写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

レンズの自由意思- 1

2010年02月09日 | 「レンズの自由意思」
写真には、撮影者が撮った積もりのないものが沢山写っています。
絵画では、木の一本、葉の一枚でも丹念に描かなければ画面に現れませんが、写真は、葉の茂った樹木にレンズを向ければ、誰でもが写し取ることが出来ます。そしてそれは、撮影者の意思とは関係なく、対象にレンズを向ければ、自動的に写し取ってくれるものなので、それをカメラレンズの自由意思と名付けたいと思います。
カメラは自走しませんから、撮影者が被写体にレンズを向けるその範囲での自由意思と言うことになりますが、それでも、 撮影者の注視感覚を越え、撮った積もりがないものまで写っている、そんな自由な振る舞いを言います。

これは、レンズの方が人間の感覚より優れていることを意味しているのでしょうか。 機能的には、 眼球の水晶体とレンズ、フィルムと眼球の網膜は同じ原理ですので、人間にも同じものが見えている筈なのですが、人間には事後や事前に選択意識(注視)という恣意的な情報制御が働くので、注視されなかたものは、撮った積もりがないということになるのか、それとも、そもそも人間の視覚(器官能力)や情報処理能力がカメラより劣っているということなのか、そのどちらかになってきます。

もし、レンズの方が人間の感覚より優れているとすれば、これはつまり、 写真とは、常に人間にとって情報過多であることを意味し、カメラレンズの自由意思が写し取ってくるものの中には、人間の感受能力を超えた何かが写っている事になります。

これらの疑問はどうなのか、次の写真の撮影法の違いを例に見てみることにしましょう。

写真の撮影法を、次の五種類に分類しますが、それは、撮影者とレンズの自由意思との関係で仕分けることが出来ます。
レンズの自由意志とは、撮影者の意思とは関係なく、カメラのレンズに映っているものは総て写す。という、レンズ固有の性質を言いますが、
第一の写真撮影方法は「広告写真」です。
雑誌や新聞の広告に使われる「商品写真」「タレント写真」「イメージ写真」などです。これは、映って欲しいものだけを撮影する。つまり、映って欲しくないものを画面から外して行く方法の撮影ですが、撮影現場(主にスタジオ撮影)では、映っているものは総て写すというレンズの自由意思をどのようにして殺し、目的の画像を創るかの仕事になります。

第二は「ニュース写真」です。
事故の現場、殺人犯の移送、ホームランの瞬間。など、予め明確な目的がある撮影です。でもそこでは常に時間的空間的な偶然がつきまとうので、そうなった場合、映るものは総て写すというカメラレンズの自由意思に任すことには、本来は限定的なのですが、時にそれが思いがけない効果を発揮したりするので、 案外、寛容になる撮影法です。

第三は、レンズの自由意思に無関心な方法です。
アマチュアカメラマンのお母さんが我が子の笑顔を撮る時の撮影法です。
現像ラボから上がって来た紙焼きの中から、あるいはデジカメ写真のパソコン液晶モニターの中から、これ良いね!。と選ぶ撮影法です。

第四は、レンズの自由意思を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法です。
野町和嘉などのドキュメンタリー写真家の撮影法ですが、 芸術写真、ポルノ写真もそうなのかも知れません。つまり、レンズの自由意思を制限したり尊重したり、あるいはそれに加えたりする、撮影者の最小限の意思が何であるかによって違ってきます。
そしてこれは、映って欲しいものだけを撮影する第一の「広告写真」とは、レンズの自由意思を尊重する意味で、反対の方法になります。

第五は、言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法です。
例えば商品の細部を説明するための部分写真などですが、言葉によるラベリングを代行していて、写真は視覚ですが、記憶(記録)は言葉の論理で理解されます。
言葉の論理で理解されるものとすれば、随筆や小説の挿絵の写真、百科事典の写真なども言葉で理解するためのサポートですので大きくはそうなのかもしれません。また、説明文が無くても文字で書かれたシナリオをベースに撮影編集される組写真などもそうなのかも知れません。つまりそれは、文章で書かれたシナリオを元に、映って欲しくないものを画面から外して行く映画ドラマと同じように、言語での理解を妨げるレンズの自由意思を、画面毎に小骨を外して行くように排除し作成されるので、画像を楽しむと言うより、言語理解を楽しませる為に画像を使うエンターテイメントと言うことになります。
この撮影法は、現代では、言葉での理解が理解の総てになっていることと深く関係しています。

このように、写真撮影法を分類してゆくとさらに次の疑問が出てきます。

・人間の理解や認識とは何なのか?
・レンズの自由意思が生かされた写真には何が写っているか?
です。

始めに「人間の意識・認識・理解とは何なのか?」を考えてみます。
写真は画像ですから、人は視覚で認識します。その認識に心が作動して理解が生まれます。
ではこの場合、どのような意識が働くのでしょうか。

人間には現実意識と無意識の二つがあると言われます。
現実意識とは、言語による思考と理解がベースになります。それは言葉に身振り手振りや表情が伴う会話レベルの意識であったり、文字で書かれた本を読んで理解するレベルの意識です。これは論理的思考ですから破綻が無く、人々が等しくこの意識を有することで社会のバランスが保たれます。
一方、無意識とは現実意識に隠れていて、例えば夢の中の意識であったり、心の中の想像や妄想など表面には現れてこない意識です。時に、懐かしい、胸キュン、祈り、恋しいなどの無意識は、現実意識に働きかけて言語化されたりするのですが、言葉で表されたとしても、詩的であり、論理的に内容を細かに説明しようとすれば何万語あっても言説不可能な意識です。
このことから、言語思考をベースにする現実意識は「粗い知性」。無意識は「繊細な知性」と言われ、現実生活で人間は、この二つの意識をバイロジック(複合論理)で操り、心が作動し理解をしています。
また無意識に動くと言うように、言語を司る大脳をスルーし、現実意識を無視し、無意識が現実意識のように発露される事もあります。また非論理的で、我彼、過去未来の壁を越え自由に動く流動的な意識ですから、現実意識のサポート無しに、現代の生活の中で発露させれば、統合失調症と言われかねないコミュニケーションの破綻が起こります。
しかし、人間が感じる幸福感や感激は、この無意識を満足させることから生まれる出るので、無意識が無ければ現実意識は、心を持ち、そして理解を待つことは出来なくなります。

では次に、意識と写真の関係。写真はどの意識で見られているのだろうか?。あるいは、意識は写真に何を感じているのだろうか?。を考えて見ます。
これは、撮影者からの問いですが、この問いは、なかなかシャッターが押せない状況を経験したカメラマンが特に思うことであり、撮影者の意思(現実意識と無意識)と関係があります。

野町和嘉の場合で見てみましょう。
野町和嘉のドキュメンタリー写真は、第四の、レンズの自由意思を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法です。
では野町はどんな意思を残しているのでしょうか。


 

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野町和嘉の意思と撮影法は、シンプルです。
風景を撮影する場合、地球があって大地から垂直に木や山や砂丘や建物や大気や空がある。そんな肉体と地球との根源的なバランス感のみを撮影の意思(無意識)にしています。他はカメラの自由意思に任せるという方法です。人物の場合も、人は地面に垂直に立っている。を無意識するだけです。ですからカタチや色や対象の魅力は、レンズの自由意思が写してくれるという方法です。
レンズの凄いところ信頼ができるところは、野町の、肉体と地球との根源的なバランス感覚を、つまり人間の無意識の領域をもフイルムは写し取ってくれるということです。
撮影の時と場所にカメラを運び、シャッターを押すだけでは、良い写真は撮れません。 良い写真を撮るとは、対象物の魅力と撮影者の意思を同時にフイルムに写し込む能力です。野町の場合、シャッターはいつも躊躇なく素早く押され、大地(地球)感覚、それは学習というような後付のセンスではなく無意識の才能の領域にあります。

(次回に続く)
次回は、「レンズの自由意思が生かされた写真には何が写っているか?」を考えて見ます。

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