写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

何故「死んだらどうなるか」を考えるのか?(3)

2012年02月18日 | 死んだらどうなるのか
何故「永遠無限全能」などと荒唐無稽な言葉で、話を進めなければならないのか。?
についてお話しします。

先日TVで、ある高名な経済学者が言っていました。私は来世や輪廻を信じない。死んだら塵芥になり無になってしまうと。そして、今の政治や政治家はなっていない。これでは日本の将来が思いやられると。
しかし、来世に自分が生まれ変わり、その時に政治が酷いことになっていたら困る。というのであれば分かるのだが、生まれ変わりもせず、自分がそこにはいない未来を心配するのは、単なるエゴである。しかも、その来世や輪廻を信じないという思考も、学者らしくない根拠の薄い心情論なのである。

日本の知識人と言われる人には、科学を信じて、死んだら無になるという人と、この経済学者のように、これが日本人の心情であるなどと、確か福沢諭吉がそう言っていたとか、などの、根拠の薄い心情論で、死んだら無になると思っている人が多い。そもそも、輪廻を信じていない人が、自分がいない未来を評し、憂うというのは、非論理的で論理に生きる学者として無責任ではないか。

キリスト教社会では、自分の死後も神が社会を見守ってくれているので、未来への憂いや心配を、神に託すことができて、少なからず責任は持てるのですが。日本の死んだら無になるといっている知識人のほとんどは無宗教であり、唯一信じているのが科学だったりするので、それでいて、信じる科学に本当に死んだら無になってしまうのかを聞いたこともなく、自分のこの思考が何処から来て、科学的に論理的に吟味され、自分でも十分に納得できる思考だと確信を持っている訳でもない。学者でありながら、あたかも誰かにマインドコントロールされているかのようなのです。

先回もお話ししましたが、科学の宇宙論で、地球(惑星)や宇宙の生死を研究するのであれば、人間の生死、つまり「死んだらどうなるのか」を、科学も政治もすべての学者が真剣に研究して欲しいと思う。
良き未来を語るとは、子孫のためだけでなく、自らが生まれ変わる来世のことであれば、切実で実り多き研究となるのではないでしょうか。

では仏教は、どう考えているのでしょうか。
釈迦は、自分の過去のことを知ろうと思うなら、現在を知ればいい。未来のことを知ろうと思うなら、現在を知ればいいと言っています。
つまり、因果論(因縁起生)により説明しています。
原因に条件(縁)が加われば、結果がある。という考えで、例えると、この世で種(原因)を作り、来世で土に植え水をまけば(縁)芽が出る(結果)。ということです。更に原因が条件になったり、結果が原因になったり、あっちの原因がこっちの結果や条件であったり、複雑系で量子論的にからみ合って世の中は出来ていると言っています。
その複雑系で量子論的なために、一つの結果がどうして生まれたかの原因を、過去に遡って捜しても、未来を捜しても、人間の頭脳では分からない。手にとって実感ができない。つまり「空」だと言っている。「空」は無なのではない、人間の能力では分からないということなのです。

仏教は、究極、成仏を願う宗教です。「仏」は、全知全能の存在を言いますから、人間の能力では分からない「空」も、当然に、仏にはそれが何であるかが分かっています。
キリストの神も、全知全能ですから、ここで言う「空」とは何であるかが分かっています。
仏教とキリスト教の違いは、キリスト教徒の人間は、神になれず、神に己のすべてを任せることで信仰が成立していますが、仏教では、誰もが成仏、つまり神になれると言い、その信心により信仰が成立しています。

そのため、先の経済学者が来世や輪廻を、ただ根拠の薄い心情論で、私は信じていない。と言うのとは違い、仏教では、釈迦やその後にも多くの研究者が、様々な手段と深くて鋭い研究、整然とした論理により、来世や輪廻が研究されてきていて、その成果が、仏教徒の信ずるところとなっています。
つまり、このブログでは「永遠無限全能」などと荒唐無稽な言葉を発して話を進めている。と言いましたが、先の経済学者にはそう見えるとは思いますが、仏教を研究している人たちには、古来より、仏や成仏の研究、つまり 「永遠無限全能」である「仏」の研究をしてきた訳ですから、私の「永遠無限全能」は荒唐無稽な言葉では無いことになります。
そして、キリスト教の人も、全智全能の神を知ろうとする努力をしますから、結局、「永遠無限全能」を研究する者ということになります。

仏教の根本は、仏になる、つまり「永遠無限全能」になるには、どんな方法があるのかを研究するということになります。
一方科学では、科学研究結果を、人間が安全に検証ができれば、それは科学的真理であると認定します。検証すると必ず人が死ぬという科学的真理を想定できますが、つまり、人類が死滅して神だけが残ることですが、これも結局、誰も検証済みとサインできないので科学的真理とは認められません。
さらに科学で「仏」の真理を検証するとすると、人間は「永遠無限全能」ではないので、それを検証する能力がない。また検証には普通の人間が許容できる確実な安全は存在しない。と考えます。つまり、科学者が宗教に対して取る態度は、宗教は人間にとって安全ではない。だから真理ではない。といっているように思うのです。

これは、研究態度に違いが有るのかもしれません。
宗教サイドから、科学とは何かを分析すれば分かるのではないでしょうか。
科学は、キリスト教社会の西洋で発展してきました。キリスト教下であるからこそ発展したとも言えます。例えば、宇宙が生まれたビックバンの以前は何。と問うと、総ては神が創造した世界から始まる。と、キリスト教徒科学者は答えます。
神はいないと言い,世界は神が創ったのではないと言う西洋の科学者も、神を認知しているゆえの発言ですから、別の神がいるということと同じです。
つまり科学は、全知全能の神が創造した全世界の、その真理の追求ではなく、その中の限られた部分世界の真理を追求する学問であり、そのことでは有能である。と、キリスト教社会では認識されているのです。
そこでは、輪廻、来世、死んだらどうなるかなどは、神の領域と考えられ、今日でも科学は関知していないのです。
「永遠無限全能」も、言葉にあるので確かに存在はするのですが、神の言葉の領域なので科学が探求すべき課題ではないとされるのです。だから極端に言うと、科学を信ずる人は、総てキリスト教徒であるとも言えます。

そしてキリスト教で「永遠無限全能」とは、キリストや神に帰依して、聖職者にならなければ探求する資格がない課題とも言えます。
前に見たように、科学の真理は「人に安全」ですが、聖職者になるということは、大学で研究勉強するのとは違い、身も心も神に捧げ、神の御心に沿うなら命を失ってももかまわないという「人に危険」な作業に従事する事になり、科学の真理に反します。
ここが科学と宗教、特にキリスト教と科学の対立を生む原因の一つでもあります。

「永遠無限全能」を知るということは、自らが「永遠無限全能」でなければ知りえません。これは論理的であり科学でも正しのですが、知りたいと欲すれば、キリスト教では、宇宙服のない宇宙飛行士のように、特攻隊精神で永遠に未知である領域に旅立たざるを得ないのです。

では仏教はどうなのでしょうか。
仏教は、全ての人が成仏を目指しますから、「永遠無限全能」を解明し理解しようとします。言葉の意味の「永遠無限全能」だけでなく、肉体や生物、環境、物質、地球、宇宙など総ての主羅万象の「永遠無限全能」を考えます。真理の追求ならば、科学の宇宙論と仏教の宇宙論を比較検討することも厭いません。何しろ「永遠無限全能」ですから、なんの制限、範囲、限界もはじめから存在していません。
観音像に何本もの手や幾つもの頭や顔を付け、千手観音とすることまでして「永遠無限全能」を表現します。言葉で説明するためは、何千何万巻もの仏典で「永遠無限全能」とは何かを説明します。総てを説明し終わるには永遠の時と無量の仏典がこれからも必要になるでしょう。

仏教では、己の肉体の「永遠無限全能」も考えます。人の死は果たして有限ということなのだろうか。本当は「永遠無限全能」であるのに、有限と思い違いをしているのではないか。そうさせているものを業から発生する煩悩であると名付け、煩悩を消滅させれば「永遠無限全能」になれる。あるいは元から「永遠無限全能」であることが認識できる。と、そして用意周到に、その解消法も教えてくれます。

人間の精神(心)や肉体を「永遠無限全能」にする。或いは元から「永遠無限全能」であると認識する技法の一つが、密教の曼荼羅による瞑想法です。

タオやヨガで「気、プラーナ」と言われる、東洋独特の肉体を流れるエネルギーの考え方では、怒りや執着、セックスなどは肉体にエネルギーを発生させるといいます。そのエネルギーを利用して、肉体や感覚、精神を「永遠無限全能」のものに変えるなど、死んだら無になるとだけ考える科学の医学からは、意味不明で神秘としか思えない「永遠無限全能」を実現する技法もあります。

つまり、仏教は、キリスト教のような科学との住み分けは要求しません。科学で「死んだらどうなるのか」が分かれば大歓迎です。その成果で菩薩は、最後の人を成仏に導き、「全ての人が成仏しなければ私は成仏しないという」誓願が成就して、念願の如来(仏)になれるかもしれません。そうなれば我々も菩薩にならい成仏が近くなるというものです。

「生まれ生まれて、生の始めに暗く、死に死に死んで、死の終わりに冥し。」
と言った空海に、とうとう科学が「死んだらどうなるのか」を解明しました。と報告したくなる。

何故「死んだらどうなるか」を考えるのか?(2)

2012年02月12日 | 死んだらどうなるのか
先に、65歳を過ぎると次の世のこと、つまり「死んだらどうなるか」を考えるようになると言いました。つまり、余命の約20年より、もっと長い、来世のことを考えた方が合理的であるからです。
ですから、普通には、年老いたら、死が訪れるのを心静かにして待つ。が、年寄りの理想などと言われていますが、しかしその先の「死んだらどうなるのか」が分からなくて、どうして心静かにしていられようか。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。と、最近まで懸命に願い努力して来た者が、「死んだらどうなるのか」の答えが、皆目わからないことに、我慢ができるものなのだろうか。 死が訪れるのを心静かに待つ老後とは、 真剣に探求しても「死んだらどうなるのか」なんて、分かりっこない。だから諦めなさい。という、その諦めの心静かなのでしょうか。

宇宙の誕生や死には、どうやらビックバンが絡んでいると、科学が解明したようなのですが、それが分かったのなら、人の「死んだらどうなるのか」についても、政治は科学に予算を付けて、研究開始の勧告をして欲しいものだ。

でも、ひょっとして宗教では「死んだらどうなるのか」はもう解明されていて、例えば、密教というつまり秘密にされていて大ぴらには明かしてはいけない教えがあるので、そこにはもう答えがあるのかもしれない。何かの理由で秘密になっているのなら、情報公開法を適用してもらえないものだろうか。昔の漢語やサンスクリット語チベット語で書かれてあるなら、現代語に翻訳して、誰でもが見られ誰でもが理解できるようにして欲しいものだ。

私はいま老境を迎えているので、若者と比べると時間的には、死は早くやってくることになっている。私の祖母はこの歳には「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱え成仏を願い極楽に往く準備をしていた。 南無阿弥陀仏と念仏を唱えると、来世には仏になれるので、つまり今の私より「死んだらどうなるのか」を分かっていたことになる。死の不安を和らげるカウンセリングの癒しなど他者から求めようとせず、自ら心を整え死と向かい合っていたことになる。

でも、今の無信心の現代日本人は、 南無阿弥陀仏と念仏を唱えると成仏できることを、科学は証明していないので、つまり「死んだらどうなるのか」が分かっていないので、 当面の死に向かう不安を和らげてもらうために、私も含めて、カウンセリングを受けるような、肉親や宗教者などの他者からの癒しを求めているのではないでしょうか。
でもその癒しで、死の水際、わずかな生の間際の不安は薄れるかもしれませんが、死んでしまった後も、その癒しやカウンセリングの効力は持続すると、科学は証明してくれるのでしょうか。

よく観察してみて欲しい。私の祖母のように、「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏 」と念仏していたのは、当面の死の不安を癒すために念仏を唱えているのではありません。成仏して極楽に往く目的のために念仏を唱えているのです。成仏すると苦しみも悲しみも無くなるので、癒しなど必要なくなると知っているからなのです。

仏教は、死に向かう不安を和らげる癒しやカウンセリングではありません。死そのものを成仏に変え、無効にしてしまおうとする合理的な考え方なのです。

何故「死んだらどうなるのか」を科学は考えないのでしょうか。それを考えないでいて、心理カウンセリングや終末医療、あるいは心情的、感情的な癒しでなどで、 当面の死に向かう不安を和らげることだけを考えているように思います。
科学は、長年研究を尽くして努力したが、「死んだらどうなるのか」は分からなかった。とは結論してはいません。ただ、怠慢なだけなのです。
だから科学を信じる現代日本人は「死んだらどうなるのか」など分からない。と諦めてはいけません。

何故「死んだらどうなるか」を考えるのか?(1)

2012年02月07日 | 死んだらどうなるのか
「何故」、はじめから答えが分かっている「死んだらどうなるか」を考えようなどと思ったのか。?「何故」、そのために「永遠無限全能」などと荒唐無稽な言葉で、話を進めなければならないのか。?
このまま説明しないで先に進むと、本当に荒唐無稽な話に思われてしまうので、今回は、その「何故」を説明したいと思います。

現代日本では、 多くの人が科学を信じているので、死ぬと肉体は無くなる、だから人は死んだら無になってしまう。と、でも昔から、魂は残ると言われているが、でも魂の存在を科学は証明していないので、有るのか無いのか正直自分には良くわからない。
宗教を信ずる人は、宗教が言う死後を信じていると思うのですが、でもそれは、科学で証明されていないので、信じる気にはなれない。だから私は「死んだらどうなるか」は分からないでいる。
これが現代日本人の多くの人の気持ちであると思う。

宇宙の誕生や誕生以前、そして、宇宙の死とその後は、宇宙論として盛んに研究と議論が重ねられているのに、人間が「死んだらどうなるか」は、 科学者の知識も、死んだら肉体は消滅する程度のレベルで、それ以上の研究を見たことがない。
この科学の怠慢に疑問を抱かずに、科学を信じて、 死んだら肉体は無くなるので、人は無になってしまう。と思ってしまうことに、私は、昔からずっと疑問を感じていたのです。

幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。のためには、科学を始め、哲学、倫理、経済、生活の知恵、占い、おまじないに至るまで、多くの手段が準備されているのに、「死んだらどうなるか」については、宇宙論を展開する科学者といえども、宗教に任せっきりで、つまり生きている間のことには真剣なのに、現代人は「死んだらどうなるか」には何故淡白なのだろうか。

肉親を失い悲嘆にくれる人には深い同情を寄せるのだが、その悲嘆の原因である死んだ人が今どうなているのか、つまり「死んだらどうなるか」を考えようともしない。死は次に自分にやって来るかもしれないのに、「無」になってしまうという恐ろしい答えがわかっているので考えても仕方がないと思っているのだろうか。宇宙の誕生や死は、科学ではビックバンとか言って分かっていることになっているのに、人の「死んだらどうなるか」は、放ったままにされて何も知らされていない。

宗教に対しても誤解がある。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。のためにのみ宗教があると思っている。死んだら無になってしまうという結論が始めからあるので、宗教にも「死んだらどうなるか」より、現世での幸せの方法のみを求めているようなのだ。

癒しを与えてくれる宗教者を敬い、褒めたたえているが、その宗教者が何故、癒しを与えようとしているのかを知らないし、知ろうともしない。それを知ることが宗教の信心の始まりになるのに、現世の苦しみを和らげてくれる優しい姿をした宗教者のみを真の宗教者と思っている。

宗教は仏教は、誕生、生、死、死後を説明してくれている。そしてその生と死の輪廻から離れる方法(成仏)を教えてくれます。
癒しが必要になる苦しみを、癒すのではなく、苦しみそのものを元から断とうとするのが、お釈迦様の意図なのです。
もっと言えば、元から断つとは、苦しい楽しいの二元論を止める生活を始めることなのです。つまり、仏教は真に合理的なのです。

こんなふうにお話すると、「死んだらどうなるか」を、仏教で説明しようとしている理由を、少しはわかっていただけるのではないかと思いますが…。