっくり手を当て意識を働かせていると、意識が皮膚上から体の内部に降りてゆき、解剖図の心臓やYouTubeで見たドクドク動く心臓の形を想像すると、その形に意識が乗り移ったように感じられてきます。勿論、直に触れる訳ではありませんので、意識上に現れるだけで、超能力が身についた訳でありません。
こうして、順番に全身を巡り、体中の器官など全体を意識できるようになるには、長時間を要します。最低三年程はかかるでしょうか、内蔵器官だけでなく、骨、血管、内膜、終いには細胞の一個一個、分子原子の一個一個にまでもその自由意識を及ぼします。(死ぬまでにそうなりたいものです)
電子顕微鏡では、動いている細胞を捉えていますが、その状態にまで、例えば心臓の右心室の細胞レベルに意識をフォーカス出来れば、「その無意識」はその動きと一緒に動くことになります。
次に、自分自身がミクロン単位の小さな小人になると想像し、小人が「その自由意識」の中に入っていると想像します。その小人が、心臓や肺や胃、血管、リンパ管の中を巡り、小人の、つまり自分ということになりますが、小人(自分)の触覚や視覚、臭覚、味覚、聴覚(舐めたり、触ったり、嗅いだり、色を見たり、熱を感じたり、声を出したり)を使って、内蔵をはじめに、身体の隅々の部分を観察することを始めます。
小人はこれに習得すると、意識するだけで、その体の部分に小人が出現し、観察を始めます。これを続けると、小人による全身の器官の色や匂いや味覚や触感が伴った感覚的な身体図が出来上がり、身体記憶に収められます。脳の言語記憶に移せば移せますが、言語記憶では記憶容量不足なので、解剖図のような検索用のラベルの記憶のみになるでしょう。
このように身体のある部分に「手」と「その自由意識」を当てると、その部分が熱くなるのを感じる。これが「気(プラーナ)」です。
文字(ロゴス)で書かれたタオやヨガの解説書によると、「気」には、「外気」と呼ばれる宇宙の「気」と自分の中に生まれた時からある「内気」があると言われます。そして、最終的に両者は、同一のものであることが分かってくると言われています。
体内には、「気」が全身を廻る無数の経脈と支流の脈があります。人は生まれると、その脈を通じ全身に「元気(内気)」が流れはじめ、「命」が始まると言われます。
その「気」を操ったり強化したりして身体を変容させる(健康や長寿も変容の一部)技法が東洋にはあります。タオでは仙道、気功。密教(インド・チベット)ではヨガ・タントラ修行などがあります。
その方法を、タオで説明すると、「その自由意識」や「手のひら」を、下腹部に当てて、そこに「気」をためるように意識します(暖かくなってくる)。その「気」を会陰部から尾てい骨(ヨガでいうクンダリー)に送り、脊髄の骨中(督脈)を、腰、背中、首、脳中を抜け脳頭より抜け宇宙の「気」に合体させるようにします。反対に宇宙から頭中、体の中心(任脈)を通り、下腹(丹田)に宇宙の「気」を受け取る。など、宇宙世界と交接しながら気の循環をトレーニングします。
詳しくは、ヨガ、タオ、密教とも同じですから、自分に合ったものを参考にしてください。用心深くしないと身体を壊したり精神が壊れたりすることがありますからご注意ください。
そうならない方法は、初めから全てが「空」であると悟っていることが肝心です。
レンマ状態であればわかりますが、初めから悟っていなければ悟れないというのは、ロゴスからは矛盾しています。この場合ロゴス(言語思考)とはそれを表現できない、ノロマな意識・思考であると思ってください。
では、ノロマな意識・思考とは、どうゆうことでしょうか。もっと説明をします。
ノロマなロゴス
タオや仏教そしてインドなど東洋の思考の経典や教本を読んでいると、どうしても結末が気になって来ます。最終ページへの誘惑を抑え読み進め、漸く結末に達すると、
次のような記述に行き着きます。例えば、
・タオ(道教)では、「道(タオ)との合一」を言います。
陰陽の二つの気を持つ身体・心を純陽化させ、道と合一します。
・密教(チベット密教)や後期密教(秘密集会タントラ)の場合では、
「究竟次第」では、気をコントロールすることによって、心身を静め、活性化し、煩悩をなくしたりなど、身体技法による修行をします。=「存思」「その自由意思」「クンダリー」などの活用。
「生起次第」では、自分を仏としてイメージし、仏の輪廻を観想し、仏の三身を得るなどの心の修行をします。=「レンマ思考」の活用。そして「究竟次第」と「生起次第」とを双入(合体)させ、悟り(最高の叡智)を得ます。
・古代インドのヴェーダの悟りでは
梵我一如(ぼんがいちにょ)と言い、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であることを知り、悟りを得ます。
それぞれ詳しくは、google検索ください。
と、書かれています。
そして、この三者には共通する思考アルゴリズムがあります。それをまとめると
・「純陽化した身体」+「純陽化した心」=道(タオ)に合一させる。
・「究竟次第」+「生起次第」=悟り(最高の叡智)を得る。
・「梵(ブラフマン)」+「我(アートマン)」=梵我一如の悟りを得る。
など、ニ項を合体させて第三項を得る(1+2=3)という方法です。
この記述法がレンマの悟りを説明するロゴス翻訳の方法です。
3にあたるものは、レンマであれば一瞬にして直感でわかり、1と2と3の全体の詳細も分かります。身体感覚を認知する「ある自由意識」も直感的なので、レンマと似ています。レンマの仲間のようにも思えます。そうなら「ある自由意識」の「自由」もロゴス翻訳で説明できてもっと理解が進むかも知れません。
ここにはロゴス思考の特徴と限界が見えていますが、さらにロゴスを詳しく探ってみましょう。
ロゴスは、二項選択(分類)で、言葉(言語思考)により「存在」を現出させ、それをベースに思考します。…例えば、「明るい」存在があるから「暗い」存在がある…
(詳しくは、成仏の方法(10)をご覧下さい。)
そして現出した二項の存在、例えば「明るい」と「暗い」の内容は同時合わせて認識できますが、その二項に一項をプラスした三項、例えば「薄明るい」などを加えた三項全部の存在を、同時に認識把握することが少々苦手になります。第三項を意識した瞬間、一とニ項の認識を手放しがちになります。これは脳の能力と言うよりロゴス思考の限界なのですが、第三項目の存在の把握には、ほとんどの場合、前出の二項に関連付けて把握する方法を取ります。
1+2=3の数式に例えると、「3とは、1と2の要素を含む1+2である」と言うように、他の二項との関連を抜きにしては認識できない限界を持っています。
そのため例えば、
・1梵(ブラフマン)+2我(アートマン)=3梵我一如の悟りを得る。
では梵と我が一体(一如)になることは我(自分)には分かりますが、自分が一如になったと想像してしまうと、一瞬、前の我であった自分のことがよく分からなくなる。遡って説明が有っても、非現実になっていてロゴスレベルではよく分からないことになってしまいます。
次に応用編です。例えば、
物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
これについては、因+縁=物事=空(実体がない)に置き換えられますが
物事を認識してしまうと、それが生まれた契機である因と縁の認識が希薄になってきます。さらに物事=空となると、因と縁と物事と空の四つを同時に認識することが難しくなってきます。
この場合、「空」には因と縁のわずかな残存(習気)はあるのですが別の空間にワープしている感覚があります。因や縁とは煩悩ですから、煩悩を離れるのが成仏だとすると、「成仏」とはワープ(空)することなのかも知れません。曼荼羅図や極楽図などでロゴスはこれを説明したりしますが、でもこの図からはワープを感ずることはできません。
でも、レンマからは、こんな風にノロマなロゴスが見えているのです。
ロゴス(言葉)で説明するのは、本当に難しくややこしくて徒労を感じてくる。人には生まれながらに備わっている「レンマ」があるので、これで考えコミュニケーションすればいいのではと思えてくる。
しかしここで、もう一段深く考えたいと思います。
超越的な第三者の眼差し
空が別世界へのワープだとしても、その思考のワープを別次元で見届けている取り澄ました「超越的な第三者の眼差し」があることに、ロゴスの思考は薄々気づいている様に思えます。そんな態度がレンマには見えるのです。
(詳しくは、成仏の方法(10)をご覧下さい。)
この超越的第三者は、キリストの「神」や仏の「如来」をも上から目線で俯瞰していて、さらにその目線の上に立ち、続けてその上から眺めると言う、屋上屋を重ねて、部屋の中の象。の振る舞いで働いています。
現実意識では、これに次々と存在を発生させる二項選択(分類)が働き、さらにはレンマが無意識に現れたりして、ロゴスはこの流れをウロウロにしか把握できなくなっていて、これがノロマな意識・思考と呼ばれることになるのです。
二項選択(分類)と「超越的第三者の目線」の思考について、この二つはロゴス自身のものですので内容把握は辛うじて出来るのですが、三つ目のレンマが無意識に現れると、三つ同時の認識理解の苦手からロゴスの認識把握はいつも不確かで、ギリシャ以来西洋の宗教や哲学で、例えば、三位一体や純粋理性批判など、そのノロマゆえにいつも解かねばならない課題が本題の前に来ることになっています。
ロゴスは、言語で「存在」を現出させこれをベースに思考します。言葉は「存在(単位)」を時間軸に従って並べる「線型性」(S V O順など)で動き、さらに修辞法などで意味を創ります。
「超越的第三者の眼差し」とは、この線形性工程の監視役です。コンピュータ言語やAIのアルゴリズム構築の原型に当たります。
線形処理で動くコンピュータのCPUが高速化しシンギュラティを迎えます。同時にAIが脳のニューロン→シナプスの構造を真似てニューラルネットワーク→ディープランニングとして発展し、コンピュータ上に解決へのアルゴリズム(ソフト)を創ります。未来への進歩に期待が集まります。
この働きのベースには線形性+時間があります。ロゴスは当然そこに「超越的第三者の眼差し」を向けていて、入力から出力までの行程を見守り、さらに上位の結果が出るようにと促します。
これらはロゴス思考が発展し生まれる科学成果です。これによりノロマなロゴスの性能に進歩があるかも知れません。ロゴス翻訳の精度が上がり、「レンマ」や「ある自由意識」など他の意識・思考のことも上手く説明(翻訳)できるようになるかも知れません。音声入力の性能向上のようにです。
しかしロゴスは、自身の「超越的第三者とその眼差し」について、分析どころか存在にも気づいていない様子なのです。せっかくロゴスが努力をして「宇宙はビックバンに始まり膨張を続けている」と宇宙論は答えるようになったのに、ビッグバンの前は何。とか、宇宙膨張の果てはどこ。などと「超越的第三者の眼差し」は、その答えにチャチャを入れてきます。そんな疑問こそが科学進歩の源なのだ。などと強がりを言ったりしますが、「超越的第三者やその眼差し」の方が誤りであるかも知れないとは考えようともしないのです。
これまでの分析で、現実意識の「ロゴス」の他に「レンマ」の思考があり、そして身体に作用する「ある自由意識」もあることが分かってきました。
ロゴスとレンマが融合したアーラヤ識が現実意識の下にベースとしてあるのですが、そこに身体感覚の「ある自由意識」を加えるとどうなるのか。そしてロゴスの進歩であるAIや量子コンピュタと、この他の意識・思考がどう関係してゆくのかを次回は考えてみたいと思います。
おまけ-------
自分の身体には、60兆個の細胞があると言われます。そうするとそれを構成している分子原子の数の全体は幾つになるのでしょうか。
この場合、ロゴス(言語思考)では、無限とか♾とラベリングしてしまい、ラベリングが済めばそれ以上数えようとはせず記憶にも収めません。
しかし、身体の「その自由意志」で体内の既知の部分に小人(自分)が立つと、その場の活動記憶がふわっと表れてくるのです。これらを言葉で記憶するには膨大です。でも確かに記憶は存在しているので、明らかにロゴス的頭脳記憶ではない別の身体記憶装置が必要になってきます。
だから言語記憶は、これを内実のない「身体記憶」とか言う大まかな曖昧ラベルにして済ましてしまうのでしょうか。
近年医学では、様々な細胞から体内に100兆個もが放たれ流れるエクソソームというメッセージ物質が話題になっています。(詳しくはGoogle検索してください)
これらは、頭脳を介しない、細胞間や器官間のコミュニケーションであり、頭脳の指令とは違う別のメッセージとして働き、器官はそれに反応し独自の対処行動をします。
お腹が痛いとき無意識に手を当てるのは、胃の細胞から放たれるエクソソームの異常信号を感じ取り、脳を介さず、身体が思考して手と腕に伝えるからなのかもしれません。このことからエクソソームの発信元の細胞(器官)と受け手の細胞(器官)には、それぞれが状態を記憶し、自発的に発せられる意識・思考とを持ち、頭脳を介さず、常に働いていると考えられます。
体内細胞間には血管を通じ100兆個のエクソソームのメッセージが飛び交い、メッセージそれぞれが別の体内器官に特別な活動を促します。そして中枢器官と考えられている頭脳もそれぞれの結果を受け取ります。でも何しろ100兆個の内容ですから、ロゴス(言語思考)が主導する脳の能力では、その中の特別と脳が判断する結果のみをラベリング記憶にとどめて、多くは身体記憶に任せることになります。
しかし、自分が小人になったその自由意識には、無限や♾とラベリングする仕掛けがありません。しかし身体記憶の膨大な情報の中から必要な情報を瞬時に取り出す能力を持っています。続けようと思えばいつまでも続けられます。その間中、仕切りたがり屋のロゴスにもその結果が渡されていて、ロゴスはそれらから取捨選択をして、現実意識の思考や行動にもつなげていきます。
天の川銀河には2000~4000億個の恒星があると言われます。惑星などを加えれば1000兆個にもなり、その天の川銀河と同じ銀河が宇宙全体では数千億個(無尽蔵)あると言われます。
そして自分の身体には、60兆個の細胞があると言われます。それを構成している分子原子は幾つになるのでしょうか。宇宙も無限(無尽蔵)であるなら自分の身体も無限です。我々は、このような無限に囲まれています。
その無限を、ロゴスは無限や♾とラベリングし思考停止してしまいますが、レンマやその自由意識らは、ロゴスに止められない限り、無意識に静かにロゴスの邪魔をせず連続に意識・思考して無尽蔵を体験しています。
人は、無限を思考しようとすると始めに「レンマ」や「その自由意識」らが現れてきます。
阿弥陀如来や薬師如来など如来は無限無量の存在と言われています。それらを瞑想すると「レンマ」や「その自由意識」が自然に現れてきます。そしてその如来と同一になる事ことが、祈りの目的であり本質になります。
タオや仏教、インドの思考など東洋の思考では、外なる無限を如来、タオ、ブラフマンと名付け、その外なる無限と自己の内なる無限を融合させる。あるいは取り替える。合体させる。などの瞑想修業をします。
ロゴス(言語思考)のように時間軸に沿って事物の概念を存在化しそれを並べ続ければ無限に達するとする方法からは、そんな「レンマ」は単なる直感にすぎないと現実意識からは差別的ラベリングされてしまい、その境地を得るには、瞑想や坐禅、隠遁など面倒な方法を取らねばならないことになり、瓢箪鯰のような、又、カラカラ鳴る瓢箪のような五月蝿いことになてしまいます。
人間には、無限をいつまでも意識出来る別の意識がある。と、それに気付けばロゴスの現実意識から離れることができる。個体から液体や気体になる気分です。
つまりそんな意識で、自分の身体を考えるのが、東洋の思考の方法なのです。